メリッサの話
※メリッサ視点
焦っていたのは自覚している。
自分の存在価値が不安定になっていたから、安心したくてたまたま思いついてしまったのが、それだった。
まだ王子だと偽っていらした頃のアルフェンルート様が、真面目な顔で言っていたことを思い出したのだ。
『筋肉は全てを解決するらしいよ。……試すべきかな?』
あの時は断固として止めたけれど、今ならば筋肉に縋ろうとなさったアルフェンルート様の気持ちがわかる気がする。
せめて体だけでも頑強になれば、自分に自信が持てる気がして。心に空いている穴が埋まる気がして。
だから婚約者であり、精鋭の近衛騎士でもあるニコラス様にお会いした時に頼んでみたのだ。
「ニコラス様、私に戦い方を教えていただけませんか? 強くなりたいんです。できれば暴漢を一撃で倒せるくらいに」
やるからは極めたい。限界まで鍛えたら満たされる気がする。
そんな気持ちで訴えた。
「ええ……それは嫌だな」
しかしニコラス様は、とても渋い顔でそう言われた。
「無理」でも「駄目」ではなく、「嫌だ」と。
それはそれは嫌そうに断られてしまい、それ以上は何も言えなくなってしまった。
「だいたいメリッサが暴漢と戦う必要はないでしょ? 強くなることは諦めてほしいな」
聞き分けがない子をあやす目をして、指先で私の癖毛をくるくると弄った。
やっぱり私はこの人にとって、守られるべき可愛い令嬢の一人でしかなかったのだろうか。
(強くてかっこいい私を好きになったって、言ってくださったのに)
可憐な見た目に反して、実は苛烈な私を認めてくれているのだと思っていたのに。
がっかりするより、ひどく悲しくなった。
「わかりました。もうニコラス様には頼みません」
ニコラス様の手を払って、そっけなく立ち上がった。
初めての喧嘩だった。私の中では。
***
「それで私にお願いをしに来た、と」
王都にあるランス伯爵邸。
ニコラス様と喧嘩してすぐにアルフェンルート様に会いたい旨を伝える手紙を送ったら、お忙しいはずなのに翌日にすぐ会っていただけた。
乳姉妹として、友人として、今もとても大切にしてくださってるのを実感するととても嬉しい。
しかし客間に通されてさっそく要件を切り出したところ、眉尻を下げた困った顔をされた。アルフェンルート様は飲んでいたティーカップを丁寧にソーサーに置いて、どうして? と問う代わりに首を傾げる。
「騎士育成に力を入れておられるランス伯爵家ならば、私を的確に鍛えていただけると思ったのです」
目に力を込めてアルフェンルート様を見据える。
近衛騎士のクライブ・ランス伯爵子息こと現ランス子爵とご結婚されて、以前より幾分か柔らかい印象になられたアルフェンルート様は、「できないことはないのだけどね」とため息混じりに呟いた。
「でしたら、ぜひ」
「その前に、どうしてそうなったのかな。倒したい相手がいて、ちゃんとした理由があるのなら相談に乗るよ。物理的に倒さなくても他に手があるかもしれない」
アルフェンルート様が柔らかい声で気遣ってくださる。
……ちょっと後半、不穏な響きを感じなくもないけれど。
この声と穏やかな眼差しには昔から弱い。
今は貴婦人然としたドレス姿であるけれど、私の前では口調は以前のままなこともあり、私の皇子様だと思う気持ちが残っている。
そんな相手にどうしたのかと訊かれたら、隠したかった思いが簡単に崩れて弱音が顔を出した。
「倒したい相手がいるわけではないのです。ただ、自分に自信がなくなってしまって……」
生まれた時からずっと、第二王子の乳姉で側付きの侍女という立場でいた。
アルフェンルート様を支えること。それが使命だと思っていたし、優しいこの方を支えられることが誇りでもあった。
けれどアルフェンルート様はがんじがらめの運命から解放されて正しく皇女の立場に戻り、想いを実らせてランス伯爵家に降嫁された。
そして、私もただのマッカロー伯爵家の娘になった。
そのとき不意に、無性に不安になってしまったのだ。
もちろん、アルフェンルート様がご結婚されたことは心から祝福している。幸せな人生を歩まれる姿を見られたことは、本当に本当に嬉しい。
いまだって、穏やかに微笑まれる顔を見れば、本当に良かったと胸を撫で下ろす気持ちは紛れもなく本心。
だけどそれとは別に、自分の在り方に不安が湧いてしまった。
