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雨の日の婚約破棄 ~落とし穴は頭上にあり~

作者: 紡里
掲載日:2026/06/08

 雨期に入った。

 雨の日が多くなり、重要な水瓶である窪地の水位が上がる。よきかな、よきかな。

 次期領主のわたくしとしては、とても喜ばしい。


 婿に来る予定の婚約者の馬車が到着した。本邸の車寄せに停まったものを、ベルボーイがこちらに誘導している。

 ああ、こちらに来る頃には、いい感じに腹を立てていることだろう。


 芝生に張らせた大きなテントの下で、わたくしは一連の動きを観察していた。雨期の雨粒は細かい。

「パタパタと可愛らしい音が聞こえないのが残念だわ」

「以前、雨だれが音楽のよう、とおっしゃっていましたね」

 侍女がそんな相槌を打ってくる。誰が言ったか……そんなことを思い出させないでほしい。


 馬車が停まり、不機嫌な男が小走りでテントの中に駆け込んできた。

「君の酔狂には付き合いきれないな」

 その後ろから来た侍従も、こちらに非難の目を向ける。

 わたくしの侍女が二人にタオルを差し出した。侍従が礼も言わずに受け取り、まずは主人である男の髪と服にタオルを当てていく。


 金色の巻き毛が甘やかな雰囲気を醸し出し、伯爵令息という身分で令嬢たちに人気があるらしい。

 だが、高慢な態度がいただけない。格下の子爵家に婿入りしてやるのだと、恩着せがましく言う。だが、こちらが断れば、貴族ではなくなる可能性があることを忘れている。


 とぽぽぽ……と心地よい音を立て、紅茶がティーカップに注がれた。

 雨の匂いに負けないよう、スモーキーなフレーバーの紅茶だ。それに合わせて甘いものではなく、クラッカーにチーズやサーモンを載せた。

 婚約者は一口で食べ、ふんと鼻を鳴らした。

「クラッカーが湿気っている。子爵家ではこんな気遣いもできないのか」

「用意してから一時間も経ちましたもので……」

 要は、お前が連絡も寄越さず一時間遅刻したのだ。この嫌味にどう返すのか、彼らを観察する。

 反省する様子はない。侍従もこちらを見下すような表情を隠さない。

 まあ、予想どおりか。


「当家に婿入りされる際は、その侍従はお連れにならないでくださいね」

 わたくしは淹れたばかりの紅茶にミルクをたっぷり、蜂蜜を一匙入れてスプーンでかき回した。

「な、何を言うのだ? 無礼な!」

 婚約者である男がいきり立つ。

「信用できない者を、本邸に入れたくないだけですわ」

 ザワリと低木の茂みが揺れ、葉の上の雫がボタボタと落ちた。


「私の乳兄弟だぞ!」

 貴族にとって乳兄弟は、実の兄弟より近しい関係になる場合が珍しくない。実の母よりも乳母と共にいる時間の方が長いのだ。


「仲良きことは美しきかな……とはいえ、限度というものがございましてよ」


「あなたが遊んで捨てた女性たち、そこの侍従が後始末をしたそうですね」

「なんで、そんなことを知っている」

「素行調査をするのは当たり前でしょう」

 調査資料を侍女から受け取ってテーブルに置いた。雨の中持ち出したこれは原本ではなく、書き写したものである。たとえこの場で破り捨てられても、雨に濡れても問題ない。


「信用していないのか」

「調査で白と出たら信用するつもりでした。結果は真っ黒でしたね」

「いや、結婚したら身を慎む。絶対だ。約束する」


「ついでにあなたの侍従のことも調べましたの。

 あなたがお手つきした女性たちがどうなったか、ご存じ?」

 侍従はうつむいてしまい、どんな顔をしているのかうかがえない。

「手切れ金を女性に渡さず、お下がりを散々味わった後で、娼館に売って金銭を得ていました。侍従がしているカフス、あなたが下げ渡したものではないなら……ここまで言えば察しがつくかしら?」

