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避難訓練をしましょう


 結婚して王都のランス伯爵邸で暮らし始めてから、約半年。


 結婚前は習慣的にダンスの練習をして、日課の散歩も行い、図書室で重たい本を両手に抱えて行ったり来たりと、意外に体を動かす機会が多かった。

 しかしランス伯爵邸に移ってからは、ダンスはクライブの練習に付き合って週に一度程度。

 日課の散歩もランス伯爵邸は広い方だが、今まで暮らしていた城と比べると散策してもさほどの運動量にはならない。

 そして今も週に一度は登城して図書室で仕事をしているけれど、補佐官が付いたので以前ほど重い本の山を自分で持たなくなった。


 そんな生活をしていたら、一体どうなるか。


「弱……え、そんなに……弱いのですか?」


 床の上で行ってみせた腕立て伏せ2回目にして、ぐしゃりと潰れた私を見下ろしてクライブが愕然とした。

 私自身もびっくりしている。


(嘘でしょう? たった2回で生まれたての子鹿状態に!)


 待って欲しい。こんな予定じゃなかった。以前の私ならば腕立て伏せ連続10回は余裕で出来ていたのに!


「これはちょっと……手違いがありまして」

「腕立て伏せに手違いとかないですよね? 無理なさらなくて良いんですよ。アルトは僕らが守ります」


 情けなく床に這いつくばったままの私を、クライブがそっと抱き起こしてくれる。ついでに私の手を取って、誓いの代わりとばかりに指先に口づけを落とされた。

 こんな情けない姿の私を見るクライブの目といったら。

 立って歩いているだけですごいですよ、とでも言いたげな気遣わしげな生暖かい眼差しだ。

 やめて。そんな目で見ないで。馬鹿にされるより恥ずかしい。


「本当の私はこんな風ではないはずなのです」

「わかりました。今日は調子が悪い日なんですね」


 クライブは躍起になる私を宥めながらも、絶対にこちらの言い分を信じていない目をしている。

 悔しい。本当に前はこんなに弱くなかったのに!


 元々は、クライブと何の会話からそうなったのかは忘れたけれど「私は結構力持ちです」と自信を持って告げたことが発端だった。

 「頑張ればクライブだって持ち上げられるはずです」と言ったのは、確かに見栄を張ったかもしれない。

 やってみせようとしたら、「腰を痛めたらいけませんから」とやんわり止められた。無理だから、とその顔に書いてあった。

 だからムキになって「では腕立て伏せで証明します」と意気込んだのだけど。


(まさかここまで筋力が落ちていたなんて)


 結婚準備や新婚旅行、新しい生活に慣れるのに忙しかったから、なんて言い訳に過ぎない。基本的な体力管理が疎かになっていたなんて、自分を甘やかしてしまった。

 項垂れながら、自分の二の腕を摘んでみる。

 ぷよぷよにはなっていないけど、筋肉も感じられない。元からそんなに筋肉があったわけでは無いけど、今は弾力が減っている気がしてくる。

 貧弱そうな見た目に反して、意外に力持ちなことと足が速いことは密かに自慢だったのに。

 このままではいけない。


「この次は必ずクライブを見返してみせます。あっと驚かせてみせますから」

「一体何と戦ってるんですか。十分驚きましたから、これ以上は無理しないでください。アルトが強くなる必要はないんですからね?」


 悔しさのあまり歯噛みしながら宣言すれば、クライブが呆れた顔で私を宥めた。

 腕力はすぐにどうしようもなくとも、私にはまだ足の速さがある!