なんの肩書きもないただの貴族の娘になった私に、どんな価値があるというのだろう。
……だなんて。
(この私がいいって、ニコラス様も認めてくださったのに)
貴族の娘として、十分恵まれているのもわかってる。一人娘だから婿を取って、伯爵夫人になることも決まっていて未来に何の心配もない。
満たされているはずなのに。
アルフェンルート様と過ごしたひりつくような緊張感がなくなった今、平穏は良いことのはずなのに、なぜか心にぽっかり穴が開いてしまったみたいに感じてしまう。
だから、何かをしなければ。
もっと自分に何かを詰め込まなきゃ。
何かを失ってしまった分をどうにかしなきゃ。
もっと。もっと。もっと。
そんな焦燥感に駆られる。
でも、何を詰め込んだら納得できるのかがわからない。
私と違い、アルフェンルート様は結婚されてからも陛下に仕え、日々国に貢献されていらっしゃる。
だからといってご結婚された家を疎かにされることもない。自領の為に事業を始められたりもなさっている。
(でも私は、何もできてない)
アルフェンルート様のように多岐に渡る知識があるわけではない。アルフェンルート様の侍女という肩書きが外れたら、ただの恵まれているお嬢様の一人になってしまった。
そんな自分の在り方に不安が募る。
だから確実に、顕実に、目に見えてわかる力が欲しかった。
「それで筋肉……?」
ぽつりぽつりと恥を忍んで胸に詰まった不安を漏らせば、静かに相槌を打たれていたアルフェンルート様は複雑そうな表情をなさった。
「筋肉で解決できることではないように思えるのだけど」
「ですが何もしないより良いと思うのです。このままでは私は無力な人間です」
「無力というほど弱くもないと思うよ……?」
アルフェンルート様は困惑した表情で諭してくださるけど、私が納得しないのを見てとって小さく息を吐き出した。
「メリッサ。これは私に大いに責任があることだけど」
アルフェンルート様が心底申し訳なさそうな表情で切り出す。
「今までの環境の方が異常で、メリッサに大きな心理的負担を掛けていたんだよ。本来は、今の状態こそが貴族令嬢としての当たり前だと思っていいんだよ」
優しい声で、これが普通なのだとアルフェンルート様が語られる。
私だって、客観的に考えればわかっている。これが当たり前で、不安に思うことはないんだって。
「きっとそれでも、メリッサは不安に思ってしまうのだろうね。今まで気を張り詰めて生きるのが当たり前だったのに、いきなり何も気にしないでいいと言われてもね。戸惑ってしまう気持ちはわかるよ」
「そう! そうなのです!」
いっぱいに膨らんでいた風船が、急に空気を抜かれて萎んでしまった時のような気持ち。
いえ、それだけじゃなくて。
空気が抜けただけでなく、何を抉り取られてしまったような喪失感。
大きく頷いて不安な表情になった私を見て、アルフェンルート様が目を伏せた。
その表情は、アルフェンルート様自身にも身に覚えがあるかのよう。
「私は皇女に戻ってから、そういう気持ちになることはあったけれど……でも、色々やるべきことがあって忙しかったから、考える余裕があまりなかったのが幸いしたのかな」
メリッサは今がその時期なんだね、とアルフェンルート様が申し訳なさそうにする。
「いままでずっとメリッサに迷惑ばかりかけていて、謝って許されることではないけれど……気遣ってあげられていなくてごめん」
「アルフェンルート様が謝られることではありません! 悪いのはアルフェンルート様ではないのです」
そんな顔をしてほしかったわけじゃない。
それに迷惑をかけてきたと言われても、一緒に過ごした時間が辛かったわけでもない。
大好きな皇子様を支えて走り抜けたあの時は、他の何物にも変え難い大切な時間でもあった。
誰かの為に己の人生をすべて賭けて戦ったことに、後悔なんて欠片もない。
(そう、アルフェンルート様を責める気持ちなんて全くないの)
ただ、私はさみしくて。
……そうだ、私は。
(さみしかった)
いままで大好きな人の為に動いてきたのに、もう私なんて必要なくなったと思い知るのが怖かったのかもしれない。
ニコラス様のことは好きだけど、それとはまた別でアルフェンルート様のことは今も大切。
だけど私がそばにいなくてもご活躍されているアルフェンルート様を見て、置いて行かれたみたいに感じてしまった。
(私は、かなしかった……?)
