第三幕 僕の愉快な異世界ライフ ②
〈理樹視点〉
(う、う〜ん……)
深い、微睡のなかから。
ゆっくりと意識が浮上する。
(ああ……早く起きて、仕事に行かなきゃ……って、あれ? 僕はもう、働かなくていいんだっけ? むしろ傍を離れたら怒られるんだっけ? って、誰に? 莉子ちゃんに? いや、そうじゃなくて、莉子ちゃんはもう元気になってて、僕を罵りながら甘えてくるのは――)
ひとつひとつの記憶が、繋がって、連結して、個人の基盤である自我を形成していく。
そしてその根幹。
今や理樹という存在を認識するうえで、
なくてはならない存在といえば――
(――アンジェ!)
【……ようやく、お目覚めですか理樹。この私を五十年以上も待たせるとは、貴方も偉くなったものですね】
呼ぶ声に、内容に反して喜色を隠せていない女の声が、脳内ですぐに返事をしてくれた。
耳朶ではなく、身体の内側から響いてくる声音によって、一気に理樹の意識が覚醒していく。
(そうだ……僕の身体は……異世界に転移して……でもあの邪神に嵌められて……だけど権能になってくれていたアンジェに助けられて……でも転移した先で死んじゃって……それでそのあと、どうなったんだっけ?)
【こうなりました】
耳に馴染む、淡々とした女の声とともに。
真っ暗闇な世界に光が差し込んで、視界が広がり、世界を認識する。
そこには薄暗い空間の中において、枝先に無数の幻想的な光を灯す、見上げるほどに巨大な樹が聳え立っていた。
「うっわ……何これ、でっか……」
思わずそう呟いてしまうほどに、軽く目測百メートルを超えるであろう巨木は、圧巻の光景だった。
形状としては、傘を広げた広葉樹である。
しかし理樹が知る前世のそれとは比べ物にならない規模であり、大地に根付く幹は高層ビルの如く重圧でありつつ、あふれんばかりの生気に満ちていた。
遥か頭上に広がる枝木はどこまでも広く、深く伸びており、視界に収まりきらない。
また大樹の枝には着飾るように、遠目には奇妙な果実のような、繭のようにも見える物体が無数に垂れ下がっており、それらがトクントクンと、鼓動を刻むように淡く明滅している。
さながら、祝福された聖誕樹のように。
夜空に瞬く星々の輝きを宿す巨大樹は、暗闇に包まれた空間において、世界を照らす、巨大な松明となっていた。
「………………すっご」
幻想的で、圧倒的で、神秘的な光景を前にして。
不意打ちでそれを見せつけられた理樹が呆然としてしまうのも、無理はない。
【どうですか、見事なものでしょう? この五十年余りで、私がここまで育てました。褒めていいですよ?】
「いやほんと、すごいねえ! 絶景だねえ! 素晴らしいねえ! いよっ、天才育木者! こんなの世界中の樹々が嫉妬しちゃうよお!」
【えっへん】
「……で、いちおう聞いておくけど、あれ何? そして僕って五十年も意識を失っていたの? マジで?」
一通りノリツッコミした後で。
興奮冷めやらぬ理樹は、それでも聞き流せぬ情報を、脳内の天使に確認する。
【この世界の時間単位は前世と同一なので、その認識で間違いありませんね。私のような美女を五十年も待たせるなんて、理樹はひどい男です。ぷんぷん】
「ごめん、ごめんってえ、アンジェ。機嫌直して? あと表情がないから感情を言葉で表現してるんだろうけど、ちょっとあざと過ぎない? 正直萌えるんだけど?」
【ぷんすこ】
「かわよっ!」
とはいえ言葉ほどに、彼女の機嫌が損なわれていないことは、明白である。
むしろ機嫌はいい。
超がつくほどの上機嫌だ。
こんなの、前世で莉子が初めて彼女を「おねーちゃん」と呼んだ日ぐらいの、ハイテンションだった。
(……つまり本当に、それだけの長い間、アンジェを待たせてちゃったんだろうなあ)
なにしろ、彼女の言葉を信じるなら、五十年だ。
短いはずがない。
そしてそれだけの時間が経過してもなお、自分のことを待ち続けてくれていた存在に、自然と胸のうちに込み上げてくる感情がある。
「……アンジェ」
【はい】
「ありがとう。愛しているよ」
【ええ、存じております】
「いやあきっと、キミが想像している以上に僕は、キミのことを愛していると思うよ? なんなら莉子ちゃんと並ぶくらいだ」
【それはつまり、世界と同列という意味ですね?】
「いや、それ以上だ! キミたちのほうが、僕にとっては世界よりも、よっぽど大事な存在だよ!」
