北国の夜
昭和五十八年、二月。
小樽の港近く、海風が雪を巻き上げて街灯の光を白く塗りつぶす夜のことです。
「……しばれるねぇ」
厚手の外套についた雪を払うのもそこそこに、男は「おたふく」と書かれた煤けた暖簾をくぐりました。
ガラリと重い引き戸を開けると、鼻先をくすぐるのは、出汁の匂いと灯油ストーブの喉を焼くような匂い。そして、長年染み付いた安煙草の残り香です。
「いらっしゃい。雪、ひどくなってきたかい?」
カウンターの奥から、割烹着の上から厚手のカーディガンを羽織った女将の静代が、眼鏡を曇らせながら声をかけました。
「ああ、運河の向こうが見えないくらいだ。静代さん、まずは熱燗を二合。それから……身欠きニシンの煮付けをくれるかい」
男は、定位置であるカウンターの端、ストーブの熱が一番届く場所に腰を下ろしました。
店内には、古いブラウン管テレビから流れる夜のニュースと、石油ストーブが「コーッ……」と低い音を立てる振動だけが流れています。
「はい、おまちどうさま。まずは指先、温めて」
静代が差し出した徳利は、首のところが少し欠けていました。
男は猪口に酒を注ぎ、両手で包み込みます。かじかんだ指に血が通い始め、ジンジンと痺れるような熱を感じる。その一瞬が、北国の冬を生きる男にとって、何よりの報酬でした。
「……実はね、静代さん。今日、息子から手紙が来たんだ。東京で働いてる、あの出来の悪いのから」
男は猪口を置かずに、独り言のように言いました。
「まあ。なんて書いてあったの?」
「あっちも雪が降ったんだと。でも、こっちの雪とは違って、すぐ汚れて消えちまう情けない雪だって。……そんなこと言っておきながら、最後に『母さんの三平汁が食いたい』なんて書いてやがる」
男は照れ隠しに、一気に酒を啜りました。
静代は、おでんの鍋をかき混ぜる手を止め、ふっと目を細めました。
「いいじゃない。情けない雪だなんて言いながら、あの子、本当はここの雪が恋しいのよ。北国の人間はね、この刺すような寒さを知っているから、人の温もりの正体がわかるんだもの」
カウンターの反対側では、ずっと黙ってホッケを突いていた初老の男が、不意に顔を上げました。
「女将の言う通りだ。……俺も、三年前まであっちにいた。便利だったし、冬もマフラー一本で済んだ。でもよ、隣に誰が住んでるかも知らねぇ街で飲む酒は、どうも味が薄くていけねぇ」
初老の男は、自分の猪口を少しだけ上げ、記者である男に会釈をしました。
言葉を交わすわけではないけれど、雪に閉ざされた夜、この十坪にも満たない店に集まった者たちには、共通の「体温」がありました。
外は、さらに風が強まっています。
看板がガタガタと鳴り、窓ガラスが冷たさに軋んでいます。
けれど、店の中には、昭和という不器用で、けれど真っ直ぐな時代が、琥珀色の酒の中に溶け込んでいました。
「静代さん、もう一本。それから、三平汁を……三人前作ってくれ。あっちの旦那の分もだ」
「はいよ。特別に鮭の頭、たっぷり入れとくからね」
ストーブの上で沸騰するヤカンのシュンシュンという音が、今日一番の音楽のように店内に響きました。
扉一枚隔てた向こう側は、マイナス十度の氷の世界。
けれど、この「おたふく」の暖簾の内側だけは、人の情けが雪を溶かし、春を待つための止まり木となって、今夜も小さな灯を灯し続けているのでした。