自分の人生を捧げると思っていた人が離れて成長されていくのが、寂しくてたまらなかったのだと思う。
それに私自身はまだちゃんと歩き出せていないから、余計に焦ってしまったのだ。きっと。
「私はアルフェンルート様が大好きです。今も、本当に大切なのです。だからもう私がお役に立てていないのだと思うと、さみしくて仕方ないのだと思います」
私がいなくても平気なのだと知るのが苦しかった。
友人として大事に思ってくださってるのはわかってるけど。
それでも距離ができていくのは、どうにもできないから。
ぎゅっと唇を噛み締めたらアルフェンルート様は目を丸く瞠った後、とても優しく微笑んだ。
目を三日月型に細めて、私の大好きな笑顔で。
「私もメリッサが大好きだよ。私にとって、この世界で一番大切な女の子だ」
そうやって、アルフェンルート様はいつだって欲しい言葉をくれる。私を掬い上げてくれる。
迷いのない声と眼差しで告げられた言葉は真摯で、紛れもなく本心だとわかるから。
潰れていた心に再び空気が吹き込まれていくみたい。
「それに、メリッサは今でも私を支えてくれているでしょう? メリッサが社交界で私に関する情報を調整してくれているから、平穏に過ごせているんだよ」
「それは当たり前のことです。アルフェンルート様の立場が揺らぐのは絶対に許せません。不穏な要素は徹底的に排除します」
「うん。そういうところがね、とても頼もしいと思うんだ。筋肉がなくても、メリッサは今でも十分強くてかっこいい女の子だよ」
可愛らしく笑って言われると、そうかな……と気持ちが浮上する。
頼られていると思うと、乾いた土が水を吸い込んだように活き活きしてくる。
単純だと思うけれど、私にとってアルフェンルート様はそれぐらい特別なのだ。
「それにメリッサ、メル爺から護身術を習ったでしょう。逃げる隙を作れる程度には習っているのだから、充分強いのではない?」
「そうでしょうか……」
「クライブに聞いたら、令嬢向けの護身術では普通は真逆に指を折れとは教えないらしいよ」
「折らないのですか? 非力な私たちにできるのは、せいぜい指を折る程度ではないでしょうか」
「非力なのかな……」
スラットリー老が教えてくださったのは最終手段としてだったから、もしかしたら過激な対応を教えられていた可能性はあるけれど。
アルフェンルート様が困った顔で首を捻る。
「とにかく世間的には充分なようだから、強くなる必要はないと思うんだ。メリッサの不安は筋肉で解決する話でもなさそうだしね」
アルフェンルート様はそう言いながら立ち上がった。
「だからメリッサ、今日は気分転換に遊びに行こうか。よく考えたら、メリッサと私的に出かけたことはなかったでしょう?」
「遊びに、ですか?」
目を丸くして見上げたら、アルフェンルート様が柔らかく微笑んで頷く。
「今からだと、街に買い物に行く程度になるけれど。付き合ってくれる?」
「え、はい! もちろんです」
「よかった。準備してくるから少し待っていて」
そう言い置くと、アルフェンルート様は部屋から出て行ってしまった。
(アルフェンルート様とお出かけ? 一緒に?)
生まれた時からの付き合いだけど、純粋にただの遊びで二人で出かけたことは、実はない。
そう、なかったのだ。
皇子時代のアルフェンルート様は籠の鳥であらせられたから、城の外に出ることはまずなかった。
皇女に戻られてからも、王族がおいそれと気軽に出かけられるわけもない。
……お忍びで、侍女姿でクライブ様とデートには行かれていたけれど。
私とは常日頃から一緒に過ごしていたこともあり、あえて一緒に外出して遊びに行く、という考えがなかった。
結婚されてからのアルフェンルート様はお忙しい日々を送られていたから、お会いするのは王都の互いの屋敷でお茶をする程度だったし。
だからつまり、本当にはじめてのお出かけ。
(アルフェンルート様とおでかけ!)
