No.3 記憶
終末世界で少女とロボットは、記憶の片隅を覗く。
病院に着いた。
そこは、他の崩れたビルとはどこか違っていた。
骨組みは歪み、壁は剥がれ、窓はすべて割れているのに——どこか静かで、美しかった。
建物全体を、緑色の苔が覆っていた。
ただの湿気による腐食ではない。時間をかけて、何かが根を張り、そしてこの場所を包み込んでいったような、そんな静けさ。
破れた天井の隙間から、昼の光が斜めに差し込んでいる。
光は苔の緑を透かして柔らかく広がり、地面にかすかな蒸気のような揺らぎをつくっていた。
埃はすでに沈み、風も音もなかった。ただ、光と緑と、ふたりの足音だけがあった。
少女は、ぽつりとつぶやく。
「……きれいだね」
その声には、ほんの少し戸惑いと、ほんの少しだけ救われるような感情が混ざっていた。
開けた空間の奥、崩れた壁と瓦礫の隙間に、ぽつんと残った“ドア”のようなものがあった。
ドアというより、かつては自動扉だったような金属の枠が、歪みながらも立っている。
マイルズは躊躇なくその方へ向かう。
少女も、そのあとをゆっくりとついていった。
ふたりがそこをくぐると、急に空気が変わった。
その先は、病院の受付らしき空間だった。
天井は半分落ちかけていたが、壁には案内板がかろうじて残っている。
「初診受付」や「会計」といった文字が、朽ちたプラスチックにかすかに読み取れる。
カウンターの向こうには、誰もいない。
だが、そこにあった椅子や書類棚、端末の残骸たちが、「ここに誰かがいた」ことを静かに語っていた。
光が差し込み、埃がその中を泳ぐように漂っていた。
マイルズは受付の中央まで歩くと、ふと立ち止まり、ゆっくりと右手を上げた。
そして、目の前の空間に向かって、言った。
「記録地点に到達。記憶集積ポータルの3Dビジョン、再生を開始します」
マイルズの頭頂部が、ふいに淡く光を放った。
光は輪のように周囲へ広がり、空気がほんの少しだけ震えた気がした——次の瞬間。
そこに、光の中から人々の姿が浮かび上がった。
まるで霧の中から立ち現れるように、半透明の像が次々と形をなしていく。
受付カウンターの向こう、壁際のベンチ、入口の前、どこもかしこも、人で溢れていた。
スーツ姿の男、子どもを抱いた女性、車椅子に座る老人、看護師らしき人物。
その全員が、何かを話し、動き、時に笑い、時に怒鳴り、まさに“生きていた”。
——だが、それらはすべて光の映像だった。
実体はなく、音だけが周囲にざわめきを残していた。
少女は、しばし立ち尽くしていた。
目を見開き、まばたきもせず、映像の中の世界を見つめている。
「……すごい」
ぽつりと、声がもれた。
すぐに、もう一度。
「人で……いっぱいね」
彼女の声には、驚きと懐かしさ、そして少しの寂しさが混ざっていた。
世界にこんなにたくさん人がいたなんて、というような——そんな響きだった。
マイルズは、静かに答える。
「ポータルに登録された人物の記憶です。
記録が開始された場所は、この先の病室と思われます」
少女はそれを聞いても、すぐには動かなかった。
ただ、しばらくの間、映像を見ていた。
立体映像の中の人々が、通り過ぎ、誰かに声をかけ、笑い、手を振っていた。
そのすべてが、過去の記録。
けれど、少女にとっては、それが「本当にあったこと」のように思えた。
やがて、ゆっくりと顔を上げると、小さく言った。
「……じゃあ、行こうか」
まるで、次の記憶に会いに行くように。
マイルズは無言でうなずくと、少女の先に立って歩き出した。
映像の人々の間をすり抜けながら、かつて病室だった場所へと向かっていく。
少女もまた、そのあとを、静かに歩いていった。
