オマケ ドキドキする話
仕事を終えて夕刻になってから帰宅すると、執事から「奥様宛にお手紙が届いております」と銀の盆に乗った手紙を渡された。
手紙自体は珍しくないけど、わざわざ丁重に渡されるのは大事な手紙だ。
「ありがとう。リズから?」
受け取って確認すれば、フェラー伯爵令嬢エリザベスことリズからである。
リズがフェラー伯爵家に引き取られて2年。
時間があれば私と手紙やお茶会をして、貴族の作法を実践方式で教えてきた。特に手紙のやりとりは練習も兼ねているので、頻繁に届くものだ。とはいえ気のおけない友人からの手紙は嬉しい。
さっそく開いてみると、中には時候の挨拶をすっ飛ばして、力強い筆跡で要望だけが記されていた。
『人生相談させてください』
読んだ瞬間、絶句してしまった。
教えたことが全て抜け落ちている手紙に、完全に余裕を失っていることが伺えた。一体何事なの。
(只事ではなさそう。……そういえばリズも17歳になったから、そろそろ婚約者選びの話でもされたのかも)
思い至るのはそれぐらい。もしそうならば、リズの混乱っぷりも理解できる。
すぐにペンを取り、空いている日程をいくつか書いて「いつでも話を聞くよ」と簡潔に添えた。今は手紙の形式を気にするより、友人の不安を和らげる方が優先。
「こちらを急ぎで。その場で返事をもらえるようにお願いします」
「承りました」
執事に託すと、恭しく一礼されて颯爽と踵が返された。
その背を見送ってから、小さく息を吐き出す。
(でも結婚の話だとしたら、どう相談に乗るべきかな)
貴族の娘ならば避けられない道だ。
フェラー伯爵家は跡取り息子がいるし、安定した領地運営をしている。リズに無茶な政略結婚を強要する必要はないと思うけど、そもそも『結婚』というだけで身構える気持ちはわかる。
(それにはっきり言ってしまうと、リズの立場は結構難しい)
貴族は血筋を重視する。
リズはフェラー伯爵と侍女との間に生まれた私生児。更に15歳まで市井で暮らしてきた。
頭の硬い貴族には忌避される可能性が高い。
フェラー伯爵家は堅実な家だから、繋がりを持ちたいと考える家はあるだろう。でも私生児であるリズと結婚させるとしたら、家を継がない次男以降になると思う。
そして結婚して幸せになれるかと言われると、婚家でも私生児ということで軽んじられる事もあるだろう。
(貴族って、やたらと血筋にこだわるから)
自分の時もそうだった。どれだけ血筋に振り回されてきたことが。
思い出すと今でもうんざりしてしまう。
それを嘆息で一旦落ち着かせてから、余裕のない手紙を改めて眺める。
(でもフェラー伯を見ている限りではリズのことを大事にされているみたいだから、不安要素のある家は排除すると思うけれど)
いっそ平民の裕福な商家などに嫁いだ方が大事にされるかもしれない。リズの将来を考えて冷静に対応するならば、それが最適解。
と、頭では冷静に思えるのに。
(リズって、ラッセルのことを気にしてるのではなかった?)
自分の護衛騎士であるラッセルの顔が脳裏に浮かぶ。
『ラッセル様って、すっごく素敵だね! 頼もしくて、優しくて、正に騎士様って感じで! いいなぁ……女の子ならみんな憧れちゃうよね』
頬を染めて、感嘆の息を吐き出していた。
会うたびに嬉しそうにするし、『ずっとあんな騎士様が側にいたら、私ならドキドキして挙動不審になっちゃうと思うな』と真剣な顔で言っていた。
これは、恋では?
