第一幕 やっぱり彼女は欲しいよね ①
〈理樹視点〉
率直に言って。
自分が一般的とされる、いわゆる『普通』から乖離した独特な感性を有していることを、利根理樹という青年は自覚していた。
とはいえそれは、無闇に人を傷つけたいだの、異能に目覚めたいだの、さしたる努力もせずに取っ替え引っ替え異性を侍らせたいだのという、そういう致命的な齟齬ではない。
むしろ理樹としては、無用に人を傷つけたくはないし、波乱万丈よりも安定が欲しいし、多くの異性に時間を割くくらいならただひとりに時間を投資する方が、効率的だと考えている。
少なくともそうした考え方は、他者との集団生活を送る上で何ら支障をきたさない、個人の自由裁量のうちだ。
彼が問題だと思っているのは、己の『決断力』と、それに追随する『取捨選択』である。
例えばかつて、小学校に通っていた理樹は、登校中に車に轢かれて瀕死となっている子猫を発見した。
歪に潰れた腹部。折れ曲がった四肢。アスファルトを汚す赤黒い染み。焦点の合っていない虚ろな瞳に、細くか弱い喘鳴。
一目見て、もう助からないとわかる重症である。
あと数分と経たないうちに、この小さな命の灯火は潰えるのだろうと、何の知識も持たない小学生ですら直観するほどの惨状であった。
「あっ、ねこちゃんが死んじゃう! かわいそう!」
「ぼ、ぼく、ママをよんでくるね!」
「うわああああん!」
当然のことながら。
一緒にいた他の子どもたちは小慌状態だ。
駆け寄るものの、どうしていいのかわからずに狼狽える少女。
とりあえず最も頼れる大人を呼びに駆け出す少年。
泣き喚く年下の子どもたち。
そうした彼らの無意味で無駄で無価値な行動こそが『普通』なのだと、当時の理樹は、気づくことができなかった。
「……それよりみんな、はやく学校に行こうよ。このままだとチコクしちゃうよ?」
「……っ、りきくん、なんでそんなひどいこと言うの!? ねこちゃん、かわいそうじゃない!」
「それはまあ、そうだけど……でももう、そのネコは助からないよね?」
理路整然と。
噛みつく少女にも納得してもらえるように、事実だけを並べていく。
「だったらそれよりも、ちゃんと学校に行ったほうが、みんなが怒られることもないし、いいことだよね? それでもどうしても気になるなら、ネコのことは先生にでも言いなよ」
あれから十年以上が経ったいま思い返してみても、別にその判断が、間違っているとは思わない。
(……だって、『仕方がない』じゃないか)
あのままその場に留まっていたところで、自分たちにできることなど何もないし、駆けつけた大人が病院に連れて行ったところで、子猫の命が助かるわけではない。
つまりあの場所に、自分たちが残る必要性が見出せない。
ならば無駄な時間には見切りをつけて、有用な学校生活に勤しもうという判断は、じつに合理的な結論であり、有限である時間の最適な運用方法であるはずだ。
それでも。
「……っ、サイテー! りきくんって、サイテーだよ!」
「りきおにいちゃん、ねこちゃんが、かわいそうだよ……っ!」
「うわああああん! うわああああんっ!」
その場にいた、子どもたちの同意は得られなかった。
であるなら多勢に無勢。
多数に自分ひとりの意見を強弁しても『仕方がない』ので、けっきょく子どもに呼び出された誰かの母親が駆けつけ、市役所に連絡するからあとのことは任せてと、子どもたちを強引に学校に送り出すまで、理樹はその場を動けなかった。
さらにその後、少年の言動に怒りを覚えた少女の告げ口によって、当時のやりとりを聴き取りした先生は、わざわざ放課後に呼び出した樹里に対して、非常に後学となる忠告をしてくれた。
「利根くん、それはあなたが悪いわ」
――と。
事実、それから何度も樹里が周囲から乖離した意見を口にするたびに、周りの人間たちとの不協和音が生まれて、自分が奇異の瞳で見られてしまうことに、幼いながらもようやく気付く。
自覚する。
ああ、僕はちょっとだけ、おかしいんだな……と。
けれどもそれを上手く取り繕っていかないと、人付き合いが必要とされる社会においては、効率良く生きていくことは難しい。
