奏
新しく買ったYシャツに袖を通すと、パリッと小気味いい音が聞こえた。
「…………大学生、か」
姿見に映るスーツを着た自分を、物珍しい生き物でも見ているかのように、まじまじと眺める。先月まで田舎の高校に通っていた人間が、今日から名実ともに大都会の、東京の大学に入学する。引っ越してまだ十日ほどしか経っていないが、これまでの暮らしとのギャップを感じ始めていた。
「元気でやってんのかねえ……」
高校の卒業式は3月の頭に行われた。式終了後の部活の集まりで撮った野球部の集合写真は、引っ越し先にも持って来て、デスクの上に飾っている。制服からわざわざユニフォームに着替えて撮った、部員全員の写真。このユニフォームに袖を通すのも、この日が最後だった。
「……――――」
無意識のうちに、ある一点を見つめている自分がいた。彼女は――マネージャーは、今頃、何をしているだろうか。
* * *
マネージャーは俺よりも地元に近い、関西の大学に進学したが、地元を発つ日は俺よりも早かった。手続きやら何やらの関係で、どうしても急がなければならなかったらしい。
せっかくだから最後に会いたいと、俺は駅のホームでマネージャーを見送る事にした。多分、三年間で一番世話になったのは彼女だし、進学先も別々だから殆ど会う事もないかもしれないとなると、無性に寂しさを覚えた。ここで会いに行かないと、後々後悔する気がした。
見送りに来てみれば意外に閑散としたもので、マネージャーの親御さんと、おそらく一番仲の良い友人が一人だけだった。「みんな引っ越し準備で忙しいだけだから。友達いないわけじゃないから!」とマネージャーは少しムキになって言った。別に、そんな事を思ってはいないのだが。
「マネージャーは、大学でもマネージャー続けんのか?」
「うーん、マネージャー業を続けるかは、まだ考えてるけど……、野球は好きだし、何らかの形で関わりたいと思うな」
野球部を引退した後も、彼女を「マネージャー」と呼び続けた俺は、とうとう名前を呼ぶ事はなかった。何故か今は、それが少し寂しい。
高校3年間、どこかで名前を呼ぶチャンスはあったはずなのに。
「皆川は、大学野球で腕を鳴らすんでしょ」
マネージャーの発言は疑問形ですらなかった。
「当たり前だろ、そのために大学選んだからな」
しかし、マネージャーの発言を否定する要素はなかった。
「頑張ってね。今のご時世、ネットでいくらでもニュース拾えるし、皆川の活躍、チェックするよ」
「…………おう」
目の前で笑う彼女に向かって、伝えたい言葉は他にたくさんあるはずだった。なのに、目の前に立つと言葉がスルリと抜け落ちていく。伝えなければ、でも一体何を?
『間もなく、2番乗り場に特急列車が参ります……』
駅のアナウンスが流れる。時計を見ると、マネージャーが乗車予定の列車の到着時刻を指していた。
「それじゃ、元気でね」
マネージャーは傍らに置いたキャリーを持って、特急に乗り込むべく俺に背を向ける。
「……っ、高原!」
ホームに入ってきた特急の轟音に、俺の声は掻き消される。それでも名前を呼ばれたと気付いたマネージャーは振り向いてくれた。なりふり構わず、俺は彼女を腕の中に収めた。
「絶対に、会いに行く」
どんなに部活や授業が忙しくても。どんなに時間がかかっても。もう一度、彼女の手を取れる日が来ますように。
なんて恥ずかしい事を考えているのだろう。普段の自分からは想像も付かない。それでも、どうすればマネージャーに会えるのかと、無我夢中になっていた。
「……私も、行く。試合、観に行くよ」
駅員のアナウンスや待機する特急のエンジン音、あらゆる音が聞こえる中でも、マネージャーの声ははっきりと聞こえた。
「特急出ちゃうから、もう乗るね」
「ああ。……またな、望実」
「うん」
身体を離すと、マネージャーはそれきりこちらには振り向かずに、特急に乗り込んだ。その瞬間に、列車の扉が閉まる。
彼女の姿は、もう見えなかった。
* * *
結局あの後、マネージャーの友人に散々からかわれるわ、親御さんには訝しげに見られるわで、突発的な行動は身を滅ぼすと痛感した。そんな恥ずかしい思い出を刻みながら、マネージャーが引っ越した一週間後に、俺も地元を離れた。
付き合っていたわけでもなく、はっきりと気持ちを伝えたわけでもない。自分の気持ちをしっかり伝えるべきだったかと後悔もしたが、後の祭りである。
それでも、見送った日の約束を信じて。大学で色々な人間に会うだろうけど、その中でも揺らぐ事なく彼女に会いに行こう。
マネージャーも同じ気持ちでいてくれたら、俺は嬉しい。
「さて、行くか」
鞄を手にし、玄関のドアを開けた。今日は雲一つない快晴。幸先が良さそうだ。
* * *
「1年2組、高原望実……へぇ、隣のクラスじゃん! 俺、3組の皆川祐也」
「あ、どうも。高原です、マネージャー志望です」
3年前のあの日、初めて交わした言葉を、俺は一生忘れない。