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騎士とお姫様


 それはメリッサの一言から始まった。


「アルフェンルート様。次の夜会では誰も何も言えなくなるほど魅力溢れる女性にしてさしあげます!」


 メリッサは外から帰ってくるなり、可憐な顔を裏切る鬼気迫る眼差しで詰め寄ってきた。

 あまりの迫力に飲みかけのお茶を溢すところだった。私の自室だから誰に見られるわけでもないのでどんな表情をしようとかまわないけれど、何かに怒っているのは明らかだ。どうしたのだろう。

 ソファーに寝そべっていた飼い猫のロシアンII世は、普段は淑やかなメリッサの剣幕に驚いて即座に寝室に避難してしまった。

 ひとまずソーサーにティーカップを戻しつつ「どうしたの」と声を掛ける。


「何か気に触る話でも聞こえてきた?」


 メリッサは本日、休暇だった。近頃は王都にある実家のマッカロー伯爵家のタウンハウスや、令嬢達が集まる茶会に出掛けていることが多い。

 メリッサは情報収集を目的としているので、表では当たり障りない感じに対応しているという。しかし極たまにこうして帰ってくるなり、我慢できずに怒りを滲ませることがある。

 社交をしていると色々とあるのだろう。聞きたくない話を聞くこともあるだろうし、言いたいことを我慢しなければならない場合も多いに違いない。

 メリッサをソファーに座らせてから、立ち上がって食器棚からカップを一揃い取り出す。

 冷めかけてしまっているが、自分で淹れたお茶のおかわり分を新しいカップに注いでメリッサの前に出してあげた。


「少し冷めてしまっているけれど」

「ありがとうございます」


 近頃は周りに人が増えたから控えているが、二人きりの時には珍しくない光景だった。今夜はゆっくり怠惰に本を読もうと思っていたので、既に人払いをしてあったのが幸いした。

 メリッサは出されたお茶で口を湿らせ、悔しそうに奥歯を噛み締めている。


「言いたくないのなら無理に話さなくても良いよ」

「そうではないのです。でも、聞いてしまったらアルフェンルート様が傷つかれるかと思うと……」

「私の悪名は今更ではないかな。気にしないよ。大丈夫」


 私が今までどれだけスルーしてきたと思っているのか。

 真っ向から言う勇気も力もない輩の言葉に傷つくほど繊細ではない。慣れたというより、世間とは好き勝手に言いたがるものだと理解している。噂話など『今日は風が強いな』と思う程度の雑音に近い。

 隣に座り直して、自分もお茶を口に運ぶ。

 メリッサはそんな私を大きな榛色の瞳で見つめてから頷いた。


「アルフェンルート様はとてもお綺麗です。そこらの令嬢よりずっと上品ですし、所作も美しいです。確かに女性らしい柔らかさにはやや欠けるかもしれませんが……っですが媚びない態度はむしろ凛として美しいと思うのです! 皇女としては、このお姿こそ完璧であると! なぜわからないのでしょう!?」

「うん?」


 いきなりどうした。

 面食らって小首を傾げれば、メリッサが心底悔しそうに傍にあったクッションを抱きしめる。

 そんなに強く抱いたら破れて綿が出るんじゃ……普段のメリッサからは考えられないくらいの荒ぶりっぷりである。


「先日の新年の舞踏会でのアルフェンルート様のお姿を拝見していながら、なぜ! お、女らしさを感じられない、などと! 実は……実は、やはり、男性なのではないか、なんてっ。あの方たちにアルフェンルート様の何がわかるというのでしょう!?」


 目に悔し涙まで溜めて、メリッサは血反吐を吐くかのように呻いた。


(ああ……なるほど)


 茶会で誰かが漏らした本音を聞いてしまったのか。もしくは、これみよがしに聞かされたのか。

 それでメリッサはこんなにも怒ってくれているのだ。

 普通に考えれば不敬罪なわけだけれども、令嬢達だけの内輪での会話だ。些細な悪意と悪口など日常茶飯事で、これぐらいなら面白がって聞き流される程度。

 だいたい私はいきなり現れて、最優良株であったクライブの婚約者の座を奪っていったのだ。それ以外にも、第二王子だった私の嫁の座を狙っていた人においては、裏切られたと感じて憎まれていてもおかしくはない。

