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翠雨の社と彼の秘め事

 しとしとと降り続く雨は夜になっても止まず、古びた社を外界から切り離す。柔らかに拒絶されているようだ、と包帯を巻く手を止めた翠はぼんやりと思う。

 

「翠、まだ終わらないの? 子猫たちが待ってるわ」

 

 翠に与えられた小さな個室の襖を誰かが開ける。鋭い爪のあるその手の持ち主は、猫のお嬢と呼ばれるひとだ。今は、猫耳としっぽを残したままの人の姿をとっている。

 

「やっぱり、自分でやるんじゃ大変なんでしょう。ほら、貸しなさい」

 

 声と共に、翠の手から包帯がひょいと奪われた。

 

「あ、待ってお嬢。俺、自分で……」

「さっきから見てたけど、手が止まってたわよ。あたしがやってあげるわ。それに、そんなに美味しそうな匂いをさせてるから、味見したくなってきたじゃないの」

 

 翠は、この狭間に迷い込む前から負っていた怪我が癒えていない。傷はまだふさがっていないものも多く、血が滲んでいる。うっすらと漂うその匂いも、猫の嗅覚なら充分感じ取れるのだろう。

 そっと翠の右腕に顔を寄せた猫は、ざらついた舌で傷口を舐める。

 

「い……っん、う」

 

 丹念に味わうように、それとも、精一杯労って手当てするように。血を綺麗に舐めとってしまうと、彼女は意外にも手際よく包帯を巻き終えた。

 

「なかなか治らないものね」

「や……、見ないで。俺の身体、傷だらけでみっともないから……」

「そうね」

 

 彼女の短い肯定の言葉に、翠の肩がびくりと跳ねた。先ほどの痛みとは違う理由で潤んだ深い緑の瞳を、おそるおそる猫へと向ける。

 

「あなたに傷痕をつけた奴らは許さない。あたしの翠を、人間ごときが傷つけただなんて生意気よ」

 

 憮然とした表情で、茶トラ柄のしっぽをばしばし叩きつける彼女の苛立ちが向いているのは、どうやら自分ではないらしい。そのことに翠は、ほんの少しだけ安堵する。

 

「あたしだって、ずっと残るような傷痕はまだつけていないのに」

 

 次の傷にとりかかった彼女だが、未だくすぶる怒りのせいか鋭い爪が翠の肌に食い込む。

 

「……っ。お嬢になら、いいよ。だって、俺はお嬢のだから」

「そうよ、あなたはあたしのもの。だからこんな傷、早く治しちゃいなさい」

 

 彼女は傷を舐めるのを再開する。猫の舌はひりつく痛みを残しはしても、傷をつけることはない。けれど誘惑に抗いきれなかったように、鋭い牙が時おり肌を掠める。

 

「ぅあ、く……っん」

 

 いつか彼女に喰われる時も、こんなふうに牙を突き立てられるのだろうか。想像は甘やかな痛みと共に、翠の脳裏を駆ける。

 けれど、彼が押し殺した苦痛の声を耳聡く聞き取った猫は、ぴたりと動きを止めてしまう。

 

「……翠」

「やだ、やめないで……。まだ食べてくれないって言うなら、お願い、俺に傷を残して。そしたら、いつかお嬢が俺のこと食べてくれるって思えるから」

「今回、だけよ」


 彼女は、翠の細い首に狙いを定めたらしい。ゆっくりと近づくほど、人より熱い猫の吐息が首筋をくすぐる。

 理性的に振る舞いつつも、金緑の瞳は抑えきれない欲に揺れている。そんな時の彼女の瞳は、ひときわ美しい。

 そんなあやかしらしい目と、どこか遠慮がちだが深く刻み込むようにじわじわ突き刺さっていく牙に、翠はぞくりとする。

 

「あ、う……っ。ん、痛……っく、んうぅ」

 

 異質な色の目を持つせいでずっと虐げられてきた翠にとって、傷つけられるのはよくあることだった。大切に扱ってくれたのは、人ですらないこの猫が初めてだ。そんな彼女が時おりつける傷は愛おしく、その痛みだけは心地よい。

