第三幕 僕の愉快な異世界ライフ ①
〈理樹視点〉
通算三度目となる〈門〉を通り抜けた直後に、理樹の視界を、闇が覆った。
「……ぐっ、かはっ! おええええっ!」
のみならずに全身が苦痛を訴え、嘔吐。
脳内をグチャグチャに掻き乱されるような頭痛に苛まれ、その場に立ってなどいられない。
倒れるようにして地に臥して、喉を掻きむしりながら苦悶の喘鳴を漏らす理樹を、悼む声があった。
【やはり……そうきましたか、あのゲスめ。本当に、度し難い……っ!】
脳内に響く美声には、
現状が正確に理解できているようだ。
その事実が少しだけ、沸騰していた青年の脳裏に、理性の灯火を宿した。
(アン、ジェ……これはいったい……どういう、状況……っ!?)
【申し訳ありません、理樹。やはりあの下級神は、どうしても貴方を抹消したいようです。おそらくここは、この世界でもっとも人族が生き難い環境……すなわち封印された魔樹迷宮の、最深部といったところでしょうか。前世で濃密な酸素が毒となり得たように、この世界を構成する要素のひとつである魔素は、濃度が高まれば耐性のない生物にとっての毒となります】
肉体を失い、喋ることしかできない彼女にとっては、それしか理樹の苦痛を和らげる術がないのだろう。
必死に感情を抑制して、状況を説明するアンジェの言葉に、理樹は意識を集中させる。
【よって世界でもっとも魔素の濃い場所であるこの空間は、生身の人間にとっては毒の泉に浸けられた状態に等しいと言えます。あと数十秒と経たないうちに、理樹は死にます。そうしてあくまで『自分の関与していない状況で転移者を喪った』と主張する邪神は、新たな異世界人を補充する算段なのでしょう。転移先の選定はその世界を管理する神の権限ですから、ギリギリで、神の契約に抵触しないラインを見極めて策謀を巡らすあたり、腹ただしいことこの上ありませんが、必ずあの邪神には、然るべき報いを与えます】
(ははっ……そりゃ、はやまったねえ……あの野郎……アンジェを、てきに、まわすだなんて……)
意識が朦朧としていた。
全身が冷たい。
血の気が失せていくのがわかる。
命が潰えようとしてるのが、理解できる。
(ああ……ぼく……しんじゃうのか……)
【いいえ、死にません。死んでも、私が貴方を死なせません】
脳内に響く女の声が、矛盾した発言をする。
しかしその声音には確固たる、
決意が込められていた。
(はは……そっか……じゃあ……あとは、たのんだよ……)
【ええ、安心して、おやすみなさい。理樹】
そして、優しい声に包まれながら――
理樹という異世界人は、死んだ。
⚫︎
〈アンジェ視点〉
理樹という青年の肉体が活動を停止したため、境界線を失った体内魔力が、破損した器から漏れる水のように、周囲の体外魔力へと溶け出していき、霧散していく。
器の内部を満たしていた魔力がなくなったため、ついには生物の核である魂魄が肉体という楔から解き放たれて、精神世界よりもさらに深い根源世界へと還魂するために、物質世界から乖離し始める。
【今です!】
その瞬間に、理樹の魂魄と一体化していたアンジェは、魂の一部に刻まれた『権能』を発動した。
この世界の住人が修練や才能によって後天的に獲得する魔法とは根底から異なる、まさしく神の恩寵と称すべき奇跡が、青年の魂で産声を上げた。
【頼みますよ、〈輪廻転生〉!】
先ほどアンジェが自ら見繕い、ロキシルの目を欺いて理樹の魂に刻みつけたギフトの名を〈輪廻転生〉と言う。
効果は『対象が死亡した際に、一度だけその魂魄を新たな器に転生させる』というもの。
とはいえこのギフトは、はっきり言って、数多ある神託権能の中では、ハズレに分類されるものだ。
なにせ人の意識とは――魂とは。
通常、自らが死を迎えてなお、自我を保っていられるほどに強くはない。
肉体の喪失とは自我の崩壊と同義であり、先ほど『何もない空間』で危うく意識を手放しかけていた理樹のように、通常であれば死んだあとに発現するこのギフトを、意識のない人間が扱える道理がないのである。
最悪の場合、意識のないまま〈輪廻転生〉が発動して、そのへんの草木や虫に転生した魂が、生前の自我を保ったまま、新たな生涯を終える可能性すらありえる。
仮にいくら心身を鍛えて強靭な肉体と強大な魔力を有していようと、このギフトで転生するのはあくまで魂魄に付随した諸々に限られるため、そうした前の器の性能には期待できない。
これらを総合して、数多ある並行世界においては堂々たるハズレ認定を受けるギフトであるが、しかし理樹に限っては、それらの例が適応されない。
何故なら彼には、彼を支えるもうひとつの権能〈守護天使〉がいるのだから。
【ここまでは、私の予想通りの展開……であるならば!】
先ほどロキシルと言葉を交わした時点で、彼の悪意に気付いていたアンジェは、思考を先読みすることで、この展開を予想していた。
だからこそ、神々の規定に従った恩恵授与において、この権能を選択したのだ。
【あの堪え性のないクズはまず確実に、最短で、己の手を汚さずに理樹が死ぬ場所へと、転移させてくることは読めていました。となると転移先は人族が生存できないほど魔素濃度が濃い場所であり、私が散々に『魔樹迷宮』という単語を刷り込んでおいたから、あの無能な単細胞が、無意識にそこを選ぶ確率は決して低くはありません】
実際に怒り心頭ではあったのだが。
同時に、過度に激昂したフリを装いつつ。
水面下では言葉による刷り込みを仕込んでいたアンジェの目論見は、見事、成功していた。
【……っ、あった!】
彼女の制御下にある〈輪廻転生〉の転生対象は、権能所有者が死亡した場所から、一定範囲内にある生物に限られる。
そしてここは魔樹迷宮。
それもこの世界においては無数にある、魔生樹から発生した魔樹迷宮などではなく、この世界を創りたもうた創造神が自ら手掛けた世界最古の魔生樹。
この世界に四柱しか存在しない『世界樹』を擁する、神代魔樹迷宮なのである。
しかもその最下層。
つまりは神代魔樹迷宮の核である世界樹にもっとも近い場所で、転生を果たす理樹が、選ぶ対象など決まっている。
【あとは私の演算能力が、魂の書き換えに耐えらるかどうか……っ!】
一世一代の挑戦を前にして。
肉体を有さない美女の魂が想い描くのは、
愛しい男と過ごした幸福な日々。
一年間の、甘美な記憶。
最初は興味本位からの行動であった
前世の世界を管理する上位神自らが選定した魂の所有者に、転移交渉を円滑に行うため遣わされた天使が、物珍しい珍妙な生き物に対する好奇心のようなものを、抱いたに過ぎない。
しかし身体を重ね、心を通わせ、時間を共有することで彼女の心に変化が生まれて。
興味が好奇に。
好奇が好意に。
そして好意が愛情に昇華するまで、
そう時間はかからなかった。
つまり――
【恋する乙女に、不可能などありません!】
仮に恋人の意識があれば間違いなくツッコミを入れるであろう発言を堂々と宣った天使は、見事に、有言を実行したのであった。
【作者の呟き】
異世界転移からの俺ツエエエする前に転生のパターン……
新しいかと思いましたが、掘り尽くされているジャンルですので、先駆者の方はいそうですよねえ……