カリカリチーズ
立っているだけでも、じわりと汗が滲む季節になった。自室の窓越しでも燦燦と降り注ぐ太陽の日差しは眩しくて目を眇めてしまう。
(兄様の誕生日の贈り物、何にしよう)
こんな季節に兄が生まれたのかと思うと、ちょっと不思議な気持ちになる。母譲りだと言われている雪のように白い肌と白銀の髪、淡い灰青色の瞳からは冬を連想させるというのに。雪の精霊王だと名乗られたら信じてしまえそう。
ぼんやりとそんなことを考えて現実逃避をしていたけれど、真面目に考えなければ。
テーブルの上、注文を書くための紙を前にしてペンをくるりと回す。
兄の立場上、高価な品は嫌というほど贈られているはず。それに欲しい物があれば自分で手配すると思う。そう考えて、去年は誰も渡すことを考えないような実用重視のアイマスクを贈ったわけだけど。
兄は今でもそれをかなり重宝している、とはクライブの談である。役立ててもらえて嬉しい反面、そこまで眼精疲労に悩まされる程に忙しいのかと思うと気の毒になってくる。
(そうなると、今年も日々の疲れを癒せるものがいいのだろうけれど)
何がいいのだろう。前の私が仕事に疲れた時に頼っていたものって何だったかな。
まず、ふかふかのベッド。しかし、これは既に兄の部屋にある。モフモフの猫……は、常に兄の宮にいる。ソシャゲは存在しない。読書は兄もそれなりにしているようだけど、本の好みが雑多でわからない。
(そうなると、残るは酒一択!)
お休みの日の酒盛りは至高の癒し!
兄は酒に強いと聞いたので、まずお酒ならば間違いはない。
……ただ問題は、今の私はアルコールに弱くて、どこのお酒が美味しいのかわからないこと。色々美味しい所は聞いてみたけれど、贈るのなら自分で飲んで「これ!」というおススメにしたい。
それなのに、麦酒1杯すら飲めなかった自分を思い出して苦い気持ちが湧いてくる。
まさか、この私が! 酒に弱いなんて!
まったく考えもしなかった。声を大にして叫びたい。そんな馬鹿な、と。
よく考えれば体が違うのだから、酔う可能性はあった。でも、酔うという感覚があそこまで強いと思わなかった。前は数杯を飲んでようやく少し熱くなるだけで、足腰も意識も常と変わらず、気持ちよく眠れる程度。翌日にも全く残らない優秀さ。
それが普通だったので、まさかあんな風になるなんて想像するわけがない。今でも信じられない。あれが酔うということなの? 弱い人、かわいそう……って、今の私だ。
いや、今は私の酒の弱さは置いておくとして。
人気どころの地酒を産地直送で頼む? ちょっと味気ない気がする。せっかく贈るなら喜んでもらいたい。
(今の私に考えられるとしたら、お酒のつまみ?)
そういえば以前、ポテトチップスの材料とレシピを贈ったことがある。あれはとても好評だったと聞いた。
といっても、生憎と料理はそれほど得意ではなかった。興味が湧けば作ってみたけど、酒のつまみに至っては手を抜きまくり。冷凍枝豆とか。コンビニで買ったスルメとか。それもなければ、朝食用のスライスチーズでも齧っていれば十分……
そうだ。みんな大好き、カリカリチーズがあった!
(確かピザ用チーズをクッキングペーパーに乗せて、電子レンジで1分! ……2分?)
ともかく、数分で出来る。子どもでも作れる簡単レシピ。そして美味しい。最初に考えてくれた人、ありがとう。あなたは私の神でした。
チーズ独特の香ばしい匂いと、カリカリとした食感を思い出して思わずコクリと喉が鳴る。ブラックペッパーを掛けると大人の味になるので兄にも喜ばれそう。
カリカリチーズはビールによく合うけど、ワインにも合うんだよね。思い出してにっこりしてしまいそう。
そこでふと、自分の誕生日に呑んだ酒を思い返して気づいた。
(麦酒は駄目だったけど、葡萄酒なら大丈夫では?)
