米軍が沖縄戦をせずに台湾戦をしたとき日本はどうなるか 米軍が飛び石作戦で台湾を飛ばさずに沖縄を飛ばした場合
昭和の日本は学生運動や労働争議も多く、社会党や共産党も強くて左翼的志向が強かったことを前提で読んでくださると納得されやすいと思います。
令和の日本とはかなり違います。
序章 同志スターリンがお呼びです
1945年5月10日 モスクワ
タチアナ中佐が机の上の日本語電報を読み終えたところで、上司が扉を開けた。
「タチアナ中佐、同志スターリンがお呼びです」
彼女は顔を上げた。
「私を、ですか」
「日本の件だ。資料を持って行くといい」
机には、台湾の戦況、日本政府の対ソ外交、極東へ向かう鉄道輸送、それに北海道の港湾図が重なっていた。タチアナは必要なものだけを革の書類鞄へ入れた。
廊下にはまだ冬の名残の冷たさがあり、窓から入る光は白かった。執務室の扉が開くたび、煙草と紙、濡れた外套の匂いが流れた。細身で背が高く、腰の位置が高い。軍服の襟元も革帯も長靴も手入れされていたが、飾り立てているわけではない。歩き方が速く、誰かとすれ違っても進路を変えないので、人の方が自然に道を空けた。
情報機関の上級将校で、日本語をほぼ母語のように読み、新聞、軍の文書、官庁の言い回しまで翻訳を挟まず扱える者はタチアナだけだった。長い訓練と実務で身につけた日本語は、単語の意味だけでなく、書いた側が何をぼかしているかまで拾える。そのため情報部では、日本関係の重要資料が最後に彼女の机へ回ってきた。
スターリンの執務室へ通されると、机の上にはヨーロッパではなく極東の地図が開かれていた。
「Товарищ Сталин(タヴァーリシチ・スターリン、スターリン同志)」
「座ってくれ。日本の分析を書いたそうだな」
タチアナは書類を開いた。
「はい。このまま進めば、日本は我々が北海道へ上陸する前に降伏する可能性があります」
スターリンは何も言わなかった。
「満州へ入るだけなら間に合います。しかし、日本本土が先に降伏し、米英の占領が始まったあとでは、その占領地域へ軍を進めることはできません。同じ連合国軍同士で撃ち合うことになります」
「それで、情報部の提案は」
「日本を勝たせる必要はありません。降伏を少し遅らせます」
タチアナは台湾を指した。
「米軍は台湾で戦っています。台湾は沖縄より広く、山地も深い。帝国陸軍は負けていますが、弾薬が続けばまだ時間を使わせられます。台湾で米軍を1週間長く止めることが、我々に1週間を与えます」
「日本へ武器を送るのか」
「日本本土へは送りません。台湾だけです。しかもソ連製の武器ではありません」
別の紙を出した。
「ノモンハン以来、こちらに残った日本製兵器があります。対日参戦後には満州でも関東軍の倉庫を押さえられます。小銃そのものより、弾薬、迫撃砲弾、砲弾、通信器材、医療資材が使えます。帝国陸軍の規格品なら、台湾へ入っても出所を証明しにくい」
スターリンが地図を見た。
「輸送は」
「第三国船と沿岸輸送を混ぜます。積荷の書類も日本側の在庫移動に見える形にします。全部を隠す必要はありません。連合国の船が、別の連合国の船を片端から攻撃したり臨検したりする状況ではありません」
スターリンは少し考えてから言った。
「同じ連合国の船を攻撃したり臨検はしないだろう。ただ、行きと帰りで喫水が違うのは不安だな」
タチアナは地図の台湾を見た。それから、ほんの少し笑った。
「では、帰りは砂糖とバナナを積ませて、喫水も同じくらいにしておきます」
スターリンの視線が上がった。
「台湾にはあるのか」
「あります。行きの船だけ重く、帰りだけ軽いより自然です。それに、モスクワで砂糖とバナナが余って困る人はいません」
数秒の沈黙のあと、スターリンは書類を閉じた。
「やってみたまえ。台湾の帝国陸軍には勝たせるな。だが、すぐには負けさせるな。できるだけ長く戦わせろ」
「Понятно(パニャートナ、了解しました)」
タチアナは立ち上がった。
この時点では、彼女自身も、自分が数か月後に日本の村を歩き、東京の外務省へ入り、大垣で国境線を引く側に座ることまでは知らなかった。
そして、台湾がここまで重要な戦場になった発端は、2年前のカイロにあった。
第一章 台湾を自分たちで取り戻す
1943年11月22日 エジプト・カイロ
中華民国国民政府主席・蔣介石は、台湾を示した地図の前で、米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトと英国首相ウィンストン・チャーチルに同じ説明を繰り返した。
窓の外には乾いたエジプトの光があり、会議室の中には紙と煙草の匂いが残った。机の上の大きな地図は何度も折り返された跡が白くなり、台湾はその端に細長く描かれていた。蔣介石は、その小さな島から指を離さなかった。
「戦争が終われば台湾が中国へ戻る。それだけでは、中国国内では十分ではありません。台湾には中国軍も入って、帝国陸軍と戦ったうえで奪還したいのです」
ルーズベルトはすぐには答えず、米陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将へ視線を向けた。マーシャルは地図を見たまま確かめた。
「中国軍を海の向こうへ出すとなると、輸送船と上陸用舟艇が必要になります。中国本土から精鋭部隊を抜けば、帝国陸軍がそこへ兵力を集中して攻撃してくる可能性があります。その点は承知されていますね」
「承知しています。それでも、戦後に連合国から行政権を受け取るだけでは困ります。中国も戦勝国として台湾の地面を踏みたいのです」
蔣介石の主張には、軍事上の必要性だけでなく政治的な意味がある。日中戦争を長く戦ってきた中国が、最後に台湾だけを米軍から渡される形は避けたい。ルーズベルトにも、その意図は分かる。
「では、軍事上の条件を詰めましょう。台湾攻略そのものが採用されるかは、まだ決まっていません」
「それで結構です。ただ、中国軍が参加することだけは計画の最初から入れてください」
会談の席では、それ以上決まらなかった。
しかし台湾は、戦後処理の対象ではなく、連合軍の作戦目標として改めて地図の中央へ置かれた。
第二章 CAUSEWAY
1944年9月20日 ハワイ・真珠湾
米陸軍第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は、台湾攻略案CAUSEWAYの兵力表を前にした。
バックナー自身、台湾攻略には支援部隊と補給の不足が大きいと考えた。それでも中国政府からの政治的な働きかけと、台湾を中国沿岸作戦の足場にしたい海軍側の意向が残り、CAUSEWAYは実施計画として生き残った。
「戦闘師団だけ数えても、話はまとまりません。台湾で困るのは、むしろ上陸したあとでしょう」
バックナーがそう言うと、参謀はうなずいた。
「港湾部隊、工兵、通信、輸送、医療、航空基地の整備要員まで入れると、足りません」
「台湾は小さな島ではありません。高雄を取ったあと、台南、嘉義、台中、新竹、台北まで進むなら、その間の道路と鉄道を使える状態にしなければならない。帝国陸軍が山へ入れば、東側まで問題になります」
机の上には、もう1枚の紙が置かれている。中国軍の参加条件だ。
中国側は、台湾を自分たちで奪還したという形を必要としている。しかし米軍には、中国軍を大陸から台湾へ運ぶ余分な船腹がない。
バックナーは文面を読み直した。
「中国軍が参加すること自体に反対する必要はありません。ただし、台湾へ来るまでの輸送は中国側で持ってもらうのが妥当でしょう。こちらは米軍を運ぶだけでも余裕がありません」
「上陸用舟艇まで中国側に用意させますか」
「最初の敵前上陸に無理に入れる必要はないでしょう。米軍が港や橋頭堡を確保したあと、中国側が自分たちの船で入ってくる方法があります。それでも中国軍が台湾で実際に戦ったことにはなります」
この条件は重慶へ伝えられた。
中国側では反発も出たが、結局は受け入れた。米軍に輸送してもらった軍隊が米軍の後ろから入るだけでは、自力で奪還したという印象が弱くなる。自分たちで船を集めること自体が、政治的な意味を持つと蔣介石は考えた。
問題は、中国にそのための船が十分にないことだ。
第三章 高雄沖
1945年2月15日 台湾・高雄沖
夜明け前の台湾南西海岸には、水平線を埋めるように艦影が並んでいた。
高雄沖の海は、夜明け前には黒に近い藍色だった。東の空が明るくなるにつれて艦影の下に鈍い青灰色の海面が見え始め、低い波の上には船の重油と排気の匂いが漂った。遠くで最初の艦砲が鳴ると、腹に響く低音が少し遅れて海岸へ届き、そのあとに沿岸砲の乾いた発射音が重なった。米海軍の空母群に加え、戦艦ミズーリやサウスダコタ級戦艦、巡洋艦、駆逐艦が海面を埋め、上陸船団の外周には無数の輸送船と揚陸艦が並んだ。
第10軍の地上兵力を運ぶ船団の外側を、駆逐艦と巡洋艦が警戒した。さらに沖には空母部隊があり、夜が明ける前から艦上機が発進した。高雄、岡山、台南周辺の飛行場と交通線には、数日前から繰り返し航空攻撃が加えられた。
日本陸軍第10方面軍司令官・安藤利吉大将の司令部にも、米軍が南西部へ来ることは分かっていた。
「高雄沖の艦艇は、昨日よりさらに増えています。左営方面にも掃海活動が見えます」
参謀の報告を聞き、安藤は壁の地図へ目を向けた。
「海岸だけで決める戦いにはしない方がよいでしょう。米軍の火力を正面から受け続ければ、こちらの兵力を短時間で失います。第50師団には、高雄の防御と、その後の後退路の両方を考えてもらってください」
「港湾施設については、どの程度まで破壊しますか」
「米軍がすぐ使える状態で残す理由はありません。ただ、こちらが移動する前に自分たちの道路まで塞がないよう、順序だけは整理しておきましょう」
その間にも、港の外ではすでに戦闘が始まっていた。
掃海艇が航路を開き、駆逐艦が沿岸砲台へ射撃を加える。戦艦と巡洋艦の主砲弾は海岸近くの陣地だけでなく、後方の砲兵陣地や交通結節点にも落ちた。空母機は高雄周辺の飛行場を繰り返し攻撃し、日本側の航空機がまとまって離陸する機会を減らしていった。
それでも日本側の航空攻撃がなくなったわけではない。
雲の切れ目から低く入った陸軍機が船団へ突っ込み、船団護衛の駆逐艦から海面近くへ対空砲火が集中した。1機が輸送船の近くへ落ち、別の1機は揚陸艦へ命中した。火災を起こした艦の横を、次の上陸用舟艇がそのまま海岸へ向かっていく。
海岸へ達した米軍は、艦砲射撃と航空支援の下で橋頭堡を広げた。上陸後には戦車と野砲も次々に揚げられ、平地での火力差はさらに大きくなった。
だが高雄を取れば台湾戦が終わるわけではなかった。
第50師団の部隊は市街地と郊外で抵抗したあと北へ下がり、第12師団は台南方面で鉄道と道路を使いながら戦線を作り直した。嘉義方面には第71師団がいる。さらに北には別の部隊があり、台湾の中央には長い山地がある。
バックナーは上陸から数日後、高雄港の被害状況を聞いた。
「限定的な荷揚げなら始められますが、大型船を継続して入れるには沈船と機雷の処理が必要です。荷役設備もかなり傷んでいます」
「予定より遅れますか」
「港だけを見れば遅れます。ただ、海岸からの揚陸を併用すれば前線への補給は続けられます」
「それなら、港の復旧を急ぎながら、陸上の前進速度を補給に合わせてください。台湾でいちばん避けたいのは、先頭だけが進んで後ろが追いつかなくなることです」
台湾戦は、米軍が勝っているのに終わらない戦いとして始まった。
第四章 中国軍が海を渡る
1945年3月4日 台湾・高雄港
高雄港が一定程度使えるようになると、中国軍の輸送船が姿を見せ始めた。
港にはまだ焼けた倉庫の匂いと重油の臭気が残り、海面には黒い油膜が細く光った。破損した岸壁ではハンマーと切断機の音が絶えず、荷揚げを待つ兵の列の横を、泥と煤で汚れたトラックが行き来した。中国軍の兵士が船から降りると、湿った南国の空気と、港にこもった焦げ臭さが一緒に押し寄せた。
米軍の強襲上陸船団ほど整ったものではない。徴用された商船、貨客船、沿岸航路の船が混じっている。米海軍は作戦海域の警戒と航路情報は提供したが、中国軍専用の輸送船団を編成して運んではくれなかった。
中華民国陸軍の孫立人中将は、上陸した部隊を見ながら幕僚に言った。
「ここまで来ただけでも、かなりの船を使いました。本土からさらに兵を抜けば、船だけでなく向こうの戦線も苦しくなるでしょう」
「重慶からは、後続部隊を増やしたいという話が来ています」
「台湾で中国軍が戦ったという事実は、もう作れます。数を増やすために中国本土の帝国陸軍を楽にしてしまっては、本末転倒です。その点は中央にも伝えてください」
実際、中国本土では変化が出ていた。
台湾へ回された部隊は、中国軍の中でも比較的装備と訓練の整ったものが多い。その穴を見て、帝国陸軍が局地的に前へ出始めた。中国側は後続部隊の一部を台湾へ送れなくなり、米第14航空軍も大陸側への支援を増やさざるを得ない。
台湾では中国軍が米軍の後方警備だけを担当したわけではない。高雄から北へ進む戦線の一部を引き受け、帝国陸軍と実際に交戦した。
蔣介石が欲しかった形は、少しずつできていった。
しかし、そのために台湾戦そのものが短くなったわけではなかった。
第五章 沖縄から見えるもの
1945年4月1日 沖縄・第32軍司令部
沖縄の第32軍司令部では、台湾上陸の報告を受けても、すぐに安心する者はいなかった。
日本陸軍第32軍司令官・牛島満中将は、地図を見ながら参謀に確かめた。
「第10軍の主力が台湾へ入ったことは分かりました。そのあと沖縄へ来ないと判断できる材料はありますか」
「まだありません。台湾を早期に片付けて、その後こちらへ向かう可能性は残っています」
「そうでしょうね。こちらとしては準備を緩める理由にはなりません」
沖縄は台湾より日本本土に近い。米軍が台湾を先に取ったとしても、次に沖縄を攻略して本土への基地とする可能性は十分にある。
そこで第32軍は陣地構築を続けた。
住民も、米軍上陸があるものとして動員される。飛行場には空襲が続き、海上輸送も細くなっていく。それでも上陸船団は現れなかった。
春が過ぎ、夏になり、台湾戦がなお続いても、沖縄沖に米第10軍は来なかった。
それでも、この段階では「飛ばされた」とはまだ言えなかった。
その後、米軍は沖縄を攻略しないまま日本本土への上陸作戦へ移る。結果として沖縄は、太平洋を北上する飛び石作戦の中で、攻めずに残された島になる。
第六章 台湾の奥行き
1945年4月20日 台湾・嘉義北方
台湾西部の戦線は北へ動いた。
西部平野には水田と畑が続き、晴れた日には遠くの山地が薄い青色に見えた。ところどころで砲撃に焼かれた草木の匂いが混じり、道路脇では砂糖黍の葉が風に擦れて乾いた音を立てた。前線を離れると一見静かな農村に戻るのに、数km先では野砲の音が低く続いた。
台南から嘉義へ進むにつれ、米軍は帝国陸軍の陣地だけでなく、壊された橋と鉄道、破壊された道路に時間を取られた。工兵は前線の直後に入り、仮橋を架け、路盤を直し、港から来た燃料と弾薬をさらに北へ送った。
帝国陸軍は、平地で米軍の戦車と砲兵にまともに付き合うことを減らした。
西部の交通線を使いながら後退し、必要な場所で抵抗し、山地へ寄れる地域では陣地を深くした。空襲で工場や鉄道施設を失い、燃料の補給も細っていたため、日本側の戦力は確実に減っている。それでも、沖縄のように狭い島の南端へ追い詰められる形にはならなかった。
安藤は補給状況の報告を受けた。
「小銃弾はまだ持ちますが、迫撃砲弾と野砲弾は部隊によって差が大きくなっています。燃料は航空部隊を中心に厳しくなっています」
「島外からまとまった補給が来る可能性は低いでしょう。残っているものを、戦線全体で均等に減らす必要はありません。必要な地点へ寄せる方がよいと思います」
「台北を最後の中心にしますか」
「台北だけを守ればよいわけではありません。米軍に島全体を使わせないことが重要です。東側へ移れる部隊についても準備を進めてください」
台湾戦は、日ごとに日本側が不利になった。
それでも、終わる日だけは見えなかった。
第七章 台湾へ送るもの
1945年5月~6月 モスクワ・極東
ドイツの降伏でヨーロッパの戦争が終わると、ソ連軍の鉄道輸送は西から東へ向きを変えた。戦車、砲兵、工兵、通信部隊、司令部要員がシベリア鉄道を通り、極東へ運ばれた。
航空部隊も東へ回された。中心になるのは、ドイツ戦で地上軍の直前を飛び続けたIl-2「シュトルモビク」と、新しいIl-10だった。戦闘機だけを増やすのではなく、砲兵陣地、車列、橋、鉄道、飛行場を低空から叩くための地上攻撃機をまとまった数で持っていく。
この世界では、ドイツで鹵獲したJu 87「シュトゥーカ」のうち整備可能な少数機も、部品取り機と一緒に極東へ回された。ソ連製機ほど数はそろわず主力にはならないが、日本側の戦闘機が少ない地域で限定的な低空攻撃に使う。黒い十字を消して赤い星を描いた機体が、シュトルモビクに混じって東へ送られた。
タチアナ中佐の仕事は、その軍隊を直接指揮することではなかった。
台湾へ何を送れば、米軍を最も長く拘束できるかを選ぶことだった。
日本製小銃を何万丁も送っても、台湾の帝国陸軍にはすでに小銃がある。必要なのは、撃てばなくなるものだった。