 いっそこのまま喰われたいと、そう願うのはどうやら歪なことらしい。けれど役立たずと罵られ続けた翠でも、彼女のための糧になれるのなら、それ以上の幸福はないと思うのだ。

 

 翠の表情は苦痛に歪みながらも、エメラルドの瞳は恍惚としている。それをわかっていて、彼女も途中で止めたりはしないのだ。

 傷口から溢れた血の最後の一滴までじっくりと味わい尽くして、ようやく猫は牙を抜いた。

 

「ごちそうさま、美味しかったわ。……翠?」

「は……ぁ、う」

 

 ぐらりと体勢を崩した翠を、猫は受け止めた。彼はそのまま体重を預け、ぐったり寄りかかる。普段は誰かに触れるのもためらう翠らしからぬ行動だ。

 

「翠? どうしたの?」

「う、ごめ……、お嬢。くらくらする……」

 

 翠の顔は血の気が引いて蒼白になり、辛そうに眉根を寄せている。浅い呼吸はいつもより少し早く、それが不安なのか控えめではあるが縋るように猫の背中に手を回す。

 

「ごめんなさいね、ちょっと貰い過ぎちゃったみたいね。大丈夫?」

「ふ、っう、はあ……っ。ん、大丈夫……。慣れてる、から」

 

 どうすればいいのかわからないながらも、彼女は不慣れな手つきで翠の背を撫でた。すると、強ばっていた翠の身体から力が抜けたのがわかる。

 

「それ、落ち着く……」

「あら、あなたが素直に甘えてくれるなんて珍しい」

 

 猫のしっぽは機嫌よく揺れる。まだぼんやりする頭の片隅で、彼女が満足げにしているのを翠は嬉しく思うのだった。

 

 と、とたとたと軽い足音が近づいてきたかと思えば、襖が勢いよく開け放たれた。室内に飛び込んできたのは、ここで共に暮らしている子猫たちだった。

 まだ力を使いこなせず、ひとりでは生きていけない化け猫や猫又の子供を、この社で庇護しているのだ。きっと弱くて脆い人間である翠も、彼女にとっては似たようなものなのだろう。

 

「あー、お嬢ここにいた!」

「翠も! ぼくたち待ちくたびれたよぅ」

 

 小さな子猫たちが無邪気にじゃれついてくる。甘えてすりついてくるのは、眠たい時のしぐさだ。彼らの暖かな体温につられて、翠も眠気を誘われる。

 それに気づいた彼女は、本来の姿である大きな猫に戻った。くるりと丸くなり、一番暖かいそのまんなかに翠と子猫たちをまとめて包み込む。

 

「ん、お嬢……」

「いいから、今は眠りなさい。おやすみ、愛しい子」

 

 優しい声に甘く溶かされるように、翠はふわふわの毛並みに身をゆだねたのだった。

 

 

           *

 

 

  新緑の草木を濡らす雨が降ったある日。この狭間の主である化け猫が憂鬱なあくびをしながら顔を洗っていると、面倒を見ている子猫たちが社へ飛び込んできた。

 

「お嬢、社の前に人が落っこちてるよ」

「ぼろぼろだし、血の匂いが濃いの。死んじゃってるのかな」

 

 もしそうなら面倒だ。もはや神と崇められることはなくなりつつあるとはいえ、この社を中心とした異界を作れるほどには、まだ力あるモノなのだ。

 そんな自分の縄張りに死体を棄てていくとは不敬な、と憤慨しながら猫はのっそり動き出す。これだから雨の日は憂鬱だ。

 人の姿に化け、社の入口に立てかけていた和傘を取る。これで雨に濡れずに済む。傘とは便利な道具だ。人が作ったものであるがゆえに、いちいち人の姿をとらなければ使えないことだけが難点だが。

 

 社を出てみれば、確かに小さな鳥居の下で誰かが倒れていた。

 うつぶせで髪に隠れた顔は見えないが、体格からして青年と少年の間くらいの年頃だろうか。その身にまとうつぎはぎだらけの着物は、ところどころ血に汚れている。雨のせいで匂いが消えて、今まで気づけなかったようだ。

