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元気になるたびに、あなたはいなくなる

掲載日:2026/04/01

うつ病をテーマにした恋愛小説です。

 薬の時間だよ、と声をかけると、彼は少しだけ顔をしかめた。

「あとで飲む」

 布団に半分埋もれたまま、目も合わせずに言う。カーテンは閉め切ってあって、昼なのに部屋は薄暗い。スマホの光だけが、彼の顔を青白く照らしている。

「すぐ飲んだ方がいいって先生も言ってたでしょ」

「わかってる」

わかってる、と言うときの彼は、だいたい何もわかっていない。

 私はベッドの端に腰を下ろして、コップを差し出す。彼はゆっくり身体を起こした。手は細くなって、前よりも骨ばっている。最初に会ったときは、こんな手じゃなかった。

「……ありがとう」

 小さな声で言って、薬を飲み込む。その仕草を見届けてから、ようやく息を吐く。ちゃんと飲ませられた。それだけで、今日は少しうまくいった気がした。

「ご飯、どうする?」

「いらない」

「ゼリーなら食べられる?」

 返事はない。スマホの画面をスクロールする指だけが、かすかに動いている。

 この部屋にいると、時間の流れがよくわからなくなる。朝なのか夜なのかも曖昧で、ただ彼の状態だけが基準になる。調子がいい日と悪い日、その波に合わせて、私の一日も決まる。

 それでいいと思っている。むしろ、その方がいい。

 外に出なくなってから、彼はずっとここにいる。私がいないと、何もできない。ご飯も、薬も、連絡も。全部、私がやる。

 最初は、不安だった。ちゃんと支えられるのかとか、壊れてしまわないかとか。でも、そういう気持ちはだんだん薄れていった。代わりに、もっとはっきりしたものが残った。

 必要とされている、という実感。

 彼のスマホが、ふいに震えた。短く、乾いた振動。

 彼は一瞬だけ手を止めて、それから画面を伏せた。何も言わない。私も何も言わない。ただ、その一瞬だけ、彼の指の動きが少し速くなった気がした。

 「誰?」聞こうと思って、やめる。聞かなくてもいい。今はまだ。

 彼はここにいるし、どこにも行けない。外に出る気力なんてないし、誰かに会う余裕もない。だから、大丈夫だと思う。

 大丈夫。そう思いながら、私は空になったコップを持って立ち上がる。

 キッチンに向かう途中で、さっきの振動のことを、もう一度だけ思い出す。

 もし、あれが。もし、外の誰かだったとしても。

――今の彼なら、何もできない。

 シンクにコップを置いて、水を流す。それを見ながら、ふと、思う。

 このまま、ずっと治らなければいいのに。

 そうすれば、彼はどこにも行かない。どこにも行けない。ずっと、ここにいる。私のそばに。

 そう思うのは、たぶん、正しいことだ。


 彼のスマホが鳴る回数が、少しだけ増えた気がする。

 前は一日に一度あるかないかだったのに、最近は、短い振動が何度か続くことがある。彼は画面を伏せたまま、見ないふりをすることもあるし、少し遅れてから手に取ることもある。

 どちらにしても、私の前では開かない。それでも、完全に隠しているわけではなかった。

 ある日の昼、彼が珍しくシャワーを浴びると言って、ベッドから離れた。水の音が浴室から聞こえてくる。ドアはきちんと閉まっている。

 その間も、スマホはベッドの上に置かれたままだった。

 通知が一度、震える。少しだけ迷って、私はそのままにしておこうと思った。見たところで、いいことなんてない。ないに決まってる。

 でも、すぐにもう一度、短く震えた。

 続けて、三回目。画面が光る。

 名前が、表示される。知らない名前だった。

 女の名前かどうかは、ぱっと見では分からない。ただ、登録されているということは、誰かではある。仕事の関係ではないはずだ。今の彼には、そういうつながりはほとんど残っていない。

 視線を外そうとして、できなかった。指が、少しだけ動く。触れるだけなら、と思った。画面を開くつもりはなかった。ただ、通知の内容だけ確認して、それで終わりにするつもりだった。ほんの一瞬、それだけ。

