元気になるたびに、あなたはいなくなる
うつ病をテーマにした恋愛小説です。
薬の時間だよ、と声をかけると、彼は少しだけ顔をしかめた。
「あとで飲む」
布団に半分埋もれたまま、目も合わせずに言う。カーテンは閉め切ってあって、昼なのに部屋は薄暗い。スマホの光だけが、彼の顔を青白く照らしている。
「すぐ飲んだ方がいいって先生も言ってたでしょ」
「わかってる」
わかってる、と言うときの彼は、だいたい何もわかっていない。
私はベッドの端に腰を下ろして、コップを差し出す。彼はゆっくり身体を起こした。手は細くなって、前よりも骨ばっている。最初に会ったときは、こんな手じゃなかった。
「……ありがとう」
小さな声で言って、薬を飲み込む。その仕草を見届けてから、ようやく息を吐く。ちゃんと飲ませられた。それだけで、今日は少しうまくいった気がした。
「ご飯、どうする?」
「いらない」
「ゼリーなら食べられる?」
返事はない。スマホの画面をスクロールする指だけが、かすかに動いている。
この部屋にいると、時間の流れがよくわからなくなる。朝なのか夜なのかも曖昧で、ただ彼の状態だけが基準になる。調子がいい日と悪い日、その波に合わせて、私の一日も決まる。
それでいいと思っている。むしろ、その方がいい。
外に出なくなってから、彼はずっとここにいる。私がいないと、何もできない。ご飯も、薬も、連絡も。全部、私がやる。
最初は、不安だった。ちゃんと支えられるのかとか、壊れてしまわないかとか。でも、そういう気持ちはだんだん薄れていった。代わりに、もっとはっきりしたものが残った。
必要とされている、という実感。
彼のスマホが、ふいに震えた。短く、乾いた振動。
彼は一瞬だけ手を止めて、それから画面を伏せた。何も言わない。私も何も言わない。ただ、その一瞬だけ、彼の指の動きが少し速くなった気がした。
「誰?」聞こうと思って、やめる。聞かなくてもいい。今はまだ。
彼はここにいるし、どこにも行けない。外に出る気力なんてないし、誰かに会う余裕もない。だから、大丈夫だと思う。
大丈夫。そう思いながら、私は空になったコップを持って立ち上がる。
キッチンに向かう途中で、さっきの振動のことを、もう一度だけ思い出す。
もし、あれが。もし、外の誰かだったとしても。
――今の彼なら、何もできない。
シンクにコップを置いて、水を流す。それを見ながら、ふと、思う。
このまま、ずっと治らなければいいのに。
そうすれば、彼はどこにも行かない。どこにも行けない。ずっと、ここにいる。私のそばに。
そう思うのは、たぶん、正しいことだ。
彼のスマホが鳴る回数が、少しだけ増えた気がする。
前は一日に一度あるかないかだったのに、最近は、短い振動が何度か続くことがある。彼は画面を伏せたまま、見ないふりをすることもあるし、少し遅れてから手に取ることもある。
どちらにしても、私の前では開かない。それでも、完全に隠しているわけではなかった。
ある日の昼、彼が珍しくシャワーを浴びると言って、ベッドから離れた。水の音が浴室から聞こえてくる。ドアはきちんと閉まっている。
その間も、スマホはベッドの上に置かれたままだった。
通知が一度、震える。少しだけ迷って、私はそのままにしておこうと思った。見たところで、いいことなんてない。ないに決まってる。
でも、すぐにもう一度、短く震えた。
続けて、三回目。画面が光る。
名前が、表示される。知らない名前だった。
女の名前かどうかは、ぱっと見では分からない。ただ、登録されているということは、誰かではある。仕事の関係ではないはずだ。今の彼には、そういうつながりはほとんど残っていない。
視線を外そうとして、できなかった。指が、少しだけ動く。触れるだけなら、と思った。画面を開くつもりはなかった。ただ、通知の内容だけ確認して、それで終わりにするつもりだった。ほんの一瞬、それだけ。
指先で、画面を持ち上げる。暗いままの画面に、うっすら自分の顔が映る。一瞬だけ迷って、親指を置く。やめるつもりだったのにロックが外れる。
