恋愛恐怖症の恋
※リズ(エリザベス)視点
たぶん、恋をするのが怖いと思っていたの。
フェリー伯爵の娘として認知されて、引き取られてから2年。17歳になった。
ある日の夜、父の書斎に呼び出されて柔らかく微笑まれた。
「そろそろリズも年頃だ。婚約者を決めなければいけないね」
「わ、私に婚約者!?」
唐突に予想もしていなかった話を切り出されて、自分でも驚くほど素っ頓狂な声が出た。
そんな私を見て、父が困った顔で眉尻を下げる。
「リズくらいの年ならば、もう婚約者がいる子は珍しくないよ。リズによくしてくださっているアルフェンルート様も既にご結婚なさっているだろう?」
「そうなんですけど……」
途方に暮れた顔をすると、父が優しい声で話を続ける。
「リズには気になっている相手はいないのかい? もしいるのなら遠慮なく言いなさい」
そう言われても、いきなりのことで頭は真っ白。
まだ貴族の常識は完璧とは程遠いけど、友人である元皇女で今は子爵夫人のアルに教わって取り繕える程度にはなってきた。
とはいっても、私生児ということで社交界では遠巻きにされているのに。
(それなのに、婚約者選び?)
こんな状態で、どんな相手を選べば正しいのかわからない。
素敵だなと思える人はいるけれど、憧れみたいなもので、これを恋と言える自信もない。
そもそもどんな相手でもいいの? こんなとき、貴族令嬢にとっての正解が不明だったりする。
困惑する私を宥めるように、私とそっくりな琥珀の瞳が優しく見つめる。
「君にはね、後悔しない相手を選んでほしいんだ。貴族でも平民でも、君が望むならどんな相手でもいい。一生を添い遂げたいと思える人を選びなさい。誰に何を言われようと、私がなんとかしよう」
まっすぐな眼差しで言われた言葉に驚いて目を瞠る。
「誰でも、いいんですか?」
「私が不甲斐ないばかりに、リズには大変な思いばかりさせてしまったからね。せめてこの先の人生は出来る限る力になろう」
後悔を滲ませた笑みを浮かべて、父が約束してくれる。
(きっとお父様はお母さんとのこと、今も後悔してるんだ)
私、エリザベス・フェラーはフェラー伯爵の私生児だ。
父であるフェラー伯爵は結婚前、屋敷に侍女として勤めていた母と好き合っていたらしい。貴族と平民という身分違いの恋だったが、当時の二人は両親の反対を押し切って本気で結婚する気でいたそうだ。
しかしある日、フェラー伯爵領で大きな災害が起こってしまった。
フェラー伯爵令息である父は領地に戻って対応に負われることになった。
その隙に、王都の屋敷に残されていた母は彼の両親から「息子と別れてほしい」ととても強く言われたようだ。
頼れる人も側におらず、また私を妊娠していることに気づいた母は、もし知られたら母子共に身の危険があると感じた。
だから彼の両親の言葉に応じて、父には黙って身を引くことになったのだ。
その後、領地から戻ってきた父は母を探そうとした。
けれど災害被害でフェラー伯爵家は火の車状態。母を探している時間もお金も人手もない。
その時に、別の貴族が婚姻を条件に援助を申し出てくれた。父は家と領民の為にその家の令嬢と結婚することとなり、母を諦めるしかなかった。
娘の私が生まれていることも知らずに。
(って、お父様は前に教えてくれたけど……)
父はきっと後悔しているのだと思う。だから母の娘である私に、出来る限り報いようとしてくれてる。
その気持ちは嬉しい。だけどすぐに誰かと結婚したいという気持ちは湧いてこない。
「少し、考えさせてもらってもいいですか……?」
「もちろん。君の人生だ、よく考えなさい」
恐る恐る申し出たら、父は大きく頷いてくれた。ほっと安堵の息を吐いて、「失礼します」と書斎を後にする。