どうしよう。それならもっと動きやすい服にするべきだった。
アルフェンルート様はマルシェ通いがお気に入りだと聞いているから、きっとそういった場所に行かれるはず。
私も動きやすい服を借りられるだろうか。ランス伯爵家の侍女の服でも構わないから。
「おまたせ」
誰かに声をかけようかと考えている間に、アルフェンルート様が戻ってきた。
その姿を見て目を丸くしてしまう。
先ほどはハーフアップにされていた長い髪は後ろの低い位置で一つ結びに。白いシャツの上には濃紺のジレを重ねて、長めのボタンがないタイプのグレーの上着は体のラインを絶妙に隠してくれる。
首元には見慣れたループタイ。袖口のカフスもお気に入りだったシンプルな青い石のもの。
今は少し懐かしく覚える格好だが、以前より成長されていても違和感を覚えることのない着こなしぶりはさすがと言える。
……などと感嘆している場合ではなかった。
「なぜ男装されているのですか」
「女性二人で出かけるとなると侍女も連れて行かないといけなくなるでしょう? でも男女二人組なら護衛だけでいいから、メリッサが気楽かと思って」
アルフェンルート様はにこにこと笑って手を差し出してくる。
つまりこれはどうやら私を気遣ってくれてのことらしい。
(それにきっと私がさみしいと言ったから。私がよく知るアルフェンルート様になってくださったのだと思う)
その好意を無碍にできるわけがない。
こちらの姿のアルフェンルート様に会えて、泣きたくなるくらい安心してしまった気持ちも密かにあるのだから。
だけど大丈夫なのだろうか。辛かった時のことを思い出したりなさらないのかが心配になる。
「アルフェンルート様は、そのお姿はお嫌ではないのですか?」
じっと見つめれば、アルフェンルート様が少し苦く笑った。
「この私も紛れもなく私だったからね。簡単に切り捨てられるものではないみたいなんだ。むしろ、たまにまだ大丈夫か確かめたくなる」
「大丈夫です、完璧です。私のよく知るアルフェンルート様のままです」
微かに瞳に不安を滲ませられたので、間髪入れずに存在を肯定した。
アルフェンルート様が逆にその姿を肯定されて安心なさるのなら、いくらでも頷いてみせる。
実際、線の細い綺麗な青年に見えるのだから。
元々中性的な顔立ちの方であるし、黙っていると神経質そうな硬い雰囲気があるので、余計に。
実際に話してみれば、懐に入れた者には優しくて寛容な方なのだけど。
「それならよかった。じゃあ、出掛けようか。そろそろ馬車の用意もできているだろうから」
「どちらに行かれるのですか?」
「それは着いてからのお楽しみ」
アルフェンルート様は目を三日月型に細めて笑う。
馬車で行くなら庶民の台所であるマルシェは考え難い。
つい癖でエスコートされる手を取れば、慣れた動作でアルフェンルート様がリードしてくださる。こうしていると、よくダンスの練習相手をしていたことを思い出す。
隣り合って馬車に乗り込むと、ゆっくり街の中を走り出した。天気が良くて春が近いからか、街行く人の足取りも軽やかに見える。
私の心も同じく跳ねる心地だったりする。
「アルフェンルート様と馬車に乗ると、一緒にランス領に行った時を思い出しますね」
「あの時は本当に余裕がなかったね」
確かに。あの頃から考えると、今はまるで夢を見ているかのように平穏。
そう思うと、深く呼吸ができた。
「私はアルフェンルート様が酒樽から現れたときに、怒りのあまり卒倒しそうでした」
「そんなこともあったね……売られていく家畜の気持ちがよくわかってしまった」
アルフェンルート様が遠い目をして呟く。
「それは一生わからなくてよかった感情です」
苦々しい思いで言えば、小さく笑われる。
そんな思い出話を幾つかしているうちに目的地に辿り着いたらしい。
高級店が立ち並ぶ道の端に馬車が止まる。アルフェンルート様に手を取られて降りた先には、ドレスショップがあった。
瀟洒なデザインの店の奥に飾ってあるドレスは品のあるデザインだ。宝石を散りばめたり、大きなリボンや鮮やかな色彩の華やかなドレスが飾られている店が並ぶ中では、やや地味に感じる。
だけどアルフェンルート様はお好きそう。
一見して派手さはないけれど、よく見れば細やかなところが凝っている。そういう衣服を好まれるのだ。
「店の方には初めて来たけれど、こんなお店なんだ」
しかし連れてきてくださったアルフェンルート様がなぜか感心した顔をなさっていた。
一体どうして。
「アルフェンルート様のお気に入りのお店なのではないのですか?」
「私が店に出向くことはないから」
不思議に思って首を傾げれば、アルフェンルート様が眉尻を下げた。
考えてみれば、アルフェンルート様が直に足を運ばれる必要などない。昔から、業者の方が気に入りそうな商品を手に馳せ参じてくるのが当然の立場だったのだから。
そもそも私の前ですら着替えなかったアルフェンルート様が、ドレスショップに来ることはまずありえない。
ならば、なぜ今日はここに?
