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発熱は病だけにあらず


「アルフェンルート殿下。クライブですが、昨夜から熱を出して寝込んでおるのです」


 日課の医務室に訪れるなり、メル爺の跡を継いで王宮医師となったスラットリー伯爵がそう教えてくれた。

 

(どうりでいつもいる訓練広場にいないと思ったら)


 思えば昨日からクライブの声は掠れていた。簡易のうがい薬として、「寝る前に塩を入れた水でうがいするといいです」と伝えておいたけど、どうやら既に遅かったみたい。熱まで出てしまうなんて相当だ。


「大丈夫なのですか?」


 眉尻を下げて心配した私を見て、スラットリー伯爵は安心させるように目を細めた。


「若く体力もありますから、栄養を取って安静にしていれば2、3日で落ち着きましょう。ご心配なさることはありません」


 そう言われても、寝込んでいると聞いてしまえば心配する。

 思い返せば正式に婚約発表してから忙しない日々を送っているように見えた。守られている私と違い、心身ともに無理をさせていたに違いない。

 そわそわと落ち着かない気持ちに急かされるまま、椅子に座ることなく回れ右をした。


「早急に見舞の手配をせねばなりません」

「喉を痛めておりましたので、見舞の品は喉越しの良いものをおすすめします」

「わかりました。ありがとう」


 スラットリー伯爵の眼差しが微笑ましげだったことが気恥ずかしいけど、礼を告げて早々に医務室を出た。先程一緒に来たばかりのラッセルには悪いけど、鍛錬を切り上げてもらって後宮の厨房へと足を向ける。

 見舞品の手配は侍女の仕事だけど、普段私が自室を不在にしているこの時間はメリッサとノーラは休憩に入っている。休憩といっても、メリッサはこの時間に城の使用人や出入り業者から噂話をはじめとする情報を収集している。私の耳代わりをしてくれているのだ。それも仕事の一つなので、邪魔するのは憚られる。

 それに見舞品ぐらい、私にだって手配出来る。今回はすべて厨房で調達できる物なのだから。


(喉に良いのは摩り下ろし林檎に蜂蜜かな。それと出来れば、この時期なら卵酒を差し入れたいところ)


 この国はなぜか林檎は通年手に入るし、蜂蜜は高価だけど後宮の厨房なら常備してあるだろうから大丈夫。

 問題は、卵酒。

 卵1個に砂糖を1~2匙入れ、よく溶き解してから、沸騰させたコップ1杯の日本酒をゆっくり混ぜていく。

 酒と言っても、よく加熱すればアルコールは結構飛んでしまう。栄養があって温まるし、飲んで寝れば翌日は結構元気になれる万能飲料。面倒な時はレンジで温めても出来るので、前の生では風邪を引いた時はよく飲んでいた。


(ここでは飲んだことがないけれど)


 未成年だから出されたことがないのか。清酒がないから卵酒そのものがないのか。とはいえ昔ながらの民間療法的な飲物だから、似たレシピぐらいあっても良さそう。

 こういう場合は専門職に聞いた方が早い。

 辿り着いた厨房に顔を覗かせれば、近くにいた料理人がぎょっとした。驚かせて申し訳ないけれど、まず林檎の摩り下ろしと蜂蜜を頼んだ。私自らが来たからか、対応は驚くほどの速さ。

 それどころか、私に気づいたらしい料理長まで即座に飛んできた。


「本日はどういったご用件でしょう? また挑戦なさるおつもりですか」


 そう問いかけてくるのは、整えられた白の目立つ口髭が立派なおじさまである。眉間の皺が目立ついかにも職人といった感じの彼は、年齢はメル爺と父の間ぐらい。

 その相手の顔が強張って見えるのは、たぶん気のせいではない。

 それというのも先日、侍女に扮してオムレツの作り方をレクチャーしてもらう、という無茶振りをしたからだと思われる。

 ちなみに、侍女姿をしていても最初から私だと見破られていた。一体なぜ!?と思ったけど、よく考えたらまだ立場を理解してない幼い頃は、おやつと猫餌を強請りによく厨房へ訪れていた。料理長ともなれば古株だから、私の顔を覚えていてもおかしくなかった。

 ニコラスの口車に乗って、変装までして乗り込んだ私の立場は一体……。

 それでもオムレツはなんとか教えてもらって作った。しかし、まだ満足いく出来には到達していない。表面が綺麗に出来ても、底は相変わらず炭。

 絶対に再び機会を見て再チャレンジする所存!