自室に戻るなり力が抜けた。行儀悪くばたりとベッドの上に倒れ込む。
(結婚かぁ……そうだよね、今の私は貴族の娘なんだから、ちゃんと考えないとだよね)
でも幸い、父は恋愛結婚にも寛容みたい。それはきっと世間の貴族からは考えられないくらい甘いのだと思う。
でも。
「人を好きになるのって、まだよくわからないのに」
ぽつりと呟いた言葉が胸に重く伸し掛かる。急に息苦しくなって、ベッドの上で丸くなった。
(誰かを好きになるのって、幸せになるばかりじゃないでしょ)
たとえば、母のように。
恋に一途に生きた結果、私生児を産むことになって実家からも見限られた。
女手ひとつで私を育てて、日々忙しく働くことになってしまった。それでもけして裕福な暮らしとは言い難かった。
母はいつも「あなたがいて幸せよ」と抱きしめてくれたけど。
(私もお母さんがいてくれて幸せだったよ。本当に)
だけど最後は流行病で、私を残して若くして亡くなってしまった。
そんな母は、たまに寂しそうに笑うことがあった。
それは仲の良さそうな家族連れを見た時とか、父親がいないことで私が不憫になる時だとか。
恋に溺れなければ。私が生まれなければ。そんな寂しい気持ちにならずに済んだのに。母はもっと穏やかに、幸せに暮らせていたかもしれないのに。
それを考えると、誰かを好きになるという気持ちが停止してしまう。もしも母みたいに寂しい気持ちを抱くことになるくらいなら、最初から誰も好きにならなければいい。
恋をするのが、怖いのだと思う。
(アルの騎士のラッセル様のことは素敵だなとは思うけど……優しくて頼もしい癒し系のお兄さんみたいだなって気持ちの方が強いし)
こんなお兄さんがいたらいいのにな、という憧れに近い。
恋なのかと言われると、両親が抱えたほどの熱はないと思う。
(もし、もしだけど、好きって言われたら……ありえないけど! でも好きだって言われたら……困っちゃうと思うんだよね)
そういう好きじゃなかったのに、と困惑して持て余す自分が簡単に想像できてしまう。足踏みして、ごめんなさいを言ってしまいそう。
もちろん、前提からしてありえない話なのだけど!
気持ちを切り替えてそれ以外の貴族令息を想像しようとしたけれど、遠巻きにされていてあまり話したことがないから考えつけなかった。
そういえば以前にアルから、「兄様のことをいいなって思ったりする?」と訊かれたことを思い出した。
(アルのお兄様は麗しすぎて息が止まるし、そもそも皇太子殿下なんて恐れ多い……!)
ぶんぶんと顔を横に振った。ない。絶対ありえない。
あと異性といえば、異母弟は懐いてくれている。実は結婚もできる間柄みたいだけれど、やはり弟は弟としか見られない。
それ以前に私を嫌っていて、私が引き取られてからフェラー領から出てこない義母が許さないと思う。私もこれ以上はフェラー家のお荷物にはなりたくない。
(そうなると、結婚して家を出ていくのが一番いいのはわかってるけど)
はあ、とため息を吐き出した。
例えば友人のアルを思い出せば、旦那様と仲睦まじく暮らしている。それを見れば幸せな恋もあるとわかっているのに、どうしても尻込みしてしまう。
「アルに相談しようかな……」
脳裏に頼れる友人を思い浮かべて、「ううん」と眉根を寄せる。
アルには貴族の娘になるにあたり、これまでにすごくお世話になってきた。色々教えてもらって、助けられてきた。アルは「たいしたことはしてないよ」と笑ってくれるけど、甘え過ぎは良くない。
さすがに自分の人生くらいは自分だけの頭で考えるべきだ。
そう言い聞かせて、うんうんと朝まで頭を悩ませることになった私は、かなり馬鹿だったと思う。
*
(朝日が眩しい……目がチカチカする)
結局、一晩考えても全く答えが出なかった。