長い廊下の先、かつて「〇〇号室」と呼ばれていたであろうプレートの外れた扉の向こうに、ひときわ明るい光が満ちていた。
そこは、病室だった。
しかし、今そこにあったのは、現実の病室の廃墟ではなく——
立体映像に映し出された「かつての病室の記憶」だった。
光の粒でできた空間の中、ベッドに横たわるひとりの妊婦がいた。
彼女の顔には汗がにじみ、息は浅く早い。
看護師たちが数人、その周囲に集まって声をかけ、慌ただしく動いている。
「いきんで! 大丈夫よ、もうすぐ!」
——その声は、記憶の中の声。
けれど、少女の耳にはまるで現実のことのように、はっきりと聞こえた。
妊婦のそばには、ひとりの男性がいた。
彼はおそらく夫で、妊婦の手を強く握っていた。
心配そうな顔、それでも不安を押し殺して彼女に言葉をかける。
「大丈夫……きっと、うまくいくから……」
光でできた人々が、まるで幽霊のように、しかし確かにそこに存在している。
マイルズが静かに言った。
「記録開始地点に到達。
この人物が、ポータルの登録人物です」
少女は、その声にうなずくこともなく、ただじっと映像を見つめていた。
彼女の肩が、わずかに震えていた。
その理由が、感情なのか、緊張なのか、自分でもわかっていないようだった。
——まるでそこに、“自分”がいるのではないか。
そんな錯覚すら覚えるほどに、映像はあまりにも鮮やかだった。
少女は息を呑み、静かに、その命の瞬間を見守っていた。
そして、ついに、その瞬間が来た。
妊婦の苦しそうなうめき声と、看護師たちの指示が重なる中、
小さな命が、産声を上げた。
「おぎゃあっ……おぎゃああっ……!」
その泣き声は、立体映像で再生された記憶の中のものであるはずなのに、
まるで今この部屋で、本当に赤ん坊が生まれたかのように、鮮烈だった。
少女は、思わず声を漏らした。
「……やった……」
それは誰に向けた言葉でもなく、ただこの瞬間に、心が動いた証のようだった。
映像の中で、夫が赤ん坊を見つめながら、呟く。
「……よかった……よかったよ……。
ずっと、ずっと迷ってた……
だけど、この世界の最後に……奇跡が……」
そこまで言ったところで、彼の声は途切れた。
涙が溢れ、嗚咽がそれ以上の言葉を奪っていく。
顔を覆いながら、彼は泣いた。
母親もまた、息を切らしながらも、満足げな微笑を浮かべていた。
「……やった……これでもう、悔いはない……」
看護師が、そっと赤ん坊を抱き上げて彼女に見せる。
「男の子ですよ」
母親は、その顔を見つめ、優しくつぶやいた。
「……名前……やっぱり、“未来”にした」
その言葉に、夫はうなずく。
「……そうだな。願わくば、この世界の終わりを……超えて、未来を見てほしいな」
そして彼は、懐から何かを取り出した。
それは、マイルズが数時間前に拾った、あのポータルだった。
「実は……立体映像で、記録してたんだ」
母親は、疲れた顔に、微笑みを浮かべる。
「……いいわね。あとでたくさん見ましょう。3人で、ずっと」
「……ああ、そうだな」
夫はゆっくりとポータルのスイッチを押した。
——そこで、映像は静かに途切れた。
立体映像の光がふっと消えると、
さっきまで命の誕生を描いていた病室は、
苔と崩れた壁に包まれた、ただの静かな空間へと戻った。
世界が、また現実に戻る。
少女は、しばらく黙っていたが、ふと口を開いた。
「……赤ちゃん、無事に生まれて……よかったね」
その声は、小さくて、優しかった。
そしてもう一度、言う。
「……“未来”って名前……
なんか……どっかで、聞いたことある……ような……」
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