 一部の令嬢から見れば、面白くない存在ナンバーワン。

 鬱憤は溜まりまくっているだろうし、こき下ろせる点があればここぞとばかりに攻撃するだろう。

 もちろん皇女付きの伯爵令嬢であるメリッサならば、不敬罪であると指摘も出来た。けれどメリッサには情報収集という役割がある。今後のことも考えれば、派手に立ち回るのは得策ではない。

 結果として、聞こえなかったフリをするしかなかったのだ。言いたいことも飲み込んで。

 それは他でもない、私の為に。


「いま思い出しても、やはりあの者は社会的に抹殺すべきでした。待っていてください、必ずや報復を!」

「落ち着きなさい、メリッサ。クッションが破れてしまうからね?」


 抱き潰されていたクッションは今度は二つに引き裂かれそうになっていた。それでメリッサの気が済むならば提供するのはやぶさかではないけれど、そうでもないでしょう?

 やんわりと声を掛ければ、メリッサが八つ当たりで私を睨みつけてくる。


「アルフェンルート様は悔しくないのですか! あんな小娘どもに!」


 とうとう令嬢達を小娘呼ばわりしだしてしまった。

 個人的には、初の舞踏会では侮られないようあれほどドレスアップしたのに未だに男に思われるとは、私のかつての皇子っぷりがそれだけ完璧だったのだと安心しているのだけれども。


「誰がなんと言おうと私が女であることは覆らないし、どれだけ騒がれたところで私がクライブと結婚することは確定しているんだよ。結果は変わらない」

「なぜそんなに達観されてしまうのですか! 私は悔しくて仕方がないです……っ」


 メリッサが唸りながらとうとうクッションを引き千切った。

 ……とうとうやってしまったか。ロシアンII世が気に入っていて、よく踏み踏みしているクッションだったのだけど。

 そろそろ綿を補充しようと考えていたから破れても構わないとはいえ、綿は勢いよく飛び散った。一瞬でメリッサの顔面が綿埃だらけになる。

 まさか本当に破れるとは思っていなかったのか、メリッサは目を白黒させていた。そんなメリッサの頭や顔から綿埃を取り除いていく。


「ごめんなさい……」

「これで気が済むならかまわないよ」

「まだ納得いきません」


 二人きりだからか遠慮なく駄々をこねられた。メリッサは溢れる感情が行き場をなくしているのか、今度はぐしゃりと顔を歪ませて今にも泣きそうだ。


(優しいメリッサ)


 いつだって真剣に私のことを考えてくれる。

 私の為に、これだけ心を揺らしてくれる人がいる。

 それを間近で感じれば、メリッサには申し訳ないけど心には余裕が湧いてくる。


「私の代わりにメリッサが怒ってくれているから。こんなにも思ってくれる味方がいるというだけで、私は十分幸せなんだよ。他人の声はどうでもよくなるぐらいにね」


 指先で綿埃を払い、取り出したハンカチで顔を拭ってあげるついでに滲んだ涙も押さえておく。

 柔らかく笑いかければ、メリッサは「……ずるい」と呟いて唇を引き結んだ。目元が赤いから、今更ながらに感情を曝け出したのを恥ずかしがっているみたい。

 少しはご機嫌が直ったかな?

 髪についた綿埃も取ってやり、軽く指で髪をすいて綺麗になったのを確認して頷く。綿は後で回収してクッションは新しく作り直そう。


「ほら、綺麗になったよ」

「アルフェンルート様、すぐにそうやって皇子様にならないでください」

「本物の皇子なら、人に命じて片付けさせるだけじゃないかな」


 いちいち自分の手は動かさないと思う。偏見だけど。

 苦笑すれば、メリッサが再びじっと私を見つめた。


「アルフェンルート様はお気になさらないと仰いましたが、やはり次の夜会ではとびっきり魅惑的な女性に見えるようにいたしましょうね」

「……難しいことを言うね」

「私にお任せください。あの小娘達に、目に物見せてやりましょう!」


 メリッサは強く拳を握りしめて高らかに宣言した。

 そうか……目に物見せちゃいたいのか。

 私自身は目立ちたくもなければ、前面に女を出すのは未だに躊躇する気持ちがある。

 とはいえ、一度は徹底的に女であると周知させなければこの手の話はいつまでも付いて回るだろうとも思う。

 そうなればまたメリッサが嫌な気持ちになることもあるに違いない。よく考えたらクライブだって、男を娶ったという奇異の目で見られたりしても可哀想だ。


(一度くらいは覚悟を決めるしかないか)