 哀れみに満ちた眼差しを向けていられるのも今だけだから。目に物を見せてやるのだ。




 そんなわけでこの二週間、私は努力した。しかも無駄にならない努力だ。


 まず、今更ながらにランス伯爵邸を探索して、間取りと構造を頭に叩き込んだ。

 敷地内には騎士育成の為の設備や寮もあるから、他の屋敷よりはるかに広い。昔から王族の傍近くに仕える家だったから、王族を迎えても差し支えない程度に本邸も部屋数が多い。

 それ以外にも厨房や使用人の部屋に至るまで、頼んで隅々まで見せてもらった。おかげでランス伯爵邸を完璧に把握した自信がある。

 元々、有事の際に備えて覚えておくつもりだったからちょうど良かった。

 そして一度は避難訓練をしておきたかったので、良い機会でもあった。

 あとは肝心な避難訓練で、賊の役割をしてくれる人を選出するだけ。


 そこで白羽の矢が立ったのはクライブの弟で、私の義弟となったデリックである。


 大変都合の良いことに、月に一度はデリックが晩餐を兼ねてランス伯爵邸に泊まりに来ることになっている。

 元々ここに住んでいた彼を半ば追い出す形で新生活を始めてしまったので、いつでも気兼ねなく帰ってきていいという意味で呼んでいた。

 ちなみに広いから一緒に住んでも問題ないので私は同居するつもりでいたのに、デリックが固辞したという経緯がある。


『新婚生活のお邪魔は出来ません! 新婚夫婦に当てられて僕の心が死にます。それに僕も成人ですから、自活する良い機会です』


 そう胸を張って出て行ったのだ。

 それでも月に一度はいそいそと帰ってきて、兄のクライブに色々と相談しているみたい。

 大好きな兄を奪ってしまって申し訳ないと思っていたけど、デリック曰く、結婚してからの方がクライブと話せる時間が増えたと喜んでいた。近衛騎士宿舎住まいの時は、クライブが忙しくて滅多に実家に帰らなかったそうなので。