「一度来てみたかったんだ。工房の方にはよく行っていたのだけど」
そう言って、アルフェンルート様が不意に私の耳元に唇を寄せた。
「実は家出中にこの店の工房で働かせてもらっていたんだよ」
「!?」
こっそりと秘密を打ち明けるアルフェンルート様は、いたずらっ子の顔をしていた。
(ここがアルフェンルート様の家出先!)
アルフェンルート様が扉を潜れば、すぐに店員が挨拶に来る。
「いらっしゃいませ。ようこそ、妖精の指先へ。本日はどのようなドレスをお探しですか?」
「こんにちは、ヘレン夫人」
「そのお声は、ランス子爵夫人……!? お呼び立ていただけましたら、すぐに馳せ参じましたのに」
最初はただの年若い貴族の男女だと微笑ましく思った様子だった女主人だが、相手がアルフェンルート様だと気づくと息を飲んだ。
しかし男装姿には触れることなく、どうぞ、とすぐに店の奥へと案内される。
「本日はご友人様と一緒にいらしてくださったのですね」
「今日は私ではなく、彼女のドレスを見にきました。先日見せていただいた黄色のドレスはありますか?」
「夫人が最後まで悩まれていたあのお品ですね。すぐにご用意させていただきます。他にもお連れのお嬢様にお似合いになりそうなドレスもございますので、一緒にお持ちいたしましょうか?」
「お願いします」
二人は慣れた様子で話を進めていく。女主人はテキパキと店員に指示を送り、待っている間にお茶と一緒に新作予定のカタログも差し出してくれた。
(この方がアルフェンルート様を雇っていらした方……)
立ち居振る舞いは美しく、地に足をつけている自信が感じられる。とてもしっかりして見えるので、アルフェンルート様が働かれる場所の主人としては安心できる方だったのではないだろうか。
そんなことを考えながら見ていたので、アルフェンルート様に「メリッサ」と呼ばれて、ようやく我に返った。
「準備ができたみたいだから、試着してみて」
「私のドレスなのですか!?」
驚いて声を上げれば、アルフェンルート様が不思議そうに首を傾げた。
そういえば、友人のドレスがどうとか聞こえたような。
「そうだよ。メリッサ、もうすぐ誕生日でしょう」
「アルフェンルート様が贈ってくださるのですか!?」
「誕生日プレゼントにね。あの黄色とオレンジのドレス、初めて見た時からメリッサに似合うと思って。もちろん他に気に入ったドレスがあるなら、そちらでもいいのだけど。どれにする?」
アルフェンルート様が手で示した先に用意されていたのは、幾重にも黄色とオレンジの薄く透けた布が重なり合うスカートが美しいドレスだった。
他にもいくつか魅力的なドレスが並べられていたが、あまりの可愛さに「ぜひそれで」と試着させてもらうことにした。
(思ったより重くない)
裾がフリルになっているスカートは幼く見えがちだけど、すっきりと開いた胸元と腕のラインに沿った細身の袖が大人の女性の優美さを滲ませる。
でも、大きな目が強調されたこの顔には似合わないかも。
心配になって鏡の前に立ってみたら、意外にもよく似合っている、と思った。
少し大人っぽく見えるから、これならニコラス様の隣に立ってもおかしくなさそう。
「うん。やっぱりタンポポの妖精みたいで可愛い。私はオレンジが入ると着こなせないけれど、メリッサなら絶対に似合うと思っていたんだ」
アルフェンルート様が私の姿を見て、満足そうに顔を綻ばせる。
「タンポポ、ですか?」
どこにでも生えてくる、ありふれた野生の花。
アルフェンルート様のことだから褒めてくださっているのだとわかるけど、タンポポってそんなに素敵な花だった……?