 指先で、画面を持ち上げる。暗いままの画面に、うっすら自分の顔が映る。一瞬だけ迷って、親指を置く。やめるつもりだったのにロックが外れる。

 そのまま、メッセージの画面が開く。

『昨日はごめんね、急に帰っちゃって』

 短い一文。それだけで、十分だった。スクロールしなくても、下に続いているのが分かる。既読の印がついていて、彼はもう読んでいる。返信も、している。文面までは見なかった。見ようと思えば、見られた。でも、それ以上は必要ないと思った。

 もう、わかってしまったから。

 水の音が、少しだけ強くなる。

 私はスマホを元の位置に戻して、何もしていない顔で立ち上がる。心臓が、少しだけ速い。でも、息は乱れていない。不思議と、落ち着いていた。部屋の空気も、さっきと何も変わっていない。カーテンの隙間から、わずかに光が入っている。ベッドの上には、飲みかけの水と、薬のシート。

 全部、いつも通りだった。ただ一つだけ、違うことがある。

 彼は、元気なときに、外に出ている。

 そういうことだと思った。ずっと、この部屋にいるわけじゃない。私がいない時間、あるいは、ほんの少し調子がいいときに、外に出る。誰かに会う。そのあとで、また戻ってくる。何もなかったみたいに、ここに横になる。そして、私が薬を飲ませる。

 それが、今の彼の日常なんだと思う。

 洗面所の鏡の前に立つ。自分の顔を見る。特に変わったところはない。いつもと同じで、ちゃんと眠れている顔をしている。泣きそうにも、怒っているようにも見えない。

 ただ、少しだけ、納得している顔だった。

 ああ、と思う。そういうことか、と思う。

 元気になると、外に出る。外に出ると、誰かに会う。誰かに会うと、ここには戻ってこなくなる。

 順番に並べると、とても自然だった。

 だから。まだ、大丈夫だと思った。今の彼なら、長く外にはいられない。すぐに疲れて、戻ってくる。ちゃんと、ここに戻ってくる。私のところに。

 水の音が止まる。ドアの向こうで、気配が動く。私は鏡から目を離して、いつもの顔をつくる。

 大丈夫。まだ、何も壊れていない。

――治らなければ、いいだけだから。


 夜になって、珍しく彼が自分から触れてきた。

 最初は、ただ手を握られるだけだった。指先が、少しだけ強く絡んでくる。その力が、前よりもはっきりしていることに気づく。

「……起きてる?」

 小さな声で聞かれて、私はうなずく。

 暗い部屋の中で、彼の気配が少しだけ近づく。いつもなら、こういうときはすぐに離れてしまうのに、今日は違った。呼吸のリズムが、ゆっくり揃っていく。肩に触れる手が、迷いなく動く。そのまま、引き寄せられる。抵抗する理由はなかった。

むしろ、ずっとこうしてほしいと思っていた気がする。

 彼の体温が、前よりもはっきり伝わってくる。力がある。腕の重さも、呼吸の深さも、どこかしっかりしている。

 少しだけ、息が詰まる。嬉しい、と思った。同時に、違和感もあった。

 こんなふうに、触れられる余裕があるんだ、と思う。

 前は、もっと弱々しかった。触れることすら、負担みたいに見えた日もあったのに。

 今日は違う。彼はちゃんと応えてくるし、途中で止まることもない。むしろ、私の方が追いつけなくなるくらいだった。

 それでも、私は何も言わなかった。言いたくなかった。

 ただ、そのまま受け止める。


 彼が少しだけ息を乱して、力を抜いたあとも、しばらくそのままでいた。腕の中に収まっている感覚が、離れがたかった。

 静かになった部屋で、彼の呼吸だけが聞こえる。さっきまでの熱が、まだ残っている。

「……久しぶりだね」

 彼が、ぽつりと呟く。

 そうだね、と答えながら、私は目を閉じる。

 久しぶり。その言葉が、少しだけ引っかかる。

 できなかったんじゃなくて、していなかっただけみたいな言い方だと思う。

 それくらいの余裕が、もうあるんだ、と。

 彼の指が、無意識みたいに私の腕をなぞる。その動きも、どこか落ち着いている。前みたいな、ぎこちなさがない。

 回復している。ちゃんと、回復している。その事実が、ゆっくりと形になっていく。嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけ冷える。