 とても気は進まないけれど、仕方ない。

 密かに細く嘆息を吐き出して、闘志に燃えるメリッサを止める言葉を飲み込んだ。

 この時の私は、まだ自分を過信していたのだ。




   ***


 二度目の社交に城で開かれる夜会を選んだのは、露出の高いドレスを着ていても違和感がないからだった。


 胸元は大きく開いているが、ほっそりとした首には幅広のレースのチョーカーをしており、また長袖なのでそこまで露出は高く感じられない。チョーカーの中央にはダイヤが輝き、垂れ下がって揺れる雫石が胸元へと視線を誘う。

 とはいえ、メリッサたち侍女が総出で寄せて上げてくれた胸は相変わらず慎ましやかではある。動いても痛くならない大きさで肩も凝らないから気に入っているけど、今だけは少し残念に見える。

 しかし限界までコルセットで締め上げられただけあって、胸に谷間……はないけれど、隙間は出来た。

 私だって、やればできるじゃないか。

 ドレスのスカートの前部分は少し短めになっていて、重なったレースの間からくるぶしが覗く。垣間見える細い足首と華奢なデザインの靴に包まれた足は明らかに女性のものだ。

 この姿の私を見て、男だと言い張るのはさすがに無理があった。


(落ち着かない……)


 鏡に映る化粧も施された自分は紛れもなく皇女である。


「大変お綺麗です、アルフェンルート様! 誰もが見惚れること間違いありません」

「……派手ではない?」

「何を仰いますか。生地が上品なグレーですから、これぐらい華やかに致しませんと!」


 細やかな刺繍にビーズが縫い付けられたスカートの裾を持ち上げれば、明かりに反射してキラキラと煌めく。

 レインボーに輝くLEDランプを首に付けて散歩をする犬の気持ち、今ならわかってあげられる気がする。

 だが完璧だと歓声を上げるメリッサ達の気持ちを思えば、込み上げてくる嘆息は喉の奥に押し込めた。

 ここまで来たら覚悟を決めるしかない。でもさっと行って、さっと帰ってきたい。

 気づかれないように細く息を吐き出すと、「行ってくる」と告げて部屋を出た。


 既に日は落ちていた。大広間の王族が出入りする扉までの道は、等間隔の灯りだけが照らす。常設の衛兵と準備に走る使用人としかすれ違わないのは幸いだった。

 客人達とは別の扉まで護衛のラッセルに送ってもらい、控え室に入れば既にエスコート役が待っていた。悠然とソファーに腰掛けて手帳に目を通す姿を認めて目を瞠る。


「お父様。お待たせして申し訳ありません」


 まさか王を待たせる羽目になるとは!

 約束の時間より早めに来たつもりだったけど、ドレスが普段より重いから歩調を読み違えたかもしれない。

 慌てて、それでも優雅に見えるように一礼する。

 そんな私に視線を向けて、ゆっくりと父は立ち上がった。


「構わない。女性は支度に時間がかかるものなのだろう。年頃の娘ならば尚更か」


 寛容に言われて、エスコートするために片腕を差し出される。

 今日の父の姿は謁見の間で見る、ずるずるとした荘厳さ漂う長いローブ姿ではない。

 波打つ豪奢な長い金髪は下ろされたままだが、着ている服は夜会でよく見る貴族らしい正装である。白い絹のクラヴァットに灰色地に刺繍の入ったウエストコート。黒地のブロケードコートには金糸で刺繍が施されている。トラウザーズも黒で、足元の靴は曇り一つなく磨かれている。

 誤って踏んだりしたら、と考えるだけで緊張してくる。


(それ以前にエスコートがお父様というだけで緊張する!)


