蜘蛛の糸が垂れている
「よう、すまんな」
遅れてきた平吉が屋敷の戸を焦るように開いた。古い木の戸の軋む音にみんなが振り向く。平吉は後ろに赤ん坊を抱いた嫁を連れていて、二人とも雨に打たれてきていた。赤ん坊は嫁が背を丸めて当たらないようにしてやったらしく、よく眠っている。
「ずぶ濡れじゃないか」
庄助おじさんが心配そうに首にかけていた手ぬぐいを渡した。平吉はそれを嫁にかけてやって、泥にまみれたわらじを屈んで脱いだ。
「家の前が水溜りでね。泥を踏んで来たから遅れちまった」
庄助おじさんが屈む平吉の髪から落ちる雨粒を見て「止まないよなあ」と呟く。
戸の外からも雨だれの重たい音が響いている。
この村で雨は夏の頭からずっと降っていて、お陰でどの家の作物も収穫できずにすべて台無しになってしまっていたのだ。川も茶色に濁って、山も水が流れてくるばかりで狩りも仕掛けの確認にも満足に行けなかった。蓄えも失くなってきて、今夜とうとうそのことについて話し合うために村長の屋敷の中で少ない村人が集まっていた。大勢で囲んだ蝋燭が赤く照らして、屋敷の壁に村人たちの影を伸ばしている。蝋燭以外の灯りはなくて部屋の角なんかは少しも見えない、まったくの暗闇だった。
泥を落として水を拭き終わった平吉家族は村人の輪の隅に座った。奥に座る村長が確かめるように頷いた。
「他の村から食いモンを分けてもらうべきだと思うよ」
遅れてきた代わりに平吉が一番に口を開いた。平吉の意見に対して、幼馴染の弥助は横から返した。
「この雨じゃあ助けを求めに行くのもままならねえし、どこの村もおんなじじゃねえかなあ」
打つ手なしだ。全員黙り込んでしまった中で険しい顔をしていた村長が咳払いをした。聞け、という合図である。
シンと静まってみんなが村長を見つめた。
「山神様……………………」
「え?」
弥助が聞き返した。確かに誰も聞き取れなかったので、みんな村長に体を寄せて耳を傾けた。
「山神様に、頼むしかない」
今度はしっかり耳に入ったが、いまだ屋敷は静まり返っている。
山神様。村から外れた山の麓に祠のある神様で、この村が祀り始めた山の神様だ。それは普通の祠よりも大きいもので、中に供え物をするためだった。村では作物や生き物が手に入るとその一部を供えなければならないという決まりがある。たくさんの大根のうちの一本とか、何匹かの魚のうちの一匹とかではなく手に入ったもの全部の一部。大根の葉を穫れた分だけの数、魚の頭も獲れた分だけの数だとか。毎日わざわざ兎でも魚でも一部切って、それを束ねて村長に届けに行くのだ。祠の中とご神体は村長だけしか見れないから。そして切った肉を祠に敷き詰めるもんだから、いつも祠からは鼻を刺すような臭いがする。村長に祠には近づくなと村人は教えられているがその臭いでまさか近づく者はいない。
村長はその山神様に祈って不作をどうにかしてもらうらしい。
「ただ祈るだけじゃどうにもならん。肉を捧げないかん」
「でも酷い雨で足場も悪い。狩りができないからこんなことになっているんじゃあないですか、」
平吉が村長のすっかり色素の薄くなった瞳を見て訴えた。
「……馬鹿の与一ンところのォ……彦介がいるだろ……」
「っ」
誰かの唾を飲み込む音がした。
平吉は肝が冷えたのは自分だけじゃないと気がついて、眉をひそめた。頼る者がいない気持ちになり、全身の血の管が凍ってしまったような感覚になった。鬼に頭のてっぺんを恐ろしい鋭利な爪でキーッとじっくり引っかかれている、いつ爪を突き立てられて脳髄に刺されてもおかしくないような……。
他の村人たちも平吉と同じように顔をしかめて固まった。それでも口に出さないのは暗黙の了解的なもので、庇う筋合いのないことからだった。
馬鹿の与一、というのは村の端に住んでいていつも汚い仕事をしている嫌われ者だった。家畜の糞尿の臭いがして、髪は白髪まじりのザンバラで目の下にはきついクマが浮かんでいる。与一が一歩でも家の外に出ればみんなが鼻をつまんでかけて逃げるほどだ。
与一は何年か前に同じ嫌われ者のトメを嫁にもらい、嫁は子どもの彦介を産んだ。その彦介も幼いながら両親の辛い仕事を手伝っていて、どれだけ爪弾きにされても人に会うたび明るく笑顔で挨拶をする優しい子だった。だが、周りは逆にそれが気に食わなかった。与一の子で小汚くて汚い仕事ばっかりやってるくせ、自分たちより幸せそうな顔をするのだ。だから誰も庇ってやらなかった。
でも流石に人を殺すのはまずい。平吉は村長に伝えようととしたが、横に座る赤ん坊を抱いた女房の体が目に入った。自分の女房の腕は、骨が透けるほど痩せ細ってしまっていた。目は血走って瞳孔がひらいていて、女房を悪く言うのは気が引けるが正直……人間ではないように見えた。最近は赤ん坊にやる乳すら出なくなっていた。少ない飯も生まれたばかりの赤ん坊にすべてやり、俺たち大人は何も口にできていなかった。気づけば女房は出会った頃とはまるで違う風貌で、それは村のみんなも同様だった。
「は……」
開きかけた口をまた閉じた。力が抜けて胡座もくずれて、背中を丸めて床を見つめた。どうしようもない。
「ひ、彦介のヤロウなんか、骨しかありませんよ。はは、」
弥助が平吉の肩を抱いて冗談めかしく言った。村長の意見を無かったことにしようとしているのだ。平吉はちょっと経って弥助の肩を抱く手が震えていることに気がついた。横顔を見れば目の下も痙攣していて、やめようと言えない自分よりよっぽと勇気があると思えた。だけれど村長は細い目を開いて弥助を見る。白目とほとんど色の変わらない瞳は迫力があった。
村長がこめかみを掻いた。そして読み聞かせでもするようにゆったりと言った。
「肉はァ……肉だ。」
ゆったりしているのに吐き捨てたような言い方だ。弥助も黙ってしまった。もはや誰も否定しない。決定されたと言えるだろう。村人たちは他の誰とも目を合わせることができず、俯いた。みんな腹を空かせるがあまりおかしくなっていて、目の先の方法に縋るしかなかった。
たとえ人の道を外れていたとしても、神に縋ってでも。