 というのを料理長もきっとわかっているから、ここまで警戒しているのだろう。ごめん。


「先日は大変世話になりました。今日は別件です。卵酒というものはありますか?」


 料理長ともあろう相手に私的な頼み事ばかりで申し訳ないけど、当初の目的を尋ねてみる。

 それを聞いた料理長は無茶ぶりではないと知って、強張っていた頰を緩めた。今日の私の申し出は幾分か安心できるものだったらしい。本当にごめん。


「卵酒とは、具体的にはどのようなものでしょうか」

「卵とお酒が入っていて、温かくてほんのり甘いもの……だと思うのです。体調が悪い時に飲むと体が温まる飲み物です」

「アルフェンルート殿下のお加減がよろしくないのですか?」


 眉間に深く皺を寄せられたので慌てて首を横に振る。私は見ての通りとても元気です。


「私ではなく、寝込んでいる方に見舞の品として用意してほしいのです」

「そういうことでしたら、エッグノッグでいかがでしょうか?」

「エッグノッグ?」


 今度はこちらが首を傾げた。

 料理長は「しばしお待ちを」と告げて奥へと消える。言われた通りしばらく待つと、湯気の立つ分厚いカップを手に戻ってきた。


「こちらがエッグノッグです」


 差し出されたカップを覗きこめばクリーム色の液体が揺れていた。ミルクの香りが鼻先を擽る中、ほんのりアルコールの香りも感じられる。


「温めたミルクにブランデーを少し入れて、砂糖と卵を溶いたものです」


 なにそれ美味しそう! ちょっと大人向けの飲むホットカスタードプリン的な感じでは!?


「お気に召されたようでしたら、アルフェンルート殿下にはお休み前にご用意致しましょう。酒は使えませんから、シナモンで風味付けしておきます」

「ありがとう!」


 食い入るように見てしまっていたせいか、とても嬉しい申し出をされた。思わず食い気味に笑顔でお礼を言ってしまう。

 酒が入ってないのは残念だけど。とても残念だけど。それでも美味しそうなことに変わりはない。今夜がとても楽しみ。

 そんな私を見て、料理長がふと懐かしむように目を細めた。


「そういうところは昔からお変わりになられませんな」


 口髭の合間から少しだけ口元を綻ばせる表情に、既視感を覚えた。もしかしたら、幼い頃にも似た会話をしたのかもしれない。


(あの頃の私は、まだ皇子だったけれど)


 後宮で仕えてくれている者達は私が皇女であることを隠していた件に関して、誰も何も言わない。

 本当は、世間的に公にしている事情に少なからず違和感を覚えた者もいるだろう。それほどまでに私は、母は当然として、父にすら顧みられていなかった。今でこそ極たまに父に呼ばれて食事を共にすることもあるが、それまでは一度として同じ食卓についたことがなかったほどなのだから。

 けれど後宮の人達は、今も誰もその違和感を指摘したりはしない。

 指摘できる身分ではないし、下手なことを言えば消されかねないというのも当然あるだろう。けれどたぶん私が思っている以上に、私はいろんな人に見守ってもらっていたのだと思う。