 つい先日、家族での食事の後でクライブか兄にエスコートを頼んだものの、夜会前に大事な会談があるから遅れて入ることになると言われていたのだ。

 ならば別の日に、と考えていたら会話を聞き止めた父が「エスコートならば私でもいいだろう」と言ってきたのである。

 確かに母はもういないから、現時点ではこの城の女主人は私になる。王とはいえ父にエスコートされてもおかしくはない。申し出に驚いたものの断る理由も特になく、であればお願いします、となってしまったわけだ。

 だけど、いざとなると緊張してしまう。


「よろしくお願いします」


 強張る指をそっと父の腕にかける。

 やや動きの固くなった私を横目に見下ろして、なぜか父は呆れた眼差しを見せた。


「そう畏まることもないだろう。昔はよくおまえに我儘を言われた。納得するまで説明させられた手間に比べれば、エスコートする時間など微々たるものだ」

「……その節はお手数をおかけしました」

「理解できないとわかるまで聞いてくる子どもだったな。それがこうして遠慮できるまでに育つとは」


 僅かに懐かしむように父の目が細められる。

 言われてみれば、父を父だと気づく前にはよく教えを乞うて引き留めていた。たまにしか会わなかったけど、思い返せば忙しいのに子供の疑問によく付き合ってくれていた、と思う。

 それが、この人なりの愛情だったのかもしれない。

 今ならそう考えられたりもする。

 たわいのない会話をしていれば強張りも和らいだ。和ませるためにこんな会話をしたのだとは思わないけれど、促されるままに大広間へと続く扉を抜ける。


(眩しい)


 一歩踏み出せば、大広間はシャンデリアに反射して煌びやかな灯りで満ちていた。暗い明かりに慣れた目には少し眩しくて目を細める。

 それでも一斉にこちらに向けられた眼差しはわかった。

 王が娘を伴って現れたことに息を呑む気配も感じられる。全身に突き刺さる好奇の視線でハリネズミになりそう。


(大丈夫。顔を上げて)


 浴びせられる視線に怯みそうになる自分を叱咤する。

 怯える必要なんてない。私が女なのだと、知られても怖いことは起きない。隣には父だっているのだから。

 何度も自分に言い聞かせる。

 それでも冷えていく指先に力が入っていたかもしれない。それに気づいているのかいないのか、父が壇上からゆっくりと降りて広間の真ん中へと私を誘う。

 夜会の始まりを告げるファーストダンスだ。

 音楽が一音、広間に響いた。

 ホールドされた体と手にはしっかりとした安定感があり、これでもやはり自分の保護者なのだと気付かされる。おかげで自分で思っていたよりも自然と足はステップを運べた。

 誘導されるままに靴底で軽やかに床を踏む。華奢なヒールがコツコツと大理石をリズミカルに鳴らした。時折スカートの裾を翻しながらくるりと回って、再び腕の中へと引き寄せられる。


「私が口を出すと大仰になるかと思って静観していたが、口さがない者たちの処罰を求めるか?」


 ふと、抱き合う距離になった時に父が囁く声を投げかけてきた。

 空色の瞳に相変わらずあたたかさはない。けれど、それでもどうやら今回私がこうして出てくる羽目になった噂を気にかけてくれているのだとわかった。

 女性の間だけで噂にされていると思っていたけれど、その親も似た話を口にしていたのだろうか。不敬罪に当たる話だから、密かに父に報告する人もいたのだろう。

 でもそこで王が口を挟めば、せっかく丸く収めた話をまた引き摺り出すことになりかねない。それはよろしくない。

 でも。


(こうして聞いてくれるということは、私が処分を求めたら叶えてくれたのかな)


 するつもりがないことなら、最初からこの人は口にしないはずだから。

 実際にそんなことをしたら余計な反感を買うだろうに、それでも、と考えてくれたのだろうか。


(この人なりに、『父親』をしてくれようとは考えたんだな)


 今は私の味方になる、と言ってくれてるのだと思う。

 それなら、私は。


「いいえ。今更蒸し返す方が悪目立ちします。今日で沈静化することと思いますから、ご心配には及びません」


 その気持ちだけで、十分だと思える。

 それにここまで派手に私に注目させたのだ。尚も男だと言いがかりをつける者はさすがにもういないだろう。

 手を取られたまま体を離して、もう一度くるりと優雅に回る。

 スカートがふわりと広がった。縫い付けられたビーズが明かりに反射して木漏れ日のようにキラキラと輝く。

 裾が重力に従って落ちる間に向かい合って立ち止まると、音楽がちょうど終わるのに合わせて最上級の礼を取った。

 無事に踊り終えたことに安堵の息を溢す代わりに、微笑んで父を見上げる。

 対する父も悠然と頷いて、再び私に腕を差し出した。

 その腕に手を掛けて、広間の中央から壇上へと足を向ける。背後では新たに始まった音楽に乗ってダンスに興じる紳士淑女の靴音と、笑みを含んだ微かなざわめきが広がっていく。

 用意された席に戻る途中、どうやら父は話したい相手を見つけたのか足を止めた。私に視線を向けたので、先に壇上に戻っていると視線で告げて別れる。

 壇上までは数メートル。問題ないだろう。


(後は壇上の椅子に座って、適当に挨拶を受ければいいだけ!)