【それは……主に使える天使としては、思うところのある発言ですが……まあ女としては、悪い気はしませんね。理樹にしては上等な賛辞だと、評価してあげましょう】
「それはどうも」
五十年ぶりの戯れを、楽しみながら。
理樹は己の身体を見下ろし、葉っぱで拵えた腰蓑を巻いただけの全裸を視認して、呟く。
「まあ、このさい服のことはどうでもいいんだけどさあ……なんか腹筋、バキバキ過ぎない? 手足もなんか筋肉質だし……これ、ホントに僕の身体?」
【そうですよ? 以前の肉体と、身長や体格は寸分変わらずに再現したはずですが?】
「そうかなあ……? こんなに僕、細マッチョだったかなあ……?」
【……まあ少しばかり、私の主観が混在している可能性は、否めませんが……】
つまりアンジェから見て理樹は、
このように見えていたということか。
恋は盲目とは、よく言ったものである。
(なんだかこのぶんだと、顔の造りも怪しいなあ……)
無性に自分の容姿を確認したくなって、キョロキョロと、理樹は周囲を見渡してみる。
すると天を覆う巨大樹の幹とは反対方向に、チョロチョロと流れる流水の音色を拾った。
(うえっ……この耳、高性能過ぎない? あと視力もやばい。めちゃめちゃ遠くにある小川がはっきり見えちゃう)
もしやと思い、試しに地面を蹴ってみると……
ドンッ!
「んぎっ!?」
信じられない推進力を得てしまった。
勢いに押されるように一歩、二歩と、踏み出す間に肉体は前傾姿勢となって、さらに加速。
明らかに常軌を逸した速度を持って、剥き出しのゴツゴツとした地表を駆けていく。
「ちょっと待って怖い怖い怖い自分の身体が怖い! 何、この加速性能!? 原付なんて目じゃないんですけど!?」
【ここは理樹の前世においてははほとんど意味を成さなかった、魔素の働きが強い世界ですからね。肉体もそれに応じたものに調整すると、自然とそうなってしまうのです】
「冷静な補足説明ありがとう! でも今はそんなのいいから止めて! もうなんか、自分で止まるのが怖い! 急ブレーキかけたらそのままロケットみたいに吹っ飛んでいきそうなんだけど!?」
【……? 別にいいではありませんか。私は気にしませんよ?】
「僕が気にするんだよチクショウ! 意識を取り戻して早々に、こんなことが原因で死ぬかもとか間抜けが過ぎる!」
【だからその肉体がどうなろうと、どうでもいいじゃないですか】
「キミ本当に僕のこと愛してくれてる!?」
先ほどの遣り取りは実は自分に都合のいい幻聴だったのではないかと、別の意味で恐怖を覚えてしまう理樹であった。
【それに……どのみち、そろそろ操作範囲外です】
時間にして一分ほど。
ゆうに数キロメートルは移動した頃合いに。
「んなっ……!?」
まるで操り人形の糸が途切れたかのように。
ガクリと、全身から力が抜けた。
「あだだだだ痛ッばばばば……ッ!」
ズガガガガッ……と、盛大にずっこける。
凄まじい勢いで大地を削りながら、地面を横転する理樹であるが、その視界に、新たな驚愕が映り込む。
「……ッ!? はああッ!?」
『グオオオオオオオオオ――――ッ!!!!!』
【……おやおや、せっかちさんですね。待ちきれずにここまで来てしまいましたか】
「いや、アンジェさん!? 何冷静に呟いてるの!? あれ、竜! 見るからに強そうなドラゴン様じゃないですかねえ!?」
膨大な慣性が尽きたことで、
ようやく停止した地表から。
見上げる青年の視界を覆い隠すのは、
天より飛来した巨大な黒竜であった。
西洋風の幻想譚に出てくるような、蜥蜴に翼を生やしたような外観を有するドラゴンの、尻尾を含めた全長はゆうに三十メートルを超えるであろう。
全身を覆う黒鱗は見るからに硬そうで、冷たい輝きを帯びており。
丸太のように太く分厚い四肢の先端には、人間など容易く握り潰せてしまえる巨大な五本の指と、それに相応しい鋭利な爪を備えている。
瞳は金色で、縦に裂けた瞳孔を収める爬虫類じみた頭部は、見るものに畏怖と憧憬を抱かせる、神々しさと威厳を形作っていた。
そのような巨大黒竜が、一直線。
脇目も降らず、理樹を目指して落下してきて……
「……あ」
プチュンと、踏み潰されてしまった。
当然ながら理樹の意識は、
そこで途絶える。
〜 間抜けな僕の異世界転移&転生譚、完 〜
【作者の呟き】
うそうそ、まだ続きますよ。