そのまま、メッセージの画面が開く。
『昨日はごめんね、急に帰っちゃって』
短い一文。それだけで、十分だった。スクロールしなくても、下に続いているのが分かる。既読の印がついていて、彼はもう読んでいる。返信も、している。文面までは見なかった。見ようと思えば、見られた。でも、それ以上は必要ないと思った。
もう、わかってしまったから。
水の音が、少しだけ強くなる。
私はスマホを元の位置に戻して、何もしていない顔で立ち上がる。心臓が、少しだけ速い。でも、息は乱れていない。不思議と、落ち着いていた。部屋の空気も、さっきと何も変わっていない。カーテンの隙間から、わずかに光が入っている。ベッドの上には、飲みかけの水と、薬のシート。
全部、いつも通りだった。ただ一つだけ、違うことがある。
彼は、元気なときに、外に出ている。
そういうことだと思った。ずっと、この部屋にいるわけじゃない。私がいない時間、あるいは、ほんの少し調子がいいときに、外に出る。誰かに会う。そのあとで、また戻ってくる。何もなかったみたいに、ここに横になる。そして、私が薬を飲ませる。
それが、今の彼の日常なんだと思う。
洗面所の鏡の前に立つ。自分の顔を見る。特に変わったところはない。いつもと同じで、ちゃんと眠れている顔をしている。泣きそうにも、怒っているようにも見えない。
ただ、少しだけ、納得している顔だった。
ああ、と思う。そういうことか、と思う。
元気になると、外に出る。外に出ると、誰かに会う。誰かに会うと、ここには戻ってこなくなる。
順番に並べると、とても自然だった。
だから。まだ、大丈夫だと思った。今の彼なら、長く外にはいられない。すぐに疲れて、戻ってくる。ちゃんと、ここに戻ってくる。私のところに。
水の音が止まる。ドアの向こうで、気配が動く。私は鏡から目を離して、いつもの顔をつくる。
大丈夫。まだ、何も壊れていない。
――治らなければ、いいだけだから。
夜になって、珍しく彼が自分から触れてきた。
最初は、ただ手を握られるだけだった。指先が、少しだけ強く絡んでくる。その力が、前よりもはっきりしていることに気づく。
「……起きてる?」
小さな声で聞かれて、私はうなずく。
暗い部屋の中で、彼の気配が少しだけ近づく。いつもなら、こういうときはすぐに離れてしまうのに、今日は違った。呼吸のリズムが、ゆっくり揃っていく。肩に触れる手が、迷いなく動く。そのまま、引き寄せられる。抵抗する理由はなかった。
むしろ、ずっとこうしてほしいと思っていた気がする。
彼の体温が、前よりもはっきり伝わってくる。力がある。腕の重さも、呼吸の深さも、どこかしっかりしている。
少しだけ、息が詰まる。嬉しい、と思った。同時に、違和感もあった。
こんなふうに、触れられる余裕があるんだ、と思う。
前は、もっと弱々しかった。触れることすら、負担みたいに見えた日もあったのに。
今日は違う。彼はちゃんと応えてくるし、途中で止まることもない。むしろ、私の方が追いつけなくなるくらいだった。
それでも、私は何も言わなかった。言いたくなかった。
ただ、そのまま受け止める。
彼が少しだけ息を乱して、力を抜いたあとも、しばらくそのままでいた。腕の中に収まっている感覚が、離れがたかった。
静かになった部屋で、彼の呼吸だけが聞こえる。さっきまでの熱が、まだ残っている。
「……久しぶりだね」
彼が、ぽつりと呟く。
そうだね、と答えながら、私は目を閉じる。
久しぶり。その言葉が、少しだけ引っかかる。
できなかったんじゃなくて、していなかっただけみたいな言い方だと思う。
それくらいの余裕が、もうあるんだ、と。
彼の指が、無意識みたいに私の腕をなぞる。その動きも、どこか落ち着いている。前みたいな、ぎこちなさがない。
回復している。ちゃんと、回復している。その事実が、ゆっくりと形になっていく。嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけ冷える。
ここまで元気になれるなら。