 うっすらと笑みを貼り付けた顔で鷹揚に頷いておけば終わる。

 そう安堵しかけた時だった。


「アルフェンルート殿下。とてもお美しかったですな!」


 無遠慮に声を掛けられた。

 反射的に足を止めてから、聞こえなかったふりをすれば良かったと後悔する。

 視線を向けた先には、正装に身を包んだ高位貴族男性とその娘の姿があった。とはいえ私の方が上位だから、本来は下位の者から声を掛けるのは無礼に当たる。私が壇上についてからならともかく。

 咄嗟に護衛のラッセルが前に出かけたものの、しかしこういった場であからさまな警戒を見せるのは失礼になる。なんて面倒なの、社交界。

 ラッセルをやんわり手で制して控えさせ、無表情でそちらに向き直った。


「ご機嫌よう。ドナウアー侯」


 私が第二王子だった頃に、己の娘を売り込むためによく高価な貢物を寄越してきた相手である。

 あれほど投資したのに何の意味もなかったことがわかって、さぞかし悔しい思いをした一人だと思う。

 私は一度だって好意的な返事をしたこともなければ、貢物もご遠慮願いたいと伝えていたものの、きっと都合の悪い部分は頭から抜け落ちているに違いない。

 横に佇む美しい金髪の娘も、私を見てショックを受けているようである。

 もしかしたら、とまだ期待する気持ちがあったのかもしれない。彼女に関しては、申し訳ないと少し思う。

 とはいえ、昔から縁を結ぶ予定はないと伝えていたのも事実。ドナウアー侯爵が娘になんと言っていたかはわからないけれど……


「いやはや、見違えるほどのお美しさでした。ダンスも大変お上手でいらして、娘に見習わせたいほどです。ああ、こちらは私の娘のアイーダと申します。アイーダ、おまえの憧れていたアルフェンルート殿下だ。ご挨拶を」


 アイーダと呼ばれた娘が一歩前に進み出る。私より少し年上に見えた。

 吊り上がり気味の瞳は深い緑で、少し小さめの鼻が愛らしい。しかし今、私を見る呆然とした面差しがじわじわと赤くなり、悔しそうな、憎らしくすら感じる眼差しに変わる。

 それは、仕方がないことだと思う。

 期待した分、裏切られたと思った時は憎しみを感じることもあるだろう。

 それに今まで第二皇子派だったのならば、今更第一皇子にごまを擦ったところで相手にされない。有望な婚約相手は既に埋まっていることも多い。

 私の存在が彼女の人生を狂わせたというのなら、私だって責任は感じる。向けられる憎悪に向き合わなければ、と思える。

 だけど。

 今は、それどころではなくなっていた。

 憎まれることよりももっと背筋が凍る眼差しを受けて、全身が指の先まで硬直していたから。


(どうしよう……息が、呼吸の仕方が、わからない)


 憎悪を向けられたから、ではない。

 それよりも私の息の根を止めるのは、無遠慮に胸元に突き刺さる好奇の眼差し。


 女だったのかとしつこく確認する、ドナウアー侯爵の瞳。


 あからさまな視線を真っ向から受けたせいで顔から血の気が引いていく。既に指先は氷のように冷たくなって動けない。

 女だと確認されたところで、平気だと思っていたのに。

 皆もう知っていることなのだから、今更じゃないか、なんて。

 私は自分の心の強度を過信していたのだ。



『貴方は母君を犠牲にして生まれたのです! だからこそ貴方は立派な王にならなければ!』



 脳裏に反響するのは、子どもだった私を追い詰めた言葉。


(ちがう、私は。だって、私は皇子じゃなくて……)


 目の前が暗くなる。心臓だけがやけにバクバクと激しく早鐘を打ってうるさい。

 脳裏にフラッシュバックする光景に、うまく現実が飲み下せない。


(だめ)