 デリック的には、今の距離感が嬉しいらしい。逆に感謝されたくらい。

 そんなわけでお互いに良い関係を築けていると思う。

 頼めば賊の役を引き受けてくれそうなくらいには。



 というわけで、待ちに待った本日。

 日が落ちてすぐ、晩餐がてら泊まりに来た義弟のデリックを捕まえると、用意していた依頼を口にした。


「デリック。クライブが帰るまで、私の避難訓練に付き合っていただけませんか?」


 クライブが帰るまで、あと1時間はあった。避難訓練を行うには都合が良い時間設定だと思われる。


「避難訓練、ですか?」

「はい。有事に備えて、襲われた時にこの屋敷内でどれだけ逃げ切れるか確認してみたいのです」

「この屋敷に住む限り、ここまで賊の侵入を許すことはありませんが」


 私の提案にデリックが眉を顰める。だがそう言われるのは予想範囲内。


「そうした慢心が隙を生むのです。例えば信頼していた護衛騎士が、家族を盾に脅されて私を襲う可能性がないとも言い切れません」


 説明すれば、デリックがハッとした顔をする。

 そこまで考えられないところが甘いのだけど、私としてはその甘さは嫌いではない。

 人の誠実さを信じられる心は、それはそれで得難いものだから。


「そういうわけですから、申し訳ないのですがデリックは賊の役として私を追いかけてくれませんか?」

「僕が、ですか?」


 デリックは吊り目の勝気そうな顔に困惑を乗せて眉尻を下げた。

 デリックは父親似だけど髪と目の色彩はクライブと同じだからか、そういう表情をすると兄と似ている。


「賊が屋敷の構造を調べた上で私を襲うと想定すると、生まれた時からここで暮らしていたデリックが一番の強敵ではないかと考えました」

「あの、義姉上……本当に訓練相手は僕でいいんですか? 兄上ではなく?」


 デリックは尚も困惑を見せて首を傾げる。

 私も最初はクライブと戦うつもりでいたけど、相手は現役の近衛騎士である。地の利もあることを考えたら、秒で負ける自信があった。

 それにさすがに賊も近衛騎士レベルまでは到達していないはずだから、クライブは除外した。私の護衛騎士であるラッセルも同じ理由で除外。


「クライブに頼んだら、即座に捕まって訓練になりません」

「義姉上、僕もこれでも腕が立つ方なんですよ」


 デリックは侮られていると思ったのか、ちょっと拗ねた顔をしてみせた。素直だ。

 こういうところは、家族に愛されて健全に育てられたことが滲み出して好ましい。可愛い義弟だと思う。私より1歳年上ではあるけども。


「デリックの力量を疑っているわけではありません。デリックなら、義理の姉である私に遠慮が働くでしょう? その分も考慮しての人選です」


 信頼しているのです、と言外に含めればデリックが少し照れた顔をする。

 やはり可愛い。今まで自分より下の相手がいなかったから、弟という生き物にとても新鮮な気持ちを抱く。

 ちなみに今言ったことは嘘ではないけど、デリックの性格上、私がなかなか捕まらなければムキになって本気を出すことも想定内である。

 そんな相手から逃げ切ったら、私はなかなかやれる人間だとクライブも認めてくれるのでは?

 もちろん、デリックを利用する形になるので、タダでとは言わない。


「クライブが帰るまでに私を捕まえられたら、『アネモネ・ガーデン』の個室招待券を差し上げましょう。事前にいつ行くかを連絡しておけばすぐに入れます」

「予約半年待ちと言われる人気ティールームの!? いいのですか? 個室は一部の特別な方だけの……って、義姉上は特別な方でした」

「実はそうなのです」

「実はと言われましても、みんな知ってますけど」


 それはそう。降嫁しても王の娘ではあるからね。実家の力は強い。

 

「私を1回捕まえるごとに1枚差し上げます。どうでしょう?」


 たくさん来店して元皇女の御用達店として宣伝してね、という期待をされて3回分の招待券を貰っている。

 これだけあれば十分でしょう。


「わかりました。その役目、見事果たして見せます」


 デリックがきらりと目を輝かせる。楽勝だと考えていそう。とても素直で可愛い。


「では交渉妥結ということで、始めましょう」

「わかりました。義姉上、僕が腕を掴んでもお許しください」

「もちろん許します」


 デリックは既に私を余裕で捕まえられる気満々のよう。侮られてるのはわかったけど、あえて何も指摘しなかった。

 しかし私はこう見えて、本気のメル爺との恐怖の鬼ごっこを幾度も逃げ切った人間なのである!

 デリックには甘く構えていたら痛い目を見ることも、勉強してもらいたいと思う。



 避難訓練する旨は事前に使用人に周知してあるので、私がどこを駆け回っても驚かないように伝えてある。

 尚、今回は本邸内限定で行う。外が安全とは限らないから、という設定。

 実際に賊に襲われた場合、私が外に出る前に侍女や護衛が先に外を確認して、応援を呼びに行くことを踏まえてである。

 今はラッセルが傍に控えているけど、お手洗いで不在という隙を突かれたことにして、今回は手を出さないように頼んでおいた。近衛騎士のラッセルが出てきたら、デリックはすぐに制圧されてしまうので。

 だから傍に仕えているのは、侍女のエリーゼだけという状態。


(いざ!)


 現在いる応接間でお茶を飲んでいるところで襲われた設定で、カップを置いたところでデリックが手を伸ばしてきた。


(来た……えっ?)


 だが備えていた私より早く、バシンッ!と激しい音がした。

 ぎょっとしてそちらを見ると、デリックの伸びてきた手が横から鋭く叩き落とされていた。

 侍女のエリーゼの手によって。


「奥様! お逃げください!」

「えっ。エリーゼも」


 エリーゼには事前に一緒に避難訓練しようと伝えてあった。今一番近くに仕えてくれていて、いざという時の私の身代わりにもなる人だから。


「私のことをかまってはいけません! 行きなさい!」

「は、はい!」


 命じる強い声に押されて、反射的に駆け出した。私の予定ではエリーゼも一緒に逃げるつもりでいたのに。

 でもエリーゼは、万一の場合に備えて己がやるべき訓練をするつもりでいたのだろう。それを邪魔するわけにはいかないし、私がいたら足手纏いになることくらいはわかる。


 ドレスのスカートを容赦なく捲し上げて、脇目も振らずに応接間から飛び出した。

 廊下を全力で走り抜けながら、ちくりと胸を刺すのは罪悪感。


(……やだな)


 訓練だとわかっているから見捨てて逃げられるけど、実際に襲われたら今みたいに自分だけ走れるだろうか。

 誰かを見捨てても自分が助からなければ、余計に被害が拡大する立場だとわかってはいるけど。

 割り切れるのか?