必要なのは、小銃弾と機関銃弾、迫撃砲弾と野砲弾、爆薬、無線機の部品、包帯や医薬品、それに被服だった。
タチアナは一覧を見ながら、同じ口径でも製造時期や保存状態の違う箱を選別させた。ノモンハン以来保管されていたものには劣化した弾薬もある。台湾で暴発させれば、味方を助けるどころか、供給経路そのものを疑われる。
船積み書類には、できるだけ帝国陸軍の補給品に見える名称を使った。箱を新品に詰め替えるより、古い部隊印の付いた木箱をそのまま使った方が自然なものもある。
「満州の部隊印は消しますか」
担当者に聞かれ、タチアナは首を振った。
「全部消す方が不自然です。帝国陸軍の補給品が帝国陸軍の手に戻るのですから。出所が一つに見えない方がいい」
台湾から戻る船には、約束どおり砂糖とバナナが積まれた。
最初の輸送が成功してからおよそ1か月後、モスクワへまとまった台湾産の砂糖とバナナが届いた。
スターリンのところへ回された木箱の上には、小さな封筒が置かれていた。
中にはタチアナの字で一行だけ書いてあった。
「親愛なる同志へ」
それ以上の説明はなかった。
台湾では、帝国陸軍の砲弾使用量が一度落ちたあと、再び増え始めた。米軍の情報部は異変に気づいたが、島内の隠匿在庫なのか、別の経路から来たものなのかをすぐには確定できなかった。
作戦そのものは機密のままだったが、タチアナには昇進辞令が出て、中佐から大佐になった。同僚が祝いの席で言った。
「台湾工作で大佐になったそうだな」
タチアナはバナナを一本持ち上げた。
「バナナと引き換えに大佐になりました」
笑いが起きたが、彼女の机にはすでに次の資料、北海道の港湾図が置かれていた。
第八章 満州で鹵獲したもの
1945年8月13日 満州
ソ連軍が満州へ入ると、関東軍の倉庫から大量の帝国陸軍装備を鹵獲した。
倉庫の中は油紙、古い木箱、機械油の匂いでむっとする。長く積まれていた弾薬箱には埃が厚く付き、釘を抜くと乾いた木の音のあとに、油を染み込ませた包装紙の匂いが立った。ソ連兵にとっては敵軍の規格品でも、箱の中身は台湾の日本兵がそのまま使える小銃弾や砲弾だ。
小銃、機関銃、迫撃砲、砲弾、小銃弾、被服、通信器材。
すべてがそのまま使えるわけではない。保管状態の悪いものもあり、種類も揃っていない。それでも、台湾の帝国陸軍にとっては価値があった。
ソ連側は、その中から比較的状態の良い帝国陸軍規格の弾薬を選び、複数の経路に分けて台湾方面へ流した。
台湾北部の補給所では、見慣れない部隊印の箱が増え始めた。
「満州向けの印が入っていますね」
補給将校が箱を見ながら言った。
「こちらへ転送された記録はありません」
「中身は使えますか」
「選別は必要ですが、規格は同じです。迫撃砲弾も相当数あります」
参謀は箱の側面を見た。
「出所については、今は詮索しても答えが出ないでしょう。危険なものを除いて、使える分だけ部隊へ回してください」
安藤利吉のところにも報告は届いた。
「ソ連から来たのではないか、という話まで出ています」
参謀がそう言うと、安藤は少し考えた。
「確証がない以上、司令部から推測を広げる必要はありません。ただ、補給が戻った理由は記録しておきましょう。戦後に誰かが調べるかもしれません」
台湾の帝国陸軍は、再び迫撃砲と野砲を使う頻度を上げた。
米軍情報部も、ほどなく異変に気づいた。
「6月には砲弾の使用量が落ちていましたが、8月半ばから増えています。島内生産が急に回復した形ではありません」
「隠し倉庫が見つかった可能性は?」
「もちろんあります。ただ、回収した弾薬箱の一部に満州方面の部隊印があります」
情報参謀は、その事実だけを報告書に書いた。
ソ連が送った、と断定できる証拠はなかった。
それでも台湾戦は、また少し長くなった。
第九章 仲介を頼んでいた相手
1945年7月12日 モスクワ
日本政府は、ソ連の動きを読み違えた。
7月になっても、政府内にはモスクワを通じて米英との和平条件を探れないかという考えが残っている。近衛文麿を特使として送る案も、その一つだ。
駐ソ日本大使・佐藤尚武は、東京の期待が現実的ではないことを何度も伝えた。
「ソ連政府は、こちらの希望どおりの仲介役にはなりません。少なくとも、具体的な条件を示さずに話を進められる状況ではありません」
東京から返ってくる指示は、それでも、連合国との敗戦処理条約を少しでも日本に有利な条件で結べるよう、ソ連に仲介してもらう可能性を探ってほしい、というものだ。
そのため、日本国内でのソ連像は奇妙なままだ。
米英に対しては、「鬼畜米英」という言葉まで使って敵愾心を煽る宣伝が長く続いてきた。一方、ソ連については警戒していても、政府自身が最後まで敗戦処理の仲介者になり得ると期待している。住民の側から見ても、米英とソ連は同じ強さの敵像ではない。
8月にソ連が参戦したあとも、その心理の差はすぐには消えなかった。
スターリンは、日本側のこの認識も利用できると考えた。
第十章 終戦にならなかった日
1945年8月14日~15日 東京・松代
広島と長崎に原子爆弾が落ち、ソ連軍が満州へ侵攻すると、日本政府内では降伏を求める意見が急速に強くなった。
しかし、この世界では沖縄はまだ落ちていない。台湾でも帝国陸軍は後退しながら戦闘を続けていた。米軍が南九州へ来ることは予想されていたが、本土の主要地域で地上戦が始まったわけでもない。
政府、大本営、帝国陸軍、帝国海軍の内部は、降伏を求める側と継戦を主張する側に割れた。
史実の8月とは違い、この時点では継戦派の方が多かった。
「原子爆弾を使われた以上、次もあります」
「だからこそ、条件を詰めないまま降伏するわけにはいかない」
「ソ連まで参戦しました」
「満州と本土は同じではない。沖縄もまだ取られていない。台湾も戦っている」
議論はまとまらなかった。
天皇も、この段階では全国へ降伏を表明しなかった。
東京への空襲が続く中、皇室、政府中枢、大本営は松代へ退避した。地下壕に通信、会議、執務の機能が集められ、東京には官庁と行政機能の多くが残った。
8月15日に全国へ流れた玉音放送はなかった。
帝国陸軍と帝国海軍には戦闘継続を前提とする命令系統が残り、それぞれの方面軍、鎮守府、基地が上級司令部からの指示を待った。
ただし、中央が一枚岩だったわけではない。
降伏派の官僚や軍人は戦争終結の方法を探し続け、現地では戦況と補給の悪化から独自に停戦交渉へ入る部隊も出た。一方、松代には継戦派が集まり、政府と大本営を維持して本土決戦を続ける構えを取った。
この時点で、日本はまだ降伏していない。
しかし、東京と松代、降伏派と継戦派、各地の司令部の判断は、少しずつ別々の方向へ動き始めていた。
第十章補 本土防衛の向き
1945年8月9日 東京・大本営
ソ連軍が北海道へ向かったとき、日本本土の守備兵力は同じ密度で全国へ置かれていたわけではなかった。
本土防衛のために使える人員、砲、車両、燃料、築城資材の多くは、長い時間をかけて別の方向へ寄せられていた。
一つは九州だった。
台湾へ米軍が上陸したこの世界では、台湾を取った米軍が次に南九州へ来るという判断が強くなった。第16方面軍の九州には、本土各地から新設・転用された師団や独立混成旅団が集められ、飛行場、海岸陣地、山地陣地、弾薬集積所も米軍上陸を前提に整備された。帝国海軍も、残存航空機、潜水艦、特殊潜航艇、回天、震洋などを米軍輸送船団へ集中する構想を持った。
もう一つは松代だった。
東京への空襲が激しくなるにつれ、皇室、政府、軍中央の中枢機能を松代へ移す準備が進み、それを守るための部隊、通信、警備、物資も集められた。
その結果、北関東から東京北方にかけては人口も鉄道も工場も多いのに、まとまった野戦軍として使える部隊が薄くなった。
巨大な平野に町と工場が詰まっているのに、中身の軍事力を吸い出された海綿のような状態だった。
大本営の会議で、参謀が北方への増援を検討した。
「九州から師団を抜けますか」
兵站担当者は首を振った。
「米軍が南九州へ来ると考えて、1年以上かけて砲と弾薬を集めています。いま抜けば、上陸正面を自分で薄くすることになります」
「松代周辺からは」
「政府と大本営を守る部隊です。そこを空にする判断を誰が出しますか」
「では、北関東から拾うしかない」
「部隊番号はあります。しかし、人員だけ多くて重火器が少ない部隊もあります。空襲で鉄道輸送力も落ちています」
九州の部隊を北へ動かすには、兵だけでなく、砲弾、食料、車両、通信機材まで何千kmも運ばなければならない。燃料も貨車も不足している。橋梁と操車場は空襲を受けている。
しかも、その米軍は本当に九州へ来る。
ソ連参戦を知ったからといって、九州の兵力を北へ移せば、その直後に米軍上陸を受ける。
日本側には、米軍正面を薄くして新しいソ連正面を厚くする余裕がなかった。
そのため、九州では長く準備された帝国陸軍の大兵力が米軍と戦い、北海道から東北では地域守備部隊がソ連軍を受け、北関東では交通と人口の大きさに比べて野戦兵力の薄い空間が残った。
ソ連軍が関東へ近づいたとき、この偏りが一気に効くことになる。
第十一章 北海道上陸
1945年8月24日 北海道・留萌沖
1945年4月12日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が死去し、副大統領だったハリー・S・トルーマンが大統領を継いでいた。カイロで蔣介石から台湾の話を聞いた大統領は、もういない。
スターリンは北海道北部をソ連軍の降伏受領区域に含めるようトルーマンへ求め、米側から拒否された。それでも、日本政府の統一した降伏が成立していないことと、米軍主力が台湾と九州準備に拘束されていることを理由に、北海道北部への実力進出を決めた。
作戦の中心を担うのは第87狙撃軍団だ。
南樺太へ集められた部隊は、太平洋艦隊の輸送船と上陸用舟艇に乗り込んだ。米国からProject Hulaで渡された掃海艇や上陸用舟艇も、その中に含まれていた。
目標は留萌。
ソ連側にとって重要なのは、十分な港を確保することだ。
日本側では、日本陸軍第5方面軍司令官・樋口季一郎中将が北海道の防衛を見ていた。
樺太でソ連軍との戦闘が始まっている以上、北海道への上陸可能性は無視できない。
「留萌方面の海上偵察で、船団らしい動きが確認されています」
参謀が報告すると、樋口は落ち着いて聞いた。
「規模は分かりますか」
「まだ正確ではありません。ただ、掃海活動らしい動きもあります」
「上陸を前提にした方がよさそうですね。沿岸部隊には、海岸だけで兵力を使い切らないよう伝えてください。港を失っても、その後に戦える形を残しておきたいと思います」
夜が明ける前、ソ連海軍の航空隊が飛行場と通信施設を攻撃した。
留萌沖には低い雲がかかり、海から吹く風は8月末でも冷たかった。波しぶきを浴びた上陸用舟艇の中では、濡れた軍服とディーゼル排気の匂いが混じり、兵は機関音のため隣の声も聞き取りにくかった。海岸から砲撃が始まると、暗い水面に白い水柱が立ち、夜明け前の水平線が一瞬ずつ橙色に光った。
続いて海上では掃海艇が前へ出る。
日本側の沿岸砲が発砲し、海面に水柱が立った。
駆逐艦や警備艇も沿岸砲台へ応射した。
留萌港の外では、これまで日本本土では起きなかった種類の戦闘が始まった。
上陸用舟艇が接岸し、ソ連兵が海岸へ出る。先頭の小隊長が「Вперёд!(フピリョート、前進!)」と叫び、兵が海岸の遮蔽物へ走った。
帝国陸軍の機関銃陣地から射撃が始まり、先頭の舟艇の一部が損傷した。ソ連側は砲兵を揚げるまでの間、艦砲と航空支援で陣地を抑えようとした。
日本側も、残っていた航空機を出した。千歳や旭川方面に残る五式戦闘機、四式戦闘機「疾風」、海軍の零式艦上戦闘機など、北方へ回せた機体は多くないが、上陸船団の前には確かに現れた。
北海道の飛行場から上がった陸軍機が船団を狙い、ソ連戦闘機が迎撃した。燃料も機体も十分ではない日本側は、継続的な航空優勢を取れなかったが、最初の数日間は港と船団に損害を与えた。
港湾施設の一部は日本側が破壊した。
ソ連軍は上陸そのものには成功したが、その翌日から何でも運べたわけではない。
揚陸できる量が進撃速度を決めた。
第十二章 最初の降伏部隊
1945年8月27日 北海道・留萌周辺
留萌周辺の戦闘が数日続いたあと、帝国陸軍の一部が包囲された。
ソ連軍は降伏勧告を出した。
その前に、ソ連側の幕僚が捕虜の扱いを確認した。
「降伏した兵は後送しないのですか」
「Да(ダー、そうだ)。スターリン同志はそのように言われています。鉄道員、通信兵、医療要員は北海道内に残して使う、と」
その方針を確認したうえで、日本側の大隊長に通訳を介して条件を伝えた。
「兵はソ連領へ送られますか」
「原則として北海道内に留めます。武器は提出してもらいますが、鉄道、通信、医療などの技能者は登録し、必要な仕事に戻ってもらいます」
「将校はどうなりますか」
「部隊ごとに審査します。戦争犯罪などの問題がなければ、全員を長期収容する方針ではありません」
大隊長は幕僚と相談した。
戦闘を続けても弾薬は少ない。
負傷者も増えた。
それでも、ソ連では政治犯などがシベリアの収容所へ送られるという話が知られていたため、降伏すれば自分たちもシベリア送りになると考える兵は多かった。
「本当に日本に残すというのなら、負傷者の治療を先に確認させてください」
ソ連側は応じた。
降伏した兵は武装解除されたが、そのまま船へ乗せられることはなかった。
負傷者は野戦病院へ運ばれた。
鉄道員だった兵は別枠で登録される。
通信兵も同じ扱いになる。
数日後、その情報は周辺部隊へ伝わった。
宣伝放送より、日本人同士の口コミの方が早かった。
第十二章補 札幌まで
1945年8月30日~9月5日 北海道
留萌から内陸へ入ったソ連軍が最初に必要としているのは、広い地域を一度に占領することではない。港と鉄道をつなぐことだ。
日本側は旭川方面にも部隊を持っている。札幌も行政と交通の中心として無視できない。
ソ連軍は装甲部隊だけを先へ走らせず、鉄道復旧と砲兵の移動に合わせて前進した。
日本側の守備隊は、最初の数日間は抵抗した。
道路沿いの陣地から対戦車砲を撃ち、橋を落とし、山間部では小部隊がソ連軍の側面を狙った。
ソ連軍はそれに対して、砲兵を先に使った。
欧州戦線で都市と陣地を攻め続けた部隊にとって、道路を守る帝国陸軍陣地は未知の相手ではなかった。
しかし北海道の地形と道路事情は、ドイツとは違う。
装軌車両が通れても、後続の補給車が通れない場所がある。
橋を直しても、その先の道路が狭い。
そのたびに日本人の道路管理者や鉄道員が呼ばれた。
旭川近郊では、帝国陸軍部隊の一部が戦闘を続け、別の一部は撤退した。
退路を失った部隊には、日本人民軍の前身となる日本人警備隊が降伏条件を説明した。
ある連隊長は、同じ帝国陸軍の制服を着た相手を見て戸惑った。
「あなた方は、いつからソ連側の部隊になったのですか」
警備隊の将校は少し考えて答えた。
「まだソ連軍になったつもりはありません。武器を置いたあと、鉄道と町の警備を任されただけです。こちらへ来るなら、少なくとも捕虜船に乗せられることはありません」
「その保証は誰がするのです」
「絶対の保証と言われると困ります。ただ、私たちは今ここにいます。留萌で降伏した兵も、同じように北海道内に残っています」
連隊長はすぐには答えなかった。
数時間後、その部隊は武器を置いた。
こうした降伏が増えるほど、ソ連軍の進撃は速くなった。
札幌では、全面的な市街戦になる前に守備側が分裂した。
抗戦を続けたい部隊と、これ以上の戦闘に意味はないと考える部隊が同じ市内にいる。
日本人民軍側の日本人将校が間に入り、部隊ごとに武装解除を進めた。
ソ連軍が札幌へ入ったとき、戦車の前を日本人部隊が案内する場面もあった。
市民の目には、それがいちばん奇妙に見えた。
◇ ◇ ◇
函館はまだ日本側に残った。
本州へ渡る港であり、津軽海峡を押さえる位置にある。札幌へ入ったソ連軍も、補給線を整えないまま函館へ急ぐことはしなかった。
函館守備隊は沿岸砲台を維持し、港内の小型艦艇も出撃準備を続けた。海峡の向こう側には本州側の部隊もいる。
この時点では、函館の将兵も、数日後に札幌で第5方面軍司令部と北海道庁がソ連側との正式な交渉へ入ることをまだ知らない。
北海道侵攻は、最初から「帝国陸軍が何の抵抗もできなかった」戦争ではなかった。
抵抗はあった。
ただ、それを長く支える補給と、部隊をまとめ続ける国家の指揮が崩れ始めていた。
第十三章 村が道を教える
1945年9月3日 北海道
留萌から札幌方面へ進む途中、ある村でソ連兵5人が拘束された。
村の少女を暴行した兵だった。
村の広場には、ソ連兵が集められた。村人も少し離れたところから見ていた。5人は武装を外され、政治将校の前へ連れ出された。
政治将校は何も言わなかった。
処分命令を確認すると、5人をその場で射殺した。
倒れた5人へ言葉をかけることもなく、政治将校は残った兵士たちの方を向いた。
「彼らの処分は決まっていた。理由を説明しても、叱責しても無駄だ。生きている君たちには言っておく」
兵士たちが黙って聞いた。