気分転換に朝市でも覗きに行こうと、日が登ると同時に平民に見えるワンピースに着替えてこっそり家を出てきた。
いつも付いてきてくれる侍女はまだ起きてきていなかったので、久しぶりの一人行動。
護衛をつけないと父は心配するけど、平民暮らしをしていた私を知っているので、たまにはお目溢しをされている。
(やっぱり一人だと気楽でいいな)
綺麗な服も、清潔でふかふかのベッドも、美味しい料理も有難いと思うけど、やっぱり自分は動きやすい服で気取らずに町を一人で歩く方が性に合ってる。
すうっと朝のまだ冷たい空気を吸い込む。高級住宅街から町の中央を抜ければ、朝市を始める前のざわめきが響いてきた。
一日が始まったと感じられる、この場の空気が好き。
歩き慣れた道を行き、ひょっこりと顔を出すのは幼馴染の花屋だ。
何かあるとつい気心の知れた幼馴染の顔を見て安心したくなる。
「おはよ、ロイ!」
「なんでお嬢様がこんなとこに一人で来てるんだよ」
声を掛けると、赤茶けた癖のない短髪の少年が弾かれたように振り向いた。
否、少年ではなく、もう青年と言ってもいいかもしれない。近頃はぐっと背が伸びて、今では見上げる位置にヘーゼルの目がある。
その見慣れているはずなのに急に大人びてきたきつめの顔が私を見て、呆れと心配を滲ませる。
「誰も今の私を見てお嬢様だなんて思わないよ」
「……そうでもないけどな」
笑って肩をすくめる私を見て、ロイがやや不服そうに呟く。
「俺、今から配達に行くけど」
「手伝うよ!」
「そう言って、リズはいつも隣で話してるだけだろ」
「歩きながら薔薇の棘くらい取るから」
「やめろ。怪我されたら堪んない」
ロイは呆れつつ、得意先の店舗に届ける大量の花を積んだ荷車を引いて歩き出す。以前より積む量が増えたのは、それだけ大人になって力がついたからなのかな。荷車を引く腕は以前より逞しくなってるように感じる。
なんだかそれがちょっと落ち着かない。
少し会わなかっただけでこんなに成長してるなんて。私の知らない幼馴染になったみたいで、寂しいような、妙に焦るような。
「で、何かあったのか」
悶々としかけたところで、歩きながらロイが話しかけてきた。面倒さ半分、気遣い半分の声音はいつも私を落ち着かせてくれる。
「悩み事があるの、わかっちゃう?」
「リズはすぐ顔に出るからな」
「……お父様にね、そろそろ許嫁を決めるようにって、言われちゃって」
「!」
自分の人生なんだから自分一人で考えようとしていた気持ちが、幼馴染の顔を見たら簡単に挫けてしまった。
出来るだけ軽い口調で言ったつもりだったけど、ロイは息を詰めて驚きに瞠られた目をこちらに向けた。
「それで、どうしたんだ。嫌な奴と結婚するように無理強いされたんじゃないだろうな」
「そんなことはされてないよ! 好きな人がいたら言いなさいって言ってくれたよ! 貴族でも平民でも、私が決めていいって」
口にしてみると、なんて恵まれてるんだろう。
ロイもそう思ったのか、まじまじと信じられないものを見る目で私を見た。
「貴族なのに変わった親父さんだな」
「たぶんお父様はお母さんとのことを後悔してるみたいだから、それで気遣ってくれてるんだと思う」
「ああ……それで。それでも娘にそう言えるってすごいな」
ロイには父の元に引き取られる時にあらかた事情を説明していたので、すぐに納得してくれた。
だけど動揺してるみたいで、ロイの視線が微妙に揺れる。
やっぱり驚くよね。話を聞かされただけの立場のロイが驚くぐらいだから、当事者の私がどうしていいかわからなくなるのは当然なんだ。きっと。
「でもそう言ってもらえても、好きな人がいないからどうしたらいいかわかんないの」