 自分に問いかけても、答えが出せない。

 本当に訓練するべきは、私の心の方かもしれないと思い知らされる。


 悶々とする私の背後では、「ぎゃっ。うわ! エリーゼ、待っ……うわあ!」とデリックの悲鳴が聞こえていた。

 果たして、デリックも大丈夫なのだろうか。

 エリーゼはデリックの父方の従姉弟でもある。幼い頃からデリックとの付き合いがある分、容赦がないっぽい。

 新婚旅行の後から聞いたけど、エリーゼは結構強いらしい。どれくらい、どういう意味で強いのかは知らないけれど。

 物理的にも強いのかも、と遠くにデリックの悲鳴を聞きながら慄いた。




 走り回った距離は思ったより短い。ほとんどは隠れてやり過ごしている隠れ鬼ごっこな感じなので、そこまでの疲労はない。

 むしろ、私を探して駆け回ってるデリックの方が大変だと思う。


 最初は2階から3階に上がり、廊下を走り抜けざまに開けられる扉は全て開けながら走った。どこの部屋に逃げ込んだかわからないように。

 けれどもどの部屋にも入らず、4階に上がる。

 4階は使用人たちの私室なので悪いと思いつつ、同じように開けられる扉は開いていった。

 とはいえ、大抵は鍵がかかっていて開かない。みんな仕事中だから当たり前のことだった。事前に知れてよかった。逃げる時は4階はやめようと脳内にメモを取る。


 それでも何室かは空いていて、そのうちの一つに戻って中に飛び込んでみた。

 部屋にはベッドが二つ。机も二つ。人はいなくて、鍵がかかっていなかったことが心配になる。後で部屋を使用させてもらった迷惑料を渡す時に教えてあげよう。

 部屋の中で隠れられる場所はクローゼットの中くらい。ベッドの下は物置になっていて入る隙間がなかった。

 ひとまずクローゼットに息を潜めて隠れて、ようやく追いかけてきたデリックを迎え撃つ。


「なんでこんなに見つからないんだ……」


 デリックも騎士なだけある。息も切らさずに部屋に入ってくるのでドキドキした。呼吸を極限まで薄めて、気配を消す。

 図書室で身につけた技が役に立つ日が来るとは!

 デリックはどうせこの部屋にもいないんだろう、という手荒さですぐに出て行ってしまった。

 きっとここに辿り着くまでにも空振りしまくったからに違いない。かわいそうに。

 見つからなかったことに、ほっと安堵の息を吐き出した。開始10分でゲームオーバーかと思ってしまった。

 私にとっては良かったけど、偵察隊には向いてないね、デリック。


 気配が遠のいたのを確認してしばらく待ってから、デリックをやり過ごした部屋からそろりと出た。


(20分くらいは逃げられたかな)


 次は1階の厨房横の準備室に向かう。途中で6時を告げる時計の音が聞こえた。

 地下には食材庫があるけど、そこはいざという時の逃げ場がないから除外。

 ついでに、出入りが出来そうな窓を確認しておく。窓から顔を出して、いざという時は飛び降りて体を隠せそうな場所のチェックは欠かさない。


 その後で厨房に顔を出したら、料理長が穏やかな笑顔で「奥様、今夜はデリック坊ちゃまのお好きなビーフシチューですよ」と教えてくれた。

 揚げたばかりのポテトを味見させてもらったのは、内緒にしておこうと思う。デリックにバレたら、何を呑気に休んでいるのかと怒られそうだから。

 ハフハフと熱い芋を頬張りつつ、出来立てが食べられる幸せを噛み締めた。



 そしてそろそろデリックの手が伸びてきそうだと感じて、再び応接間に戻った。

 まさか最初の部屋に戻ってくるとは思わないでしょう。本物の賊が相手ならそんなことしないけど、もう30分は粘ったからいいかな、と思ったからである。

 応接間に戻るとエリーゼが驚いた顔をした後、しゅんと項垂れた。


「力及ばず、デリック様を取り逃しました。申し訳ありません、奥様」

「そんな危ないことはしないでください、エリーゼ」


 捕まえる気でいたの!? 無謀すぎる!