「米軍よりも、できるだけ多くの占領地域を確保せよ。同志スターリンの命令だ。そのためには住民の協力が不可欠になる。妨害されるより案内された方がいい。後方の守備に兵力を割きたくない。住民との関係が良ければ、自分たちの町や鉄道を守り、危険があればこちらへ知らせてくれる」
政治将校は村人の方へ一度視線を向け、それから兵士たちへ戻した。
「ここはヨーロッパ戦線とは違う。それを理解したまえ」
その日の別の部隊では、酒保の勘定をごまかした兵士に48時間の歩哨勤務が命じられた。
軍紀違反の重さによって処分は変わった。
村人への重大な犯罪を起こした兵が自軍の前で処分されたという話は、ソ連兵の間にも周辺の村にも広がった。
ソ連軍が留萌から内陸へ進むと、戦闘のない村にも兵が入ってくる。
ある村で、装甲車を含む車列が古い橋の前で止まった。
車列が止まると、エンジン音の消えた村には川の音が戻った。土間の家からは薪の煙と味噌汁の匂いが流れ、畑から戻った人たちは泥の付いた長靴のまま道路脇に集まった。ソ連兵の軍服と装甲車だけが、その景色の中でひどく場違いに見えた。
村長が通訳に呼ばれた。
「この橋は重い車でも通れますか」
「荷馬車なら大丈夫ですが、その車はやめた方がいいでしょう。春の増水で橋脚が少し動いています」
工兵が調べると、確かに危険な状態だ。
「迂回路はありますか」
「川上に林道があります。ただ、雨が降ると泥になります。こちらの農道を通るなら距離は長いですが、地面はまだ固いです」
村長が地図に線を引いた。
ソ連軍は、その情報どおり遠回りした。
数日後、村から軍へ出ていた若者が戻ってきた。
捕虜として連れて行かれたのではなく、鉄道警備の仕事をするため近くに配置されたという。
父親は、戻ってきた息子の腕章を見ながら尋ねた。
「赤軍へ入ったのかと思ったが、そうではないんだな。軍務をやめたいと言えば、家へ戻れるのか」
「まだ名前もよく決まっていない日本人の警備隊だって。武器は帝国陸軍のものを使っている。やめるなら、手続きのあと帰してくれるそうだよ」
この話は、さらに隣の村へ伝わった。
ソ連側は、村落単位の協力を意識して利用した。
道路、橋、井戸、倉庫、病院、鉄道。
土地を知っている日本人が協力すれば、占領軍だけで全部調べる必要がなくなる。
スターリンが日本人を急いで国外へ送らなかった理由は、人道主義より実用の方が大きかった。
それでも現地の日本人から見れば、米軍とソ連軍への感情は同じではない。何年も「鬼畜米英」と聞かされ、実際に都市への焼夷弾攻撃も受けた米軍に対し、ソ連は直前まで政府が仲介を頼もうとしていた相手だ。そこへ「降伏してもシベリアへ送られず、日本に残れる」という実例が重なったことが、村落単位の協力が広がる一因になった。
第十三章補 タチアナ大佐の小さな部隊
1945年9月6日 札幌郊外
タチアナ大佐には、スターリンから付けられた政治将校が同行していた。
役割ははっきり分かれている。
タチアナは日本語を読み、日本人へ直接質問し、新聞、役場の帳簿、帝国陸軍の命令書、住民の噂まで拾う。日本人が言った言葉をロシア語へ直して軍政側へ説明し、どの政策が抵抗を増やし、どれが協力を引き出すかを提案する。
政治将校は、軍紀、人事、拘束、倉庫封印、財産接収など、占領軍として正式な命令を出す。
その二人に無線手、運転手、数人の護衛が付いた。
車は無線車と乗用車か小型トラックの1、2台で足りる。大部隊ではないので、前線の道路が一本空けば先へ出られた。
村へ入るときも駅へ入るときも、別の通訳を探す必要はない。
タチアナ自身が日本語で聞いた。
「橋は壊れていますか」
「地主はどこへ行きましたか」
「この工場は電気が戻れば動きますか」
必要なら、その場で政治将校へロシア語で説明する。
軍政の決定が出れば、また日本語で住民へ伝える。
人数が少ないため、大都市の統治そのものはできない。
その代わり、軍政本隊より早く次の町へ入り、何が起きているかを確かめることができた。
タチアナの部隊は、進撃する軍隊の少し前と少し後ろを行き来する、小さな情報と軍政の結節点になった。
第十四章 日本人民軍
1945年9月8日 札幌
札幌で最初に問題になったのは、新しい国の名前ではなかった。
鉄道を誰が動かし、食料をどう配り、倉庫と発電所を誰が守るのか。さらに、武装解除された帝国陸軍の兵を、そのまま何万人も収容しておくのかという問題があった。
旧北海道庁の会議室には、ソ連軍の政治将校、タチアナ大佐、日本陸軍第5方面軍司令官・樋口季一郎中将、北海道庁長官・熊谷憲一、それに警察、鉄道、港湾の担当者が集まった。
窓の外をソ連軍のトラックが通った。会議室には古い紙と煙草の匂いが残り、机の中央には北海道の鉄道路線図が広げられている。
政治将校がロシア語で話した。
タチアナがそのまま日本語にした。
「武装解除した兵を全員収容所へ入れるつもりはありません。鉄道、港、通信、病院、倉庫の警備に日本人が必要です」
樋口は路線図を見たまま答えた。
「兵を使うのであれば、部隊として扱ってください。昨日まで同じ指揮系統にいた者を、今日は個人ごとにばらばらに使えば混乱します」
タチアナはロシア語へ直した。
政治将校が返す。
「帝国陸軍をそのまま残すことは認めない。武装解除したうえで、必要な者を新しい部隊として登録する」
樋口はうなずいた。
「それで結構です。ただし、人数だけ集めても軍にはなりません。下士官、通信、工兵、衛生、鉄道、車両整備の技能者を先に選んでください」
熊谷が話を引き取った。
「軍施設だけでは足りません。札幌では食料配給も消防も動かさなければなりません。鉄道が止まれば石炭も食料も来ない。駅、倉庫、発電所、水道も守ってもらう必要があります」
タチアナは政治将校へロシア語で説明した。
短い相談のあと、政治将校が言った。
「Хорошо(ハラショー、よろしい)。民政は北海道庁と市町村に続けてもらう。警察も使う。ただし、武装した部隊はソ連軍政の登録下に置く」
熊谷はもう一つ確認した。
「住民からの徴発は北海道庁を通してください。軍が町へ直接入って食料や車両を持っていけば、すぐ混乱します」
「数量を記録し、北海道庁の担当者を立ち会わせます」
タチアナが日本語で返した。
ここで初めて部隊の名称が出た。
タチアナはロシア語で書かれた紙を机へ置いた。
「Японская народная армия(ヤポンスカヤ・ナロードナヤ・アルミヤ)。日本語なら『日本人民軍』です」
樋口は紙をしばらく見た。
「軍と呼ぶ以上、降伏兵を集めただけの作業隊にはしないでください。指揮官を置き、命令系統を決める必要があります」
「上級指揮にはソ連軍の顧問が入ります」
「占領下ですから、それは理解しています」
兵を部隊ごと丸ごと編入する方針は採られなかった。
実戦経験のある伍長、軍曹、通信兵、工兵、砲兵、衛生兵、鉄道員、自動車整備兵を優先して登録し、訓練のほとんどない兵や過剰な人員は武装解除後に復員させる。
新しい軍服を何万人分も用意する余裕はない。
当面は帝国陸軍の軍服を使い、階級章と所属を示す腕章だけを交換した。灰緑色の軍服のまま、肩や襟、腕の印だけが変わる。
住民から見れば、昨日まで帝国陸軍だった兵が、翌日には別の腕章を付けて駅や発電所を守っていることになる。
違いを分からせるため、タチアナは布告文を日本語で何度も書き直した。
樋口は最後に函館の地図へ目を移した。
「第5方面軍の名で、道内各部隊へ交渉成立を知らせます。函館にも送ります。組織的な抵抗をやめ、代表を札幌へ出すよう命じます」
政治将校が確認した。
「全員が従うか」
タチアナが訳すと、樋口は答えた。
「保証はできません。沿岸砲台や帝国海軍部隊には別の指揮系統もあります。ただ、第5方面軍の部隊まで理由なく戦い続ける必要はなくなります」
熊谷も続けた。
「函館が焼ければ、北海道と本州をつなぐ港そのものを失います。市街戦は避けてもらいたいと思います」
政治将校はうなずいた。
タチアナが日本語で伝えた。
「抵抗しない部隊へ砲撃する理由はありません」
その日のうちに、札幌から函館へ電報と使者が出た。
これが、この世界で「日本人民軍」という名称が正式に使われた起点になった。
まだ北海道の警備組織に近い。
それでも、ソ連軍政、帝国陸軍第5方面軍、北海道庁が同じ机で条件を決めたことで、日本人自身の指揮系統を持つ新しい軍隊の骨格ができた。
タチアナは会議が終わったあと、空になった椅子を見た。
日本語の名称を考えた紙が机に残っていた。
数週間後、その名前が津軽海峡を渡り、東北へ広がっていく。
第十五章 OLYMPIC
1945年9月25日 米軍太平洋方面司令部
米軍側でも、日本本土侵攻の準備は止まっていなかった。
台湾戦は完全には終わっていない。
それでもソ連軍が北海道へ入った以上、米国は本土上陸をさらに先へ延ばせなくなった。
米陸軍元帥ダグラス・マッカーサーの幕僚は、すでに作成されていたOperation OLYMPICを基礎に、南九州上陸を実施することにした。
地上軍を率いるのは、米陸軍第6軍司令官ウォルター・クルーガー大将だ。
宮崎方面には第1軍団、有明湾方面には第11軍団が向かう。
薩摩半島の串木野方面には、米海兵隊第5水陸両用軍団司令官ハリー・シュミット中将の部隊が向かう。海兵隊第2、第3、第5師団を中心に、南九州へ三方向から橋頭堡を作る構想だ。
台湾で戦っている第10軍はすぐには全部を抜けない。
そのため、台湾の北部戦線は中国軍と残留部隊へ少しずつ比重を移し、米軍の一部を次の作戦へ回した。
沖縄には、結局上陸しなかった。
米軍は台湾、フィリピン、マリアナから直接、九州攻略を支援することにした。
この時点で、沖縄が飛び石作戦の途中で残されたことが明確になる。
第十六章 九州沖
1945年10月10日 南九州沖
南九州沖には、台湾上陸時よりさらに大きな艦隊が集まった。
秋の海は台湾沖より色が暗く、朝の風に細かな波が立った。空母の飛行甲板から発艦する機体のエンジン音が海上を震わせ、戦艦の周囲には重油の匂いと薄い煙が流れた。遠くの九州は霞の向こうに黒い山並みとして見え、その陸地へ向かって上陸船団がゆっくり進んだ。空母タイコンデロガやエセックス級空母群、戦艦テネシーやウェストバージニアなどが艦砲射撃と上空援護を担い、その後ろで無数の輸送船と揚陸艦が波の上に列を作った。
日本側は、米軍が南九州へ来ることを1年以上前から有力視し、この方面へ兵力と資材を偏らせていた。
史実でも大本営は決号作戦に基づき、南九州を最初の本土決戦正面と見て師団、航空機、特殊兵器を集中している。この世界では台湾戦が実施されたため、「次は高雄と台南を使った九州上陸だ」という見方がいっそう強く、偏りもさらに極端だ。
第16方面軍のもとで決号作戦の準備が進み、九州には急速に兵力が集められた。
航空部隊には、上陸前の艦隊そのものより、輸送船と揚陸艦を優先して狙う考えが徹底された。
海軍も残存潜水艦、回天、海龍・蛟龍などの特殊潜航艇、震洋を含む小型艇を使う準備を進めていた。
米軍側は、それを把握していた。
上陸の数日前から空母機と陸上航空隊が九州の飛行場を攻撃し、B-29も交通線と基地を狙った。戦艦と巡洋艦は沿岸陣地へ砲撃を加え、掃海部隊が上陸海面へ近づいた。
それでも、日本側は航空機を全部飛行場に並べて待ってはいなかった。
山間部や小さな飛行場へ分散されていた機体が、上陸船団が海岸へ近づいた段階で次々に出た。
米艦隊のレーダーが多数の機影を捉えた。
戦闘空中哨戒のF6FとF4Uが迎撃し、艦艇の対空砲火がその後ろへ重なった。
撃墜された日本機は多かった。
しかし全部は止まらない。
1機がLSTへ突入し、甲板上の車両と燃料に火が回った。別の機体は輸送船の近くへ落ち、破片で上陸待機中の兵に死傷者が出た。
海中では潜水艦と回天が接近を試みた。
外周を守る駆逐艦と護衛駆逐艦が爆雷を投下し、海面に大きな泡が広がる。
夜になると、小さな入り江から震洋が出た。
米軍の上陸は始まる前から損害を出した。
第十七章 串木野、宮崎、有明
1945年10月11日 南九州
上陸当日。
夜明けの海岸には、艦砲射撃で上がった土煙がまだ残った。舟艇の中では海水と排気の匂いがこもり、兵の靴は船底に入った冷たい水で濡れていた。海岸へ近づくにつれて機関銃の音がはっきりし、砲弾が落ちるたびに砂浜の色が土煙の中へ消えた。
串木野沖では、第5水陸両用軍団の海兵隊を載せた舟艇が海岸へ向かった。
上陸前の砲撃で海岸線は土煙に覆われた。
それでも帝国陸軍の砲は残った。
海岸近くの陣地から射撃が始まり、舟艇の周囲に水柱が立つ。米艦艇は観測機と前進観測員から位置を受け、残った火点へ射撃を集中した。
宮崎方面でも第1軍団が上陸した。
第25、第33、第41師団の部隊が海岸へ入り、工兵が障害物を処理した。帝国陸軍は海岸線だけに固執せず、少し内陸に入った高地と道路へ陣地を作っていた。
有明湾方面では第11軍団が進んだ。
米軍は三方向から橋頭堡を作ったが、上陸初日で南九州が落ちたわけではない。
日本側は、米軍の艦砲射撃と航空攻撃が最も効く場所を避け、洞窟や山地を使って抵抗した。
九州の地形は、台湾とは別の意味で米軍を苦しめた。
山が海岸へ近く、谷ごとに道路が限られる。
砲兵と戦車を前へ出すには、橋と道路を確保し続けなければならない。
米軍は火力で押し、帝国陸軍は地形で時間を買った。
その時間の向こう側で、ソ連軍は本州へ渡る準備を進めていた。
第十七章補 海の上の決号
1945年10月11日~13日 南九州沖
南九州上陸の初期には、日本海軍の残存戦力も実戦に出た。
大型艦による正面戦闘はできない。
燃料が足りず、制空権もない。
そこで海軍は、残っていた潜水艦、特殊潜航艇、回天、小型特攻艇を、輸送船団と揚陸海面へ集中させた。
米海軍が最も警戒したのは、戦艦を失うことだけではなかった。
兵員を満載した輸送船、LST、弾薬船、給油艦が沈めば、上陸作戦全体に影響する。
夜間、串木野沖の警戒線で、護衛駆逐艦が不審な航跡を見つけた。
最初は漂流物にも見えた。
しかし航跡は一定の速さで船団へ近づいていた。
探照灯が海面を照らすと、小さな艇が見えた。
射撃が始まり、艇は方向を変えた。
別の方向からもエンジン音が聞こえる。
震洋だ。
数隻は撃破されたが、1隻が上陸用舟艇を集めていた区域へ入り、爆発した。
損害は局地的にとどまる。
しかし夜が明けるまで、米軍は小型艇の接近警報を何度も受けた。
その外側では潜水艦が機会を探した。
米軍の対潜哨戒機と駆逐艦は、上陸船団の前後で海面を絶えず監視した。
回天を搭載した潜水艦が接近を試み、米駆逐艦に探知されて深く潜る。
爆雷攻撃を受け、上陸海面へ近づけずに終わる艇もあった。
成功した攻撃より、成功しなかった攻撃の方がはるかに多かった。
それでも米軍は警戒を解けない。
日本側にとっては、そこに意味があった。
◇ ◇ ◇
航空隊の攻撃も同じだ。
九州の飛行場が空襲を受けても、全機が破壊されるわけではない。
山沿いの補助飛行場や分散場所から、少数ずつ機体が上がる。
米軍側は空母艦載機に加え、フィリピンや台湾から飛ぶ陸上航空隊も使った。
戦闘機は日本側飛行場上空を哨戒し、爆撃機は滑走路と燃料施設を攻撃した。
それでも、隠された機体まで全部見つけることはできない。
ある日の午後、紫電改と五式戦闘機を含む数機の日本機が山陰から海へ出て、揚陸海面へ入った。
F6Fが追いつき、後方から射撃する。
先頭機は海へ落ちたが、残った機体は高度を下げた。
米艦艇の対空砲火が加わる。
1機は途中で炎上し、もう1機はLSTの船尾へ突入した。
甲板上の車両が燃え、消火班が走った。
米軍は損害を受けても上陸を止めなかった。
日本側は攻撃を続けても船団を消せなかった。
この差が、決号作戦の限界になる。
第十八章 津軽海峡
1945年9月12日 函館・津軽海峡・弘前
札幌での合意は、津軽海峡の戦い方を変えた。
函館へ届いた第5方面軍からの命令は、組織的な抵抗を中止し、武装解除の条件についてソ連側と交渉するよう求めていた。
守備隊の大半は命令を受け入れた。
それでも全員ではない。
沿岸砲台の一部と、港内に残る小型艦艇の一部では、ソ連軍が目前まで来ている以上、撃たずに武器を渡すことはできないという将校が残った。通信が途切れた陣地もあり、札幌の命令そのものを信用しない部隊もあった。
日本人民軍になったばかりの帝国陸軍出身の将校が、白旗を付けた車で函館の各陣地を回った。
「札幌で樋口閣下が交渉に入っています。武装解除しても部隊全員を国外へ送ることはありません。港と鉄道の警備に残る者も必要です」
「ソ連軍の命令を伝えに来たのか」
「第5方面軍の命令も持ってきています。ここで函館市街を戦場にしても、守るものまでなくなります」
砲台ごとに返事は違った。
砲身を海へ向けたまま閉鎖する部隊があり、砲尾を外して武器を引き渡す部隊があった。
最後まで戦うと決めた陣地も残った。
ソ連軍が函館へ近づいたとき、港全体から砲撃を受けることはなかった。
発砲したのは、命令に従わなかった函館守備隊の一部だった。
ソ連艦艇は、その砲台だけへ射撃を集中した。日本側の砲弾が海面に水柱を上げ、港内から出た小型艇も夜間に接近を試みたが、戦闘は局地化した。
港湾労働者と鉄道員は、日本人民軍の警備下で仕事へ戻った。
函館港が使えるようになると、津軽海峡を渡る準備は一気に進んだ。
