静寂の街に鈴の音響く 1
高石凛子は『コエナシ』と呼ばれていた。
誰も彼女の声を知らないからだ。
クラス替えがあってすぐの頃、誰かがからかって高石さんを障がい者扱いしたことがあったが、彼女は悲しそうに首を横にふるだけだった。
それからずっと保健室登校だ。
『お願いがあります』
差し出されたノートには綺麗な字でそう記されていた。
僕は混乱しながらも、開いた歴史年表から顔をあげ、黒い瞳を正面から見る。
「お願いって……」
『わたしの声を探して下さい』
目の前で高石さん頭を下げた。
人から変わり者と言われても否定は出来ないが、僕の日課は近所の川を眺めてから学校に行くことだった。そこに深い理由はなくただ純粋に暇潰しである。とはいえ、あまりにも朝が早すぎるので、僕は学校につくと直ぐに図書室に行き、勉強したり本を読んだりしてホームルームまでの時間を潰していた。
そんな時間潰しの最中に高石さんがノートを突きつけてきたのだ。不可解な文章が書かれたノートを。
「声を、探すって、なに?」
意味がわからなかった。
だって僕と高石さんとの関係は、他のクラスメートよりずっと希薄なものだったから。
眠気はとうに覚めてるし、いつもより頭は冴えている。だけど、書かれた文字の意味が分からなかった。
『わたしの声は三転町で無くなりました』
続けて彼女はページを捲った。あらかじめ書かれていた文章が、ただひたすらに僕の返事を急かす。
「ちょ、ちょっとまってよ」
高石さんは美人だ。白い肌に長い黒髪、大きな瞳に小さな輪郭。均整がとれ過ぎて、人形のような顔立ちだった。
ただ、愛嬌はなく、誰とも口を利かないのでクラスの印象は最悪だった。見た目だけなら、読者モデルをしている上級生に匹敵するくらいなのに。
意図的なのか生まれつきなのかは知らないが、高石さんの声が教室に響くことは一切なかった。
「みてんちょう? どこ、そこ?」
彼女は困ったように眉間にシワを寄せると、さらにページを開いて指差した。
『三転町は河川敷沿いの再開発地区です。建て壊しが要請された区画で、住民のほとんどが立ち退きました』
「ああ母さんが言ってた……確か大規模なプロジェクトだって……それで、その高石さんが、声を無くしたってどういう……」
読み終わるのを待っていたのか、僕が顔をあげると同時にシャツの胸ポケットに挟んであったボールペンで新しい文章をさらさらと書き付けた。
とても速く、それでいて綺麗な筆跡だった。
『話し方を忘れてしまったのです。菅野さんにはわたしに声の出し方を思い出させてほしいのです』
「それなら、僕じゃなくて合唱部を当たりなよ。あとはESS部とか」
彼女はノート一番最初に書いてある『いいえ』を指差し、首を横に降った。
「悪いけど、僕は無力だ」
高石さんはサラサラとポールペンを滑らせた。
『新聞のコラムを読みました』
「コラムって……、ああ、住吉に書かされたやつか」
図書委員の友人に住吉という男がいる。図書新聞とかいう小学生みたいな企画を組んだまではよかったが、肝心の記事が思い浮かばなかった間抜けだ。
彼にひたすら頭を下げられ、仕方なく僕は一つの記事を書いた。
「鈴鳴り屋敷の怪」
彼女は静かに頷いた。
二週間前、どうにかこうにかアイディアを練り(いかに楽に任務を完了させるかの、だ)、考え付いたのが取材方式だった。
中学二年生といえば、自分は大人だと思っている子供の集団。当然噂話が好きに違いない。それに季節は夏、こうなったら怪談話を載せるしかないだろう。
『あの記事を書いた菅野さんなら、頼めると思ったんです』
「言ってる意味がわからないよ。声を無くしたっての意味不明だし」
僕はさまざまな知り合いを当たって、いま流行っている噂を仕入れて、それをまんま記事にした。最期にちょっとした考察をいれ、住吉に原稿を渡したら録なチェックもされないで印刷された、という次第である。適当なもんだ。
「ともかく僕は力にはなれない。そもそもあの噂話と高石さんの関係も知らないし……」
彼女はノートを開いた。
『鈴鳴り屋敷の正式名所は三転町第一寮、わたしが育った母子寮です』
流麗な筆跡に目眩を覚える。エアコンの稼働音だけが耳に残った。
今日は期末試験なのに……。悪い点を採ったら全部高石さんのせいにちがいない。
テストが終わり、いつもより早い下校時刻を迎えた校内は、驚くぐらいの活気に溢れていた。
明日に備えて早く帰ろうとする者、カラオケへ繰り出そうとする者、居残って勉強会を開こうとする者、いろんなグループが廊下の喧騒を賑やかにしている。
僕はといえば、友達からの誘いを断って、『ついてきてください』と図書室で渡されたノートの切れ端に従うだけだった。
切れ端には時間と待ち合わせの公園の場所、それとお願いしますの文章。高石さんの目的なんて微塵も知らないし、薄情かもしれないが興味もない。