ここまで、普通に触れられるなら。
外にも、行ける。誰かにも、会える。
さっき見たメッセージが、頭の中で重なる。
昨日はごめんね。急に帰っちゃって。
――帰る場所は、ここだけじゃない。
彼の腕の中にいながら、私は少しだけ身体を固くする。
気づかれない程度に。
この温度が、全部自分のものじゃない気がした。
同じことを、誰かにもしているのかもしれないと思う。
同じくらいの力で、同じくらいの余裕で。
それでも、彼は今、ここにいる。ちゃんと、戻ってきている。
だから、まだ大丈夫だと思う。
そう思いながら、私は彼の背中に手を回す。
離れないように。逃げないように。少しだけ、強く。
――このくらいの元気なら、まだ、外には出られないはずだから。
帰ってきたとき、部屋はいつも通りだった。
カーテンは閉まっていて、電気もついていない。ベッドの上で、彼は横になっている。
「ただいま」
「……おかえり」
声は、ちゃんと返ってくる。それだけで、少し安心する。
キッチンに向かって、水を入れる。冷蔵庫を開けて、ゼリーを取り出す。いつもの動き。
彼は、ゆっくり起き上がる。
「……トイレ」
それだけ言って、スマホをベッドの上に置く。
ドアが閉まる音。水の音は、まだしない。
スマホが震える。短く、一度。通知の画面が、見える。見ようと思ったわけじゃなかった。ただ、視線がそこにあっただけで。勝手に、目に入った。
『今からでも来れる?』
短い一文。
名前も、ちゃんと見える。前にも見た名前。そのまま、画面が暗くなる。すぐに、視線を外す。何もしていないみたいに、元の場所に戻る。コップを持つ手が、少しだけ冷たい。
トイレの水が流れる音がする。ドアが開く気配。私はそのまま、振り返らない。
「ゼリー、食べる?」
できる限り、いつも通りの声で言う。
「……いらない」
彼の声も、いつも通りだった。
その日は、朝から少しだけ明るかった。カーテンの隙間から入る光が、部屋の中に細く伸びている。
彼は、もう起きていた。ベッドの上に座って、ぼんやりとした顔でこちらを見る。
「おはよう」
声をかけると、少しだけ間があってから、彼は小さくうなずいた。
「……おはよう」
その声は、前よりもしっかりしていた。私はキッチンで水を用意して、薬を並べる。
「薬、飲もうか」
振り返らずに言う。しばらくしてから、彼の足音が近づいてくる。でも、手は伸びてこなかった。
「……今日、いいや」
静かに言う。その言い方が、少しだけ違った。
「なんで?」
「もう、平気な気がする」
その言葉には、曖昧さがなかった。
私はゆっくり振り返る。彼は、ちゃんと立っていた。少し痩せたままの身体で、それでも、まっすぐに。
「最近、ありがとう」
ふいに、そう言われる。
何でもないみたいに。ただの区切りみたいに。言葉が、うまく返せない。
「……どうしたの、急に」
「いや、なんとなく」
彼は少しだけ笑って、それから視線を外す。その仕草が、もう“外の人”みたいだった。
「ちょっと、出てくる」
続けて言う。やっぱり、行くんだと思う。どこに、とは聞かなかった。聞かなくても分かるから。
彼は靴を履いて、ドアに手をかける。一瞬だけ、止まる。振り返りかけて、やめる。何かを言おうとして、飲み込む。
そのまま、ドアが開き、閉まる。静かに。それで終わる。それでも、少し待つ。足音が戻ってくるかもしれないと思って。ドアノブが回るかもしれないと思って。
でも、何も起きない。完全に、静かになる。そこで、ようやく気づく。
――戻ってこない、じゃない。
最初から、ここにいなかったんだと思う。
私が見ていたのは、外に出られない間だけの彼で。弱っている間だけの彼で。動けるようになれば、いなくなる人だった。
順番通りだった。何も間違っていない。ただ、私だけが、そこに残っている。
少しだけ、笑いそうになる。
ああ、と思う。全部、分かっていたのに。
わざと見ないふりをしていただけだった。
薬も。外出も。全部。
彼のためじゃなくて。私が、ここにいたかっただけだ。
必要とされている場所に。必要とされている自分で。その形のままで。