◇ ◇ ◇
9月の津軽海峡は風が強く、波頭が白く崩れた。甲板へ出れば潮の匂いより先にディーゼル排気が鼻に入り、波しぶきが顔に冷たく当たった。
掃海艇が先行し、上陸用舟艇と輸送船が続く。
ただし、船団に乗っているのはソ連兵だけではない。
札幌と函館で編成された日本人民軍の将校、通信兵、鉄道員も本州へ渡った。彼らの任務は、青森側の帝国陸軍へ降伏条件を説明し、港と鉄道をできるだけ壊さず引き継ぐことだった。
海峡の南側では、その知らせが先に弘前へ届いた。
弘前師管区司令部には、札幌で第5方面軍司令官と北海道庁長官がソ連側と交渉し、函館守備隊の大半も戦闘をやめたという報告が入った。
「函館は落ちたのですか」
「違います。大部分が交渉に応じました。一部の砲台だけが戦闘を続けています」
「では、海峡を渡ってくる日本兵は捕虜ではないのか」
「日本人民軍と名乗っています。帝国陸軍出身の将校が、ソ連軍と一緒に来るそうです」
会議室の空気が変わった。
弘前師管区司令部は、名前だけを見れば大きな部隊を抱えているように見える。しかし、師管区そのものは補充と動員を担う組織で、弘前の町に完全装備の野戦師団が待っているわけではなかった。
もともと弘前師管区からは、満州や南方へ送る部隊の補充要員を長く出している。1945年になって青森県内で第157師団、第308師団など本土決戦用の師団も急造されたが、装備は揃わない。この世界ではさらに台湾戦と九州防衛へ人員、砲、車両、弾薬の転用が続き、9月の弘前周辺で直ちに戦闘へ出せる兵力は、書類上の定数の2割にも届かなかった。
砲兵はもっと苦しい。
残った野砲は少なく、牽引車も足りない。対空火器は飛行場や重要施設へ回され、歩兵部隊へ十分には配れない。兵がいても、小銃だけで道路沿いへ集めるしかない部隊まである。
しかも、彼らが準備してきた相手は米軍の上陸だった。
海峡の向こうからソ連軍が来るだけでも想定外なのに、同じ帝国陸軍の制服を着ていた者まで同行してくる。
「札幌の樋口閣下が本当に認めたのなら、こちらだけで抗戦を続ける根拠は何ですか」
若い参謀がそう口にすると、誰もすぐには答えなかった。
その日の午後、答えを出す時間そのものがなくなった。
北海道側の飛行場へ進出していたIl-2「シュトルモビク」が、編隊で津軽海峡を越えてきた。
最初に狙われたのは弘前の市街ではない。
鉄道操車場、軍用道路、車両集積地、砲兵陣地、飛行場だった。
低空から機関砲とロケット弾が入り、貨車と燃料車が燃えた。道路へ出ようとしていた車列は林へ逃げ込む前に撃たれ、少数しか残っていない野砲も牽引中に放棄された。
1波が去ると、別の編隊が来た。
さらにその後ろからYak戦闘機が上空を押さえた。
地上の兵には、灰緑色の地上攻撃機が本当に蠅のように次々と来るように見えた。
弘前周辺の部隊は、本格的な防御線を作る前に移動手段と通信を失った。兵そのものが全滅したわけではない。だが、砲を集め、弾薬を運び、まとまった部隊として海峡へ向かう能力は先に壊された。
しかも、残っている兵の質も揃っていない。長い戦争で熟練した下士官や技術兵は何度も前線へ抜かれ、急造部隊には十分な訓練を受けていない兵が多かった。分隊や小隊を実際に動かせる下士官が少なく、砲兵、通信、工兵、車両整備などの技能を持つ者はさらに限られる。
「この状態で青森へ増援を送れますか」
「歩兵だけなら歩かせられます。しかし、砲も車両もありません」
「では、着くころには何が残っています」
参謀は答えなかった。
日本人民軍側は、弘前周辺の部隊を丸ごと新軍へ編入しようとはしなかった。
武装解除のあと、まず経歴と技能を確認した。実戦経験のある下士官、通信兵、工兵、砲兵、衛生兵、鉄道・自動車・整備の技能を持つ者は日本人民軍へ再配置する。部隊の骨格になれる者だけを抜き出し、それ以外の兵は原則として復員させる方針にした。
「人数だけ集めても軍にはなりません」
日本人民軍の将校がソ連側顧問へ言った。
「分隊をまとめられる伍長や軍曹、無線機を扱える通信兵、砲を動かせる兵を先にください。ほとんど訓練を受けていない兵まで抱えれば、食料と宿舎だけ必要になります」
「残りはどうします」
「武器を返納させて解散です。必要なら後で改めて召集し、今度は訓練してから使います」
ソ連側も、その方が占領地の負担を減らせると判断した。
こうして弘前周辺では、帝国陸軍・帝国海軍の部隊番号そのものが消え、熟練者と技能者だけが日本人民軍の各部隊へ散っていった。
青森港と海岸陣地の一部は上陸阻止のため射撃を始めた。
しかし弘前から大きな増援は来なかった。
海峡を越える最初の船団は夜間に動いた。
日本側の沿岸砲が発砲し、輸送船の近くへ砲弾が落ちた。1隻が損傷した。
ソ連側も艦砲と航空機で発砲した陣地を叩いた。
先頭部隊が上陸すると、日本人民軍の将校が前へ出た。
「札幌と函館で使った条件を、そのまま説明します。武装解除後に全員を国外へ送ることはありません。鉄道、通信、医療、警備に残る者も必要です」
弘前側では、この説明を待つまでもなく、組織的な反撃が難しいことを多くの将校が理解していた。
撃つ部隊は残ったが、戦線にはならなかった。
赤軍にとって、日本語で降伏条件を説明する日本人部隊が一緒に海峡を渡った効果は大きかった。航空攻撃で軍事的な選択肢を失わせ、そのあとを日本人民軍が交渉で埋めていく形になった。
札幌で始まった日本人民軍は、ここで初めて北海道だけの警備組織ではなく、本州の帝国陸軍を崩していく政治的な力にもなった。
第十九章 台湾戦の終わり
1945年9月20日 台湾北部
台湾北部では、ソ連から流れていた帝国陸軍規格の弾薬が急に減った。
日本本土への侵攻が始まり、スターリンにとって台湾戦をさらに延ばす価値は下がった。
安藤利吉の司令部では、その変化がすぐ分かった。
「7月、8月に入ってきた出所不明の弾薬が、今月に入ってほとんど来なくなりました」
「日本本土の状況と時期が合いすぎますね」
安藤は地図を見たまま言った。
「誰が送っていたかは、もう想像がつきます。ただ、それを証明する仕事は戦後の人に任せましょう。こちらは、残っている兵をどこまで戦わせるかを考える必要があります」
米軍と中国軍は、新竹から桃園、台北方面へ圧力を強めた。
台湾の飛行場はほぼ継続的に攻撃され、日本側航空部隊がまとまって動くことは難しくなった。
海上からの補給も期待できない。
日本本土では、米軍とソ連軍が別々の方向から上陸した。
安藤は、部下と長い会議をした。
「本土から有効な命令は来ません。台湾だけ戦い続けることに、軍事的な意味は残っているでしょうか」
参謀長は答えた。
「米軍を拘束するという意味はあります。ただ、その米軍はすでに九州へ上陸しています。ここで何週間延ばしても、本土の状況を戻せるとは思えません」
「私も同じ考えです。中国側を含めて、降伏条件を確認しましょう」
台湾の帝国陸軍は、米第10軍と中国側代表へ降伏した。
高雄上陸から、すでに何か月もたった。
中国側は、降伏式に自国軍の部隊旗を並べた。
自分たちで海を渡り、帝国陸軍と戦い、台湾を奪還したという政治的な目的は達成された。
ただ、その間にソ連軍は北海道を越え、本州へ入った。
第二十章 九州の航空戦
1945年10月15日 南九州
九州では、米軍の橋頭堡が広がっても航空戦が終わらなかった。
飛行場では、焼けた航空燃料と湿った土の匂いが混じった。五式戦闘機や疾風が発進すると、地上員の会話はエンジン音に飲まれ、機体が滑走路の先へ消えたあとには排気の薄い煙だけが残った。海上では米艦隊の対空砲が連続して鳴り、空の一点に黒い破片雲がいくつも浮かんだ。
日本側は、特攻機だけでなく通常攻撃機も残していた。史実の決号作戦でも、本土決戦用に陸海軍の残存機を九州へ集中させる計画が進んでおり、この世界でも五式戦闘機、四式戦闘機「疾風」、海軍の紫電改、零式艦上戦闘機、彗星、天山といった機体が南九州周辺へ偏って残っていた。
飛行場から出れば米戦闘機に捕捉される可能性が高い。
そのため発進時刻をずらし、山陰に沿って低く飛び、米艦隊へ近づく。
米海軍はレーダーピケット艦を沖へ出した。
そこが最初に攻撃を受けた。
ある朝、串木野沖の外周警戒線で、駆逐艦のレーダーが低空の編隊を捉えた。
戦闘空中哨戒の機体が向かい、数機を落とす。
残った日本機は高度を下げ、海面すれすれから揚陸海面へ入ろうとした。
船団各艦の40mm、20mm機銃が一斉に火を噴いた。
1機が海へ落ち、もう1機は損傷したまま輸送船へ近づいた。
艦橋の手前に命中し、火災が起きた。
米軍は船を失いながらも、補給量では圧倒していた。
港がまだ使えない間は海岸へ直接揚陸し、道路が通ればトラックで前へ送る。
損傷した艦の代わりも来る。
日本側には、その代替がない。
海軍の小型特殊兵器も同じだ。
震洋は夜間に米艦艇へ接近できれば危険だが、一度発見されれば脆い。
回天や特殊潜航艇も、狭い上陸海面では米軍に警戒を強いたが、戦局全体を変えるほどの損害を継続して与えることはできなかった。
それでも米軍は、九州の海岸へ兵を送るたびに海からの脅威を無視できなかった。
第二十一章 鹿児島湾
1945年10月22日 鹿児島湾周辺
第6軍は、南九州の3つの橋頭堡を結ぶことを優先した。
串木野側からは薩摩半島を南へ回り、宮崎・有明側からは内陸へ進む。
目標の一つは、鹿児島湾を安全に使える状態にすることだ。
日本側は山地に陣地を作り、米軍の進路を谷と峠へ絞った。
ある師団司令部で、米軍参謀が地図を見ながら言った。
「昨日までの前進距離だけを見ると遅く感じますが、道路を1本取る意味が平地とは違います。砲兵と補給車列が通れる道を確保しないと、次の尾根を取っても維持できません」
師団長は同意した。
「急いで前へ出るより、後ろを切られない方が重要です。海軍の射撃が届く範囲では支援を最大限使い、その先は砲兵をきちんと前へ上げましょう」
米軍の艦砲射撃は、日本側にとって大きな脅威だ。
海岸近くの陣地は、観測されれば戦艦や巡洋艦の砲撃を受ける。
そのため日本側は、海から見えにくい斜面や山の裏側に陣地を移し、米軍が近づいてから射撃する戦い方を増やした。
戦闘は激しかった。
ただ、帝国陸軍には継続的な補給がない。
九州に集められた兵力は大きくても、燃料、弾薬、車両、通信機材には限界がある。
米軍は損害を出しながらも、少しずつ南九州を押さえていった。
第二十二章 東北本線
1945年9月18日 東北地方
本州へ渡ったソ連軍は、太平洋側と日本海側の両方へ兵力を広げた。
東北本線の駅には石炭煙がこもり、蒸気機関車の排気音と貨車を連結する金属音が夜中まで続いた。壊れた枕木には焦げた木の匂いが残り、仮復旧した橋を列車が渡ると、鉄骨が低く鳴った。兵員列車の窓から見える田畑はもう秋色で、前線の砲声が聞こえない区間では、戦争が遠のいたようにさえ見えた。
青森から南へ下るには鉄道が重要になる。
道路だけで数十万規模の軍を動かすのは難しい。
日本側が橋梁を破壊した区間では工兵が入り、線路が使える区間では日本人の鉄道員を戻した。
ある駅で、ソ連軍の輸送担当将校が日本人駅長と時刻表を見ていた。
「この区間は、何本まで通せますか」
「機関車の状態を考えると、昼夜合わせてこのくらいです。ただ、次の橋が仮復旧なので速度を落とす必要があります」
「戦車を載せた列車は?」
「重量制限を確認しないと危険です。貨車を分ければ通せると思います」
「Хорошо(ハラショー、よろしい)。では、工兵にも見てもらいましょう。無理に通して橋ごと落とすより、その方が早い」
こういうやり取りが各地で積み重なった。
村落協力も増えた。
ソ連軍が来る前に、日本人民軍の日本人将校が町へ入り、降伏条件や食料徴発の方法を説明することもあった。
「食料は必要量を記録して受け取ります。勝手に民家へ入って持ち出すことは認めません。違反があれば、この役場へ申し出てください」
村長は疑わしそうに聞いた。
「申し出たら、本当に処分されますか」
「少なくとも、こちらの日本人部隊からソ連側へ報告します。何も言わなければ、なかったことになります」
東北へ入ってからも、ソ連兵による暴力や略奪は起きた。
そのたびに政治将校や憲兵が呼ばれた。北海道で村人への重大な犯罪を犯した兵が公開処分されたことも、酒保の勘定をごまかした兵が48時間の歩哨勤務になったことも、部隊の中ではすでに知られていた。
軍紀違反を放置して住民を敵に回せば、道路案内も鉄道復旧も後方警備も難しくなる。
処分が実際に行われるという話は、住民の側にも広がっていた。
第二十二章補 地主の蔵
1945年9月20日 岩手県北部
北海道から東北へ入ると、ソ連軍が村で受ける反応は少し変わり、兵隊の数ではなく土地の話が出るようになった。
駅前の古い掲示板には、戦前から貼り替えられてきた紙の跡が何層も残っていた。村の老人は、かつてこのあたりには「娘を買います」と書かれた紙まで貼られていたとタチアナに話した。タチアナは掲示板を見直した。剥がし残された糊と紙の重なりだけでも、この土地で何が起きていたのかは十分に伝わった。
ある村では、日本人民軍の将校が食料の買い付けについて役場と話している途中で、小作農の老人が口を挟んだ。
「軍隊へ出す米の話なら、その前に地主の蔵を見てもらえませんか」
村長が止めようとしたが、老人は引かなかった。
「今年も小作料は取られます。うちには冬まで食う米が残りません。でも地主は村に住んでいません」
ソ連軍に同行していた情報将校のタチアナ大佐が、老人へ日本語で尋ねた。
タチアナは前線部隊の指揮官ではない。占領地で何が住民に伝わり、何が反発を生むのかを調べ、軍政と政治部へ報告する役目だった。
タチアナは、若くて美しいロシア人将校として村でもすぐ目についた。前線に出ているにもかかわらず、軍服も髪も崩れず、革帯や長靴まできちんと手入れされていた。
日本語はほとんど母語話者と変わらない。村人への説明も聴取も自分で行い、必要な決定だけを隣にいる政治将校へロシア語で説明した。
「地主はどこにいますか」
「仙台です。ここには代理人がいます」
「蔵には米がありますか」
「あります」
タチアナは立ち上がった。
「見に行きましょう」
地主本人は、もう村にいなかった。
大規模地主の家族は、ソ連軍が東北へ入るという知らせが広がると、現金や証書を持って東京へ逃げていた。残っているのは代理人と帳簿だけだった。
タチアナは、蔵の前に立つ代理人へ尋ねた。
「地主本人はどこですか」
「東京です」
「いつ戻りますか」
「分かりません」
タチアナは代理人の顔を見た。
「では、本人から事情を聞くこともできない。不在地主ですね」
代理人は帳簿を抱え直した。
「これは地主家の所有です。小作料として納められた米で、勝手に配ることはできません」
タチアナは帳簿を受け取り、日本語の数字を自分で追った。
「この村で、食べる米が足りない家は何戸ありますか」
村長が答えた。
「正確には調べ直しますが、かなりあります」
「では先に戸数を確認してください。土地の所有権を今日ここで決めるつもりはありません。正式な農地改革は行政ができてからです」
タチアナは続けた。
「しかし、本人は東京へ逃げ、村には来ない。その間も代理人だけが農民から米を取り上げる。しかも農民は冬まで食べられない。それは認めません」
「契約で決まっている小作料です」
「Нельзя(ニェリジャー、許されない)」
タチアナは短く言った。
タチアナは政治将校へロシア語で帳簿の数字と村の食料事情を説明した。政治将校は数項目を確認し、軍政命令として徴収停止と蔵の封印を決めた。
「今年の取り立ては止めます。蔵を封印し、米の量を数えます。村の食料を確保した残りについては、行政が決まるまで勝手に動かさないでください」
「そんな権限がどこにあるのです」
「いまこの地域を占領している軍にあります」
日本人民軍の将校が間へ入った。
「土地を今日から小作人のものにする、という話ではありません。餓死者が出るような取り立てを止め、食料を確保するという命令です。地主本人が不在ですから、代理人だけで従来どおり徴収を続けることも認めません。帳簿は残します」
代理人が蔵の鍵を渡さず抵抗すると、タチアナは憲兵を呼んだ。
男はその場で拘束された。
蔵は村長、日本人民軍、ソ連軍の3者立会いで開けられた。
中には米俵が積まれていた。
古い藁と米糠の匂いが暗い蔵の中にこもり、入口から入った光の中で埃が舞った。
役場の台帳を使い、家族人数と手持ち食料を確認して配給するよう命じた。
「土地はあとで決めます。今は冬まで生きてもらいます」
村の空気が変わった。
◇ ◇ ◇
同じような話は、南へ進むほど何度も出てきた。
ソ連軍の政治部は、東北で何を先に行い、何を後へ回すかをかなり明確に分けていた。
その運用を現場で調整するのも、タチアナの仕事の一つだった。日本人とは日本語で話し、決定権を持つ政治将校にはロシア語で事情を整理して伝えた。
「集団農場を今つくるのですか」
日本人民軍の将校が尋ねると、タチアナは首を振った。
「今ではありません。収穫を止めてどうするのです」
「では地主だけを処分する」
「それも違います。自分で田へ入って耕している農民まで敵にする必要はない。先に見るのは、大きな土地を持ったまま東京へ逃げた者と、農民が食べられなくなるほど取り立てる者です」