(と、思っていたのだけど)
生憎と生まれた時から側に護衛騎士がいたから、私にはときめきとやらは全くわからない。
単に騎士にかしづかれることに憧れがあるのか。それとも、よく近衛騎士の周りに集まってキャッキャッウフフしている令嬢達と同じ気持ちなのか。
前の生で流行っていた推し活の可能性もある。
下手に踏み込むのは避けていたから、リズの気持ちがわからない。
ちなみにラッセルの気持ちはもっとわからない。
私の騎士だけど、極力従業員の私生活には踏み込まない主義なので。ホワイト企業でありたいので。
そのおかげで、さっぱりわからない。
ラッセルはいつも柔和に微笑んで、リズに丁寧に接してくれている。
でもそれはリズに限ったことではなくて、主人である私の大事な人は全員大切という扱いみたいなので、リズだけ特別というわけじゃなかったりする。
色眼鏡を掛けて見ても、年が離れてるからかお兄さんと親戚の女の子という距離感くらい。
(それにリズは、乙女ゲームのヒロインだったわけで)
近頃では忘れかけがちだったけれど。
メインヒーローだった兄に対しては、「ないない! ありえないから! 恐れ多いよ!?」と却下。
わんこ系(という名目の狂犬)騎士のクライブは、「素敵な旦那様だね!」と完全に攻略外。この枠にラッセルが当て嵌ってしまったのだろうか。
尚、ゲームでは出てきた私の推しであるインテリ教育係は未だ現れないまま。
小悪魔ショタ枠の私はご覧の通り。この枠に代わりに嵌っているかもしれないリズの異母弟は、完全に弟としてしか見られていない模様。
あとは最後の幼馴染……
「ロイはどうするんだろう」
前に会った時は、告白してみると言っていたけれど。
あれから会えていないので、どうなったのかわからない。
でももし告白していたら、リズが頭を抱えて「ロ、ロイが……私を好きって! 言ったんだけどっ」と駆け込んできそう。
(まさかね)
そう思いながら迎えた翌々日のお茶会で、そのまさかになるとは。
*
「ロ、ロイが……私を好きって! 言ったんだけどっ」
「…………。そうなんだ」
まさか一言一句、想像と違わないことを言われるとは。
慄きつつ真顔で頷くと、リズは琥珀色のぱっちりした瞳をびっくり眼に変えた。
「驚かないの?」
「驚いてるよ」
予想してはみたけど、ないだろうなと思ったことを言われてこれでも混乱している。
とりあえず、リズを通したこじんまりとしたタイプの応接間の人払いをしておいて良かった。窓から見える庭の緑と花が心を落ち着かせてくれる。二人きりの空間なので、どれだけリズが奇声を発しても問題はない。
「ひとまず落ち着いて。どうしてそうなったのか聞いてもいいかな」
侍女が淹れておいてくれたお茶を勧めて、自分でも一口飲む。
「話すと長くなるんだけど」
「うん」
「お父様にね、そろそろ許嫁を選ぼうって言われて」
リズが強張った顔で事情を話し出す。そこまでは想定していた通りだったみたい。
「それで、もし好きな人がいたら言いなさいって言ってもらえたの。貴族でも平民でもかまわないからって」
「寛容なお父様だね」
それには驚いて目を瞠った。
リズのことは大事に思っているようだから良い嫁ぎ先を探すだろうとは考えたけど、まさかリズ本人に選ばせるなんて。
リズの両親の経緯を考えれば、リズの気持ちを尊重したいと考えた父親の気持ちは理解できる。でも実際にそれを実行に移せる人はなかなかいないだろう。
「たぶんこれって、貴族の娘としてはすごく恵まれてるんだよね?」
「そうだね。娘の気持ちをそこまで尊重する貴族は少ないと思うよ。いないわけではないけれど」
素直に頷くと、しかしリズは困ったように眉尻を下げた。
「でも私、誰かを好きになるってよくわからなくて。最初はアルに相談しようと思ったの。でも、いつも助けてもらってばかりだから……自分の人生なんだから、ちゃんと自分で考えなきゃって思ってたんだけど」
言いながらリズの語尾が所在なさげに小さくなっていく。
「私のことなら気兼ねしないで相談してくれて良かったのに」
「アルならそう言ってくれると思った。けどやっぱり甘え過ぎはダメでしょ」
口を引き結んでから、「……でも結局頼ってるんだけど」と、情けないのか泣きそうな顔になった。
「話を聞くくらいしかできないかもしれないけど、それで気が楽になるならいくらでも付き合うよ」
「ありがとう」
出来るだけ優しく言えば、リズは頬を緩めてくれた。
「それでね、一人で考えてみたんだけどやっぱり難しくて……ロイに話を聞いてもらいに行ったんだ」
ロイは幼い頃からリズのそばに居た幼馴染だ。こういう時にリズが一番に頼る気持ちはわかる。
「そうしたらロイが、ロイが……それなら自分が、私のそ、そばに居たいって言ってっ」