よく「ビールは飲めるけど、ワインは酔う」とか、「日本酒は飲めないけどワインは平気」という人がいたことを思い出す。
もしかして私も、ワインなら飲めてしまうのでは?
ビールは炭酸が入っているから酔いが回りやすいと言う。それに安酒は悪酔いしやすいとも言われていた。
ならば高級な葡萄酒なら、酔わずに頂けるのでは!?
気づいたそれに心が浮き立つ。これはぜひ試してみたい。飲めない人生はちょっと損した気分になる。
(といっても、自分用の葡萄酒を頼んだらメリッサが怖い)
先日の自分の誕生日の夜、酔って帰った私を見てメリッサの雷が落ちた。
怒られて当然だったな、と今では思う。けれどあの時は成人できたことでテンションが上がっていて、浮かれまくっていたので……飲める! という気持ちでいっぱいで、深く考えないようにしていたと言うか。だいたい、自分が酔うとは思ってもいなかった。
今は反省している。
そして反省している手前、お酒は頼み難い。しかし思い付いたら試してみたい。だからもし飲むとしたら安心安全な場所で、メリッサにバレても問題ない飲み方をしなければ。
(例えば、兄様のところで、とか)
万が一酔ったとしても、相手は兄。飲む場所も王宮内。最悪の場合は、兄の宮に泊めてもらえそう。これならば問題はないのでは?
ちらりと給仕に徹するメリッサに視線を投げかけると、目線だけで「どうされました?」と微笑まれる。慌ててゆっくりと首を横に振って微笑み返す。なんでもないよ。問題ないよ。
(そう、これは兄様用)
脳内で言い訳しつつ、注文書に『葡萄酒』と記入する。尚、注文物は兄の宮へ産地直送。
未だに兄に対してよからぬことを考える人がいないわけでもないので、毒物混入は用心するに限る。王宮に直接納入できる業者は自分の首が懸かっているだけに、安全面は徹底するだろう。
チーズは兄にとって、一番安心安全かつ高品質を誇る酪農にも強いコーンウェル公爵家に依頼しよう。兄の近衛のニコラスを介して頼めば間違いない。
とんとん拍子に決まって思わず気分も踊る。
あとは、レンジで……
(電子レンジがない!?)
よく考えなくても、あるわけがない。どうしよう。電子レンジの開発なんて、私の頭脳では不可能!
だけど要は温めて溶かした後、カリカリになるのを待てばいいわけだから。フライパンで焼くとか。オーブンで焼くとか。
……料理人の皆さんがなんとかしてくれるのでは?
他力本願になってしまうけど、彼らの有能さを信じよう。これまでにもどら焼きとか、おしる粉とか、私の無茶ぶりに応えてくれた人達である。挑戦することに楽しみを見出してくれている職人魂に期待したい。
(完成したら金一封を出そう。頑張ったら報われるホワイト企業であらねば)
勿論これはちゃんと父の手伝いをして貰った報酬から出すので。私のポケットマネーなので。
***
(シークヴァルド視点)
「おかえりなさい、兄様」
日が暮れて随分経ってからようやく仕事を終わらせ、自分の宮に戻るなり笑顔のアルフェに迎えられた。
アルフェの仔猫を預かっている為、近頃はよくこの宮に来ている。好きに猫と遊ばせてやればいいと言ってあるので、アルフェがいること自体は問題はない。
ただ今日は、なぜかやけに良い笑顔だ。いつも困ったように眉尻を下げて笑うか、控えめに微笑むことが多いので、珍しい反応に思わず首を傾げてしまう。
「随分と機嫌がよさそうだな」
「兄様へお贈りした誕生日のお祝いが届いたのです」
なぜ祝いを贈った側が嬉しそうなのか不明だが、心遣いは嬉しいのでこちらの顔も僅かに緩む。頷いて、すぐに傍らに控えていた家令のテオに確認の視線を向けた。
しかし、昔から自分に付いているいつもあまり感情を見せない彼が、今日は僅かに困惑を滲ませている。
この時点で、アルフェが何を贈ってきたのかまったく読めなくなる。
「何を贈ってくれたのだ?」
部屋の中を流し見たが、白と灰色の仔猫が三匹、アルフェの座っているソファの近くでじゃれ合っているだけだ。それらしい物は見当たらない。
チラリと護衛に付いていたクライブに視線を投げかけたが、許嫁であるクライブも首を傾げている。
すると意外なところから声がした。もう一人の護衛であるニコラスだ。
「ああ、やっと届いたんですね?」
「知っているのか」
「アルフェ様直々に我が家にご依頼いただきましたから」
ね? と言いたげにニコラスがアルフェを見て、アルフェは「世話になりました」と頷く。クライブが休みの時はニコラスに様子を見てもらっているので、案外二人は仲が良いようだ。
それにしても、なぜニコラス?