タチアナは机の上の報告書を指で叩いた。
「東京へ逃げた不在地主のために、ここから米を運び出す必要はありません」
土地制度を一度に作り替えるのではなく、農村で反発を生みやすい部分を先に切り離す。
正式な農地改革も、農地台帳の整理も、その後だった。
大規模地主ほど先に東京へ逃げた。
その結果、ソ連軍が村へ入った時点では、最も大きな地主ほど本人が現地にいない。政治将校が話を聞こうとしても、いるのは番頭や代理人だけだった。
そういう村では、まず帳簿と蔵を調べた。
小作農が食べていける範囲を超えて米を取り上げていると判断すれば、その年の徴収を止める。
すでに集めた米は封印し、村の食料へ回す。
地主本人が不在なら、代理人の徴収権を停止する。
暴力を使って取り立てを続けたり、米を隠して持ち出そうとした者は拘束した。
ここでは、まだ土地そのものを分配しない。
農地台帳も所有権の整理も、地方行政も十分にできていない。
それでも「東京へ逃げた地主のために、現地で耕している農民を餓えさせない」という線だけは、軍政の段階で先に引かれた。
政治将校の一人は、集まった小作農へロシア語で言った。
「Земля — крестьянам(ゼムリャー・クリスチャーナム、土地は農民へ)」
タチアナは日本語で補った。
「土地をどうするかは、これから政府が決めます。ただ、耕している人が食べられない仕組みを、そのまま残すつもりはありません」
北海道では、占領軍が鉄道や港を動かし、捕虜をシベリアへ送らないことが住民の態度を変えた。
東北では、それに土地と小作料の問題が加わった。
地主家の代理人や、東京へ逃げた地主の親族には、次は土地そのものを失うのではないかという恐れが広がった。
一方、自分の土地を自分で耕している農民への扱いは、村人が想像していたものと少し違った。
別の村では、タチアナが田を見て、村長へ日本語で収量を尋ねた。
「この田は誰が耕していますか」
「この家です。自作農です」
タチアナは本人の手と服を見た。指には土が入り、脚絆にも泥が付いている。
「自分で耕しているのですね」
農民はうなずいた。
「はい」
「収量は」
数字を聞くと、タチアナはにっこりした。
「Очень хорошо(オーチン・ハラショー、とても良い)」
農民はロシア語を理解できず、きょとんとした。
タチアナは日本語に戻した。
「とても良い、という意味です。家族が食べる分を残し、決められた供出分を出してください。来年も多く作ってください」
何を怒られるのかと思っていた農民は、しばらく返事ができなかった。
不在地主と、実際に田へ入って耕す自作農は、同じ「土地を持つ者」でも扱いが違った。
ノルマを課す社会だからこそ、安定して多く収穫する農民はむしろ歓迎された。
食べる米まで取られていた小作農には、ソ連軍と日本人民軍の到来がまったく別の意味を持った。
道を教える者が増えた。
橋の状態を知らせる者が増えた。
帝国陸軍・帝国海軍の隠した倉庫や燃料の場所まで、村人の方から話す例が出た。
ソ連軍は、砲兵と戦車だけで南へ進んでいるのではなかった。
◇ ◇ ◇
軍隊が南へ進むより先に、話の方が進んだ。
鉄道員、行商人、避難してきた家族、復員を許された兵、役場へ出入りする者。誰かが隣村へ行けば、そこで聞いた話を持っていく。
「地主の蔵を開けたらしい」
「小作料を止めたそうだ」
「自分で耕している家の田は取られなかった」
「むしろ、たくさん取れていると褒められたらしい」
「捕虜になってもシベリアへ送られず、鉄道の仕事へ戻った者がいる」
その話は、師団命令より速く広がった。
帝国陸軍の将校には、それが赤化工作であることは分かった。だが、宣伝文句だけを配っているのではない。小作料が実際に止まり、蔵が実際に開き、復員した兵が実際に村へ戻っている。否定しようとしても、村人自身が見た出来事が次の村へ伝わっていった。
電話線が切れていても、軍用無線がなくても、人は歩く。貨物列車が1本動けば、駅員が話を持っていく。村から兵営へ米を運ぶ荷車にも話が乗った。
弘前周辺の兵営でも、兵はその噂を聞いた。
東北の部隊には農家出身者が多い。
赤紙で召集された者もいれば、若いうちに志願して軍へ入った者もいる。志願兵の中では、農家の次男以下が大きな割合を占めた。継ぐ田畑がなく、軍隊の給料と食事を生活の道として選んだ者たちだ。
そういう兵にとって、「不在地主の小作料を止めた」「自分で耕す農民には田をそのまま耕させている」という話は、政治宣伝としてではなく、自分の家の話として聞こえた。
「うちも小作だ」
兵舎で誰かが言った。
「親父と兄貴だけで田をやっている。地主は盛岡に住んでる」
「うちは弟まで軍に取られた。母親だけ残ってる」
「本当に米を残してくれるなら、何のためにこっちで撃つんだ」
下士官が注意しても、話は止まらなかった。
しかも、熟練した下士官そのものが少ない。
古参兵や技能を持つ者は南方や九州へ抜かれ、残っているのは短い訓練しか受けていない召集兵が多い。部隊として動かす骨格が弱いところへ、家族の暮らしに直接触れる噂が入った。
命令が届けば整列はする。
小銃も持つ。
しかし、ソ連軍と日本人民軍が近づいたというだけで、死ぬまで戦おうとする空気は薄くなった。
兵の中には、敵が来る前から自分の村のことを考え始める者が出た。
「武器を置けば帰れるのか」
「鉄道や工兵の経験があれば人民軍へ回されるらしい」
「何もできなければ復員だそうだ」
噂には間違いも混じった。
それでも、「戦えば死ぬ。武器を置けば家へ戻れるかもしれない」という部分だけは、何度も繰り返された。
ソ連軍が実際に来るころには、戦意を崩す仕事の一部を、すでに噂が終えていた。
第二十三章 仙台
1945年9月25日 仙台周辺
仙台周辺では、帝国陸軍のまとまった抵抗が起きた。
仙台郊外では秋の乾いた空気の中に砲煙が漂い、落葉した林の向こうから重砲の音が響いた。砲弾が着弾すると土の匂いが強く立ち、しばらくしてから細かな土砂が屋根や道路へぱらぱらと落ちた。市街から外れればまだ家々の炊煙が見え、それが戦場の煙と同じ空へ混じった。
本土決戦用に集められた部隊の一部が、ソ連軍の南下を止めようとした。
市街地そのものを戦場にすることを避け、郊外の高地と河川沿いに陣地を作る。
ソ連軍は砲兵を集めた。
ドイツ戦を経験した砲兵部隊は、観測と火力集中の手順が日本側より整っていた。
最初の砲撃で全部を壊せるわけではない。
しかし、陣地の位置が分かれば、砲撃と歩兵、戦車を組み合わせて圧力をかけられる。
帝国陸軍側の師団長は、参謀へ言った。史実でも本土決戦では決号作戦に基づき九州方面への兵力集中が進められている。この世界では台湾戦実施の分だけ、その偏りがさらに強い。
「ここで全員が倒れるまで戦っても、仙台を守ったことにはならないでしょう。撤退路を残しながら抵抗する方がよいと思います」
「南へ下がりますか」
「まだ使える鉄道と道路を確認してください。負傷者を先に動かしましょう。戦闘部隊は、そのあと順次下げます」
このような判断をする部隊が増えた。
米英を「鬼畜」とまで呼び、捕虜になることも避けるよう求めてきた戦時宣伝は強く残っていた。しかし、その敵像はソ連に同じ形では当てはまらなかった。しかも、ソ連軍へ降伏した部隊が日本国内に残され、負傷者も治療されているという情報が広がるにつれ、北から来る軍への抵抗を続ける理由は地域ごとに急速に弱くなった。
仙台の戦闘は数日続いたが、帝国陸軍は包囲される前に南へ退いた。
その一部が、そのまま日本人民軍へ組み込まれていく。
第二十四章 東京ではなく松代へ
1945年10月5日 関東・甲信越
ソ連軍の太平洋側部隊が関東へ近づくと、東京の軍事的価値より、政府中枢が移っている松代の方が重要になる。
東京は空襲で大きく傷んでいた。
政府機関の一部は残っているが、最終的な国家意思を決める中枢は松代に集まりつつあった。
スターリンは、日本の天皇と政府首脳を確保できれば、東日本の政治的な再編が進めやすいと考えた。
ソ連側は関東への圧力を続けながら、新潟方面から長野へ向かう経路も重視した。
日本海側では、新潟港をめぐる戦闘が起きた。
ソ連海軍は沿岸から支援し、航空隊が飛行場と鉄道を攻撃する。
日本側は港湾施設を破壊し、港をすぐ使わせないようにした。
それでも港が取られると、ソ連軍は日本海側の補給拠点を得た。
そこから長野方面へ入る部隊が増えた。
第二十四章補 海軍大将井上成美は東京を無血開城します
1945年10月1日~8日 北関東・東京
ソ連軍が東北から関東平野へ出たとき、東京北方には大都市圏を守るだけのまとまった野戦軍が残っていなかった。
九州には米軍上陸を待つ兵力と火砲が集められ、松代には皇室、政府、大本営を守る兵力が寄せられている。北関東は人口、鉄道、工場、倉庫の規模に比べ、正面戦闘を続けられる部隊が薄かった。
しかも、軍隊より先に噂が南へ来た。
群馬の織物工場では、夜勤明けの女工が東北から来た貨車の鉄道員に話を聞いた。
常磐の炭鉱では、坑口の詰所と共同浴場で同じ話が繰り返された。
「鉄道員はそのまま働かされている」
「捕虜船でシベリアへ送られていない」
「工場は壊すより動かすと言っている」
「東北では地主の蔵を封印した」
ソ連軍と日本人民軍が実際に到着したとき、駅員、鉱山技師、工場の職長はすでに、何を聞けばよいかを知っていた。
タチアナ大佐の小さな部隊は、駅、鉱山、工場を回った。
「坑道を水没させないでください。ポンプを止めないでください」
「工場の機械を壊さないでください」
「経営者が逃げても、職長と技師が残っているなら、軍政側と相談して動かします」
所有権の最終判断は後へ送った。
先に、石炭、鉄道、電気、機械を止めない。
協力する後方地域が増えるほど、治安維持に残すソ連兵を減らせる。その兵を前へ送れる。
北関東には短期間でソ連軍と日本人民軍を合わせて約10万人規模の地上兵力が集まり、Il-2を中心とする地上攻撃航空部隊も前進基地へ入った。
東京の外側には大軍がいる。
東京の内側には、空襲で疲れた住民と、まとまった反撃兵力を欠いた行政都市がある。
その状況で先に動いたのが、海軍大将井上成美だった。
井上は帝国海軍の軍人として名前が通り、東京側の軍人にも官僚にも話を通せる立場にいた。外に約10万人規模のソ連軍と日本人民軍が集まり、上空にはIl-2を中心とする地上攻撃航空部隊がいる。東京側には、それを押し返せるだけのまとまった野戦兵力がない。
それでも市街戦を始めれば、東京そのものは壊せる。
水道、鉄道、病院、官庁、発電設備、通信施設、そして横須賀の工廠まで戦場に巻き込まれる。守るために戦って、守る対象を失うことになる。
井上は東京側の軍人と官僚を集めた。
「東京を守る、という言い方は簡単です。しかし市街戦にすれば、東京そのものを壊します」
会議室では、すぐに反論する者はいなかった。
「江戸を焼かずに明け渡した勝海舟の話を、いまさら芝居にするつもりはありません。ただ、結果として同じことを求めています。東京を戦場にしないことです」
井上が前へ出たことで、東京側の交渉窓口が初めて一つにまとまった。
ソ連側との会談にはタチアナも入った。
井上が尋ねた。
「武装解除を受け入れれば、東京市街への攻撃を止めますか」
政治将校が答え、タチアナが日本語にした。
「抵抗する部隊とは戦います。沿岸砲台が上陸部隊を撃てば、艦砲射撃もします。飛行場、砲兵陣地、司令部、鉄道の軍事輸送も攻撃します。しかし、住民のいる東京を四発重爆撃機で一面に焼けという命令は受けていません」
井上は聞いた。
「航空攻撃は続く」
「軍事目標には続きます。こちらの主力はIl-2です。戦車、砲兵、車列、陣地を叩いて地上軍の前を開ける飛行機です。ドイツで鹵獲して赤い星を描いたJu 87、シュトゥーカも少数ですが使っています。米軍とは違いますよ」
それは慈善の申し出ではなかった。軍事施設が使われれば攻撃し、抵抗する部隊には砲兵も地上攻撃機も使う。その一方、市街地を広く焼けば道路、鉄道、電力、水道まで失われ、占領後の進軍と統治が難しくなる。ソ連軍にとっても、東京をできるだけ動く都市のまま手に入れる方が都合がよかった。
東京側には、3月の焼夷弾攻撃を経験した者が多い。
比較する必要もなく、意味は伝わった。
交渉は長引かなかった。
東京の帝国陸軍部隊は指定場所で武装解除し、帝国海軍施設も抵抗をやめる。警察、消防、水道、電力、鉄道、病院は勤務を継続する。横須賀では艦艇と工廠設備を破壊しない。
東京は無血で開いた。
住民の多くは、それを「戦争が完全に終わった」とまでは受け取らなかった。
松代にはまだ天皇、政府、大本営が残っている。
ただ、「これで体制が変わる」と感じた者は多かった。
東京が開いた翌日から、官庁の机には別の印章が置かれ、日本人民軍の腕章を付けた兵が駅を警備し、ソ連軍政の車が霞ヶ関へ入った。
この時点で日本国内は、東京を中心に占領を受け入れて行政を再開する東京派と、松代の政府・大本営を中心に継戦の形を残す松代派へ実質的に分裂した。
井上はその直後から、帝国陸海軍の高級将校の査定にも関わった。
対象は佐官以上で、現在の継戦派かどうかだけを見るわけではない。
開戦後にどんな命令を出したか、撤退できる状況で部下を無意味に残さなかったか、面子のために兵を使い潰さなかったかを記録で見る。
「有能な敵より、無能な味方の方が怖い」
井上はそう言った。
なお武力継続を主張し、東京で部隊を勝手に動かそうとする高級将校には、井上は静かに伝えた。
「それほど確信がおありなら、あちらで主張してください」
「あちらとは」
「モスクワです。スターリン同志に直接説明していただきます」
東京を占領したことよりも、東京を焼かずに行政と交通を動かし始めたことが、その後のソ連軍の進撃を速くした。
東海道側では愛知の軍需産業と航空機産業を確保するため、西への大きな移動が始まった。
日本海側では、新潟から先を陸路だけで押し通さず、海上輸送を使う準備が進んだ。
松代がまだ残っている間に、東京の外では戦後の占領線を先に作る競争が始まっていた。
第二十五章 米軍は本州へ向かう
1945年10月25日 南九州・米第6軍司令部
南九州の主要な橋頭堡を確保した米軍は、次の作戦を急いだ。
当初のDOWNFALLでは、九州を基地にしたあと関東平野へCORONETを行う予定だった。
しかし、この時点ではソ連軍がすでに東北から関東へ近づいていた。
関東へ正面から競争するより、米軍は西日本の主要地域を先に確保する必要があった。
マッカーサーと海軍側の作戦会議では、大阪湾と紀伊水道への上陸案が検討された。
「九州から陸路だけで本州を東へ進むと時間がかかります。瀬戸内海と紀伊水道を使い、海軍の機動力を生かした方が早いでしょう」
海軍側の説明に、陸軍参謀も同意した。
「台湾戦を終えた第10軍から、使える部隊をこちらへ回せます。第6軍は九州を押さえ、第10軍を西日本本州の上陸に使う方法があります」
「上陸地点は?」
「紀伊半島西側と大阪湾周辺を組み合わせれば、京都、大阪、神戸へ短い距離で入れます。ただし紀伊水道には機雷と沿岸砲が残っている可能性が高いです」
海軍にとっては、もう一度大規模な上陸作戦をやることになる。
掃海艇、駆逐艦、巡洋艦、戦艦、空母、輸送船、上陸用舟艇。
台湾と九州で消耗した艦艇の一部は修理に回り、別の艦が補充された。
米軍は、ソ連軍より海上輸送力が圧倒的に大きい。
その差を使わなければ、東日本の境界線はさらに西へ来ると考えられた。
第二十五章補 瀬戸内海
1945年10月30日 瀬戸内海
南九州の戦線を第6軍が引き受ける一方、米海軍は西日本へ入る海路を広げていった。
瀬戸内海には機雷が残り、呉周辺には日本海軍の施設と残存艦艇がある。
大型艦の多くは、すでに空襲で大きな損害を受けていた。
燃料事情を考えても、まとまった艦隊を作って米機動部隊と戦うことは難しい。
それでも、港にある艦の高角砲や機銃は対空火器として使える。
陸上砲台も残っていた。
米軍は、瀬戸内海を安全な輸送路として使う前に、呉と下関海峡の両方を抑える必要があった。
◇ ◇ ◇
呉への航空攻撃は、上陸作戦の前から続いた。
空母機が港内の艦艇と軍需施設を狙い、日本側の高射砲が応射する。
動けない艦でも、砲が使える限りは攻撃してくる。
米軍機は低空へ降りすぎず、爆弾とロケット弾を使って港湾施設を叩いた。
日本側戦闘機も少数ながら上がった。
空戦そのものは短かった。
米軍機の数が多く、日本側は損失を補えない。
それでも、港を完全に無抵抗にするには何度も攻撃が必要になる。
海上では掃海が続いた。
瀬戸内海には日本海軍が敷設した防御機雷だけでなく、米軍がB-29による飢餓作戦で投下した感応機雷も大量に残っている。米軍は、自分たちが敷設した機雷原まで掃海しながら進む。
掃海艇は低速で航路を作り、その後ろを輸送船が通る。
日本側の沿岸砲が届く海域では、駆逐艦が沿岸砲の位置を探した。
航路が開くにつれ、米軍の補給船は南九州だけでなく、西日本の港へ直接入れるようになる。
◇ ◇ ◇
下関海峡では、日本側が最後まで交通の遮断を試みた。
橋そのものより、海峡を通る船を止めることが重要だ。