「……。好きだと告白された、と」
リズが耳まで真っ赤に染めて蚊が鳴く声になりかけていたので、続きを引き継いだ。
「あれからずっとぐるぐる考えてるんだけど、私ってロイのこと好きなのかな……!?」
リズは両手で顔を覆い、どうしたらいいかわからないとばかりに天井を仰いでいた。
その姿を見る限りでは、すでに答えは出ている気がするのだけど。
(ずっと当たり前にそばに居た相手がいきなり友人じゃなくなって結婚したいって言ってきたら、驚くよね)
ましてやリズはロイのことは幼馴染としか思っていなかったようなのだから。
とりあえず今はラッセルのことは頭から綺麗さっぱり吹き飛んでいるようだ。ということは、やはりこちらは憧れでしかなかったということで横に置いておこう。
どうやらリズの中では、ロイの方が圧倒的に比重が重いらしい。
ちょっと考えて、ひとつずつ混乱を解いていくことにした。
「ロイにそう言われて、リズは嫌だった?」
「…………いや、じゃなかった、と思う」
「嬉しい?」
「それは、よくわからない」
「じゃあ、ロイから『結婚出来ないならもう会えない』って言われたら?」
断っても友人でいられるかもしれない。だけど現実問題として、そうなるとリズは別の誰かと結婚することになる。その場合、今までのようにロイと付き合っていくのは難しい。
リズは弾かれたように顔を上げて、ショックを隠すこともできずに私を見た。不意にくしゃりと顔が歪んで泣きそうだ。
「それは、いや、かも」
自分に言い聞かせるみたいに言って、「でも」と続ける。
「それだけで、ロイのことを好きって言えるのかな? ただ友達で居られなくなることがさみしいだけじゃないの?」
「それなら、もしロイに親しい女の子ができたら? その子と結婚するって言われたら、リズはどう思う? 笑って祝福してあげられるかな」
友達でいるのなら、いつかはそんな光景を見る日が来るだろう。
じっと見つめれば、リズは血の気の引いた顔を強張らせた。
「それは……そんなの見たくない、と、思っちゃった」
呆然と呟くので、うん、と頷いた。
「どうしてだろうね」
「これは、ただ幼馴染を取られたくないっていう独占欲じゃないの?」
「私から見れば、それもひとつの恋かもしれないと思うけれど」
「そうなの!?」
「それを決められるのはリズだけだよ」
やんわりと諭せば、立ち上がり掛けていたリズが居心地悪そうに椅子に座り直す。
気を取りなおすためにお茶を飲んでから、リズが「私ね」と口を開いた。
「恋をするのって怖いことだと思ってたの。ひとり親で苦労してるお母さんを見てきたから、恋なんてしなければこんなに苦労しなかったのにって」
「うん」
「それにさっきアルに言われたことを想像したら、胸が苦しくなって……これが恋なら、嬉しいより怖い」
「うん」
「もし本当に好きになって、ロイとの関係が変わっちゃうのも怖いの。もし関係がダメになって話せなくなったりしたら、きっとすごく悲しいから」
恋をするのって、楽しいことより大変なことの方が多い気がする。それは身をもって実感しているので、すべてに頷くばかりだ。
でも、助言できることもある。
「リズ、これは私の経験上の話だけどね。大変な時も確かにあるけれど、一緒にいたら嬉しいことも倍になるよ。それにもし何かあった時には、ひとつずつ話し合って歩み寄ればいいんだよ。そんなに心配ばかりしなくても大丈夫」
リズが顔を上げて、ぱちぱちと目を瞬かせる。
たぶん両親の影響で悲観的にばかり考えてしまうのだと思うけど、少なくとも今リズを縛るものは何もないのだ。縮こまっていたら勿体無い。
もっと視野を広く持ってみた方が違う景色も見えてくるだろう。それに気づいてくれたら、と願って口にする。
「ロイは、ちゃんとリズの話を聞いてくれる人でしょう?」
ずっと傍にいた人がどんな人なのかは、リズ自身がよく知っていることだ。
笑いかければ、リズが目を瞠って大きく頷いた。
「うん! ありがとう、アル。あとは自分で考えてみるね」
やっとリズの顔から笑顔が溢れた。
それでもすぐに「ロイが好き」とはならないかもしれないけど、少なくとも頭の整理くらいは役に立てたと思う。
ひとまず話に区切りがついたので、お茶を口にしてクッキーに手を伸ばした時だ。
「ところで好きになるとドキドキすると思うんだけど、アルは旦那様のどんなところにドキドキするの? 教えてもらってもいい?」
「!?」
いきなりの話題で喉にクッキーを詰まらせるかと思った。キラキラした眼差しで期待いっぱいに見つめられて動悸が加速していく。
勿論トキメキではない。焦りだ。
「どんなところって……騎士服を着てると、かっこいいと思うよ」
良かった! 絞り出した!