 これは過去の話で、今は思い出さなくてもいい。ここで倒れるわけにはいかない。情けない姿を見せたら、また誰に何を言われるかわからないのに。

 だけど心と体は自分の思うように動いてくれない。

 必死の抵抗で意識を保つものの、氷の彫像になったかのよう。不自然に固まる私の前で、アイーダ嬢が怪訝な表情になるのが見えた。


 その時、周囲のざわめきが大きくなった。


 王族の入場を知らせるラッパが鳴り響き、ピクリと体を震わせる。

 反射的にゆっくりと音のした方に顔を向けることが出来た。どうやら私が先ほど入ってきた扉から、兄が護衛にクライブやニコラスを伴って入場してくるのが視界に入る。


(にいさま。……クライブ)


 その姿を視界に収めただけで、安堵して崩れ落ちてしまいたくなるような。

 でもやっぱり弱いところなんて見せたくはないような。

 相反する感情に、どんな顔をしたらいいかわからない。

 兄の後ろから入ってきたクライブはすぐに周囲を警戒して見渡していた。やはり目がいいのか、あっという間に私の姿を見つけてくれる。

 そしていつもなら、目が合えば微かに笑いかけてくれるのだ。

 だけどクライブは私と目が合うなり、顔を強張らせた。

 世間的には柔和な笑顔を絶やさないはずの人なのに、兄に一言耳打ちするなり、なぜかこちらに大股でやってくるのが見える。

 器用に人々の合間をすり抜けて、だけど大股で歩いているので速度は思ったより遥かに速い。

 こちらに歩み寄りながらクライブは肩に手をかけて、正装のマントを止めていた金具を片手で外した。ばさりと外したマントを翻して、気づいた時にはもう目の前。


「アルト様」


 呼びかけられる声に安堵する間もなく、クライブはマントを広げて一瞬にして私に巻きつけていた。


「え……?」

「失礼」


 意味がわからないままマントを全身に巻き付けられて、あっと思った時には全身が浮遊感に包まれた。


「!」


 間抜けにもされるがままで唖然としていたが、どうやら私はクライブの両腕で横抱きにされたようだ。お姫様抱っこというやつである。

 いきなり、なぜ!?


「アルフェンルート殿下はお加減が優れないようです。救護室にお連れするので失礼致します」


 クライブはこちらを見下ろすことなく、私がそれまで対峙していたドナウアー侯爵にすげなく言い放った。

 口調は丁寧だったけれど、彼を見るクライブの目は無感情で硬質だった。有無を言わせない態度で踵を返すと、私を抱き上げたまま颯爽と人々の間を抜けて大広間から出ていく。

 普段は柔和な人間の無表情、圧があってすごく怖い。声をかけられる雰囲気じゃない。

 そうしてしばらく無言で連行された先は、私が父と最初に待ち合わせた控え室だった。

 部屋に入る前にクライブが控えていた侍従に水を一杯命じた。私の今の主治医であるスラットリー伯爵も呼ぶように頼んでいる。

 そんな一連の動作をまじまじと見つめていたら、やっとクライブが強張った表情のまま私を見下ろした。


「大丈夫ですか、アルト様。顔色が真っ青です」


 そうだったの!?

 いま考えればトラウマを刺激されてフラッシュバッグを起こして、ショックで貧血になっていたのだろうと思える。


「……だから、連れ出してくれたのですか」


 問いかける自分の声も驚くほど掠れていた。自分で思った以上に心身に負荷が掛かっていたっぽい。


「あんな顔をされているのを見れば、何かあったのは一目瞭然です」

「そんなにひどい顔をしていますか……?」


 クライブはマントでぐるぐる巻きにされたままの私をゆっくりと長椅子に下ろした。すぐに起きあがろうとしたのを制されて、さらりと額にかかった前髪を指先で優しく流される。


「無表情でしたが……人形のように見えました。アルト様があんな顔をされる時は、あまり良い時ではありませんから」


 クライブが苦い顔をして、私よりも重く息を吐き出した。

 

