1-2 それ、呪いだよ
それから幽霊は猫みたいに気まぐれに、夷月の前に現れた。だいたいは夷月の部屋だが、時々学校に現れる。初めてのときは心底驚いた。いきなり机をすり抜けて顔を出し「元気?」と聞いてきたのである。絶対わざとだ。叫ばなかった自分を褒めたいところだが、必死で悲鳴を噛み殺す夷月を見て、幽霊はニヤニヤしていたので負けた気持ちになった。
おかげでどうやって学校を特定したのか、聞きそびれた。深く考えると怖いので、幽霊の超能力ということで無理やり納得した。
そんなこんなでゆるーく幽霊との交流は続いている。今日は学校に来たい気分だったらしく、夷月の背中に張り付いて両腕を首に回し、教科書を覗き込みながら耳元で「へぇー」とか「ふーん」とかいっている。地味に重い。幽霊に取り憑かれて肩が重くなるというのはこういうことかと、最初は感動した。慣れた今はただ重い。浮けるんだから浮いてほしい。
「これ、君の学力からすると退屈じゃない?」
授業内容を眺めていた幽霊が、そんなことを聞いてくる。声に出すわけにはいかないので、ノートの端に「退屈」と書いた。
周囲を見渡せば真面目に授業を受けるものと、堂々と寝ているものできれいに分かれている。夷月のように真面目に聞いているように見せかけて、全く聞いていない生徒もいるだろう。
頬杖をついて黒板に向かう教師の背中を見つめる。教師は振り返らない。振り返って寝ている生徒に気づいたとしても注意しない。ここにいるのは全員良いところのお坊ちゃまとお嬢様。機嫌を損ねて親が出てきたら面倒なことになる。だから教師はプログラムされた機械みたいに、淡々と授業を続ける。
つまらない。
これなら動画でいいじゃないかと夷月は思う。なぜか大人は子供を一箇所に集めたがるが、非効率だ。動画でいいし、リモートでいい。動画だったら好きなときに好きなものを見られるのにと、不満から無意味にシャーペンをカチカチ鳴らす。
「つまらなそうだねえ」
背後から同情の色を多く含んだ声が聞こえる。夷月はそれに応えずにシャーペンをカチカチと鳴らす。ノックボタンを何度も押しているうちに、使われることなく伸びきった芯がポトリとノートの上に落ちた。拾う気になれず手で払うと、ノートにかすかに黒いあとを残して芯は机の下へと落ちていく。
「ほんっと、つまんない」
ぼそりと呟いた声は思った以上に重苦しかった。小さな声でつぶやいたつもりだったが聞こえたらしく、隣に座っている女子生徒が肩をふるわす。大人しくて気の弱い子という印象はあったが、名前は覚えていない。怯えられようとどうでもいいかと夷月は息を吐く。またビクリと肩をふるわせたのが見えて、鬱陶しいなと思う。
どうせ親に、機嫌を損ねるなとでも言われているのだろう。
「君ねえ、もうちょっと自分の立場考えなよ。君が機嫌悪いとみんな怖がるでしょ」
後ろから呆れたような声が聞こえて、夷月は思わず振り返りそうになった。振り返って文句をいったらスッキリするが、明らかに不審者だ。羽澤家のご子息の頭がおかしくなったとなれば、教師は青い顔で夷月を病院に担ぎ込みかねない。それよりも先に養護教諭と校長が吹っ飛んでくるのだろうか。それを想像すると面白いが、父と母に心配をかけるのは本意ではない。
振り返りたい衝動を抑えてノートに「勝手に向こうが怖がってるだけでしょ」と荒々しい字で書いた。
夷月が何をしたわけでもない。勝手に向こうが羽澤家の威光に怯えて、父の怒りに怯えているだけだ。
父の響は面倒な家の当主をやっているとは思えないほど、穏やかな性格をしている。真っ当なことをしていれば怒るなんてありえないのに、ちょっとした事で周囲は怯える。そのお陰で夷月は、怪我をしそうな行事は軒並み参加していない。体育はもちろん課外授業なんてもってのほかだ。何かあったら責任とれないからだそうだ。
「君も苦労してるんだねえ」
同情の色が濃くなった。続いて頭をよしよしとなでられた。驚いて固まってしまったし、振り返りそうになるのを我慢するのに苦労した。やはり授業中に出てくるのは止めてもらいたい。
「響は響なりに、君のことを思ってこの学校に入れたんだよ」
子供のくせにやけに大人びた優しい声を出す。いや、見た目が子供なだけで夷月より年上なのかもしれない。この幽霊が何年幽霊をやっているのか夷月は知らない。聞いたら答えてくれるのだろうかと頭の隅で考えつつ、違和感に首をかしげた。
父さんのこと知ってるの?
