No.2 名前
終末世界で、ロボットは少女と共に歩き出す
「ねえ、あなたの名前は?」
歩きながら、少女はふと思いついたように尋ねた。
ロボットは一瞬、足を止める。
「個体ナンバー……記憶回路を確認……欠損しています」
数秒の沈黙の後、平坦な声が返ってくる。
少女は眉を上げた。
「名前も忘れちゃったの? 忘れん坊さんなのね」
からかうような言い方だったが、声は柔らかかった。
ふたりは、崩れたビルの隙間から延びる道なき道を進み、大きな水たまりの縁に出た。
青白い空を映した水面に、ふたりの姿が逆さまに浮かんでいた。
金属の体と、痩せた少女の影が、並んで水辺を歩いていく。
「じゃあ、名前つけてあげる。マイルズね」
少女は突然言った。
「私が飼ってた犬の名前。優しくて、でもちょっと鈍くて。あなたっぽい」
ロボットは足を止め、無言で彼女を見つめた。
その沈黙が、ほんの少し長く続いたあと——
「……個体ナンバー消失のため、個体名“マイルズ”に上書きします」
機械の声で、けれどそれは、受け入れるという意思のようにも聞こえた。
少女は満足そうに微笑む。
「うん、よし。よろしくね、マイルズ」
そのまま、水たまり沿いを再び歩き出す。
⸻
「どこにいく?」
少女が何気なく尋ねると、マイルズの目が再び淡く光った。
「周辺情報を解析中……半径100メートル以内に“記憶集積ポータル”を確認。地形データ収集のため、ポータルのデータを回収しに向かいます」
「……キオクシュウセキ、ってなに?」
少女の口から、ぎこちなくその単語がこぼれる。
マイルズは即座に応じた。
「記憶集積ポータルは、登録した人物と同期し、ポータルが記録開始地点に近づいた際、登録人物の記憶を**三次元映像(3Dビジョン)**として再現します」
「へえ……」
少女はふーん、と短く息を漏らすように言った。
そして、すこしだけ間をおいて、ふと尋ねる。
「じゃあ……私のお母さんも、見れるのかもしれないの?」
声は静かだった。だが、その奥に、わずかな期待と、同じくらいの不安が混じっていた。
マイルズは歩みを止め、空を向いていたセンサーをわずかに下げた。
「誰かがその人物をポータルに記録しており、かつそのポータルを記録を開始した地点に持っていくことができれば、可能です」
少女は、そっとまばたきをした。
水面に映る彼女の目は、さざ波に揺れていた。
しばらく進むと、二人の前に、ぽつんと立つ電柱が現れた。
傾きかけたそれの根元に、小さな装置が転がっていた。灰色の円筒形、錆に覆われ、半分土に埋もれている。だが、表面には今もぼんやりと、青いランプが灯っていた。
マイルズは立ち止まり、その装置に向かって静かに腕を伸ばす。
指先の隙間が開き、中から細く銀色のコードが伸びた。それはまるで、神経のようにゆっくりと動きながら、装置の下部にあるソケットへと差し込まれていく。
「……家庭用小型記憶集積ポータルを発見。保存を確認。データを収集します」
無機質な声が、電柱の影に響く。
少女はしゃがみ込み、その装置をじっと見つめた。
「これが、“ポータル”っていうのね」
彼女の声には、少しだけ不思議そうな響きがあった。
数秒後、マイルズのセンサーが緑色に点滅する。
「データ100%、保存しました」
そう言うと、マイルズは無造作にその装置からコードを引き抜き、ポータルを地面に置いた。いや、「置く」というより、興味を失ったかのように捨てた、という方が近い所作だった。
少女は少し眉をひそめ、装置を拾い上げる。
「これ、いいの? 捨てちゃって」
マイルズは平然と答えた。
「記憶集積ポータルのデータは収集済みです。今後、当該ポータルが記録開始地点に近づいた場合、マイルズ本体から三次元映像の再生が可能です」
少女はしばらくその装置を見つめ、それからマイルズの顔を見上げた。
「……あなた、けっこうすごいのね」
その言葉には、純粋な驚きと、少しの尊敬が混ざっていた。だがマイルズは、やはりいつもの平坦な声で何も返さない。
少女は、ポータルを腕に抱えるようにして立ち上がった。
まるで、大切なものを見つけたかのように。
「でも、なんか気に入っちゃった。……持ってくね」
そう言って、彼女は装置をぎゅっと抱きしめながら、また歩き出した。
マイルズも、何も言わずにそのあとをついていく。
マイルズの目がふたたび淡く光り、機械的な声が静かに響いた。
「記憶集積ポータルのデータより、半径300メートルの地形データ……およびポータルに保存されている地点の地形データを記録、保存します」
ロボットの目がわずかに動き、東側の斜めに崩れたビル群の方角を向く。
「……ポータルの記録開始地点は、ここから150メートル先の病院の映像です」
少女は、腕に抱えたポータルを見下ろし、少し口を開けたままその言葉を反芻する。
「びょういん……」
マイルズの頭部から、もう一つ別の方向へと視線が伸びた。
「……半径300メートル以内に、別の記憶集積ポータルを発見」
少女は、しばらく考えるように口を閉ざし、目を細めた。
風がまた、コンクリートの瓦礫の隙間を抜け、少女の髪をなでる。
「……でもさ、まずは、最初のポータルのとこに行ってみない?
“三次元映像”ってやつ、見てみたい」
期待と好奇心が混ざった声。
それは、何かが始まることを予感する響きだった。
マイルズはしばらく黙っていた。
応答の合図も、動作音もない。ただ、静かに、彼は方向を変えた。
少女の言った「病院」へ向かって、歩き出す。
少女は、マイルズの無言の意思を読み取るように、微笑む。
彼女もまた、歩き出す。
瓦礫を踏み、埃を巻き上げながら。病院跡地のある方角へ。
崩れた街の片隅で、少女とロボットの小さな影が並んで遠ざかっていく
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