翠雨の社と猫のささめきごと
銀糸のような雨に閉じ込められた古びた社。心地よさそうに雨音に耳を傾けながらも、丸くなって眠っている一匹の猫。虎に勝るとも劣らない、大きな化け猫だ。
害獣であるねずみを退治するため大切にされ、崇められたことで、ただの化け猫ではなくなった。しかし神にもなり損ねた、半端な存在。だが今でも彼女を慕う化け猫や猫又たちからは、『猫のお嬢』などと呼ばれているのだった。
憂鬱なあくびを一つして、気だるげに毛繕いを始める。と、何かの気配を察知した茶トラ柄の耳がぴるんと反応した。
「お嬢、猫のお嬢。やっぱりここにいた」
雨にけぶる新緑の中に映える、くすんだ赤の和傘をさした少年がやって来た。
顔の上半分を覆い隠す白猫の面を着け、和服から覗く手足はところどころ包帯が巻かれている。少し前に、あやかしの住まうこちら側に迷い込んできてしまった人間だ。
「あら、翠。ちょうど良かったわ、あたし退屈していたの。上がってきなさいな」
ゆうらりとしなやかなしっぽを振り、化け猫は彼を誘う。
翠と呼ばれた少年は、大人しく化け猫の言葉に従い、彼女のそばに侍る。年季の入った傘は穴でもあいていたのか、翠の服はしっとりと濡れて雨の気配を纏っている。
外出の出来ない雨天は、猫にとっては憂鬱だ。反射的に苛立ちを覚える。
「わっ。お嬢?」
猫は前足で彼を倒し、上体を押さえつけて着物を舐める。毛皮と違って、すぐに乾かないのが服の厄介なところだ。
「面、邪魔ね。外すわよ」
「や、嫌だ……っ」
猫は、彼と同じくらいの年頃の人の姿に変化する。化け猫であったために今でも変化は出来るが、猫耳としっぽが残る不完全なものだ。そして翠の言葉を聞き入れず、猫の姿の時より器用に動く人の手で、しゅるりと面の紐をほどいた。
あらわになったのは、名前通りの翠色の目。涙で潤むさまは、輝くエメラルドのよう。それを翠は、腕で隠してしまう。
「こら、隠さないの」
「だって、こんな色は変だ……。この目のせいで、俺は……」
「あたしは好きよ、綺麗じゃない。だからよく見せてちょうだい」
いくら男でも、あやかしと人の力は比べ物にならない。彼女は難なく抵抗する翠の腕をどかす。劣等感にまみれて逸らされる緑の瞳を存分に堪能してから、猫は彼の腕を解放した。
「あ……。お嬢、今日こそ俺を食べてくれるんじゃないの?」
「それはまだ先の話よ。でも、そうね。味見くらいはしてあげるわ」
さっきから、甘い血の香りがしているのだ。腕をどかした時に、化け猫の長い爪が食い込んでしまったようだ。
白い包帯に、痛々しく赤が滲んでいる。傷はここに来る前から負っていたものも、新たなものもある。少し力加減を誤れば、脆い人間の身体はすぐに傷ついてしまうのだから。
彼を押し倒した体勢のまま包帯をほどき、白い腕をつたう血を舐めとる。猫は怪我を舌で手当てするが、人はそうではないらしい。それでも何もしないよりはマシだろうと続けるが、鋭い牙や爪がまだ塞がっていない傷口を時おり掠める。
「……っ、く。い……つぅ」
耐えることが当たり前で、けれど抑えきれずに洩れた翠の苦痛の声を、猫の耳はしっかりと拾う。はっとして、彼女は動きを止めた。
「……翠。もうやめておきましょう」
「痛くても構わない。お嬢になら、食べられてもいい……」
甘美な誘惑が、猫の背筋をぞくりと駆ける。供物を捧げられれば糧になる。なり損ないの神とはいえ、力が満ちる感覚は心地よい。
神は人間の信仰心があってこそ成り立つもの。彼女が今でもただの化け猫以上の力を有していられるのは、翠がいるからだ。それをどこかで解っている彼は、そこに自分の必要性を見出だしてしまった。
「今ここで、あなたを食べ尽くす気はないわ。もったいないもの」
「お嬢はいつも今度、また今度って……。俺は、それしか役に立てないのに」
猫の頬に触れた翠の手はひんやりとしていて、少し震えていた。
その手をとり、彼のエメラルドの瞳からこぼれる涙も、猫は味わう。それは甘露のような極上の味。口づけるように優しく触れても、ざらついた猫のままの舌は後を引く痛みを残す。
「ご馳走さま。一瞬で食べられてしまうより、こうして長く尽くしてちょうだい。そうしたら、一欠片も残さずに味わい尽くしてあげるわ」
「本当?」
「ええ。いつか……、ね」
もっと味わいたい、食べ尽くしたい。けれど、苛立つようで心地よい雨にも似たこの温度が、失われてしまうのも惜しい。
矛盾した欲はもうずっと、危うい一線を行き来している。