夏の約束
8月も終わりに近付いていた。暦の上ではそろそろ夏が終わりそうなのに、それでも日中は暑く、夏の陽射しは突き刺さるように眩しい。まだまだ元気なセミの鳴き声が幾重にも重なり、不協和音が耳をつんざく。
額を流れる汗を拭い、風で翻るスカートを抑えながら、部室のドアを開けた。本来、部室は施錠するように義務付けられているのだが、野球部は何故か伝統的に鍵がかけられていない。流石に無用心だと思うので、そろそろ部長と監督に施錠を義務付けるように進言したい。
部室を見渡す。グローブやボール、バットが乱雑に散らかっている中、奥の方で佇むベンチに腰掛けた。その向かいに設置された棚の二段目では、土が詰められた瓶が存在感を放っている。
「…………ほんの一瞬、だったなあ」
ラベルに力強い字体で 「甲子園の土」と書かれたそれを見ると、二週間前の出来事が昨日のことのように思い起こされる。
あの日の興奮も、悲しみも、悔しさも。全部、現実だったんだ。
* * *
我が水勢高校野球部は今年の夏、10年ぶりの甲子園出場を果たした。推薦で県外から強い選手を引き抜く私立高校が席巻する中、古豪・水勢の復活に地元は湧いた。
出場したからには、絶対に勝とう――――そんな目標を掲げていたにもかかわらず、結果は0―7で初戦敗退。相手は甲子園の常連校で、結局今年は優勝を飾った高校だった。
私は記録員としてベンチに入ることはなく、アルプススタンドでの応援に回っていた。吹奏楽部の演奏、ベンチに入れなかった部員や、在校生や卒業生の声援、そして、場内に響きわたるボールを打つ音。
グラウンドの選手は死力を尽くしたけれど、点を刻むスコアボードは、相手チームとの点差を残酷なまでに見せ付けた。
みんな必死だった。一生懸命だった。だから余計に悔しかった。
野球は9回表2アウトからとか、甲子園は何が起こるか分からないとか、マモノが住むとか言うけれど、番狂わせなど一切ないまま、私たちは順当に負けた。
「このチームで、もっとあの場所に立っていたかった」
先日行われた引退式で、前キャプテンは目に涙を浮かべながら語った。3年生も、2年生も、1年生も、部長も、監督も、皆が泣いた。
そして――――
* * *
回想に耽ってぼんやりしていたところ、ドアノブを回す音で一気に現実へ引き戻された。
驚いて入り口を見る。ドアが開くと、同級生の皆川祐也が入ってきた。
「うおっ! マネージャー、来てたのか」
人がいると思っていなかったらしい皆川は、心底驚いたような顔で私を見た。
「なんだ、皆川か……ビックリしたぁ…………」
「ごめん。驚かせるつもりはなかったというか、そもそも人がいると思ってなかった…………」
「で、休みの日にまで何の用なの、新キャプテン?」
皆川は次のキャプテンに任命された。私達の学年でキャプテンになるなら彼だろうとは思っていたけれど、同級生がキャプテンと呼ばれる立場となった事実に――――つまり、私たちが実質的な最上級生になったという事実に、私自身はまだ馴染めずにいた。
「なんだって、こっちもビビったんだぞ。今日は部活ないはずだろ、何でいるんだよ?」
「それはこっちのセリフよ。部活はないはずなのに、どうしてあんたもここに来たわけ?」
「あー、それは…………」
答える前に同様の質問を返すと、皆川は話を切り出しにくそうに目を泳がせた。……まさか、
「一人で勝手に練習するつもりだった、とか」
もしそんな事が監督や部長にバレてしまえば、彼は間違いなく怒られるだろう。無許可での自主練は禁止されているのに。ましてや、キャプテンとしてチームを引っ張っていかなければならないのに、独断行動が許されるはずがない。
「だったら最初から練習着で来るだろ、普通は。そうじゃなくて、多分お前と同じ理由だよ」
「同じ理由?」
隣いいかと尋ねてから、皆川は私の隣に座る。そして、さっきまで私が見ていた甲子園の土へと視線を向けた。
「お前も、この土を見てたんじゃないのか」
「……え、ああ、うん。まあね」
何のためにここに来たのかピタリと当てられてしまった。なんとなく恥ずかしくて、私は歯切れの悪い返事しかできなかった。確かに、こんなところに座っていれば、土を眺めていたのだと簡単に想像できるだろうけど。
「俺も同じだ。見に来たんだよ、この土を。自分でもクサいとは思うけど、あの日の悔しさを忘れたくねえんだ」
「そっか。私も、同じ気持ちかな」
言いながら、チラリとキャプテンを横目で窺う。憧憬、無念、熱意、希望――――色々な感情が混じった瞳で、彼は土を見つめていた。
あの熱気の中で戦い抜いた彼は、きっと私より思う事がたくさんあるに違いない。
「……相手校、結局優勝しちまったな。あいつら、マジで強かったな」
「うん、そうだね」
決勝戦はテレビ中継でずっと見ていた。優勝候補に一角と言われている名門校なだけに、とても強かった。だけど、対戦した高校が、まさか本当に優勝するとまでは予想できなかった。
「向こうのピッチャー、覚えてるか? あいつまだ2年生だぞ。俺らと同学年であれだけ投げれるとかすげえよな」
「凄く強かったね……。ほとんど三振に抑えられちゃったし」
ピッチャーが私と同学年だというのは、対戦後というか、実は決勝戦で知った。細身の長身から繰り出される豪速球は、とても同じ高校生の技とは思えなかった。皆川も、あのピッチャーに三振を奪われるだけで、他の打者――3年生でさえ、なす術がなかった。あんな強い人が同学年なんて、驚きだ。
「上には上がいるんだって思い知らされたよ。俺ももっと強くならねえとな」
「うん、練習頑張らないとね」
来月には秋の大会が始まる。県予選を勝ち抜き、地方大会で優勝すれば、確実に春の選抜に出場できる。 その時、もう一度同じ場所に立って、次こそは。
「よし、次はリベンジするぞ」
「え?」
皆川が立ち上がる。頭上から聞こえた台詞に、私は顔を上げた。
「まず目標は春の選抜にも出る事。それで来年の夏も甲子園に行って、」
そこで一旦区切ると、皆川は少し間をあけて、力強く言い放つ。
「絶対、勝つんだ」
彼の目には何の迷いもない。自分達ならきっと出来ると、強く信じている、そんな瞳だ。
「ああ、もちろん、」
言いながら、皆川は私の頭に手を乗せてくる。突然の行動とその手の温度に、ドキリと心臓が撥ねた。
「お前も一緒にベンチだからな。記録頼むぞ、マネージャー」
これは彼なりの気遣いなのだろう。この夏、私はベンチに入れなかったから、次は一緒に行こうと。それは嬉しいのだけれど、
「一緒にベンチにいてどうするの。キャプテンはちゃんとグラウンドでプレイしてよね」
当然、彼はその心積もりなのだろうけど。皆川の誘いが恥ずかしくて、素直に「うん」とは言えなかった。
「当たり前だろ。来年もスタメン勝ち取ってやるさ」
「……また一緒に行こうね、甲子園に」
「よし、約束な」
ガシガシと私の頭を一通り撫で回して、皆川は満足そうに手を離す。髪が崩れる、と文句を言えば、すまん、と一言だけ返ってきた。
――――この夏に果たせなかった夢。私達は、絶対に叶えてみせる。