沿岸の砲台と機雷、小型艇が米軍の進入を妨げる。
米軍は海峡を正面から急いで突破せず、九州側と本州側の陸上拠点を先に押さえた。
砲台を陸から取れば、海上輸送は急に楽になる。
日本側守備隊の一部は抵抗し、一部は降伏した。
降伏した守備隊は武装解除され、将兵は捕虜として収容された。
米軍が瀬戸内海の西側を使えるようになると、九州から大阪方面へ物資を送る距離は大きく短くなった。
海軍力の差が、陸軍の進撃速度へそのまま現れた。
第二十五章補二 空から見た2つの前線
1945年11月2日 西日本上空
米軍航空隊の偵察写真には、西日本の交通線だけでなく、東から近づくソ連軍の位置も写り始めた。
名古屋方面の鉄道駅には、見慣れない車両が集まった。
そこにはソ連製戦車とソ連軍のトラックが並び、その周囲には帝国陸軍から引き継いだ旧式車両も混じっていた。日本人民軍が同じ交通線を使っていることも、写真から分かった。
米側の情報将校は写真を見ながら、進撃線を地図に落とした。
「ソ連軍だけなら、補給の限界でもう少し遅くなると思っていました」
「日本人の鉄道員と帝国陸軍出身者を再編した部隊を使っている影響が大きいようです。後方警備を日本人民軍へ渡せるので、前線へ出せる赤軍部隊が減りません」
米側の情報将校は、東側の進撃速度の理由を地図へ書き込んだ。
西日本では、降伏した帝国陸軍・帝国海軍の将兵は武装解除され、捕虜収容所へ送られている。
軍事境界がそのまま政治境界になる可能性だけが、地図の上で急速に大きくなっていた。
第二十六章 紀伊水道
1945年11月4日 紀伊水道
米海軍の先行部隊が紀伊水道へ近づいたとき、日本側も意図を読んでいた。
11月初旬の紀伊水道は風が冷たく、灰青色の海には短い波が立った。掃海艇の甲板では索具と金具が絶えず鳴り、潮と機械油の匂いが混じった。遠くの友ヶ島は低い影にしか見えなかったが、沿岸砲が発砲すると山肌の一点が光り、数秒後に砲声が海上へ届いた。
紀淡海峡と友ヶ島周辺には沿岸砲台があり、機雷の可能性もあった。紀伊半島西岸の飛行場と小型艇基地には、まだ使える航空機や特攻艇が残っていた。
米軍は、上陸部隊を入れる前に海峡そのものを安全にしなければならなかった。
空母機が紀淡海峡周辺の砲台と飛行場を攻撃し、掃海艇が水路を開く。
海岸から砲撃を受ければ、駆逐艦と巡洋艦が応射する。
友ヶ島付近では、日本側の砲弾が掃海艇の近くへ落ち、作業が何度も中断した。
夜間には小型艇が出た。
紀伊水道は広い太平洋ではない。
狭い海域で、米軍は岸からの攻撃と小型艇の接近を同時に警戒する必要があった。
和歌山側の海岸へ第10軍の先遣部隊が上陸すると、帝国陸軍は市街地の手前で抵抗した。
海岸に近い場所では米海軍の艦砲射撃が使える。
しかし内陸へ進めば、紀ノ川沿いの道路と橋が重要になる。
日本側は橋を落とし、山側の道路を使って後退した。
米軍工兵は、また橋を架ける。
台湾でも九州でも繰り返してきた仕事だ。
◇ ◇ ◇
大阪湾側では、別の船団が神戸・大阪方面へ圧力をかけた。
日本海軍の大艦はほとんど残っていない。
それでも、港湾防御、機雷、特殊潜航艇、小型艇、陸上航空機は無視できなかった。
米軍は海から火力を入れ、航空機で鉄道と飛行場を抑え、陸軍が港を取る。
日本側の抵抗は地域ごとに差があった。
最後まで戦う部隊もあれば、中央政府の命令が不明確なまま独自に停戦交渉へ入る部隊もある。
降伏した帝国陸軍・帝国海軍の将兵は武装解除され、捕虜収容所へ送られた。
第二十六章補 大阪湾の空
1945年11月5日 大阪湾
紀伊水道から大阪湾へ入る米艦隊に対して、日本側は残った航空機をもう一度まとめた。
九州の決号作戦ほどの数はない。
それでも本州の飛行場には、まだ飛べる機体が残っていた。
米空母機は早朝から和泉、阪神方面の飛行場を攻撃し、滑走路と格納庫を叩いた。
陸上からはP-47やP-51も支援に入る。
空では米軍の数が圧倒的だ。
日本側はまとまった編隊を作るより、少数機で海上へ出た。
大阪湾の入り口で、米戦闘機がそれを捕捉した。
数機が撃墜され、残りは海面近くまで下がる。
湾内へ入った1機が巡洋艦へ向かったが、対空砲火を受けて手前で海へ落ちた。
別の機体は輸送船へ突入し、甲板に火災を起こした。
海上では、掃海艇が機雷を処理しながら進んだ。
空襲警報が出ても、作業を全部止めるわけにはいかない。
海軍の仕事は、上陸部隊が海岸へ着く前から続いた。
◇ ◇ ◇
神戸港では、日本側がクレーンや埠頭の一部を破壊した。
米軍は港を取っても、すぐに大型輸送船を横付けできなかった。
そこで上陸用舟艇を使い、小型船で物資を運び、使える岸壁から順番に復旧する。
海兵隊と陸軍の部隊は港湾地区を確保したあと、六甲山地の南側を東へ進んだ。
大阪側では、河川と運河が前進を遅らせた。
日本側が橋を落とすたび、工兵が仮橋を架ける。
市街地では住民避難も問題になる。
米軍自身が住民へ安全を呼びかけても、簡単には信用されない。米陸軍航空軍のカーチス・ルメイ少将が進めたB-29による都市への焼夷弾攻撃を日本の住民はすでに経験しており、日本側も長く「鬼畜米英」と宣伝してきたからだ。
住民との連絡や避難誘導には、自治体職員、警察、消防、鉄道員が使われた。武装した帝国陸軍・帝国海軍の将兵は別で、降伏すれば武装解除され、捕虜収容所へ送られた。
戦闘が終わった地域で先に戻されたのは、配給、消防、鉄道、病院、役所といった生活を動かす機能だった。
正規軍の指揮系統とは別に、元兵士や地域住民が小さな抵抗組織を作る例はあったが、統一された日本人部隊ではない。
第二十七章 京都
1945年11月8日 京都
京都では、高松宮宣仁親王を中心に皇室の継続を図る動きが始まった。
11月の京都は朝夕の冷え込みが強く、会議室へ入る者の外套には外気の冷たさが残った。遠くで寺の鐘が鳴り、障子越しの冬の光は白かった。戦場から少し離れただけで、砲声ではなく鐘の音が聞こえることが、かえって国が割れつつある現実を際立たせた。
昭和天皇は松代にあり、皇太子明仁親王も東側の地域に取り残された。
西側政府の官僚は、皇位継承をどう扱うかで苦しんだ。
高松宮は説明を聞き終えてから、静かに言った。
「兄上が生きておられる以上、私が即位するという話は簡単には受け入れられません」
官僚は頭を下げた。
「もちろん、通常の継承ではありません。西側政府としては、天皇が自由な意思で国務を行えない状態にある以上、国家機能を維持するための非常措置が必要だと考えています」
「皇太子もいるでしょう」
「日光から移動したあと、現在はソ連側の管理地域にあります。こちらから自由に連絡できません」
「だから私ですか」
「はい。法律上も政治上も無理のある措置なのは承知しています。ただ、東側が天皇制を廃止する方向で動いていますので、西側が制度を残すなら決断を先送りできません」
高松宮はすぐに答えなかった。
「兄上を廃位したと宣言するつもりはありませんね」
「その形は避けます。西側政府は、自由な国務行為ができない状態として整理する方針です」
「言葉だけで解決する問題ではありません」
「承知しています」
即位の決定は、その日のうちには出なかった。
しかし、京都を中心とする西側国家が皇室を残す方向は固まった。
第二十七章補 近江
1945年11月10日 滋賀・米原方面
京都が西側政府の中心として動き始めると、米軍は東海道と中山道の両方を意識して滋賀へ進んだ。
琵琶湖の周囲には道路と鉄道が集まり、東へ抜ければ関ヶ原に通じる。
帝国陸軍の残存部隊は湖岸の交通線を使いながら後退し、降伏を選んだ部隊はその場で武装解除された。将兵は米軍の管理する捕虜収容所へ送られた。
米軍は航空偵察で列車と車両の動きを追い、橋梁や集積地を攻撃した。湖上の船まで戦争に使えるものは限られていたが、港や倉庫は補給拠点として価値がある。
駅と橋の警備には米軍憲兵と後方部隊が入った。
しかし列車そのものを動かすのは日本人の鉄道員だった。駅員、機関士、保線工は米軍の監督下で仕事を続け、自治体職員、警察、消防は住民の避難、配給、火災、道路の整理に当たった。
ときおり、帝国陸軍の指揮系統から外れた元兵士や地域住民が、小さな抵抗組織を作ることもあった。武器も人数もばらばらで、米軍から見ればパルチザンに近かった。
◇ ◇ ◇
米軍の先頭部隊が米原へ近づくころ、東からは日本人民軍とソ連軍が岐阜へ入った。
関ヶ原までの距離は短い。
米軍側でも、ソ連軍と偶発的に交戦しないための連絡が急務になる。
双方の司令部は前線位置を毎日交換した。
地図上では数十kmの余裕があっても、偵察部隊はそれより先へ出る。
航空機ならさらに短時間で越える。
米軍機は揖斐川より東へ深く入らないよう飛行区域を調整し、ソ連航空隊も米軍部隊の上空へ不用意に入らないよう指示を受けた。
日本国内で米ソ両軍が向かい合う状況は、こうして関ヶ原の戦闘が始まる前から形になった。
第二十八章 松代の孤立
1945年10月下旬 長野・松代
東京が無血で開いても、松代には天皇、政府、大本営が残った。
それだけを見れば、従来の日本国家の中枢はこちらにある。
しかし地図を広げると、松代は急速に孤立していた。
東京から西へ向かったソ連軍と日本人民軍は東海道側の交通を押さえ、日本海側でも港を使った進出が始まっている。西側から松代へ地上部隊を送ろうとすれば、どの主要な陸路もソ連占領地域を横切らなければならない。
西側が松代へ直接届かせられる大きな力は、航空機だけになった。
松代には二種類の空襲が来た。
ソ連軍のIl-2は低く入った。
発電施設、変電設備、浄水設備、揚水施設、鉄道の軍用側線、弾薬集積所、車両置場、通信施設を見つけると、機関砲、ロケット弾、小型爆弾を集中した。
都市全体を一度に焼くより、松代派が戦争を続けるために必要な機能を一つずつ止める。
上空の高いところから来るのはB-29だった。
米軍は台湾戦と西日本への作戦で忙しいが、余裕の出た爆撃隊が松代へ回ることがある。市街地だから爆撃を避けるという段階ではない。2000ポンド爆弾を積んだ機体が、地下施設の出入口、軍需施設、鉄道だけでなく、その周囲の市街と集落をまとめて爆撃していった。
大型爆弾が落ちるたび、土が深くえぐれた。
雨が降ると、その穴へ水がたまった。
松代周辺の畑と集落の外れには、丸い水面がいくつもできた。遠くから見ると小さなため池が増えたように見える。しかし、縁には砕けた瓦、材木、土壁の欠片が混じっている。
タチアナ大佐は偵察写真を見て、鉛筆で丸を付けた。
「また増えています」
政治将校が聞いた。
「水たまりか」
「2000ポンド爆弾の穴です。集落の周りが丸いため池だらけになっています」
電力は何度も落ち、浄水設備も止まった。修理すれば、またIl-2が来た。
B-29は来る日もあれば来ない日もある。来た日は地面そのものが変わった。
地下宮城と大本営の中では、継戦派がなお命令を出そうとした。
だが、外へ出す命令を運ぶ鉄道と通信が細り、その命令を受けて動く部隊も減っている。
東京では官庁が別の体制で動き始めた。
東北と関東の帝国陸軍部隊は次々に武装解除された。
西では米軍が大阪・京都方面を押さえつつある。
松代派は、国を動かす政府というより、巨大な地下施設に残った政治・軍事の島へ近づいていった。
天皇は周囲の報告を聞きながら、何度も同じことを確かめた。
「東京は戦場にならなかったのですね」
「はい」
「西でも京都は残るのですね」
「米軍との交渉が進んでいます」
「それなら、松代のために日本国内の戦闘を続ける理由はありません」
この言葉が、数日後の降伏につながることになる。
第二十九章 井上成美と日本人民軍海軍
1945年10月中旬 横須賀・東京
東京無血開城の直後、井上成美が見ることになったのは、陸上の日本人民軍だけではなかった。
横須賀には帝国海軍の人間、工廠、ドック、通信施設、倉庫、それに終戦まで残った艦艇がある。
呉、舞鶴、長崎は西側へ入る。
東側が海軍を作るなら、横須賀と大湊を核にするしかない。
この世界の横須賀は、史実の1945年7月18日とは違う姿で残っていた。
史実では、米海軍機動部隊が1945年7月18日に横須賀を空襲し、戦艦「長門」は500ポンド爆弾の直撃を受け、艦長の大塚幹少将らが戦死した。米海軍歴史遺産司令部の『H-053-1: The End of the Imperial Japanese Navy』にも、その攻撃と艦橋付近の被害が記録されている。
この世界では、その時期の米機動部隊は台湾戦とその周辺作戦へ使われている。
7月18日の横須賀空襲は起きない。
したがって長門は、艦橋へ直撃を受けていない。大塚艦長も生きている。
燃料不足で自由に動ける戦艦ではないが、船体、主砲、機関、乗員、工廠がそろえば、修理・整備して使う価値はある。
史実では長門は戦後、米国側に接収され、1946年のOperation Crossroadsでビキニ環礁の原爆実験標的艦になった。1946年5月13日付の米海軍の標的艦配置図にもNAGATOの名がある。
この世界では横須賀を先に押さえたのはソ連軍と日本人民軍だった。
長門はビキニへ行かず、潜水艦の扱いも史実とは変わった。
史実では米海軍は1945年8月27日、I-400とI-14へ拿捕班を送り、両艦を接収した。米海軍歴史遺産司令部の『Souvenir Cards for Japanese Surrender』には、その日付と2隻の接収が残っている。
この世界では、米軍が日本全体の降伏処理を独占できない。
I-400系列をすべて米軍が持っていくことはできなかった。
横須賀で日本人民軍側が確保した大型潜水艦は、帝国海軍の潜水艦乗員と整備員を残し、ソ連海軍の専門家も加えて状態を調べることになった。
1947年4月25日に第二復員局がまとめた『JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR』には、終戦時の残存艦艇、建造中艦艇、小艦艇まで広く記録されている。この世界で横須賀と大湊から日本人民軍海軍が引き継ぐ艦艇を考える基準も、その一覧に置かれる。
井上は、長門だけを見て海軍を作ろうとはしなかった。
「戦艦が1隻あっても、掃海艇がなければ港から出られません。燃料船がなくても動けない。潜水艦があっても整備工場と電池がなければ置物です」
横須賀で最初に整理したのは、小型艦艇、掃海艇、輸送艇、工作設備、倉庫、燃料設備、人員だった。
長門は象徴になり、大型潜水艦は研究にも訓練にも使える。しかし日常の海軍を動かすのは、港を掃海し、人と物を運び、沿岸を警備し、壊れた艦を直す部隊だった。
大湊に残る艦艇と人員も登録された。
帝国海軍の軍服を着ていた者は、全員をそのまま新海軍へ入れたわけではない。航海、機関、通信、砲術、電気、造船、整備などの技能を持つ者を優先し、残る者は復員させる。
軍服が足りない間は、帝国海軍の被服を使い、階級章と所属章だけを交換した。
井上は日本人民軍全体の軍事責任者となり、海軍部門もその下へ置いた。
「陸軍だけあって海軍がない国にする必要はありません。海に囲まれていますからね」
ソ連側顧問が聞いた。
「長門を旗艦にするのか」
井上は少し笑った。
「動けるようになってから考えましょう。まず港を掃除します」
西側の呉には、この世界では沖縄への海上特攻が行われなかったため、大和と矢矧も史実とは違う最期を迎えていた。台湾には沖縄のような浅い珊瑚礁へ乗り上げて砲台化する条件がなく、同じ作戦は採られなかった。呉周辺で空襲を受け、港内で着底した大型艦は西側の手に残る。
東西の海軍は、最初から違う遺産を受け継ぐことになった。
第三十章 愛知の工場
1945年10月下旬 名古屋・豊川・岐阜方面
東京が無血で開くと、東海道側の進撃速度が変わった。
ソ連軍にとって目的は、ただ西へ線を伸ばすことではない。
愛知には欲しいものが多すぎた。
航空機工場、発動機工場、工作機械、車両工場、それに豊川の海軍工廠をはじめとする軍需施設がある。
焼けていても、設備と人が残っていれば使える。
名古屋の工場地帯には、空襲で焼けた建物の煤と機械油の匂いが残った。割れた窓から秋の風が入り、床には細かな金属粉が光った。
ここでも軍隊より先に情報が入っていた。工場、駅、寄宿舎、配給所が情報の結節点になり、1枚の布告やビラはその場で読まれて終わらず、休憩時間に別の班へ回され、内容を書き写した紙が別の工場へ持っていかれた。鉄道員が岐阜へ運び、夜勤明けの職工が家へ持ち帰った。
「鉄道員は仕事へ戻された」
「捕虜を全部シベリアへ送ってはいない」
「工場は壊さず使うらしい」
「東京は焼かずに開いた」
最後の話が特に大きかった。工場労働者の多くは、B-29の空襲警報で家族を防空壕へ入れ、焼けた住宅や工場を自分の目で見ている。それに対して東から来るソ連軍の航空隊は、飛行場、鉄道、砲兵陣地、軍用車列を主に狙っていた。攻撃を受ければ危険なのは同じでも、東京や名古屋の市街を焼いたB-29部隊と同じものには見えなかった。
住民の多くは、松代に政府と大本営が残っていることを知っている。それでも東京が大規模な市街戦にならず、霞ヶ関まで占領軍が入ったという知らせは、戦争の続きより体制の終わりを感じさせた。
「もう変わるんだろうな」