「どんな場所でも強く咲く花でしょう。一目で春が来たとわかって見かけると嬉しくなるよね。綺麗で可愛くて逞しくて、昔から好きな花だよ」
そんな花の精みたいだと、アルフェンルート様が眩しげに微笑むから。
「これはただの私の主観だから、他のドレスが良ければ……」
「このドレスがいいです。こちらでお願いします」
そんなことを言われたら、絶対にこのドレスがいいに決まっている。
有無を言わせない強さでお願いすれば、贈る側であるアルフェンルート様の方が嬉しそうな顔をした。
「このドレスに似合う宝飾品を贈る権利はニコラスに譲るよ」
残念だけど、と本当に残念そうにアルフェンルート様が眉尻を下げる。
だけど。
「ニコラス様……私の誕生日をお祝いをしてくださるでしょうか」
「? 婚約者の間柄なら普通は祝うと思うよ?」
不思議そうに首を傾げられてしまった。
「この間、ニコラス様と喧嘩してしまったので……完全に私の八つ当たりでしたけど」
今思えば、余裕がなくて当たってしまっただけだと気づく。
あんな態度をとってしまうなんて、すっかり甘えてしまっていた。あまりにも子どもっぽくて、こんな勝手な私は飽きられてしまったのではないだろうか。
「ああ……そういえば言っていたね」
アルフェンルート様は少し考えた後、うん、と頷いた。
「それなら今から謝りに行こうか。こういうのは時間を置くと余計に拗れてしまうから」
「えっ」
「早い方がいいよ」
アルフェンルート様は私を試着部屋に押し込めて、「あとから一緒に行こう」と容赦なく退路を塞ぐ。
えええ……いえ。逃げていても仕方ないので、行きますけど!
着替えている間にアルフェンルート様は会計の手続きを終えられてしまったらしい。
「後で屋敷に届けてくれるそうだよ」とそつの無い対応だ。更に、宝飾品選びは譲ると言ったのに、ドレスに合う手袋とハンカチが箱の上に追加されていた。
至れり尽くせりすぎる。
「ありがとうございます、アルフェンルート様。大切に着ますね」
「うん」
お礼を告げれば、アルフェンルート様は嬉しげに頷かれる。
こういうところは昔から全く変わっておられない。もし本当にアルフェンルート様が男性だったら、私は絶対にしがみついて離れなかったと思う。
もちろん、今のアルフェンルート様も大好きだけど。
城に向かう途中で、アルフェンルート様は製菓店に立ち寄られた。
素朴な見た目の店は平民も利用していたが、アルフェンルート様は臆することなく入って行かれた。
慣れた様子なので、常日頃のアルフェンルート様の様子が窺い知れる。もしかしたら、クライブ様は日々対応に苦労なさっているのかもしれない。
「ここはクラッカーがサクサクカリカリした食感でとても美味しいんだ」
アルフェンルート様は籠いっぱいに買って、自慢げである。
こういう発見を嬉しそうに報告してくるところは、昔から可愛らしくて好きだったりする。
今はきっと旦那様のクライブ様がそう言った話を聞いているのだろう。
そう考えると、やはりちょっと悔しい。
「それにしても、今からお城に向かうのにそんなに買われてどうなさるのです」
「これは兄様の分も入っているから。ニコラスを少し借り受けるのに、賄賂が必要でしょう」
「賄賂……」
つまりこの平民も食べるクラッカーで、シークヴァルト殿下を懐柔なさるおつもりでいらっしゃる?