「前に、アルのとこにいる騎士様が素敵だとか言ってたろ。そいつのことは言わなかったのか?」
泣き言を漏らしたら、ロイは立ち止まって強張った顔を私に向ける。
「ラッセル様? あの方には助けていただいたし、すごく素敵だと思うけど……結婚したいかって言われたら、ちょっと違うかなって。隣に並ぶ姿が想像できないもの」
すごく頑張って無理に背伸びして、ようやく追いつけそうだと思う。
だけどそれではきっと疲れてしまいそう。
それでもいいのだと思えるのが恋なのだと言われたら、やっぱり私に恋は難しい。
「それに貴族の夫人って、私には向いてないと思うんだよね」
はあ、とため息を吐き出した。これが偽らざる本音だ。
アルに色々教えてもらったけど、実はいまだに貴族令嬢の自分に慣れない。自分の居場所を持て余してる。
それなら平民に嫁げばいいのかもしれないけど、引き取られる前に勤めていた洋裁店は女所帯だったから素敵な出会いもなかった。
遠い目で諦めかけたら、不意に隣から伸びてきた手に手を掴まれた。
「どうしたの?」
「じゃあ……、俺なら?」
驚いて見上げた先に、真剣な顔つきで私を見つめるロイがいた。
思わず息を呑み、同時になぜか心臓が急に心拍数を上げる。ドクドクと走り出した心臓は、やけに落ち着かない気分にさせられる。
「ロ、ロイなら?」
「俺なら、隣にいても嫌じゃないだろ」
「それはもちろん、嫌じゃないけど……えっ?」
「俺は、どんな時でもリズの傍にいたいって思ってる」
真摯に紡がれる言葉に大きく目を瞠る。
「ずっとリズが好きだったから」
告げられた言葉に一瞬、心音が止まった気がした。
周囲の喧騒が遠のいて、頭の中に言われた言葉だけが反響する。
繋がれた指先は冷たくて、だけど掌は熱い。かさついて硬い手は気付けば私の手を包み込めるくらい大きくなっていた。
もう子供ではないのだと思い知らされる。
それに気づいた途端、頭の中が揺さぶられたみたいに感じた。
(傍に、って。まるでプロポーズみたい。や、でもロイは幼馴染で! だからこれからもずっとこんな関係が続くって……)
そう、思っていた。
そう思いたかったんだ。
これだけ近くにいたのに、ロイのことを恋愛対象として見ないようにしていた。それはきっと無意識に。
(どうして?)
だってもし恋をして、関係性が変わってしまったら?
恋になったら、いつか気持ちが変わってしまう日が来るかもしれないでしょ。飽きたり、誰かに気持ちが移ったりしてもおかしくない不確定な感情が恋なんでしょう?
すごくすごく好きでも、どうにもならずに別れることもあるんだよね? 私のお父様とお母さんにみたいに。
それはきっと、とても苦しい。
もし恋に終わりが来るとしたら、もうそばに居られなくなるかもしれない。
そんなことを考えたくなくて。
だから安心できる、変わらない幼馴染の位置に固執していた。それ以外を考えないようにしていた。
だってロイが傍からいなくなるなんて、考えたくもなかったから。
「ロイが、私を好き……?」
「本気だからな」
呆然と聞き返すと、ロイはじわじわと赤く頬を染めて念を押してきた。
「あのね、混乱してて、いますぐに私も好きだとはまだ言えないんだけど……。でもちゃんと、考えるから」
ロイは今、幼馴染の関係から踏み込んできた。
安心安全な境界線を超えて、一歩深くまで。
一度でも境界を破ってしまえば、後戻りはできないのに。
それはきっととても怖くて、勇気のいる告白。
(それなら私も、向き合わないと)
怖くても、それをロイが選んだのなら。
じっと見上げて答えれば、ロイは私を見つめて、驚くほど優しく笑った。
「うん」
頷かれた瞬間に一際大きく心臓が飛び跳ねたのは、なぜなのか。
もしかしなくても、それが私の答えなのかもしれない。