 

「ねえ。ねえ、あなた生きてる?」

「……っ、う」

 

 呼びかけに反応して、かすかに少年の指先が動き、猫の耳でなければ聞き逃してしまいそうな呻き声を上げた。

 遠くから様子をうかがっていた子猫たちも、おそるおそる近寄ってくる。

 

「お嬢、どう?」

「まだ生きてるわ。死にかけたせいで、こちらに迷い込んできてしまったのね」

「あれ、この子、村で仲間外れにされてた子だよ」

「仲間外れ? どうして?」

「それは……、あ」

 

 猫たちの見つめる先で、少年がうっすら目を開けた。一番近くにいた彼女を映し込むのは、吸い込まれそうに美しい深いみどり色の瞳。

 

「だ、れ……」

「神、になり損なった化け猫よ」

「神、様……? ……っねがい、たす、け……」

 

 途切れ途切れに言葉を紡ぎ、彼は力尽きたように意識を失った。

 

「目の色がね、他の人とは違うからなんだって」

「こんなに綺麗なのに? 人間は見る目がないのね」

「ねー。それに、ぼくたちにごはん分けてくれたり撫でてくれたりする、優しい子なんだよ」

「あら。あなたたちがお世話になったのなら、そのお礼はしなきゃいけないわね。あたしも、この子のこと気に入ったわ」

 

 猫は軽々と少年を抱き上げて社へ戻る。気に入ったものを拾うのは彼女の癖で、子猫たちもそうして保護された。故に彼が人間であることなど気にせず、新入りが増えたとしっぽをぴんと立てて楽しげに後を追う。

 

「ここに棄てていったんだもの。あたしのものにしてもいいってことでしょう?」

 

 妖しくもどこか酷薄な笑みと、答えなど最初から求めていない問いを鳥居の向こうに投げかけ、化け猫はぴしゃりと社の戸を閉めたのだった。

 

 少年の怪我はかなりの重傷だったらしく、雨に濡れたせいもあってか高熱を出して眠り続けている。身体のそこかしこに包帯を巻かれたその姿は痛々しい。

 猫が拾ってから二日後、ようやく彼は目を覚ました。深い森の深緑を映し込んだ湖のような瞳がゆっくりと開いていく様に、猫は見惚れてしまう。

 

「俺、生きてる……?」

「そうね。おはよう、お寝坊さん」

「なんで、俺なんか助けて……っ」

 

 掠れた言葉が引っ掛かったようで、彼は軽く咳き込んだ。水を飲ませてやりながら背をさすれば、予想以上に薄い。こんな身体で暴力を受ければ、寝込んでしまうのも当然だ。

 人間など、化け猫から見れば子猫のように弱くて脆い。けれどだからこそ、ひとたび気に入った相手は守ってやりたくなる。

 

「あたし、あなたのこと気に入ったもの。それに、助けてって願ったでしょう? なり損ないとはいえ、神であるあたしに」

「でも俺、返せるような物は何も持ってないよ」

「願いの対価ならもう貰ったわよ。あなた自身をね」

 

 少年は困惑して首を傾げる。自分に価値があるとも思えず、あまつさえ求められることすらわからないようだ。

 

「あちらから見れば、あなたは神隠しされたってこと。あなたはもう帰れないし、帰すつもりもないわ」

 

 それが、人でないモノに魅入られた人間のたどる道だ。だが少なくとも、現状から彼を救うことはできただろう。

 

「なんで、そこまで……」

「色々あるけれど、一番はこれよ」

 

 猫の手が顔にかかる長い前髪を上げれば、少年の翠色の瞳がさらけ出される。

 はっとした彼は、まだうまく動かせないらしい腕で目を隠そうとする。

 

「見ないで……。俺の目、色おかしいし見たら不幸になる化け物の目って言われてるから」

「あら、そうなの。でもね」

 

 立ち上がった彼女は、本性である猫の姿になる。虎にも劣らない大きな猫だ。それを見ても少年が恐れないのは、もし襲われてもどうでもいいと思っているからだ。

 