 ここまで元気になれるなら。

 ここまで、普通に触れられるなら。

 外にも、行ける。誰かにも、会える。

 さっき見たメッセージが、頭の中で重なる。

 昨日はごめんね。急に帰っちゃって。

――帰る場所は、ここだけじゃない。

 彼の腕の中にいながら、私は少しだけ身体を固くする。

 気づかれない程度に。

 この温度が、全部自分のものじゃない気がした。

 同じことを、誰かにもしているのかもしれないと思う。

 同じくらいの力で、同じくらいの余裕で。

 それでも、彼は今、ここにいる。ちゃんと、戻ってきている。

 だから、まだ大丈夫だと思う。

 そう思いながら、私は彼の背中に手を回す。

 離れないように。逃げないように。少しだけ、強く。

――このくらいの元気なら、まだ、外には出られないはずだから。


 帰ってきたとき、部屋はいつも通りだった。

 カーテンは閉まっていて、電気もついていない。ベッドの上で、彼は横になっている。

「ただいま」

「……おかえり」

 声は、ちゃんと返ってくる。それだけで、少し安心する。

 キッチンに向かって、水を入れる。冷蔵庫を開けて、ゼリーを取り出す。いつもの動き。

 彼は、ゆっくり起き上がる。

「……トイレ」

それだけ言って、スマホをベッドの上に置く。

 ドアが閉まる音。水の音は、まだしない。

 スマホが震える。短く、一度。通知の画面が、見える。見ようと思ったわけじゃなかった。ただ、視線がそこにあっただけで。勝手に、目に入った。

『今からでも来れる?』

短い一文。

 名前も、ちゃんと見える。前にも見た名前。そのまま、画面が暗くなる。すぐに、視線を外す。何もしていないみたいに、元の場所に戻る。コップを持つ手が、少しだけ冷たい。

 トイレの水が流れる音がする。ドアが開く気配。私はそのまま、振り返らない。

「ゼリー、食べる?」

できる限り、いつも通りの声で言う。

「……いらない」

彼の声も、いつも通りだった。


 その日は、朝から少しだけ明るかった。カーテンの隙間から入る光が、部屋の中に細く伸びている。

 彼は、もう起きていた。ベッドの上に座って、ぼんやりとした顔でこちらを見る。

「おはよう」

声をかけると、少しだけ間があってから、彼は小さくうなずいた。

「……おはよう」

その声は、前よりもしっかりしていた。私はキッチンで水を用意して、薬を並べる。

「薬、飲もうか」

振り返らずに言う。しばらくしてから、彼の足音が近づいてくる。でも、手は伸びてこなかった。

「……今日、いいや」

静かに言う。その言い方が、少しだけ違った。

「なんで?」

「もう、平気な気がする」

その言葉には、曖昧さがなかった。

 私はゆっくり振り返る。彼は、ちゃんと立っていた。少し痩せたままの身体で、それでも、まっすぐに。

「最近、ありがとう」

ふいに、そう言われる。

 何でもないみたいに。ただの区切りみたいに。言葉が、うまく返せない。

「……どうしたの、急に」

「いや、なんとなく」

 彼は少しだけ笑って、それから視線を外す。その仕草が、もう“外の人”みたいだった。

「ちょっと、出てくる」

 続けて言う。やっぱり、行くんだと思う。どこに、とは聞かなかった。聞かなくても分かるから。

 彼は靴を履いて、ドアに手をかける。一瞬だけ、止まる。振り返りかけて、やめる。何かを言おうとして、飲み込む。

 そのまま、ドアが開き、閉まる。静かに。それで終わる。それでも、少し待つ。足音が戻ってくるかもしれないと思って。ドアノブが回るかもしれないと思って。

 でも、何も起きない。完全に、静かになる。そこで、ようやく気づく。

――戻ってこない、じゃない。

 最初から、ここにいなかったんだと思う。


 私が見ていたのは、外に出られない間だけの彼で。弱っている間だけの彼で。動けるようになれば、いなくなる人だった。

 順番通りだった。何も間違っていない。ただ、私だけが、そこに残っている。

 少しだけ、笑いそうになる。

 ああ、と思う。全部、分かっていたのに。

 わざと見ないふりをしていただけだった。

 薬も。外出も。全部。

 彼のためじゃなくて。私が、ここにいたかっただけだ。

 必要とされている場所に。必要とされている自分で。その形のままで。