ノートにそう書くと幽霊がだまりこむ。振り返ることが出来ないので表情が分からない。幽霊なので気配も薄い。どういう種類の沈黙なのか、想像するにも限界がある。
「……知り合いではあるかな。親しいかと言われると微妙だけど」
周囲に奇異の目で見られても振り返ってしまおうか。そう夷月が思い始めたあたりに、幽霊から返事がきた。といってもずいぶん煮え切らないものである。
直感的に幽霊の言っていることは嘘だと思った。勘に従うのであれば、この幽霊と響には浅からぬ縁がある。
といってもこれはあくまで直感なので証拠はない。短い付き合いではあるが、この幽霊はずいぶんとひねくれた性格をしている。素直に答えてくれるとは思えない。なにより変に踏み込んで機嫌を損ね、来てくれなくなるほうが困る。
夷月にとって幽霊の存在は、退屈すぎる日常を彩る最高のスパイスなのだ。
父さんは俺にここで友達作ってほしいのかな。
そうノートに書き込む。
話題を変えたい気持ちもあったし、前々から思っていたことでもあった。響がわざわざ夷月を羽澤の外に出したのは、外の世界をしって欲しかったからだというのは、母からも聞いていた。
響は羽澤の運営する学校に小・中・高と通い続け、大学になって初めて外に出た。そこで世間との価値観の違いに驚いたそうだ。
羽澤家が運営する御酒草学園は、授業のレベルでいえば国内トップと言っていい。しかし、身内ルールで運営されている。
羽澤内の階級が学校内でも影響し、本家の人間である響は友達を作るのにも苦労したそうだ。幸運にも信頼できる友人を手に入れることは出来たが、普通の学校であればもっと違ったのかもしれないと思うこともあったのだと聞いた。
そういった経験もあり、夷月には羽澤とは関係のない学校で気楽な友人関係を作って欲しいと響は望んでいる。そのために今の学校に入学させたのだが、羽澤という名はあまりにも有名すぎた。
誰もが羽澤という名前に響の姿を見て、莫大な資産と権力のある家だということを知り、気軽に付き合える相手ではないと怖じ気つく。そうでなければ親しくなった方が得だとすり寄ってくる。そんな状況で真っ当な友人など作れるはずもない。
けれど、友達がいなければ響が気にする。響が今の学校を選んだことを後悔していることも、転校させようにもどこがいいのかと悩んでいることも知っている。これ以上響に心労をかけるのは心苦しい。ただでさえ響は忙しいのだ。
そういった夷月からすると繊細な悩み事なのだが、相談出来る相手が今までいなかった。母やお手伝いさんに話したら響に報告がいくだろうし、ネットは身バレが怖い。だから夷月にしか見えない幽霊は貴重な相談相手だと思ったのだが、
「ここで友達つくるのは無理でしょ」
あまりにもあっさり幽霊は言った。顔は見てないが間違いなく笑っている。
思わず振り返って文句を言おうと思ったが、そうするよりも先に幽霊が前へと移動してきた。もっと早く来いと文句を言いたい気持ちを抑えて、顔をしかめる。幽霊はトントンと机を叩く。
「天板の裏、触ってみて」
いきなり何をと思いつつ机に手を突っ込む。夷月はあまり机に物をいれるタイプではなかったので、中身はスカスカだ。つるりとした質感は表のテーブルと変わらない。何をさせたいんだと思いつつ指を動かしていると何か、紙のようなものに触れる。それは天板に貼り付けてあるらしく、夷月はなんだこれと思いながら引っ張った。
あっさりと剥がれたそれを引っ張り出して、机の上に置く。ハートマークがたくさん描かれた可愛らしい桃色の封筒。表には宛名の代わりに「おまじない」と書かれている。
隣の席の女子が「あっ」と小さな声をあげた。おまじないなんて書かれているから、女子の間で流行っているものなのかもしれない。夷月には理解出来ないが女子はこのてのものが好きだ。小学校の時も消しゴムに好きな人の名前を書いて、誰にも見られずに使い切ると両思いになれるというおまじないが流行った。今回もその類いなのだろう。
しかし、いつからこんなものが貼ってあったんだろう。夷月が内心首をかしげた。自分の領域が勝手に侵されているみたいで気味が悪い。おまじないだとしても自分の机でやってくれと思っていると、幽霊がにんまりと人の悪い笑みを浮かべた。
「それ、呪いだよ」