 不憫に思われ、きっと同情もあって、誰もが違和感から目を逸らして口を噤んでくれている。何も言わず、咎めることも責めることもなく、今だってこうして接してくれている。

 その優しさに自分は生かされたのだと、こういう時に感じられる。

 それはとてもあたたかくて、胸の奥が痛いほどジンとした熱を帯びる。なんだか少し泣き笑いしそう。少しだけ鼻の奥がツンと滲みる。

 その時、もう一人の料理人が持ち手付きの籐籠を持ってきてくれた。

 どうやら先程頼んだ林檎も出来上がったらしい。料理長がそれを受け取り、木蓋をしたカップを入れ、冷めないようティーコージーも被せてくれる。


「零さないよう、お気をつけてお持ちください」

「ありがとう」


 受け取った際に笑顔で告げた言葉は、用意してくれたお礼に対してだけじゃない。

 ちゃんと伝わっているかわからないけど、あなたたちが守ってくれたことに、心からの感謝を。




   *


「そういえば、私は近衛宿舎に入れるのでしょうか」


 近衛宿舎に向かう途中、ふと宿舎は女人禁制だったことを思い出した。

 斜め後ろを付いてきていたラッセルに肩越しに問いかければ、すぐに頷かれる。


「家族や事前に申請されていた場合は面談室が使用できます。私の元にも、たまにノーラが差し入れを届けてくれます」

「家族はわかりますが、許嫁の場合はどうなるのでしょう?」

「殿下の場合は、お立場を考えれば入室を許されない場所はないでしょう」


 ラッセルに苦笑されたけど、場所が場所だけに躊躇いは残る。

 独身者の近衛騎士は、基本的に城内の一角にある近衛宿舎で暮らしている。その宿舎は昔から女人禁制だ。侍女すら常駐していない徹底っぷり。

 なぜ女人禁制なのかと言えば、大昔まで遡る。

 どうやら宿舎で共に暮らしていた騎士の妻や娘、それと常駐の侍女を取り合って流血沙汰が起きたから、というのが発端。身近に過ごす時間が長いとそういうことも起こりやすいものなのか、それが一度や二度ではなかったというから呆れる。

 百年以上前には既にあった規則だというから、まだ戦があって血気盛んな者が多かった時代の話なのだと思うけど。そんな規約を作らねばならなかった時の王の心労が偲ばれる……。

 だけどさすがに今は、流血沙汰が起こることを心配しているわけではない。

 近衛騎士は立場上、国の重要機密に触れる機会が多い。宿舎内で話し合うこともあるから、出入りの人数を最小限にしたい為の言い訳だと思われる。間諜として一番自然に入れるのは侍女だし。

 それに加えて近衛騎士は女性人気が高いから、女性に宿舎に群がられて私生活に支障をきたしても困る。というのもあるに違いない。

 そういった諸々の可能性も踏まえて、規則はそのままにしているのだと思われる。

 特に後者の事情を考えれば、皇女だからと言って規約をないがしろにするのはよろしくない気がする。


 内心で悩みつつも近衛宿舎に着くと、運悪く面談室は使用中だった。

 玄関先で対応に出てくれた騎士が申し訳なさそうな顔をする。


「すぐに別の部屋をご用意します。もしくはご足労いただいて申し訳ないのですが、アルフェンルート殿下さえよろしければ、クライブの部屋までご案内いたしましょう」

「先触れも出さずに訪れた私の不手際ですから、それには及びません。規則を破るわけにもまいりません。クライブも休んでいるでしょうし、見舞の品だけ渡していただければ結構です」


 慌てて首を横に振って断った。

 だってよく考えたら今の私の立場って、社長の子が社員寮に乗り込んできたようなものでは!?

 許嫁とはいえ、まだ家族ではない。いきなり部屋にまで乗り込まれたら、クライブだって落ち着かないでしょう。

 出来ればクライブの様子を見ておきかったけど。この場はさっと見舞品を置いて立ち去る方がいい気がしてきた。

 それに玄関を入ってすぐ、

『女人禁制! 立ち入りが発覚した場合は1週間の厩舎掃除を命じる』

 という張り紙を見てしまった手前、やはり規則破りはいけない。特に皇女自ら破るなんて、示しがつかない。厩舎掃除もご遠慮したい。馬に満足してもらえるほどの掃除が出来る自信はない。

 諦めて持ってきた籠を差し出したら、それまで申し訳なさそうにしていた騎士が不意にハッと気づいた顔をした。籠は受け取られず、代わりに良いことを思いついたと言わんばかりに笑顔を浮かべる。


「アルフェンルート殿下。クライブの部屋は1階の、建物の正面から見て右端から2番目です」

「そうなのですか」


 教えてもらったそれに頷いたものの、それがどうしたというの。部屋には行かないと告げたばかりだけど。

 意味がわからなくて目を瞬かせる私の前で、騎士が私の背後に目配せした。思わず振り返れば、私の後ろにいるのは当然護衛として付いてきたラッセル。

 ラッセルは何やら察したようで、すぐに頷いてなぜか玄関先に置いてあった脚立を手に取った。そして私に朗らかに微笑みかけてくる。


「参りましょう、殿下」


 えっ。どこに?

 というか、なぜ脚立を持っていくの!?


(嫌な予感しかしない!)