だから『仕方がない』ので、そうした自分の特異性は極力、押し殺していく方針にする。
けれどもやはり、生来の性質などは、そう上手く隠し通せるものではなくて。
どうしても、ふとした折に、顔を覗かせてしまうことが度々あった。
となると人付き合いそのものを、必要最低限まで削ってしまうのが効率的であると、少年が思い至るようになるまでそう時間はかからない。
そうした短い学生時代を経て、
社会に出て働き続けた二十四年間。
そのような価値観で生きてきた樹里に、友と呼べるような人間など片手の数ほどもいない。
ましてや恋人など、常に時間に追われる日々のなか、貴重な時間を割いてまで、探す気すら起きなかった。
人生歴が童貞歴とイコールなのも当然である。
(……う〜ん。我ながら、なんとも味気のない人生観だなあ)
などと、寝ぼけた頭で過去を振り返り。
達観しつつ。
(でもこんな僕にも彼女ができるんだから、人生って何が起きるかわからないなあ……)
昨日までは童貞で『あった』青年は、同じ寝台に横たわる、昨晩自分を『大人』にしてくれた女性の姿をじっと見つめる。
本人にそれを伝えれれば、陳腐だと笑われるかもしれないが、それでもそのように表現するしか思いつかないほどの、人間離れした美貌であった。
透き通った滑らかな肌。
凹凸に富んだ肢体。
均整の取れた長い手足。
寝台の上に広がる黄金の海のような長髪。
黄金比で形作られた顔の造形に、先ほどからじっとこちらを見つめ返してくる、宝石のような翡翠の瞳。
理樹の二十四年間における人生において、初めてできた彼女である。
「……気は、済みましたか?」
声音までもが天上から降り注ぐ鈴音の如く、美しい女性が、自分の裸体を眺めながらぼーっと物思いに耽っていた青年に問いかける。
「それとももう一度、致しますか?」
「……いや、今はいいや」
昨晩あれほどハッスルしたのだ。
いくら理樹が若いとはいえ、まだ回復が追いついていない。
それよりも。
「う〜ん……」
「……何か、問題でも? もしや私の肉体や所作で、何か至らない点でもございましたか?」
「いや、君の身体は素晴らしかったよ。技術面も申し分なかった。っていうかあんなテクニック、どこで覚えてきたの?」
「なるほど、つまりは技術に至る経験値、つまりは私の処女性について不満を持たれていると? 理樹様は処女厨という癖なのですね」
「いいや全然? あんなの、内臓の一部だろ? そんなものに女性の価値を見出す感性のほう、僕には理解できないよ」
「……そうですか。では私の浅慮な憶測を謝罪いたします。申し訳ありませんでした」
「いいっていいって」
互いに遠慮を残しながら。
全裸の男女が、寝台で言葉を交わしていく。
「でもこういうのって、なんというか恋人『らしい』よね。お互いの価値観を認めて、その溝を埋めていく過程がさあ」
「概ねその意見には同意できますが、そのような小賢しい理屈を語るのは、世の女性たちにとってはあまり好意的でない行為であると統計学的に判断されますよ?」
「ぐはあ!」
「……ちなみに私の性知識は、あくまで一般教養の範囲内です。あとこの肉体における処女性は昨晩まで確保されていたので、その点は誤解なきよう。なんならシーツを確認いたしますか?」
「……いや……いいよ……デリカシーを欠いた、僕が悪かったよ……」
「そうですか」
などとは言うものの。
美の化身と称して間違いのない女の声音に抑揚は乏しく、表情に変化もない。
淡々と、無機質に。
青年の言葉に反応するだけの、
精巧な人形のようですらあった。
「それで、でしたら先ほどはなぜ、十二分と三十四秒も私の顔及び肢体を眺めていらっしゃったのですか? 問題解決のため、具体的な回答の提示を要求します」
「あ、なんかその言い方も、異性受けは悪そうだよね。これがブーメランってやつ?」
「いいから早く」
「あ、はい」
言葉に稚気を感じなかったので、
理樹は素直に答えることにする。
