隣の善人
灰色の空から、音もなく雪が降り始めていた。
「神守村」の入り口、錆びついた停留所に立つ警視庁の刑事・大滝は、コートの襟を立てた。都会の喧騒で磨り減った神経に、この静寂はあまりに重い。
一週間前、この村で一人の男が死んだ。元週刊誌記者の久保田。彼はこの村の「過去」を暴こうとして、断崖から転落した。警察は事故と断定したが、久保田が最後に残した手帳には、村人全員の名前が書き連ねられ、その横にただ一言、「連鎖」と記されていた。
大滝は村を歩いた。
村の広場では、村長がにこやかに挨拶をし、商店の女将さんは「寒いでしょう」と温かい茶を差し出してくれた。どの顔も、どこにでもある善良な、そして穏やかな日本人の顔だった。
「久保田さんは、お気の毒でしたねえ。都会の人は、この村の崖の脆さを知らないから」
女将さんの言葉に、大滝は静かに返した。
「そうですね。でも、不思議なんです。彼の靴の裏には、この村の共有林にしかない特殊な防腐剤が付着していた。崖の上にはないはずのものです」
女将さんの手が、一瞬だけ止まる。だが、すぐに柔和な笑みに戻った。
「あら、山はどこも繋がっていますから」
捜査を進めるほど、大滝は「壁」に突き当たった。
青年部は、久保田が崖へ向かう道を車両通行止めにして逃げ場を奪った。
医者は、まだ息のあった久保田の救急要請を「電話の故障」として無視した。
老婦人たちは、事件の夜の物音を「何も聞かなかった」と口を揃えた。
誰か一人が殺したのではない。村という一つの生き物が、余所者を排除するために、細胞の一つひとつが役割を果たしたのだ。
「理由は何だったんだ」
村の集会所。大滝の問いに、村長が静かに、しかし冷徹に応えた。
「彼は、掘り返してはいけないものを掘ろうとした。三十年前、私たちが貧しさゆえに犯した、小さな、しかし消えない過ちを。私たちはただ、この平穏な村を、子供たちの代に汚さず渡したかっただけです」
「それは正義じゃない。ただの身勝手だ」
大滝の言葉は、薪ストーブの爆ぜる音にかき消された。村人たちの目に、敵意はない。あるのは、害虫を駆除した後のような、清々しいまでの安堵感だった。
翌朝。
証拠不十分。大滝は上層部からの圧力もあり、撤退を余儀なくされた。
村を去るワゴン車の窓から、彼は村の境界線を見た。
そこには、村人が全員、並んでいた。
村長も、女将さんも、青年たちも、子供を抱いた母親も。
彼らは手を振るわけではない。石のように動かず、ただじっと、去りゆく大滝の車を見つめていた。
その瞳は、一点の曇りもなく澄んでいた。自分たちは「正しいこと」をしたのだという、確固たる信念。
大滝は背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。
バックミラーの中で、村人たちの姿が小さくなっていく。
しかし、彼らの「視線」だけは、いつまでも大滝の背中に張り付いて離れなかった。