 困惑する私を目線で促すと、ラッセルが率先して外に出て行ってしまった。咄嗟に置いていかれるまいと追いかける。


「どこに行くのですか」


 玄関を出て先に行くラッセルの背に問いかけながらも、薄々勘付いていた。

 向かう先は、先程騎士が教えてくれたクライブの部屋の方向。建物正面から見て、右端から2番目。そこまで行くと大きな窓の下、ラッセルは当然のように脚立を置いた。


「どうぞ、殿下」


 そして笑顔で私に脚立に乗れと手で促してくる。

 いやいやいや、待って。ちょっと待って。そこ、クライブの部屋でしょう?


「それは問題があると思うのです!」


 これってクライブから見れば、かつての都市伝説の怪談「わたし、メリーさん。今あなたの部屋の前にいるの」状態では!?

 とてもホラー! ただでさえ病んでるところに、とても心臓に悪いシチュエーションッ。

 もし私が寝込んでいる側の立場だったとして、ふと目を覚ました時にテラスにクライブが立っていたら、びっくりして衛兵を呼ぶ……まではいかないけど、悲鳴ぐらい上げるレベル。

 そうでなくとも、脚立に乗ったら部屋の中が見えてしまう。カーテンは引かれているけど中途半端に少し空いてるし、隙間から部屋の中が見えてしまう。

 寝顔とか、私が見てはいけないものとか、あるかもしれない!

 覗き、ダメ、絶対!


「ここまでしなくとも、ラッセルが見舞品だけ渡してきてくれれば良いのです」

「クライブには、殿下ご自身が一番の見舞いとなるでしょう」

「こんな風に見舞われても、クライブも困……っうわぁ!」


 最後まで言う前に、件の部屋の窓にバンッ!と大きな掌が張り付いた。驚いて振り向けば、その手が上に引き上げるタイプの窓を勢いよく開ける。


「ク、クライブ……」


 開かれた窓から半身を覗かせたのは、まさに部屋の住人であるクライブだった。

 声は潜めていたつもりだったけど、案外ひそひそ話は耳に付く。自室の窓の前でそんな気配を感じたら寝込んでいても気になるだろう。

 しかし、見つかってしまったことに顔から血の気が引いていく。

 顔を出したクライブは寝間着のまま、髪にも少し寝癖が付いている。私を見てクライブは暫し愕然とした後、脱力したのか額を手で押さえて体を窓の縁に凭せ掛けた。焦る私の耳に擦れた呻き声が聞こえる。


「……アルト様の幻聴が聞こえると思ったら、幻覚まで」

「幸か不幸か、御本人です」


 熱がよほど高いのか、クライブが擦れた声で呟くそれにラッセルが冷静に答えていた。

 いっそ幻覚だと思ってくれていた方が良かったというのに!


「違っ、これは、けして覗きをするつもりではなかったのです!」


 脚立まで準備していて、まったく説得力がないけれど! 痴女になりたかったわけでは、断じてない!

 咄嗟に言い訳をすれば、クライブが目を瞠り、すぐに苦笑した。普段より覇気は欠けているけど、私を見る細められた目はいつもと変わらない。


「心配して見舞に来てくださったのですよね?」

「そう、そうです!」

「なぜ窓から、とは思いますが……ああ、女人禁制だから」

「そうです」


 頷いてから、クライブの声が擦れて低く、聞き取り辛いので躊躇ったけど結局脚立に乗った。

 これでいつもと同じぐらいの目線になる。

 おかげでなるべく見ないようにしているけど、部屋の中が見えてしまった。年季が入って見える部屋は思ったより狭い。窓の傍にベッドとサイドテーブル、部屋の真ん中にテーブルとソファが一つ。テーブルには書類や手紙が積み上がっていて、ソファには制服の上着やシャツが無造作に掛けられたままになっていた。


(やっぱり忙しかったんだろうな)


 見上げたクライブには、今日ばかりは隠しきれない疲労が滲み出している。

 近くで見るとクライブはよほど体調が悪いようだ。けだるげだし、いつもに比べて動作も緩慢としている。熱を帯びた顔は赤く、目も潤んでいて呼吸も辛そう。声も昨日より格段に擦れていた。