太陽は七月の暑さを盛り上げ、遠くのアスファルトはかげろうで歪んで見えた。止めどなく流れる汗はシャツを肌に貼り付けて不快感を増長させている。
夕方から雨が降ると天気予報で言っていたが、にわかには信じられない快晴だった。
放課後、といってもまだお昼過ぎ。数学と歴史のテスト用紙が、どんな赤色に染まるか僕はずっとドキドキしていた。今日は期末試験二日目で明日は一番苦手な英語が控える試験最終日だ。
正直高石さんと三転町になんて来ている暇はない。気持ちよく夏休みを迎えられるかの瀬戸際なのに。
「再開発がかかってるから人気がないのか」
世界中に二人きりみたいだね、なんてロマンティックな台詞は吐けなかった。
ノートの一番初めのページの『はい』を指差してから、高石さんはページを捲った。
『この辺りはタワーマンションが建つ予定です。ベッドタウンとして発展した地域ですから。それにともなって開発されるそうです』
「詳しいんだね」
彼女は無表情で頷いた。
ボロボロのアパートや蔦が這う戸建て、灯りが消えた自動販売機に静まり返った小さな公園。もの寂しさが漂う町の袋小路の一つに、施設はあった。
鈴鳴り屋敷。
その噂話を仕入れたのは知り合いの下級生からだ。
「なんか面白い話ない?」
漠然とした質問に答えてくれて彼の話をまとめるとこうだ。
土曜日。バスケ部が河川敷を走り込んでいると部員の何人かが鈴の音を聞いた。全員で音の出を探し回ったら、建て壊し予定の施設の前についた。風もないのに鈴の音が響き渡った。
だからどうした、って感じだ。真面目に練習しろとしか言いようがない。
校了までの時間が迫っていたので、仕方なしにそれを記事にした。適当な考察をして出来上がった記事を渡した記憶がある。
僕も噂を聞いただけだから実際の現場を訪れるのは初めてだった。
「母子寮ね……」
団地よりは小さなアパートがあった。所々ひび割れた塀で建物を囲っているので、外観はあまりチェック出来ないが、思った以上には広そうだった。門は南京錠でロックがかけられていて開きそうにない。頑張れば乗り越えられそうだが……。
「どうやって中に入るの?」
横を向いて高石さんに尋ねたら、彼女は僕の袖を掴むと軽く引っ張った。
従うようにダラダラ歩くと裏門に着いた。彼女は財布から小さな鍵を取り出すと鍵穴に差し込み、門を開いた。
「なかに入ってなにをするの?」
敷居を跨いでから彼女の背中に声をかける。
建物に向かう前の土の上、ピタリと立ち止まると、脇に挟んでいたノートを開き器用にもその場で書き付けた。
『調べる』
「鈴の音の原因を?」
『はい』
「調べてどうすんのさ」
「……」
沈黙。
数秒の後、彼女はノートにペンを走らせた。
『わたしのママは鈴の音が好きでした』
だから? と思ったけど口には出さなかった。
「そうなんだ。とりあえず行こうか」
建物の側面を抜け、正面玄関に出る。入り口の横には事務室があったが、当然取り壊し予定の施設に職員がいるはずもなく、ガラス戸が開くことはできなかった。
「どうすんの?」
「……」
割って壊すのは簡単だが、さすがに良心が痛むし、警備がかかっていないとも言い切れない。
しばらく困った顔をしていた彼女は思い付いたように明るい表情を浮かべると二階の窓を指差した。
「ガムテープ?」
どうやら割れているらしい。
「なにあれ」
『ヤキュウして男子が割りました』
「ああ、野球してたらボールで割れちゃったのね」
『はい』
表門から施設までは距離があり、庭じゃないけど遊び場のスペースは十分にあった。
「でも二階までどうやって上がるの?」
「……」
割れた窓から中に入るのはいいけど、二階の外壁に行くには高さがある。目測にして三メートルほどだ。
『肩車』
「届かないよ」
「……」
「そうだなぁ……」
『きゃたつ』
「どこかにあるの?」
確かに脚立があれば届くだろう。
「……」
ないんかい。
「諦めたら?」
「!」
彼女は首を横に降りながら『いいえ』を懸命に指差した。
『前すんでた私のへやに行きたいです』
「なんで?」
『わかりませんけど、』
続きの文が浮かばないのか、高石さんは石のように固まった。ポールペンは所在なげにブラブラされるだけで、紙面を滑ることはない。
彼女は無言で僕をジッと見つめた。
「……わかったよ」
とたんにパアッと明るい表情をみせる。
「脚立は明日までに僕がなんとかする」
遠くで雷鳴が轟いた。先ほどまで晴れていたのに、徐々に雲が出てきている。
「だから今日はもう帰ろう」
「……」
彼女は不本意そうに『はい』を指差して頷いた。
さて明日の勉強をしないと。
少し前までは子供の賑やか声が響いたであろう寮は不気味に静まり返り、廃墟の町はこの世の終わりみたい退廃的だった。
裏門を出てしばらくいった先の公園で誰にも遊ばれないブランコが風に揺れていた。