それが崩れるくらいなら。いらないと思った。
その瞬間、何かがきれいに落ちる。音もなく。引き止めるものが、なくなる。
水と薬が、視界の端にある。それを見て、少しだけ安心する。
ああ、もういいんだと思う。ここまでで、十分だった。
終わらせるのかもしれない。あるいは、続けるのかもしれない。
どちらにしても、もう私の場所はない。それだけは、はっきりしていた。
キッチンの上の薬を見る。全部、揃っている。ちゃんと管理して、ちゃんと渡して、ちゃんと支えてきた。
それでも、ここまで来た。全部、無意味だったわけじゃない。ただ、終わっただけだ。
それだけ。そう思うと、少しだけ楽だった。私は薬を引き出しに戻して、水を流す。部屋は静かで、何も変わらない。
ただ一つだけ、違う。
ここにいる理由が、なくなった。それだけだった。
少しだけ、息を吸う。迷いは、あまりなかった。
ずっと前から、分かっていた気がする。こうなることは。
元気になれば、出ていく。出ていけば、戻らない。
順番通りだ。何も、間違っていない。
だから。
私は、ここで終わればいい。
それだけの話だった。
目を閉じる。最後に思い浮かぶのは、さっきの彼の顔だった。
少しだけ、軽くなった顔。ちゃんと、生きていけそうな顔。
――治らなければ、ずっと私のものだったのに。
*****
外に出た瞬間、空気が少し軽かった。
久しぶりに、ちゃんと息ができる気がする。胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくり抜けていくみたいだった。
駅までの道を歩きながら、何度か足を止めそうになる。
振り返る理由は、いくらでもあった。
でも、そのたびに、さっきの部屋を思い出す。
カーテンの閉まったままの、暗い空間。静かで、落ち着いていて、守られている場所。あそこにいれば、たぶん、もうしばらくは楽に生きられる。何も考えなくていいし、何も決めなくていい。全部、整っているから。それでも、足は前に出る。
ポケットの中でスマホが震える。
取り出すと、メッセージが表示されている。
『着いたら連絡して』
短い一文。
少しだけ迷ってから、『今向かってる』とだけ返す。画面を閉じる。
そのまま、もう一度だけ開きかけて、やめる。
本当は、違うことを打つつもりだった。
今日はやめておこう、とか。もう会わない方がいいと思う、とか。
でも、それをここで送るのは違う気がした。ちゃんと会って、話した方がいい。そう思った。
頭の中に、さっきの言葉が浮かぶ。
――ありがとう。
本当は、もう少しちゃんと話すつもりだった。
今までのこととか、これからのこととか。
でも、うまく言える気がしなかった。
あの部屋で、あのまま話し始めたら、たぶん戻ってしまうと思った。
戻って、そのまま、また同じ時間を続けてしまう。
それが悪いわけじゃない。
むしろ、あれはあれで、ちゃんとした生活だった。
でも。少しだけ、外に出てみて。ちゃんと決めた方がいいと思った。
このまま続けるのか。やめるのか。
どちらにしても、一度、終わらせないといけない気がした。
駅の改札が見えてくる。人の流れの中に入ると、少しだけ身体が軽くなる。ちゃんと、動けている。それだけで、十分だった。
ポケットの中のスマホに、もう一度だけ触れる。
連絡しないと、と思う。落ち着いたら、直接ちゃんと話そう。
さっき言えなかったことを。これからのことを。
きちんと、伝えた方がいい。
そう思ったのは、初めてだった。
電車がホームに滑り込んでくる。ドアが開いて、人が乗り込む。その流れに合わせて、一歩前に出る。中に入って、つり革を掴む。
扉が閉まる直前、部屋のことを思い出す。
あのままにしてきた、薬と、水のこと。
ちゃんと飲んでないな、と思う。
帰ったら、また飲めばいいか。
電車が動き出す。窓の外の景色が、ゆっくり流れていく。
それをぼんやり見ながら、俺は一度だけ、深く息を吸った。
それが、いつもより少しだけ、うまくできた気がした。
【終わり】