 本当に品性を疑うわ。汚らわしい。

 売る娼館が一軒に集中していたので、聞き取り調査は楽だったそうだ。知恵の回らない悪党など、尻尾を掴むのはたやすい。


 婚約者は知らなかったようで、愕然としている。我に返り、乳兄弟の胸ぐらを掴み「嘘だよな?」と揺すっている。

 貴族が爵位を盾に、無責任に女性たちに手を出すのも大概だと思うが。


 テーブルの上の資料を一枚抜き出す。

「この方、性病を患っています。あなたと別れた後かどうか、判断ができません。

 あなた有責で、婚約を破棄させてもらいます」

「そんな……」


 娼館に売られた後に罹患したんだろうと言わないのは、育ちの良さか、思考力がお粗末なのか――


「うおぉぉぉ!」

 彼の侍従が叫んだ。次の行動はきっと、わたくしに向かってくる。

 わたくしは立ち上がり、テントの天井から下がっている紐を引っ張った。

 ばっしゃーん。


 テントに溜まっていた雨水が一気に降り注ぐ。小雨とはいえ、今朝から貯めていたのだ。

 テーブルの上のものは押し流され、陶磁器の割れる音、金属がぶつかり合う音で騒々しい。

 婚約者は椅子ごと後ろにひっくり返る。侍従は水量に負けて尻餅をついた。

 そこをすかさず、男性の従業員たちが押さえ込む。木の茂みに一時間以上前から待機していた彼らは、怒り心頭だ。少々乱暴になっても仕方ないと思う。


 わたくしは侍女と共に、木の下まで走って退避していた。

 そのために今日はブーツを履いていたのだ。出会い頭に女性を褒めるというマナーが身についていたら、足元に違和感を抱いたかもしれない。

 去年のお茶会を覚えていたら、この季節の花を愛でられるサンルームではないことを疑問に思っただろう。

 雨の時期にはムースやゼリー、チョコレートなど湿気ないお菓子を用意してきたことに、彼は気付かなかった。それはわたくしに関心がないというだけでなく、社交の場で会話の引き出しが少ないということでもある。

 招かれた席でホスト側のどこを褒めるかで、会話の盛り上がり方が違い、その後の関係性に差が出てしまう。


 伯爵家に生まれたというだけで人生を舐めているから、落とし穴に気付かなかった。恨むなら、自分の見通しの甘さを恨みなさい。


「最後は暴力に出ましたね」

 侍女はわたくしの頭にタオルを乗せると、自分の額を濡らす雨を手で拭った。

「そ、そうね」

 想像していたとおりになったとはいえ、男性に怒りをぶつけられるのは恐ろしかった。

 足が震えてしまうのは恐怖か、それとも雨の冷たさか……。

 早く浴槽に浸かって、一息つきたい。


 本邸から数人が駆けてくるのが見えた。

 お父様がいる。ああ、静かにケリを付けたかったけれど、これは叱られるわね。

 まず、相談しなかったことを責められるだろう。けれど、婚約破棄するのは当然として、傷つけられたわたくしの心はどうなるの?

 大人同士の話し合いでケリが付いてしまえば、彼は「心の狭い女だ」と更にわたくしを貶めるかもしれない。

 一矢報いたい。わたくしが、自分の手で。

 計画を立て、使用人と協力して事を成し遂げた。ちゃんと説明すれば、父も理解を示してくれるはずだ。

 ……そんな希望は、父の形相を見た途端、霧のように消えた。無理かもしれない。



 雨期はものが腐りやすい。

 カビが生えたら、目に見えない菌はもっと広範囲に広がっていると考えた方がいい。

 だから、食中毒になるのが嫌なら捨ててしまうしかないの。



 余談になるのだけれど、その後、彼は雨の日に出かけられなくなったらしい。


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― 新着の感想 ―
これはパバも捨てられちゃうのかな? 湿気ってカビたお菓子のようにw
差し詰めクラッカーに乗っていたチーズが似非ブルーチーズ、サーモンはマリネではなかったってとこでしょうか。 断罪の場に相応しいお茶請けだと思います。 尻もちついたお尻の汚れは、泥だけではすまなかったない…
お父さんは割れた陶磁器とかテーブルとかに怒ったのではないかな…こんな状況になってたらそこ心配するよね?娘は退避してるんだし。 カップとかお皿とかお客さんに出す食器ってある程度の御宅ならそれ用にあつらえ…
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