「化け物っていうのは、あたしみたいなモノのことを言うのよ。あなたの瞳は綺麗なだけだわ」

「綺麗、なんて……そんな訳ない」

 

 言葉には力がある。繰り返し掛けられるほどに、言霊は重みを増して呪いのようになっていく。彼にとっても、他人とは違う色の瞳は忌むべきものでしかないのだろう。

 

「こら、隠さないの。もったいないじゃない」

「や、嫌……っ」

 

 怪我と熱で弱った彼の抵抗など、あってないようなものだ。けれど不用意に押さえつけては、かえって傷つけてしまうかもしれない。その可能性に思い至ると、猫も強くは出られなかった。

 そこへ、部屋の片隅で丸くなって眠っていた子猫たちが駆け寄ってきた。

 

「あ、起きてる!」

「遊んでるの? ぼくらも混ぜて!」

「わっ」

 

 飛び込んできた子猫たちに彼が戸惑っている隙に、猫は壁際にある行李を漁る。確かちょうどいい物があったはずだ。

 目当ての物を見つけて、少年に差し出す。

 

「どうしても隠したいのなら、これを使いなさい」

「猫の、お面?」

 

 それは白猫を模した木製の面だった。青い模様に彩られて華やかなそれは、昔通っていた参拝客がいくつか手作りして奉納してくれた物だ。

 

「これからのあなたは、あたしに仕える猫よ。それでいいじゃない」

 

 面は正体を隠して、別の者になるにはうってつけだ。人間はあやかしのようには化けられない。それでも、この面が支えになればいい。

 

「猫なら、緑の瞳だってよくある色でしょう? あとは、名前も必要ね。新しいあなたになるんだもの」

 

 頬に手を添え、猫は彼の美しい瞳に自分の姿を映す。

 

「あなたの名前は翠よ。初めて見た時から、この名前が良いって思ってたのよね」

「名前をつけたってことは、この子はお嬢のになったってことだよね!」

「ここで暮らすんだよね、帰さなくていいんだよね!」

 

 期待の眼差しに彼女が頷くと、子猫たちは再び少年に飛びついた。

 

「わーい、弟だ!」

「わたしたちが色々教えてあげるからね!」

「ぼくたちが守ってあげるからね!」

 

 すり寄ってくる子猫たちを呆然と受け止めていた彼だったが、じわりと瞳が潤んだかと思えば、水晶のような涙をこぼした。

 

「あ、れ……?」

 

 自分でも驚いたようだが止まらないらしく、ほろほろと溢れ続ける。

 

「翠、どうしたの? 傷が痛む? それとも気分でも悪いの?」

「ううん……」

 

 首を振って否定したものの、彼は声もなく肩を震わせる。子猫たちも困ったように耳を伏せて、少年と化け猫とを交互に見るが、どうしたらいいかわからないのは彼女も同じだった。

 泣いているというより、言葉にしきれない感情の代わりに涙が溢れているといった風で、ひとまずは辛そうでないことに安堵する。

 

「擦ったらだめよ、腫れちゃうでしょう」

「でも、……ん」

 

 ざらついた猫の舌を這わせ、彼の頬をつたっていたひとしずくに口づけるようにして舐めとる。翠を一目見た時からずっと、惹きつけられる香りがしているのだ。

 ようやく口にした甘露のように甘くいとおしいその味は、鮮烈な印象を残しながらもさらりと消えゆく。

 最後の一滴までじっくり味わい、化け猫は満足げに唇を舐めた。無意識に浮かべた蠱惑的な笑みはどこまでもあやかしらしく、彼女が人でないことを雄弁に語っていた。

 

「なあに、翠。あたしの顔をじっと見たりして」

「あの……、猫の神様」

「なり損ないって言ったでしょう。そんなに堅くなくてもいいわ」

 

 子猫の片割れであるサビ柄の猫が彼の耳元に近寄り「わたしたちはお嬢って呼んでるよ」と助言する。翠がぎこちなく礼を告げれば、嬉しそうに片耳をぴるんと揺らした。

 