工場の休憩所で誰かが言った。何がどう変わるのかは分からなくても、これまでどおりには戻らないと考える人は多かった。
タチアナ大佐は、焼け残った工場の講堂へ入った。
油と煤で汚れた作業服の中に、手入れされた軍服と長靴が目立った。
彼女は日本語で話した。
「工場を止めないでください。機械を壊さないでください。技師、職長、熟練工は職場へ戻ってください」
質問もそのまま日本語で受けた。
「工場を労働者へ渡すのですか」
「所有権の話は後です。今は旋盤を止めない。発電機を直す。鉄道車両を修理する。それが先です」
「賃金は」
「払います。食料配給も、働いている人を優先します」
「経営者が戻ってきたら」
「そのとき行政が決めます。機械を持って逃げることだけは認めません」
政治将校が正式な接収命令と設備保全命令へ署名した。
タチアナは工場の図面を見ながら、技師へ聞いた。
「空襲で建屋がなくても、この工作機械は動きますか」
「電源が戻り、主軸を調整すれば使えます」
「測定器は」
「一部を疎開させています」
「では探してください。建物より先に、機械と測定器と図面を集めます」
名古屋市街を全面的な市街戦にする力は、帝国陸軍側にも残っていなかった。
郊外で抵抗した部隊の一部は西へ下がり、一部は日本人民軍へ武装解除された。
小牧、各務原、名古屋周辺の航空関係施設では、残った機体よりも技師、治具、工作機械、図面の方が重要になった。
豊川でも同じだった。
軍需品を作っていた工場をそのまま軍需工場として回し続ける必要はない。しかし、精密加工、火薬、電気、工作機械の設備は民需へ転換できる。
ソ連軍の先頭は岐阜方面へ進んだ。
後ろでは、占領翌日から工場の電源を戻す作業が始まっていた。
東北の農村で小作料を止めることが人を動かしたように、愛知では、焼け残った旋盤へ油が差されることの方が長い演説より早かった。
第三十一章 日本海側は海から
1945年10月下旬 新潟・富山湾・金沢・小松
日本海側では、地図だけを見れば新潟から富山、金沢、福井へそのまま西へ進めそうに見えた。
実際の地形はそうではない。
新潟と富山の県境、親不知周辺では山が海へ落ち、道路と鉄道が狭い海岸線へ押し込められる。歩兵が越えるだけならできる。しかし、大規模陸軍が戦車、重砲、燃料、弾薬、補給車列を連ねて越える進撃路としては悪すぎた。
橋やトンネルを数か所壊されれば、後ろが全部詰まる。
タチアナは日本海側部隊の報告を読み、海軍側の地図を重ねた。
「陸路にこだわる理由がありません」
新潟まで来た兵力の一部は、港で船へ積み替えられた。
富山湾へ入り、使える港を押さえる。
さらに金沢方面へ海上輸送を伸ばす。
日本人民軍の歩兵、鉄道員、港湾要員を先に入れ、ソ連軍の重装備は港から揚げる。
この方が速かった。
もう一つ問題がある。
ソ連の鉄道は広軌で、日本は1067mm軌間だ。ソ連の貨車をそのまま日本の線路へ入れることはできない。日本側貨車へ積み替えても、車両限界、橋梁荷重、急曲線、勾配が残る。
金沢から先の北陸本線は、ソ連軍が欧州で使ってきた大きな兵器を好きなだけ鉄道輸送できる線形ではなかった。
歩兵、食料、日本製トラック、帝国陸軍から引き継いだ火砲なら運べる。
重いソ連製装備は、無理に線路へ載せるより海上輸送の方がよい。
金沢と小松を押さえたところで、日本海側の大規模な西進はいったん止まった。
港、飛行場、鉄道を確保できれば、ここから先へ無理に陸軍を押し込む必要はない。
後に大垣会議で九頭竜川までを東側へ入れる案が出たときも、戦車を福井まで無理やり走らせて取った土地ではなかった。
会議で占領線を調整し、期限を定めて双方の軍隊を移動させるための地域になる。
第三十二章 美濃で杉原千畝を拾う
1945年11月初旬 岐阜・美濃
愛知の軍需産業を確保したソ連軍と日本人民軍は、岐阜へ入った。
目的は西日本全体を際限なく取ることではない。
愛知と岐阜の航空機、工作機械、車両、電機、軍需産業を東側へ残すには、関ヶ原付近まで押さえればよい。
その進撃の途中で、タチアナ大佐にはもう一つの用事があった。
東京の外務省を押さえたとき、人事記録の中に一人だけ妙に目立つ名前を見つけていた。
杉原千畝。岐阜県出身でロシア語に堪能、ハルビン学院で学び、満州で対ソ交渉に携わり、北満鉄道譲渡交渉にも関わっていた。
リトアニア、ドイツ、東欧で勤務。
日本がソ連軍政下で外交機能を作り直そうとしているときに必要な経歴が、ほとんど一人の中へ集まっている。
それなのに本人は東京にいなかった。
美濃へ戻り、寺の離れを少し増築して、半分隠居のような暮らしをしているという。
タチアナは記録を読んだとき、周囲に聞いた。
「なぜ、この人が東京にいないのですか」
明快な答えは返ってこなかった。
ソ連軍の進出地域が美濃まで来ると、タチアナはいつもの小さな部隊で寺へ向かった。
杉原は、突然現れたソ連軍の大佐を見ても騒がなかった。
「杉原千畝さんですね」
「はい」
「東京へ来ていただきます」
「逮捕ですか」
「違います」
タチアナは日本語で答えたあと、ロシア語へ切り替えた。
「Ваш русский язык всё ещё хорош?(ロシア語は、まだお上手ですか)」
杉原もロシア語で返した。
「Проверим.(試してみましょう)」
そこから先の会話を、護衛の兵と寺の人たちはほとんど理解できなかった。
タチアナが東京の状況を説明し、杉原が外務省の状態を聞く。
声を荒らげる者はいない。
それでも周囲から見ると、ソ連情報部の大佐と、美濃へ戻っていた元外交官がロシア語で長く話している。
何を決めているのか分からない。
それだけで十分に憶測を呼んだ。
杉原は最低限の荷物だけを持った。
「残りは、落ち着いたら取りに戻ります」
「その方がいいでしょう」
東京へ戻ると、さらに霞ヶ関がざわついた。
追い出したはずの杉原千畝が、今度はソ連軍の情報大佐と一緒に正面から戻ってきた。
しかも、二人は廊下でも執務室でもロシア語で普通に話す。
大半の官僚には内容が分からない。
「誰の名前が出た」
「人事の話ではないか」
「モスクワへ何を報告するんだ」
実際には、書類の決裁経路や、誰がロシア語を読めるかを話しているだけのことも多かった。
杉原は外務次官になった。
復職ではなく、外務省の実務トップとして戻った。
タチアナが省内へ伝えたのは短かった。
「杉原さんには、今日から外務次官として仕事をしていただきます」
それまでの外務省には、ソ連に敗戦処理の仲介を期待する発想が長く残っていた。
杉原が戻ると仕事の向きが変わった。
モスクワに期待する外務省ではなく、モスクワと交渉する外務省へ変える。
捕虜、帰還、国境、通商、在外邦人、鉄道、港、食料、文書引継ぎ。
政治案件、軍政案件、外務省で処理できる案件、モスクワ判断が必要な案件を仕分ける。
杉原はロシア語でタチアナと直接詰められる。
通訳を何段も挟む必要がない。
霞ヶ関では、二人がロシア語で話すたびにまた憶測が生まれた。
杉原に聞いても、答えはだいたい同じだった。
「仕事の話ですよ」
第三十三章 関ヶ原で止まる
1945年11月上旬 岐阜・関ヶ原
太平洋側のソ連軍と日本人民軍は関ヶ原まで来た。
ここから先へ無理に押し込む必要は薄い。
欲しかった愛知・岐阜の軍需産業、航空機産業、工作機械、鉄道結節点は東側に入った。
西へ進めば、京都・大阪を押さえた米軍との距離が急に縮まる。
日本海側も金沢・小松で止まっている。
地図の上では松代がまだ残っているのに、その南西側ではすでに東西両軍が向かい合う線ができていた。
関ヶ原周辺の帝国陸軍部隊へは、東京側から武装解除の勧告が届いた。
西側からも米軍への降伏条件が示された。
ただし松代派がまだ正式に終わっていないため、将校の中には「天皇と大本営が松代にある以上、命令を待つ」と主張する者が残った。
岡田資中将も、すぐには部隊を動かさなかった。
「東も西も、こちらへ撃ってくる理由を増やさない方がいいでしょう。松代から正式な決定が来るまで、陣地を出ず、こちらから大きな攻撃を始めないでください」
関ヶ原は、決戦場になる前に一度止まった。
東側も西側も、その背後で政治の決着を待った。
第三十三章補 松代降伏
1945年11月中旬 長野・松代
松代へ最後の通告が送られた。
降伏手続きに入る前に、タチアナ大佐が日本語で一項目を強く伝えた。
「公文書、軍令、作戦記録、人事記録、通信記録、外交記録を破棄しないでください。焼却も持ち出しも認めません」
松代側から、機密文書を処分する必要があるのではないかという問いが出た。
「必要ありません。書類はそのまま残してください。封印はこちらで行います」
これは後の軍政だけのためではない。
井上が始めている佐官以上の査定にも、帝国陸海軍が実際にどのような命令を出したかという記録が必要になる。
外交文書は杉原の外務省が引き継ぐ。
破棄されれば、誰が何を決めたかを後から全部推測で埋めることになる。
降伏当日、松代周辺には約5万人規模のソ連軍と日本人民軍が展開した。地下宮城と大本営へ入るのは、そのうちタチアナ大佐、スターリンから付けられた政治将校、無線手、護衛、日本人民軍の連絡将校というごく一部で、大軍を地下へ連れていく必要はなかった。外に5万人いるという事実だけで十分だった。
坑道の中は湿っていた。
電灯は何度も停電を経験しており、予備電源へ切り替えられている場所もある。外ではIl-2が発電施設と浄水施設を繰り返し叩き、B-29の2000ポンド爆弾が集落の形まで変えていた。
天皇は、用意された降伏文書を読んだ。
文書には、東京が無血で開いたこと、大阪と京都も西側で戦闘終結へ向かっていること、帝国陸海軍の各部隊へ戦闘停止を命じること、松代の政府と大本営がこれ以上独自の戦闘を命じないこと、文書と施設を保全することが並んでいた。
天皇は確認した。
「これに署名すれば、国内の戦闘を終わらせる命令になりますか」
日本側の代表が答えた。
「大元帥としての戦闘停止命令も同時に出します」
天皇は署名し、それで松代派は終わった。
地下宮城も大本営も、その瞬間から日本全体へ戦争を命じる中枢ではなくなった。
帝国陸軍・帝国海軍にとって大元帥は天皇である。
天皇が戦闘停止を命じたあとに武装を続ける部隊は、帝国陸海軍の正規の命令系統を理由に継戦できない。
天皇はその後、退位した。
東側では皇族・華族の身分制度も廃止する方針が決まり、旧天皇本人を新しい共和国の政治主体にはしなかった。
書類の接収が始まった。
金庫、書庫、参謀関係資料、軍令関係資料、電報綴り、人事台帳へ封印紙が貼られた。
政治将校が正式な接収命令へ署名し、タチアナは日本側担当者へ保管場所を確認した。
降伏文書の日本語原文は東京へ送られ、杉原外務次官の下にいる対ソ担当官とタチアナ大佐が、文言を一項目ずつ確認してロシア語版を作った。軍事用語に限らず、「停止」「解散」「武装解除」「行政権」「文書保全」の意味が日本語とロシア語でずれないように詰めた。
完成したロシア語版は、日本側署名済み原文、政治将校の軍政報告、タチアナの状況報告と一緒にモスクワへ送られた。
西側では、ほぼ同じ時期に米軍が大阪・京都を押さえ、新しい天皇を京都に置く手続きが進んでいた。
東西の戦争は、ほとんど同時に終わった。
残ったのは、関ヶ原でなお武装を解かない松代派の残余だった。
第三十四章 2度目の関ヶ原
1945年11月下旬 関ヶ原
松代から戦闘停止命令が届くと、関ヶ原周辺の空気は一度に変わった。
大元帥である天皇自身が降伏文書へ署名し、帝国陸軍・帝国海軍へ戦闘停止を命じた。
これで、松代政府を守るために戦うという理由はなくなった。
多くの兵は武器を置いた。
ソビエト軍に降伏する部隊もあれば、米軍に降伏する部隊もある。
家へ帰りたいと言う兵も多かった。
それでも、数千人規模の残余が残った。
ソ連軍にも米軍にも降伏しないと主張する将校、部隊を解散できずに動き続ける兵、命令が偽物だと疑う者が混じっている。
ここにいるのは、もう帝国陸軍全体を代表する最後の正規防衛線ではない。
松代派崩壊後の残存部隊だった。
東西双方から最後の降伏勧告が出た。
日本人民軍の将校が拡声器で呼びかけた。
「天皇陛下の戦闘停止命令は確認されています。ソビエト軍に降伏する部隊は、白布を見える位置に出してください。武器はその場に置き、負傷者を先に出して構いません」
西側からも同じ趣旨の勧告が届いた。
多くの陣地で銃声が止まった。
一部では戦闘になった。
ソ連砲兵と米軍砲兵は射界を調整し、互いの部隊へ砲弾を落とさないよう連絡線を設けた。
残存部隊は山地と集落を使って抵抗したが、補給も政治的な目的もない。
夕方までに陣地は分断された。
岡田資中将の周辺では、南へ抜ける案が出た。
「関ヶ原から南へ下るなら、島津義弘が使った方向があります」
岡田は地図を見た。
「島津の退き口ですか。400年近く知られている道を、向こうが知らないとは思えませんね」
「それでも、まとまって動ける道はほかにほとんどありません」
「全員では無理でしょう。降伏を希望する兵と負傷者は残します」
夜、岡田と少数の幕僚、護衛兵が南へ出た。
約10km進んだところで、前方に日本人民軍の部隊がいた。
その後ろにはソ連軍もいる。
予想どおり、退路は押さえられていた。
日本人民軍の将校が距離を置いたまま呼びかけた。
「岡田中将とお見受けします。これ以上先は通れません。武器を置いていただければ、負傷者から手当てします」
岡田は周囲を見た。
撃ち合って抜けられる兵力ではない。
「分かりました。射撃を止めさせます。負傷者を先にお願いします」
「承知しました」
岡田は刀を外した。
関ヶ原の戦闘は終わった。
翌日、東側は西側代表へ連絡した。
戦闘が終わった以上、次に必要なのは占領地域の調整である。
会議場所として大垣が提示された。
第三十五章 大垣会議
1945年11月末 大垣
大垣へ集まった代表団に、戦争を終わらせる仕事はほとんど残っていなかった。
東側では松代が降伏し、関ヶ原の残存部隊も武装解除された。
西側でも米軍が大阪と京都を押さえ、新しい天皇を京都に置いて戦闘を終えている。
残るのは、どこからどこまでを誰が占領し、兵をいつ移動させ、人と財産をどう引き継ぐかという実務だった。
会議室には東側、西側、それに旧松代派の代表が座った。
旧天皇本人は来なかった。すでに退位している。
松代派代表の最初の仕事は、松代で署名された降伏文書が真正であること、帝国陸軍・帝国海軍への戦闘停止命令が正式に出されたことを確認することだった。
杉原外務次官が文書を机へ置いた。
「ここは先に確認しておきましょう。降伏そのものを、この会議でもう一度交渉するつもりはありません」
西側代表も同意した。
次に地図が広げられた。
太平洋側では、ソ連軍と日本人民軍が関ヶ原まで来ている。
西側はそのすぐ西にいる。
このまま山地の細い線を国境にすれば、道路、集落、鉄道が複雑に入り組む。
南側の基本線には揖斐川を使う。
上流では谷と分水界をたどり、冠山付近から福井側へ抜ける。
日本海側では、金沢・小松で止まっていた東側の占領地域を、最終的には九頭竜川水系まで調整する。
東側は関ヶ原から揖斐川まで下がる。
その代わり、日本海側では双方が決めた期限までに部隊を動かし、九頭竜川を基本とする線へ整理する。
杉原が言った。
「線を決めるだけでは足りません。軍隊がいつ動くかを同時に決めてください。新しい国境の両側で、部隊が何週間も向かい合ったままになるのがいちばん危険です」
そこで移動期限が決められた。
新規の進出を禁止し、重砲、戦車、大型弾薬集積を先に後退させ、そのあと歩兵と補給部隊を所定地域へ移す。
橋、駅、港、飛行場の引渡しは、双方の連絡将校が立ち会って時刻まで記録する。
故障車両、負傷兵、病院列車などは例外通行を認める。
撤収時に橋、発電所、ダム、鉄道、工場設備を破壊しないことも明記された。
「もう撤退戦ではありません」
杉原はそう言った。
次は水だった。
木曽川水系では、戦前から関西側の事業主体が持っていた発電用の水利権や設備運営権がある。
国境ができれば、東側領内の川を使う権利だけを西側企業が持ち続ける形では行政が動かない。
東側領内に属する発電用取水権、水利権、施設運営権は東側へ移管する。
資産評価、債務、送電料金は後日の実務会議で精算する。
国境をまたぐ送電線は、切断するより暫定的な相互供給契約を結ぶ。
鉄道と通信も同じ考え方になった。
切れば双方が困るものは、先に動かし続ける。
所有権と料金は後で詰める。
皇室関係の扱いでは、杉原は争点を増やさなかった。
東側では天皇制を廃止し、華族制度もなくす。
旧天皇は退位した。
西側では新しい天皇が京都へ入り、天皇制を継続する。
それなら、東側が皇位継承に必要なものを抱え込んで嫌がらせをしても意味がない。
松代へ持ち込まれていた宮中の剣璽、御璽、国璽その他の皇室関係物品は、目録を作ったうえで西側へ引き渡す。
熱田神宮の草薙神剣も、東側領内に残す必要はない。熱田神宮側との手続きを整え、西側の新天皇へ継承できるよう移す。
伊勢側の八咫鏡は西側にある。
東側から必要なものを返せば、皇室関係の争いを国境問題へ持ち込まずに済む。
西側代表が確認した。
「条件にはしないのですか」
杉原は答えた。