蝉はまだ鳴いていない。夏はすぐそこまで来ているはずなのに。
袖を引かれた。
「なに?」
立ち止まって振り向くと、高石さんがうつ向きがちに僕の胸を見ていた。
「どうしたの? 気分が悪いの?」
「……」
「少し休む?」
ふるふると首を降るとノートをパッと開き、何やら書き付け、千切れたページを僕に渡してきた。
「……メルアド?」
コクコクと首降り人形のように首肯する。
「高石さんの?」
コクコク。
「ありがとう。……でも僕ケイタイ持ってないんだ」
パッと上げた顔は少し青くなっていたように思える。
「パソコンでよければ僕のも教えるよ」
コクコク。
ボールペンとノートの切れ端を借り、そこに自分のアドレスを書き込んで返した。
よくよく見てみると彼女から渡されたアドレスは、パソコンのフリーのアドレスのだった。
「よろしくね」
サラリーマンの名刺交換みたいなメルアド交換が終わり、目があった僕らは目を細めあった。夏草が風に揺れていた。
ちりん。
「!」
かすかな音がした。鈴の音だ。
「いまの……」
高石さんが顔をあげて、まっすぐ母子寮のあるほうを見つめている。たしかに無機質なコンクリート塀の先から、その音は聞こえてきた。
「噂は本当だったのか……」
物音がないから小さな音でも異様に響く。
「あっ、高石さんっ!」
彼女は駆け出していた。静かすぎる住宅街を一心不乱に駆け抜ける。慌ててあとを追うが突然のことで足がもつれてうまく走れない。辺りは段々と薄暗くなってきていて、気のせいか雨の匂いがした。
しばらくいった先で彼女は立ち止まっていた。薄く開いた唇から息が漏れる音がする。
体育の成績万年3の僕は、情けなく息をきらしながら、彼女の肩を叩いた。
「……夕方から雨が降るらしい。最近、夕立すごいから……」
少女の瞳は潤んでいた。
『いいえ』
首を降りながらノートの文字を指差す。
このまま放っておいたら、ガラスを割ってでも中に入ろうとするだろう。
「雨が降ったらまともに調べられないよ。暗くなってきたし……傘もってきてないでしょ?」
「……」
高石さんは静かに頷いた。
彼女がそこまでムキになるわけを僕は聞けなかった。
雨が降り始めたのはそれから二十分ほど経ってからで、どしゃ降りの雨を平和な自室で眺めていた。アスファルトが黒くなり、熱が一気に冷めていく。
高石さんは、結局なんなのだろう。
疑問を脳の縁に追いやるよう、僕は英語の教科書を開いて、異国の言語を呪文のように唱え始めた。
『今日はありがとうございました』
そんなタイトルのメールに気がついたのは、勉強が終わり、気晴らしにパソコンを開いた時だった。
本文を選択し、ホイールを回す。
『今日はありがとうございました。
久しぶりに母子寮に行って、興奮してしまい菅野さんにはご迷惑をおかけしました。』
高石さんからのメッセージで間違いなかった。
『菅野さんは私を気遣ってか、私が話せなくなった訳を一切尋ねることはありませんでした。私もあまり人に知られたくない話なのでお心遣い感謝しています。』
飲んでいたお茶をデスクトップの横に置き、彼女からのメールに目を通す。
『だけど、協力してくれる菅野さんにはお話ししたいと思います。
簡単に言うと私は親に捨てられたのです。
物心ついたときから、父はいませんでしたし、それは別にいいのですけど、
声を無くしたのは、母がいなくなったショックからだってお医者さまは言ってました。
心因的失声症というらしいです。詳しいことはわかりませんが、自分では吹っ切れたつもりでも、脳が精神を守るためにロックをかけてるんだそうです。』
母子寮ってのは、
詳しくは知らないけど、経済的に困窮している母子家庭の親子が住める寮、だったはずだ。
父親が居なくて、それで、母親に捨てられたってことは……。
初夏にも関わらず僕は寒気を覚えた。
『すみません。こんな話をしてしまって。
自分でもどうすればいいのかわからないのです。自分でもどうすれば、また喋れるようになるかわからないのです。
寝たら治ると思って目を覚まし、自分の声が出ないことに気づいてまた落ち込む、そんな生活を3ヶ月くらい過ごしてきました。嫌気がさします。私はずっと引き取ってくれたオジサンに引け目を感じながら、保健室に通い続けました。からかわれるのが嫌で、教室に行く勇気は私にはありません。だけど、菅野さんが鈴鳴り屋敷という噂を私に知らせてくれたお陰で、私はようやく前に進める気がするんです。
ごめんなさい、勝手なことばかり言って。
ご迷惑なのは重々承知です。ですが、どうか、もうしばらく私と付き合ってください。お願いします。』
言葉を失ったのは僕の方だった。生真面目な彼女の締めの言葉は『テスト頑張りましょう。』で、自分自身の環境と憂い事を思い出し、妙な自己嫌悪に襲われた。