 咄嗟に部屋で待機していたラッセルを見れば、「お止めしました」と苦笑いをされた。

 訓練とはいえ、万が一本番でも同じことをされたら困る。眉尻を下げて、「エリーゼ」と強い声で呼んだ。


「いざという時はエリーゼにも逃げていただきたいです。私の精神の安定のためにも。貴女が怪我をしたら、と考えるだけで胸が痛むのです」

「ですが」

「今と同じセリフを、皇子姿の私が言ったと想像してみてください」


 エリーゼは皇子様が大好きな夢見る乙女でもある。私の男装姿でも、どうやら皇子欲を補給できるらしい。

 どう? 胸にくるものがあるのでは?


「しかと胸に刻んでおきます」


 効果は覿面だった。エリーゼが深刻な顔で深く頷いてくれた。

 ちょっと複雑な気持ちだけど、わかってくれたならいいよ……。


 そんな呑気な会話をしている時だった。

 勢いよく走り込んでくる足音が聞こえる。即座に、バンッ! と勢いよく応接間の扉が開け放たれた。


「! やっと見つけた! 観念してください、義姉上」


 私を見つけたデリックの恐ろしく低い声と、やたら鬼気迫る顔と言ったら。

 思わずビクッと肩が震えてしまった。そんなにティールームの招待券が欲しかったの!?

 しかし相手が本気ならば、ここは私も受けて立たねば失礼というもの。


「よく私を見つけました、デリック」


 肩を落として残念そうに言えば、デリックが達成感に顔を輝かせた。

 ゆっくりと観念した風を装ってデリックに歩み寄っていき、しかしデリックの手が伸びてくる直前で身を屈ませる。その勢いのまま、床を力強く蹴って一気に横をすり抜けた。


「えっ!?」


 間の抜けた声を上げるデリックを置き去りにして、応接間から飛び出して全力疾走。

 油断は禁物。捕まえるまでが勝負だと言ったでしょう。

 ……いや、勝負だとは言ってなかったかも。


 スカートをたくし上げて廊下を走り抜けて階段を駆け降りる。玄関前を通り過ぎる時に冷たい風を感じたので、誰か入ってきたのだろうか。

 確認する間もない。だって今度こそデリックがすごい勢いで背後に迫って来ているから。

 さすがにもう振り切れないか!


(やっぱりドレス姿だと限界がある!)


 とはいえ常時男装するわけにはいかないから、これは慣れるしかない。今後の課題がわかってよかった。

 でももう1ターンくらい逃げ切れないかな、と足を切り返そうと思ったところでデリックに前に回り込まれた。

 やはり相手は現役騎士!


「そこまでです、義姉上!」

「うわっ」


 止まれない。デリックに激突する! 押し倒したらごめん!

 衝撃を予測して反射的に体がこわばる。ぎゅっと目を閉じた。

 そんな、ほんの一瞬。


「ぐえ……っ」


 体に受けたのは人にぶつかる衝撃ではなかった。

 背後から回された、腹に食い込むがっしりとした腕の感触。どうやらぶつかる前に誰かに止められた。全身でぶつかるより多分マシだけど、思わず潰れたカエルみたいな声が出る。

 次にふわりと体が浮いて、数秒後に足が床に着く。


 何が起こったのかと呆然とする私の前で、黒い人影が目の前に躍り出る。

 次の瞬間には後ろ手にねじり上げられて、床に引き倒されるデリック。

 目を瞬かせた後、そこにはデリックをなぜか制圧しているクライブの姿があった。

 どうやらクライブは私を掬い上げた後、デリックを倒したっぽい。

 なんという早技!