「こちらで必要のないものを人質にして、何を得るのです。必要のない争いは増やさない方がいいでしょう」
復員と帰還兵の扱いは、さらに人数が大きかった。
帝国陸軍・帝国海軍の海外部隊から、これから大量の帰還者が日本へ戻る。
どの港へ着いたかだけで東西の所属を決めれば、船の配船都合で国籍まで変わってしまう。
そこで帰還船の中で一度だけ本人に選ばせることになった。
東の日本人民共和国へ戻るか、西の日本国へ戻るかを船内で選び、両側の制度説明を受けたうえで申告書へ署名する。
入港したあと2年間は原則として変更できない。
毎回「やはり反対側へ移りたい」という申請を個別に処理すれば、戸籍、配給、住宅、就職、家族呼寄せ、鉄道輸送を何度もやり直すことになる。
例外は、重病、未成年者の保護、扶養家族の死亡など、合同委員会が認めた場合に限定する。
復員港では検疫と登録を行い、そこから選択した国へ列車と船で送る。
東側の人間が舞鶴へ着くことも、西側の人間が横須賀へ着くこともある。
港と国籍を同じものにはしない。
朝鮮出身者の扱いは別枠にした。
この世界では朝鮮半島が大規模な地上戦へ巻き込まれていない。
大陸へ日本人を迎えに行く帰還船は、往路が空になる。
その往路を使い、日本国内にいる朝鮮出身者の帰還を進める。
日本に残る場合は、東西いずれかの日本国籍を取得し、その国の住民として登録する。
帰還を希望する者は、船、鉄道、故郷までの輸送をまとめて手配する。
朝鮮総督府は、政治統治を続けるためではなく、帰還、戸籍、財産、鉄道、港湾、病院、学校、行政文書を引き渡すための暫定機関として1946年末まで残す。
日本人職員は業務が終わった部門から順次撤退する。
1947年1月からは朝鮮国の行政府へ完全に切り替える。
細かな港ごとの人数、船舶の割当、運賃精算、残留財産、学校や病院の個別引渡しは次回の会議へ回した。
「今日全部決めようとすると、決められることまで決まりません」
杉原がそう言って、議題を分けた。
大垣会議で決めるのは骨格でよい。国境線と軍隊の移動期限、降伏文書の確認、皇室関係物品の引渡し原則、水利・発電権の移管原則、帝国陸海軍帰還兵の所属選択、朝鮮出身者の帰還と1946年末までの行政引渡しまでを決め、その他の細部は次回へ回した。
最終文書には「大垣議定書」という名称が付けられた。
東側代表、西側代表、旧松代派代表が署名した。
外では揖斐川がいつもどおり流れていた。
川自身は国境になったことを知らない。
会議が終わった翌日、モスクワからタチアナへ大佐から少将への昇進辞令が届いた。台湾工作、北海道上陸後の軍政、日本人民軍の成立、東北・関東、東京無血開城、松代降伏、大垣会議まで、一つの作戦を超える仕事をしていた。
杉原が辞令を見て言った。
「今度はバナナではないようですね」
タチアナは少し笑った。
「大垣議定書で少将になりました」
第三十六章 外務次官の未処理書類
1945年12月 東京・外務省
大垣会議から東京へ戻ると、杉原外務次官は、華やかな外交より先に古い書庫へ入った。
探したのは、自分が1940年に発給した通過査証の対象者だった。
誰が日本まで来たのか、誰がソ連領を通過できたのか、誰が途中で消息を失ったのかを確かめる。
外務省には、発給後の追跡が十分にされないまま残った書類があった。
杉原は名簿を一人ずつ照合した。
「この一家はウラジオストクまで来ています」
「こちらは日本への入国記録がありません」
「これは上海へ移った記録があります」
部下が積んだ書類の山を見て、杉原は言った。
「生きているかどうかだけでも確認しましょう」
史実では、杉原千畝は1940年、カウナスで日本通過査証を発給した。外務省の『よくある質問集 欧州』は、当時の本省指示が、行き先国の入国許可と旅費・本邦滞在費に相当する携帯金を求めていた一方、杉原がその要件を満たしていない者にも査証を発給したと説明している。
米国ホロコースト記念博物館のHolocaust Encyclopedia『Polish Jews in Lithuania: Escape to Japan』には、1940年7月から1941年6月までに約2200人のユダヤ系避難民がリトアニアからモスクワへ出てシベリア鉄道を利用したこと、インツーリストのウラジオストクまでの切符が約200ドルで、American Jewish Joint Distribution Committeeが費用を援助する避難民を選ばなければならなかったことが記録されている。
金がないため列車へ乗れなかった人がいた。
出国許可が遅れた人もいた。
戦争の拡大で、その後の所在が分からなくなった人もいる。
杉原はタチアナ少将へ名簿を渡した。
「ソ連側で確認できませんか」
タチアナは紙をめくった。
「できます。鉄道記録、内務機関の登録、極東の居住記録を当たらせます」
「資金不足で移動できない人が残っていたら」
「切符を出しましょう。食料と宿泊も付けます」
杉原は顔を上げた。
「そこまでしていただけますか」
「1940年に、お金が足りないことを理由にあなたが査証を断らなかったのでしょう。今さら、お金が足りないから放っておく理由もありません」
タチアナには、もう一つ計算があった。
避難民本人、その家族、医師、商人、技術者、救援団体、海外の送金網。
人を助けた記録は、戦争が終わっても消えない。
パレスチナのユダヤ社会が将来どのような国家になるかはまだ決まっていない。しかし、その地域とソ連、日本人民共和国の間に、最初から悪い記憶だけを置く必要はない。
「いいことは、できるときにしておく方がいいです」
タチアナは言った。
「将来、誰と交渉することになるか分かりませんから」
杉原にとっては、自分が出した査証の続きを最後まで確認する仕事だった。
タチアナにとっては、人を救う仕事であると同時に、東側日本をモスクワだけに閉じない細い外交回線を作る仕事でもあった。
第三十七章 モスクワへの産業報告
1945年12月 東京
タチアナ少将は、日本占領地域の産業報告をモスクワへ送った。
題名は簡単だった。
日本東部占領地域における産業基盤、戦災、復旧優先順位。
内容は簡単ではない。
まず、米軍の空襲で何が壊れたかを調べた。
工場建屋が焼け、発電設備が壊れ、鉄道操車場も港湾荷役設備も被害を受けた。工作機械そのものを失った工場もある。
しかし、建屋がなくても技師が残っている工場があり、疎開させた測定器や治具が残っているところもあった。図面を持つ設計者、工程を覚えている職長、機械の癖を知る熟練工もいる。
タチアナは、焼けた建物の数だけで産業価値を判断しないよう書いた。
東京・横須賀は、造船、船舶修理、電機、通信、精密機械。
愛知・岐阜は、航空機、発動機、工作機械、車両、電機、化学。
北関東は、繊維、機械、鉱山、鉄道修理。
東北・北海道は、農林水産、鉱業、電力、化学肥料、木材。
全部を同じように復旧する必要はない。
ソ連側から鉄鉱石、石炭、石油、木材などを入れ、日本側では工作機械、電気機器、船舶、鉄道車両、精密機器、民生機械を重点的に作る。
後に1949年1月、史実の東欧ではCouncil for Mutual Economic Assistance、COMECONが成立する。この時点のタチアナはまだその名称を知らないが、報告書の考え方は後のCOMECON的な分業に近かった。
さらに、ドイツから持ってくるものを分けた。
大量のドイツ人を日本へ移す必要はない。
工作機械、測定器、化学プラントの機器、それを熟知した少人数の技術者をセットで入れる。
日本側には、教わる側の技師と熟練工がすでにいる。
機械分野なら、旋盤、フライス盤、研削盤、歯切盤、精密測定器。
航空機なら、治具、精密加工、エンジン製造、材料管理、品質管理。
化学なら、高圧設備、反応容器、計測、プラント運転。
フォン・ブラウン型の発想で、機械だけでなく、それを知る人間ごと技術を動かす。ただし日本には受け皿が残っているので、各分野に数十人規模の専門家を付けるだけでも、多数の日本人技術者へ知識を広げられる。
もう一つ、情報部出身のタチアナが特に重視した項目がある。ドイツの技術そのものではなく、ドイツが英米を調べて得た情報だった。
史実では、米海軍の戦後尋問記録『Interrogations of Japanese Officials, Vol. I & II』(1945年)に、1942年以降、日本海軍の砲術、電波、機雷など各部門の担当者がドイツへ行き、ドイツ側が把握していた米軍・英軍の機雷情報まで集めたという証言が残っている。
尋問を受けた田村海軍大佐は、報告書そのものは焼却されたものの、機雷の詳細をよく覚えており、別の冊子が翻訳待ちで残っていたと説明している。
さらに米海軍の『Battle of the Atlantic, Volume IV, Technical Intelligence From Allied Communications Intelligence』には、ベルリンの日本海軍武官から東京への通信が、Uボート、航空機、兵器、レーダー、レーダー対策だけでなく、枢軸側が把握していた連合軍の兵器、装置、運用方法まで詳細に含んでいたことが記録されている。
同資料は、ベルリン―東京通信が、ドイツ海軍自身の通常の行政・作戦通信では得られない独自の情報を連合軍側へ与えたと評価している。
つまり、情報の流れは一方向ではなかった。英米の装備・戦術をドイツが捕獲品や戦場調査から解析し、それを日本の駐独武官・技術調査団へ説明する。東京へ詳細な翻訳報告が送られ、1945年にドイツ本国では原本や担当部署が戦災、文書破棄、占領で散逸する一方、日本海軍の書庫には日本語版、抜粋、翻訳途中の冊子、担当者の記憶が残る。
タチアナは、横須賀と東京で接収した海軍資料の中から、こうした文書をモスクワのドイツ接収資料と照合させた。
「ベルリン側にはないのに、東京にはある資料があります」
報告を読んだソ連側の技術担当者が聞いた。
「日本の技術ではないのか」
「ドイツが英米を調べ、日本へ知らせた情報です。日本語に翻訳されたため、日本側だけに残ったものがあります」
ドイツの残存設備と少人数のドイツ人専門家、日本人技術者と熟練工、日本側に残った日独技術交換資料、さらにソ連の原料と輸送力を組み合わせれば、日本東部の工業復旧は、焼けた工場を一から建て直すより速い。
タチアナは報告書の最後に書いた。
日本を原料だけを受け取る地域にしてはならない。
残っている技術者と加工能力を使い、経済圏の中で製品を作る側へ置くべきである。
第三十八章 2つの国家
1946年1月 東京・京都
大垣議定書のあと、東西の行政は別々の国家へ固まっていった。
東側では天皇制と華族制度を廃止して日本人民共和国が成立し、首都は東京に置かれた。行政の最上部にはソ連軍政の影響が強く残り、軍事の日本側トップには井上成美、外交の実務トップには杉原千畝、軍政と情報の側にはタチアナ少将と政治将校の系統がある。
日本人民軍は陸軍、海軍、航空部隊を持つ組織へ変わった。
西側では日本国が成立し、天皇は京都へ戻った。
大垣議定書に基づいて東側から皇室関係物品が引き渡され、京都を皇都として制度が続いた。
東西は同じ日本語を使いながら、政治制度、軍制、経済圏が別になった。
第三十九章 日本軍
1952年 東京
ソ連軍の直接占領が縮小され、日本人民共和国が自国の軍を正式に管理する段階になると、井上成美は名称について意見を出した。
「占領期に帝国陸海軍と区別するため『日本人民軍』とした意味は理解しています。ただ、独立国家の常設軍として、いつまでも成立期の名前を残す必要はないと思います」
「どの名称がよいとお考えですか」
「日本軍でよいでしょう。日本人民共和国の軍隊なのですから、それ以上の説明は要りません」
「陸軍、海軍、空軍の区別は」
「もちろん残します。総称だけ簡単にすればよいという話です」
名称変更は採用され、東側は日本軍、西側は自衛隊となり、装備体系も分かれた。
東側にはソ連製航空機と車両が入り、西側にはアメリカ製装備が入った。
名古屋・岐阜の航空機産業、横須賀の工廠と海軍技術者は東側の再建を支え、大阪・神戸を中心とする重工業は西側の再建を支えた。
第四十章 後年の空
1998年9月26日 日本人民共和国・小牧空軍基地
格納庫の前にはジェット燃料の匂いが漂い、始動したエンジンの高い音で会話が聞こえなくなった。
滑走路の向こうは陽炎で揺れた。
灰色の機体の主翼と垂直尾翼に、日の丸が描かれている。
滑走路脇には古いMiG-21が記念展示され、その向こうにSu-27とMiG-29が並んだ。
機体の形は明らかにソ連機、あるいはロシア機の系譜だった。
整備員は日本語で話し、管制塔も日本語で指示を出す。
やがて2機編隊のSu-27が滑走を始め、そのまま離陸した。
青空へ上がった灰色の翼には、はっきりと日の丸が見えた。
同じころ、西側では自衛隊のF-15が別の空を飛んでいる。
同じ日本語を使いながら、片方はアメリカ機、片方はソ連機とロシア機の系譜に連なる戦闘機を飛ばした。
ただ、その半世紀後の空を、1945年のタチアナも杉原もまだ知らない。
大垣会議が終わった直後、二人にとってもっと身近な用事が残っていた。
終章 美濃橋の鮎
1945年晩秋 美濃
大垣会議を終えて少しすると、杉原がタチアナへ言った。
「東京へ持っていきたい荷物が、まだ美濃にあります」
「取りに行きましょう」
杉原が半分隠居していた寺へ、タチアナ少将といつもの護衛が同行した。
寺の離れは、杉原が美濃へ戻ってから少し増築してあり、本棚、机、書類箱、衣類、ロシア語の本、古い手紙、欧州勤務時代の資料が収まる、こぢんまりした住まいだった。
東京へ最初に連れて行かれたとき、杉原は最低限の荷物しか持たなかった。
今度は本と書類を木箱へ入れ、護衛の兵も手伝って車へ積んだ。
「衣類より本の方が多いですね」
タチアナが言うと、杉原は箱を見た。
「東京で必要になると思います」
荷物を積み終えても、すぐ東京へ戻らなかった。
杉原が町を歩こうと言った。
うだつの上がる町並みは道が狭い。
軍用車を無理に入れるより歩いた方が早い。
タチアナと杉原、その少し後ろをいつもの護衛が歩いた。
瓦屋根と格子戸、白い壁が続き、その屋根の間からうだつが上がっている。
タチアナは歩きながら建物を見た。
しばらくして、頭の中で松代の景色と重ねた。
ここには焼夷弾がない。
松代では、B-29の2000ポンド爆弾が作った穴に水がたまり、集落の周囲が丸いため池だらけになっていた。
美濃では、狭い道も古い家もそのまま残っている。
戦争が同じ国の上を通っても、通り方は場所によってまるで違った。
杉原が一軒の店へ入った。
美濃和紙を扱う店だった。
薄い紙を光へかざすと、繊維の重なりが見えた。
タチアナは棚を見ているうちに、和紙を貼った小さな照明のシェードへ目を止めた。
「電気をつけると、紙全体が光るのですか」
「柔らかい光になります」
店の人が答えた。
杉原はそのシェードを一つ選んだ。
さらに、色と模様の違う千代紙を何枚か選んだ。
包んでもらうと、タチアナへ差し出した。
「東京へ戻るのに付き合っていただきましたから」
「私に?」
「美濃のものを一つくらい持っていってください」
タチアナは千代紙を一枚、光へ透かしてみた。
「これは何に使うのですか」
「折ってもいいですし、箱に貼ってもいい。手紙に添える人もいます」
「それなら、モスクワへ送る手紙に入れてみます」
「バナナの次は千代紙ですか」
タチアナは笑った。
車へ戻り、東京へ向かおうとしたときだった。
川の方に人がいるのが見えた。
車を少し止めた。
鮎の簗漁をしている川漁師だった。
タチアナは最初、占領している国の暮らしを知るのも仕事のうちだと思って見ていた。
川の流れを竹や木の仕掛けへ導き、下ってくる鮎を簀の上へ上げる。
網を投げて追い回すのではない。
流れそのものを使って、魚が来るのを待つ。
「面白い漁ですね」
タチアナは川を見た。
「ヴォルガやドニエプルでは、こんなことはできないでしょうね。川が大きすぎます」
杉原も仕掛けを見ながら答えた。
「エニセイやレナでやったら、魚を捕る前にこちらが凍りますね」
タチアナは声を出して笑った。
川漁師の方も、さっきからこちらを見ていた。
杉原が軽く会釈すると、向こうも手を上げた。
しばらくして、河原へ降りてくるよう声をかけられた。
タチアナと杉原、護衛たちは土手を下りた。
捕れた鮎へ塩を振り、長い竹串に刺す。
炭火の周りへ立てると、皮が乾き、脂が落ちて小さく火が上がった。
焼けるにつれて香りが強くなる。
護衛の兵も竹串を一本ずつ受け取った。
川漁師は、相手がソ連軍の少将だからと特別な皿を出したわけではない。
見物していたから、食べていけと言っただけだった。
タチアナは熱い鮎を少し冷ましてからかじった。
川魚なのに泥臭さがなく、香りが先に来た。
美濃橋の近くを水が流れていた。
少し前まで、松代では爆弾穴に水がたまり、大垣では地図の上に国境線を引いていた。
いま目の前にある水は、ただ川として流れている。
タチアナはもう一口、香りのいい鮎を食べた。
杉原も隣で竹串を持っていた。
護衛の兵たちは川漁師と身振りを交えながら話している。
美濃橋の下を、秋の水が静かに流れていた。