まさかそんな菓子でどうにかできるわけが……。
慄く私を気にした様子もなく、アルフェンルート様は自信ありげだ。
「チーズを挟むとお酒のつまみにちょうどいいんだ」
「シークヴァルト殿下が平民の好む菓子を口にされるのですか?」
「持っていくとよく食べてらっしゃるよ。私が予約なしで変装した状態で買っていく菓子に毒が混入されることはまずありえないから、重宝されるんだよ」
シークヴァルト殿下も今はもう毒殺の心配はほぼないとはいえ、油断はできないお立場でいらっしゃる。
妹が買っていく菓子を楽しみにされているのを想像すると、兄妹は仲良くやっていらっしゃるようで安心する。
先程の店以外にもアルフェンルート様のおすすめの菓子店の話を聞いていると、あっという間に城に辿り着いてしまった。
急に来たら迷惑かも。
そう思ったけれど、アルフェンルート様は気にした様子はなかった。
「忙しくて駄目ならお菓子だけ置いてきて、ニコラスとは約束だけ取り付けて帰れば良いんだよ」
平然としていて、実に前向きな様子。
こういうところは、皇子気質というか皇女気質のままだったりする。
だからといって断られても怒るわけでは全くないので、基本的には鷹揚でいらっしゃるのだ。
そして私が心配する必要もなく、余程でなければ断られることもない立場の方だから、あっさりシークヴァルト殿下との面会は叶ってしまった。
出迎えにきてくれたのはニコラス様だった。
アルフェンルート様の隣にいる私を見て、顔をやや引き攣らせる。
ただ、私を見て顔を引き攣らせたわけではない。驚いた顔をしただけだ。なぜかアルフェンルート様を見て、「うわぁ」と言いたげな顔をしたのである。
一体なぜ。
「もしかして、今度は俺がアルフェ様に消される番だったりします?」
そして私とアルフェンルート様を見比べて、苦い顔でそんなことを言い出した。
この方は何を言っているのでしょう。
アルフェンルート様も呆れた眼差しをニコラス様に向けている。
「ニコラスは私を何だと思っているのでしょう」
「いやだって、今までメリッサに集る不穏な虫は徹底的に排除されてたじゃないですか」
ニコラス様がそんなことを言い出したので、思わず息を呑んだ。
(え!?)
反射的にアルフェンルート様を伺ったけど、当のアルフェンルート様は普段通りの澄ました顔のまま。
動じた様子は一切なく、いつも通りの平然とした態度で口を開いた。
「後ろ暗いところがないならば、足を掬われることはありません」
それは言外に、問題があればそうなっても仕方ないのだと読み取れた。
そこでふと、今まで断りづらいけどどうしても乗り気に慣れなかった縁談が幾つか消えていったことを思い出す。
どれも相手の家に問題が出てきて、相手から引いていったり、マッカロー伯爵家としても断りやすくなって助かったけど。
縁談が流れたと伝えれば、アルフェンルート様は我が事のように安心した顔で微笑まれていた。
それが、まさか。
まさか……!
(アルフェンルート様は、報告しても「よかったね」としか仰られなかったけど)
もしかして、見えないところで守っていてくださったりした?
もしかしなくても、こっそり裏側で戦ってくださっていた?