 それが崩れるくらいなら。いらないと思った。

 その瞬間、何かがきれいに落ちる。音もなく。引き止めるものが、なくなる。

 水と薬が、視界の端にある。それを見て、少しだけ安心する。

 ああ、もういいんだと思う。ここまでで、十分だった。

 終わらせるのかもしれない。あるいは、続けるのかもしれない。

 どちらにしても、もう私の場所はない。それだけは、はっきりしていた。

 キッチンの上の薬を見る。全部、揃っている。ちゃんと管理して、ちゃんと渡して、ちゃんと支えてきた。

 それでも、ここまで来た。全部、無意味だったわけじゃない。ただ、終わっただけだ。

 それだけ。そう思うと、少しだけ楽だった。私は薬を引き出しに戻して、水を流す。部屋は静かで、何も変わらない。

 ただ一つだけ、違う。

 ここにいる理由が、なくなった。それだけだった。

 少しだけ、息を吸う。迷いは、あまりなかった。

 ずっと前から、分かっていた気がする。こうなることは。

 元気になれば、出ていく。出ていけば、戻らない。

 順番通りだ。何も、間違っていない。

 だから。


 私は、ここで終わればいい。

 それだけの話だった。

 目を閉じる。最後に思い浮かぶのは、さっきの彼の顔だった。

 少しだけ、軽くなった顔。ちゃんと、生きていけそうな顔。


――治らなければ、ずっと私のものだったのに。


*****


 外に出た瞬間、空気が少し軽かった。

 久しぶりに、ちゃんと息ができる気がする。胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくり抜けていくみたいだった。

 駅までの道を歩きながら、何度か足を止めそうになる。

 振り返る理由は、いくらでもあった。

 でも、そのたびに、さっきの部屋を思い出す。

 カーテンの閉まったままの、暗い空間。静かで、落ち着いていて、守られている場所。あそこにいれば、たぶん、もうしばらくは楽に生きられる。何も考えなくていいし、何も決めなくていい。全部、整っているから。それでも、足は前に出る。

 ポケットの中でスマホが震える。

 取り出すと、メッセージが表示されている。

『着いたら連絡して』

 短い一文。

 少しだけ迷ってから、『今向かってる』とだけ返す。画面を閉じる。

 そのまま、もう一度だけ開きかけて、やめる。

 本当は、違うことを打つつもりだった。

 今日はやめておこう、とか。もう会わない方がいいと思う、とか。

 でも、それをここで送るのは違う気がした。ちゃんと会って、話した方がいい。そう思った。

 頭の中に、さっきの言葉が浮かぶ。

――ありがとう。

 本当は、もう少しちゃんと話すつもりだった。

 今までのこととか、これからのこととか。

 でも、うまく言える気がしなかった。

 あの部屋で、あのまま話し始めたら、たぶん戻ってしまうと思った。

 戻って、そのまま、また同じ時間を続けてしまう。

 それが悪いわけじゃない。

 むしろ、あれはあれで、ちゃんとした生活だった。

 でも。少しだけ、外に出てみて。ちゃんと決めた方がいいと思った。

 このまま続けるのか。やめるのか。

 どちらにしても、一度、終わらせないといけない気がした。


 駅の改札が見えてくる。人の流れの中に入ると、少しだけ身体が軽くなる。ちゃんと、動けている。それだけで、十分だった。

 ポケットの中のスマホに、もう一度だけ触れる。

 連絡しないと、と思う。落ち着いたら、直接ちゃんと話そう。

 さっき言えなかったことを。これからのことを。

 きちんと、伝えた方がいい。

 そう思ったのは、初めてだった。

 電車がホームに滑り込んでくる。ドアが開いて、人が乗り込む。その流れに合わせて、一歩前に出る。中に入って、つり革を掴む。

 扉が閉まる直前、部屋のことを思い出す。

 あのままにしてきた、薬と、水のこと。

 ちゃんと飲んでないな、と思う。

 帰ったら、また飲めばいいか。

 電車が動き出す。窓の外の景色が、ゆっくり流れていく。


 それをぼんやり見ながら、俺は一度だけ、深く息を吸った。

 それが、いつもより少しだけ、うまくできた気がした。


【終わり】

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