しかしリズはこれだけでは納得してくれなかった。ずいっと身を乗り出してくる。
「あの制服姿はかっこいいよね。ね、他には?」
「……守ってもらう時に戦ってる姿は、すごいかな」
これも実はトキメキではない。不安と緊張からくる動悸である。
「近衛騎士様だものね。強いよね。アルが会った時にはもう騎士様だったの? やっぱり出会った瞬間からドキドキしたりした?」
「…………ドキドキ、は、したかな」
クライブと自分のファーストインパクトを思い出せば、激しい動悸と胃痛が襲ってくる。
あの時は心臓が破裂するくらいドキドキしたよ。
当然ながら全くトキメキなんかではない。あれは恐怖にだ。
「運命の恋だったのかな!? ロマンチックだね!」
「そう、かな……」
背中に冷や汗が滲む。
実際にはロマンチックどころではなかった。可愛い恋の始まりではなく、こちらは生死を賭けた戦いだったのだから。
(思えば、あれでどうして今結婚する仲になっているのか……正直、私にもわからないよ)
あの時の動悸を思い返せば、吊り橋効果だったのではと思わなくもなくなってくる。
否、深く考えるまい。今は幸せなのだから。
リズはこちらに都合よく解釈してくれたようで、ほう……と感嘆の息を吐いている。真実を知らない方が幸せなことって、本当にあるんだな。
「いいなあ……私もロイ相手にドキドキできるかなぁ」
「今度会ったら、手を繋いでみたらいいんじゃないかな」
なんとか力になれそうな助言を捻り出した。
少なくとも、私はクライブに手を繋がれるたびにドキドキする。
……残念ながらこれもトキメキとは言い難く、手汗が滲んだらどうしようという羞恥心からなのだけど。
でも好きな人の前では綺麗な自分でいたいという意味では、ちゃんと恋をしているのだと思うので。
「手を繋ぐの? 言われてみれば、小さい頃に繋いだっきりかも」
試してみるね、と笑ったリズは、恋に足を踏み出し掛けている乙女の顔に見えた。
*
夜も更けて、クライブと寝室のソファーに並んで座りながら今日あったことを話す。
ちなみに私が飲んでいるのは白湯で、クライブも私に付き合って白湯である。明日は休みだから飲酒してもいいのに律儀だ。
尚、リズとの会話の内容はクライブ相手にも話せることではない。ただ今日はリズが来てお茶をしたと伝えるくらいである。
「楽しかったようで何よりです」
「楽しいというより、今日は……色々訊かれて困ったと言いますか」
「訊かれて困る話だったんですか?」
クライブに問われて渋い顔になってしまう。クライブのどこにドキドキするかを言わされていたとは伝えたくない。
しかも恥ずかしさですぐには思いつけなくて、適当なことを言ってしまったなんて。
(改めて思い返せば、ドキドキするところは色々あるのだけど)
たとえば、マントを翻して颯爽と歩く姿だとか。
手を繋がれる時の剣だこのできた硬くて大きい手の温かさだとか。
私に視線を合わせるために自然と屈んでくれる気遣いだとか。
私を愛しげに見つめて細められる新緑色の瞳とか。
思い返したら顔が熱くなりそうで、慌ててぎゅっと口元を引き結ぶ。
それを見てクライブが心配そうに眉根を寄せた。
「嫌なことなんですか?」
「そうではありません。ちょっと返答に困っただけです。いざ聞かれると、すぐには答えられないものだな、と」
「何を訊かれたんでしょう?」
「……クライブなら、私のどこにドキドキするかすぐ言えますか?」
訊き返してみると、クライブがまじまじと私を見つめた。
ほら、言えないよね。やっぱりこれが普通の反応だ。
「そうやって、じっと見つめられるとドキドキしますよ」
「えっ」
しかし予想に反してクライブはあっさり答えた。私の手を取ると、首の脈に指先を触れさせられる。
指先に脈は伝わってくるけど、普段の速さがわからないから動悸が増しているのかはわからない。でも薄い皮膚の下でトクトク脈打つのを感じると、こちらまでドキドキしてくる。
「それと、こんな至近距離にいるだけでも落ち着かなくなります」
言うなり、背中に腕が回されてぎゅっと胸板に押し付けられた。薄い夜着越しなので、クライブの心音が直に体に響いてくる。
きっと私の一気に加速したドキドキも伝わってしまっているだろう。クライブより、私の心音の方が速いことがバレてしまう。
慌てて顔を上げると、からかい半分、愛しさ半分を滲ませた眼差しで見つめられていた。
「他にもドキドキするところはたくさんありますけど、まだ言いましょうか?」
「もう十分です……!」
ちょっとでも隙を見せたらまだ言い出されそう。
黙らせるために、悔し紛れに唇に蓋をしてやったのであった。