そういえば私が困ったと泣き言をぼやいた後は、アルフェンルート様が図書室に篭られる時間がやたらと長かった気がする。
あれはきっと色々手を尽くしてくださっていたのだと今から気づく。
(どうしよう……泣きそうに嬉しい)
勝手に、アルフェンルート様は私が離れて平気なんだって。私がどんな道を歩いても気になさらないだろうって思って、悲しくなってしまっていたけれど。
ずっと、見守ってくださっていたんだ。
私が困らないように。恩を着せることもなく。
今も私の方を見ることもなく、平然とされているけれど。
でもこの澄ました横顔は、私に指摘されるのを絶対に回避したいと思ってる顔だ。
生まれた時から一緒にいるのだから、それぐらいはわかる。
(やっぱり大好きです)
アルフェンルート様は一体なにをされたのかと訊いたら、きっと堂々と「なんのことかな」と嘯くだろうから言わないけれど。
アルフェンルート様が望む通り、気づかないふりをするけれど。
気づけば抉れてしまったと思っていた胸の穴は、すっかり埋め立てられてしまったみたい。
「でもこの間、俺はメリッサを怒らせたみたいですけど?」
「婚約者間の痴話喧嘩にまで口を挟む趣味はありません。それはよくお互いで話し合ってください」
「アルフェ様に話し合えと言われる日が来るなんて」
「私に言われたらおしまいですね」
「それ、自分で言っちゃうんです?」
感動している私の前では、ニコラス様とアルフェンルート様がたわいもない言葉遊びを交わされている。
「二人のことに関しては、私が口を出すのはここまでです。兄様にはニコラスは休憩に入ったと伝えておきますから、二人で話し合って来てください」
そう言うと、アルフェンルート様はやっと私に向き直った。
「私は兄様とお茶を飲んでくるから、メリッサはニコラスと仲直りしておいで。また後でね」
あっさりと私とニコラス様を置き去りにして、アルフェンルート様は護衛騎士のラッセル様を伴って立ち去られてしまった。
場に残されたのは、私とニコラス様の二人だけ。
「休憩もらったみたいだから、庭でも見に行く?」
ニコラス様は改めて私を見て、いつもと変わらない態度で手を差し出してきた。
その手を取る前に、まずは勢いよく頭を下げる。
「あの……! 先日は、無理を言ってごめんなさい。自分を制御できていなくて、八つ当たりをしました」
もし面倒そうに溜息を吐かれたらどうしよう。
ぎゅっと唇を噛み締めたら、不意に目の前が翳った。
驚いて目を上げれば、同じように身をニコラス様が屈めて私を覗き込んでいた。
びっくり眼になった私をじっと見つめて、いつもみたいに糸目を三日月型に笑ませる。
ニコラス様はゆっくり体を起こすと、釣られて体を起こした私の手を取った。
「いいよ。俺は全然気にしてない。逆にメリッサの気持ちがわかってあげられなくてごめんね」
本当に気に障った感じはなさそうな返答だった。どころか目尻を下げて、申し訳なさそうな顔をされる。
「俺も男だからね、好きな女の子が怪我したり痛い思いするのは嫌だなって思っちゃって」
「すきなおんなのこ」
「うん。それにもし本当に誰か倒したい奴がいるなら、俺がなんとかするし。まあそれぐらいはね、かっこつけたいっていうか」
「ニコラス様が格好つけたい……?」
「なんで疑問形なわけ」
アルフェンルート様に対する時とは違う砕けた物言いで、ニコラス様が呆れを滲ませた笑顔を見せる。
「ニコラス様はこんな面倒な女の子でも良いんですか?」
「メリッサを面倒だと思ったことはないよ。いつも面白い」
「面白い?」
それはどういう意味なのか。
眉を顰めれば、慌てて「目が離せないってこと」と言い換えられた。
「思ったより表情がくるくる変わるし、喜怒哀楽も実ははっきりしてるし、そういうとこ可愛いと思ってる」
改めてここが好き、と伝えられると顔が熱くなってくる。
アルフェンルート様がそうだったからか、私はちゃんと言葉にして伝えてくれる人に弱いのだ。
「私も、そうやって事あるごとに伝えてくれるニコラス様を好ましく思っています」
「そこは好きって言ってくれてもいいんだけど。アルフェ様にはよく言ってるでしょ」
「アルフェンルート様の好きとニコラス様の好きは種類が違うので」
アルフェンルート様に伝える好きは、今は家族としての好き。友人としての好き。
胸が陽だまりみたいに暖かくなって、ぽかぽかする好き。
でもニコラス様といると胸がくすぐったくて、落ち着かなくなる。
それでもそばにいたいと思ってしまう、好き。
優しくて、いたずら好き。余裕があって、大人。それでいて子供っぽいところもあるのに、本当は冷静な人。
そんな不思議を詰め込んだ人から目が離せないのは私の方。
好きだと口に出したらもっと沼に嵌ってしまいそうで、あまり口にしたくない。
だから。
「……結婚するまでに告白する練習しておきます」
「期待してる」
私の決意を聞いて、ニコラス様が心底楽しそうに笑う。
そうやって私の言葉に嬉しそうにしてくれる人に滅法弱い。
好きが胸の中に降り積もっていく。
でもなかなか口で好きだと伝えるのがまだ気恥ずかしくて難しい。だから代わりに繋がれた手をギュッと握り返した。
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