「チーズですよ。我が領は酪農も盛んですから。熱で溶けた時に美味しいチーズをお願いされまして。我が家で色々試して、やっと届いたようです」
「チーズ?」
なぜ、チーズ。思わず復唱してしまった。
そういえば以前も似た会話をした気がする。あのときは大量のじゃがいもが届いた。今度はチーズか。嫌いではないが、大好物だと言った覚えもない。
「それと兄様がお生まれになった年の葡萄酒です。カリカリチーズには葡萄酒がとても合いますから」
「カリカリチーズ?」
聞いたことがない言葉に首を傾げれば、「今こちらの厨房で作っていただいてます」とアルフェが頷く。
「チーズを極薄く切って、フライパンで5分ほど焼くと出来るそうです。楽しみですね」
答えるアルフェは常ならば見られないほどのにこやかさである。
「勿論、私が毒味いたしますから」
そう言って、アルフェはとても嬉しそうに笑った。
それに反して、こちらは思わず苦い顔になってしまう。
「妹に毒味をさせる兄がいるわけないだろう」
「ご安心ください。私は耐毒性を備えています。生半可な毒は効きません」
「そういう問題ではない。だいたい、それならば毒見は意味をなさないだろう」
この妹は何を言い出すのか。
呆れた目を向ければ、なぜか驚きに目を瞠られた。断られるなんて考えていなかったようだ。やけにショックを受けているように見受けられる。
これは、もしや。
「単に一緒に飲みたかっただけだろう?」
まさかと思って見据えて問えば、数秒固まった後で「……はい」と気まずげに頷かれた。ならば最初からそう言えば良いものを。
しかし、以前に比べて目が泳いだり黙り込んだりしなくなっただけ、素直になった方だ。こうして甘えられるようになったことは、お互いに信頼を交わしてきたからこそと言えるだろう。
視界の端では、護衛に当たっていたクライブが渋い顔をしているが。
「アルト様。お酒は体質に合わないでしょう」
案の定、過保護と化したクライブが苦言を呈している。しかしアルフェは「葡萄酒ならば大丈夫な気がします。元は葡萄、果物ですから酔わないと思うのです」などと真顔で屁理屈を捏ねている。
クライブに対してちゃんと言いたいことを言えているだけ、二人はうまくいっているようだ。兄として、そこは安心する。
「ここで多少酔ったところで問題が起こるわけでもない。この先のことも考えて、己の限界酒量を知っておくのも良いだろう」
そしてここでアルフェの肩を持ってやるあたり、私も甘いのだろう。
アルフェは天の助けとばかりに笑みを溢して「兄様」と嬉しそうに呼んでくれる。こうしてよく笑えるようになったことに安堵しているのは、きっと私だけではない。
そして、生誕をお互いに祝えることこそが、私にとっては十分な贈り物だと思うのだ。
密かな感動を噛み締めながらグラスを二つ用意させると、乾杯の音は涼やかに耳に響いた。
ーー尚、アルフェは葡萄酒でもグラス1杯で酔った。
心底悔しそうに「葡萄酒なら飲める予定だったのに……!」と呻いていたアルフェを、クライブが横抱きにして「次からは葡萄ジュースにしましょう」と宥めながら客室に運んでいく。
その姿を見せつけられながら齧ったカリカリチーズは、美味なはずなのに未だ独り身の自分にはちょっと苦かった。