「駆けつけるのが遅くなって申し訳ありません」

「クライブが謝ることではありません。躱し方を誤った私が悪いのですから」


 慌てて首を横に振る。


「それでも、やはり僕があなたをエスコートするべきでした。そうすればお側を離れなかったのに」

「すぐに気づいて救い出してくれたではありませんか。なんだかまるで、騎士のようでした」

「まるでも何も、騎士ですよ」


 素直に嬉しかったと伝えたつもりが、クライブが真顔になって私の額に掌を当てた。熱を出して前後不覚になってるわけじゃないのだけど。

 思わず口を引き結んで、「そういうことではなくて」と言い直す。


「物語みたいに、窮地に陥ったお姫様を救い出す騎士のようでした」

「実際にあなたを守る騎士ですよ、僕は」


 そう言ってクライブは私の冷え切っていた手を掬い上げると、指先に唇を寄せた。

 誓いを立てるかのような口づけに、ちょっとどころでなくドキリとさせられてしまった。

 お、おお……確かにクライブは騎士だし、私は皇女でした。


「たいしたことがあったわけではないのです。ただ少々、私が思っていたより軟弱だっただけで……」


 醜態を見せたことが今更恥ずかしくなってきて、言い訳を口にする。

 そんな私の唇を、クライブが制するみたいに指先で軽く触れた。


「アルト様はとても頑張っています」

「……」

「だからたまには周りに甘えて頼っても良いんです。アルト様を思う人たちは誰も嫌な顔なんてしませんから」


 大丈夫なのだと、クライブが優しく微笑みかけてくれる。

 握られる手の暖かさに、眼差しの優しさに、齎される甘い言葉に頑なだった心が解けていく。


(そっか……もう一人で踏ん張らなくてもいいんだ)


 なんだかここでやっと、普通に呼吸ができた気がする。

 私の安心が伝わったのか、クライブがそっと私の瞼に指で触れた。反射的に目を閉じれば、張り詰めた糸を解くかのような柔らかい低い声が鼓膜を揺らす。


「後は陛下とシークが良いように取り計らわれることでしょう。アルト様は何も心配されずに、今夜はもうお休みください」

 

 僕が、お守りしますから。

 そんな言葉が聞こえてきて、思ったよりもずっと疲労していた意識は眠りに落ちていた。




   ***


 あの後。

 私が半ば気絶した状態でクライブに運ばれたので、メリッサは心底驚かされたようだ。

 メリッサを気に病ませたくはなかったので、コルセットが苦しかったせいだと言い訳をした。メリッサは私の立場を考えてしてくれたことなのだから。

 でもあれ以来メリッサは露出の高い服を薦めない。なんとなく何があったのかバレているのかもしれない。けれど私が言わないなら深くは聞くまいと配慮されているのだと思う。


 尚、あの日の私の行動の顛末は、思っていた斜め上を行っている。

 たとえば、巷の令嬢達の間では。


「ランス卿があんなに嫉妬深いだなんて! 皇女殿下の肌を誰にも見せまいとすぐに隠されてしまって、そのまま攫っていかれるだなんて! あんなにも愛されているのですね……!」


 そんな話になって、謎の盛り上がりを見せているらしい……。

 貧血を起こした私をクライブが介助したことになっているはずだけど、追加されたこの辺りの情報操作は、兄とクライブとメリッサが関わっている気がする。

 そしてあの状況に居合わせたアイーダ嬢はといえば、どうやらあれから騎士に熱を上げていると聞いた。


「私もあんなにも情熱的に攫われてみたい! 私も私だけの騎士様に出会って愛されたいのだわ!」


 何かに目覚めたらしく、近頃は近衛騎士愛好会に加入されたそう。

 新たな人生の楽しみを見つけたようで何より。ぜひ幸せを見つけてほしい。


 ちなみに彼女の父親のドナウアー侯爵だが、不倫がバレてブチ切れた奥様に髪を毟られたらしい。

 そう教えてくれたのは、なぜか父である。

 奥様に不倫をリークしたのが誰なのかは、知らないままでいたいと思う……知ってはいけない力が動いている気がするから。


「クライブは世間におかしな誤解をされてしまいましたが、良いのですか?」


 嫉妬深い狭量な男だと思われているけど、大丈夫なのだろうか。

 心配になってこっそりクライブに聞いてみたところ、クライブは朗らかに笑った。


「別にどう思われても困りませんし、言ったでしょう? あなたは僕がお守りします」


 クライブの守り方は、まるで真綿で包まれてるみたい。私の騎士様はどうやらとても甘いらしい。

 なんだかそれが妙にくすぐったくて、ちょっと笑ってしまった私は、きっと誰よりも幸せなお姫様なのだろう。

 



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