「いやね、こうして昨晩はとても得難い経験をさせてもらったわけだけど……これで、よかったのかなって? だって僕たちが出会ったのも、恋人関係になったのも、昨日が初めてなわけじゃない? これって普通なの? 普通じゃないよね?」
理樹は自らの異質性を自覚している。
だからこそ努めて、普通であるようにと心がけている。
そういった観点で鑑みるに、昨晩の自分がとった行動は、我ながら、周囲の共感を得られるとは思わないものであった。
(まあ異性の誘惑に抗えない男の情動を実体験できたっていう意味では、有益な経験値だとは思うけど)
この後に及んで、未だにそんな屁理屈じみた感想を抱く青年に対して、美女はなんら迷うことなく返答した。
「惹かれ合う雌雄が子孫を残すため、性行為に及ぶことは、極めて自然な在り方です。そして人間社会においては金銭などを介して、年老いた個体が若い個体へ種の保存交渉を持ちかけるという、極めて効率的な文化も存在するらしいではないですか。よって昨晩の私たちの行為には何の問題もなかったと、判断いたします」
さすが昨晩、樹里が「恋人同士って何するんだっけ?」と問いかけると真顔で「性行為でしょう」と宣って、戸惑う青年を寝台に押し倒して有言実行しただけのことはある。
男女の営みに対する迷いがまるでない。
まるで発情期の犬猫のようだ。
「まあ……仮に問題があったとすれば、理樹様が私の脇や足の裏に、異常な興奮を覚えていたという点でしょうか。それこそまるで、発情した畜生のように」
「ごめんってナチュラルにこっちの内心を見透かさないでくれる? 普通に怖いから。あと金銭を介した性交渉はだいたい犯罪の類だから、そこはちゃんと覚えておいてね?」
「なるほど……やはり人間という種族は、他の生物にはない複雑怪奇な社会性を構築しているようですね。興味深いです」
言葉だけの微小な変化ではあるものの。
本心からそう思っているらしい美女に、この人も大概変わっているよなと、考えてしまう青年である。
「まあ、そういうワケでさあ……やっぱり僕たちの関係って、普通とは言い難いと思うんだよね。別に僕個人としてはそれも他者を侵害しない自由裁量のうちだと思うんだけど、妹はさ、ほら、すっごく真っ当な感性の持ち主だから。こういう関係に、嫌悪感とか覚えちゃわないかなーっとか思ったり」
「……一般的な感性、という点でのお話であれば、そのような男女間のデリケートな話題において、妹様の比重を大きく置くことがそもそも、一般的なそれとは言い難いのでは?」
「え? マジで?」
自分という存在証明に欠かせない家族を恋人よりも大事に考えるのが、何故に世間一般においては奇異とされるのか、その思考体系が理解できない。
自分のそういうところが周囲との溝を生むのだと、青年はまたひとつ、学びを得た。
「うん、ありがとう。やっぱり他者との会話っていうのは、すっごく大事だね。勉強になるよ。それでえっと……今更なんだけど、キミって、なんて呼べばいいのかな?」
「……本当に、今更の質問ですね」
女は無表情のまま呆れてみせるという、
じつに器用な反応を実演してみせた。
何ならこれまでのやり取りのなかで一番、
人間らしい反応である。
「そうですね……我が主より与えられた私の尊き名を人間風情が口にできるとは思いませんし……ここは、アンジェとでもしておきましょうか。これなら理樹様でも、問題なく発音できるでしょう?」
「うん、人間を貶しているのか気遣っているのかわからないけど、とりあえず了解だよ、アンジェ」
「ええ。今後とも……というには短い気もしますが、少なくとも貴方が異世界に転移するまでの一年間は、不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
そう言って。
相変わらず何を考えているのかわからない絶世の美女……アンジェは。
彼女との交際を条件のひとつとして、これより一年後に異世界に転移することを受け入れた青年……理樹に対して。
恭しく、頭を下げたのだった。
【作者の呟き】
無表情、クール、塩対応……あとは、わかるな?