「お嬢の本当の姿だって、綺麗だったよ。あのまま食べられても構わないって思うくらいに」

「あら……。ふふ、そんなこと言われたら本当に食べたくなっちゃうじゃない」

「うん。お嬢になら、いいよ」

 

 あやかしとの約束事は絶対だ。足を踏み入れれば帰れない異界と同じように。その選択がもたらす結末が不幸なものなのかは、きっと誰にもわからない。

 

 

           *

 

 

 どたどたと賑やかに駆け回る足音が聞こえて、目が覚めた。いつの間にか、雨は止んでいたようだ。

 雨の日は好きだ。傘をさしてしまえばこの異質な色の瞳も隠せるし、何より村の人とあまり顔を合わせずに済む。そうして心地よい雨音に耳を傾けながら、自由に出歩ける日が好きだった。

 

「あなたたち、はしゃぎ過ぎよ。翠が起きちゃったじゃないの。もっと静かになさい」

「はーい」

「ごめんなさーい」

 

 軽く謝りつつ、子猫たちはじゃれ合いを再開した。かわいらしい戯れに、思わず頬がゆるむ。そんな俺を、お嬢がじっと見つめていた。

 

「翠は、よく笑うようになったわね。良いことだわ」

「そう、かな」

「笑った時のあなたの瞳は、雨上がりの葉が陽の光を浴びて輝くみたいに綺麗なのよ」

 

 知らないでしょう、とゆったりしっぽを揺らす。憂鬱な雨が降り止むのは、猫にとっては良いことなのだろう。そんな言葉で今日も、彼女のお気に入りである俺の目は綺麗だと伝えるのだ。

 

「でも、まだ眠そうね」

 

 本来は夜行性なのに、お嬢たちは人である俺の時間に合わせて生活している。そのせいか特に子猫たちは早起きで、早朝には元気よく遊んでいる。

 

「夢、見てたから……。お嬢が俺のこと、助けてくれた日の夢」

「それは……、あたしの見てた夢があなたにも移っちゃったのね」

 

 夢なんて、移るものなのだろうか。疑問に思ったが、彼女は力ある化け猫にしてこの社に祀られる神だ。そういうこともあるのだろう。

 鼓動に合わせて新しい傷が痛みを主張して、思考が妨げられる。昨夜、お嬢に刻まれた首筋の傷だ。触れると丁寧に包帯が巻かれている。ゆるくもきつくもないのは、傷だらけの俺の手当てをするうちに上達してしまったからだ。

 

「痛む?」

「……ん。でも、大丈夫」

 

 しょっちゅう殴られたり蹴られたりしていた俺にとって、痛みは常につきまとう不快なものでしかなかった。

 けれど、お嬢のは違う。痛みだけでなく、甘やかな余韻を残していく。理不尽な暴力ではなく、俺なんかを必要としてくれているのがわかるからだ。

 人の信仰を糧とする神としての性質と、人を喰らって力を増すあやかしの性質を併せ持つ彼女にとって、両方の条件を満たした俺はご馳走らしい。血はおやつ程度のものらしいが、それだけでも満足そうなお嬢を見ると、役に立てたことを実感できて嬉しい。

 

「無理はだめよ。まだ早いし、あたしと二度寝でもしましょう」

 

 長くしなやかなしっぽに器用に絡めとられ、もふもふの大きな身体に受け止められる。人より高い猫の体温に包まれ、遠のきかけていた眠気が戻ってくる。

 

 眠るのは、少し怖い。お嬢に大切にされ、子猫たちに慕われるこの穏やかな暮らしは、夢のように縁遠いものだったから。

 罵られ、虐げられてきた日々。食べる物にも困り、朽ちかけた小屋の硬い床で眠っていたあの頃に、目が覚めたら戻っていそうで。

 

「……翠」

 

 優しくそう呼ぶ声が、俺を繋ぎ止めている。名もない化け物だった俺を、『翠』という一人の人間にしてくれたひと。

 彼女に食べられたいという思いに、迷いはないのに。この声を聴いていると、まだもう少しだけ『翠』としてお嬢のそばにいたいと願ってしまう。

 あと少し、それが夜が明けるまでのほんの束の間であっても、もう少しだけ。

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