「……なぜ僕の愚弟が、僕の妻を襲ってるんでしょう?」


 仄暗い眼差し。いつもの柔和な笑顔の欠片も無い無表情で、デリックの腕を掴んで地面に押し付けている夫の姿に戦慄が走る。


(ま、魔王!?)


 というか、デリック! 無事!?


「お、落ち着いてください、クライブ。これは避難訓練で、デリックには賊の役目をお願いしていました。デリック! 生きていますか!?」

「殺さないでください……」

「いくらクライブでも弟をどうにかすることはないです!」


 たぶん。そもそも誤解だから。落ち着いて。離してあげて。

 クライブの背後からしがみついたら、「避難訓練?」と怪訝な顔をされた。

 振り返った目にはちゃんと光が戻ってきている。

 よかった……!

 そういえば、クライブは乙女ゲームでは一歩間違えれば闇落ちするキャラだったことを忘れかけていた。そういう要素を備えていることを忘れてはならない。


「クライブが帰るまで、屋敷内で護衛騎士に裏切られて襲われた場合を想定して、追いかけっこに付き合っていただいていたのです。デリックは私の我儘に付き合ってくれていただけです」

「なんでまたそんな物騒な想定で……いえ、訓練するのはいいんですが、デリックはやりすぎでした」


 それは調子に乗った私が悪かった。デリックがムキになるのは予想できていたのだから。


「まだデリックは17歳ですから。加減が効かないのは仕方ありません。ですが本気で付き合っていただけて、私は感謝しています」


 これは本心。

 ありがとう、デリック。そろそろクライブと私の重さで限界そうなのに気づいて、慌ててクライブを離して立ち上がった。

 デリックに手を差し伸べる私を見て、クライブがひとつ溜息を吐く。押さえつけていたデリックから手を離して、立ち上がり様に弟を引き上げている。

 デリックの顔は私に助けを求めるかのように引き攣っていた。

 本当にごめん。


「義姉上の足があれほど速いと思わなくて、すみません。ムキになりました」

「いえ、子供の頃に同年代と追いかけっこしたことがなかったので、楽しかったです」


 そしてこれも本音。

 メル爺との追いかけっこは……アレは遊びじゃなかったから。本当に。すごい圧があったから。


「それなら僕がいる時に訓練すればよかったではありませんか。なぜ言っていただけなかったんですか」

「クライブに言ったら、絶対に参加すると言うでしょう。クライブがいたらすぐに解決してしまうではありませんか。訓練になりません」

「貴女を守るのが僕の役目ですから」

「だから私の訓練にならないと言っているのです。ありがとう、デリック。おかげで色々と勉強になりました」


 まだ微妙に納得していなさそうなクライブを落ち着かせるべく言い聞かせてから、改めてデリックにお礼を言う。

 試してみたことで改善点がわかってとても助かった。

 あと、痛くて怖い思いをさせて本当に悪かった。まさかあそこで魔王が降臨するとは思わなくて。

 あの時、玄関から入ってきたのがクライブだと気づけていたらよかったけど、後の祭りだ。


(絶対にクライブは闇落ちさせないように気をつけよう)


 クライブには、後で自分を除け者にしたことを反省してもらうとばかりに手を繋がれた。指が絡んでじわじわ伝わってくる熱に内心慄きながら、強く心に誓った夜だった。




 あれからデリックには、お礼とお詫びを兼ねて『アネモネ・ガーデン』の個室招待券を1枚と、いま人気の舞台のボックス席の招待券を渡しておいた。

 気になってる令嬢を誘ってみるのだと、こっそり教えてくれた。

 可愛い。ぜひ頑張ってほしい。


 しかしながら後日。

 デリックが項垂れながら騎士仲間達と舞台を見に行っていたと聞いて、義姉としてはちょっと心配している。



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