 なんだかちょっといつもより艶っぽいというか……そんなこと言っている場合じゃないけど、雰囲気が違って落ち着かない。


「窓越しで失礼しますが、見舞を持ってきたのです。エッグノッグです。あたたかい内に飲んで休んでください。それと擦りおろし林檎の蜂蜜がけです。蜂蜜は喉に良いので、食べられそうなら食べてみてください」

「ありがとうございます」


 持ってきた籠の中身を説明して、クライブに手渡す。覗き込んだクライブは少し頬を綻ばせた。


「今、いただいても?」

「もちろん、どうぞ」


 籠をサイドテーブルに置いてから、エッグノッグの入ったカップを手に取った。

 カップからはもう湯気は立ってないけど、むしろ飲みやすい温度だったらしい。喉を鳴らして飲み干すから、よほど喉が渇いていたと見た。


「少し寒気が治まった気がします」


 甘い物を嫌いじゃないクライブが「美味しい」とは言わなかったので、熱で味覚は鈍っているのかもしれない。

 だけどこちらの言っていることもちゃんと理解できているようだし、スラットリー伯爵が言った通り後はゆっくり体を休めれば大丈夫そう。

 この世界、風邪でもこじらせれば儚くなってしまうことがある。基礎体力のあるクライブなら大丈夫だろうけど、顔を見るまで心配だった。安堵の細い息が唇から漏れる。


「あとはよく休んで。水分補給も忘れずにしてください。無理はしないように」


 言い含めれば、「はい」とクライブが頷く。擦れた声が痛々しい。

 帰る前にもう一度、対応してくれた騎士に夏に提供していたスポーツドリンクを宿舎の厨房で作って運んでもらうように頼んでおこう。

 そう考えながら、長居して無理をさせたくはないので「それでは」と脚立を降りようとした。


「!」


 しかし、それは手を掴まれたことで阻まれた。

 驚いて目を丸くする私の前で、クライブも目を瞠って私の手を掴んだ自分の手を見ていた。


「失礼しました……っ」


 どうやら咄嗟に掴んで引き留めてしまった、ようだった。クライブはばつが悪そうな顔をして、低く擦れた声を絞り出す。

 でも、手は、離されないまま。


(どうしよう)


 けして強い力ではない。振りほどこうと思えば振りほどける。けれどいつもより熱い掌と指先から伝わる熱が、私にそれを躊躇わせる。

 クライブも自分の行動に困惑しているみたい。手を離すタイミングを見失ってしまったようだ。眉尻を下げて、どうしたものかと言わんばかりに顔を強張らせていた。

 その姿が、少し心細そうにも見えてしまって。


「クライブ。手を離してください」


 告げれば、名残惜し気にクライブの手が離れていく。申し訳ないと言う代わりに眉尻を下げた顔を見て、覚悟を決めた。

 というか、既に覚悟は決めてある。

 離れて自由になった手で、行儀が悪いけどドレスのスカートをたくしあげた。後ろで「殿下!?」とラッセルが焦った声を上げたけど聞こえないフリをした。

 次いで、両手を窓の桟に掛けた。


「アルト様!?」


 ぎょっとするクライブの前で窓枠を乗り越え、華麗とは言えないけど部屋の中へと降り立った。


(入ってしまった……!)


 私の立場で規則を破るのは良くないことはわかっている。いくら窓を開けていて、ラッセルも待機しているとはいえ、許嫁と私室で二人きりっていうのはどうなの、とも思う。

 でも、後悔はない。

 体調が悪い時に心細くなる気持ちは、よくわかる。

 誰かにいてほしいと願う想いも、よくわかる。

 普段は弱みなんて見せたりしないクライブが、触るのが苦手な猫だって文句も言わずに捕まえて見せるクライブが、こうして頼ってきたのだから。


(こんな時ぐらい、全力で応えるべきでしょう)


 私に大層なことができるわけでもない。

 けれどせめて寝付くまで傍にいてあげることぐらいは、できるから。


「一週間の厩舎掃除、やり遂げてみせますとも」


 スカートの裾を整え、少々気まずい気分を振り払うように胸を張った。

 馬に満足してもらえるほど完璧に掃除は出来ないかもしれないけど。その代わり権力を行使しておやつ増量にするから、一週間だけ掃除が下手でも馬には多めに見てほしい。

 宣言すれば、クライブが目を丸くした。数秒絶句した後、クライブは不意に小さく擦れた声を上げて笑った。


「厩舎掃除は宿舎に入った本人ではなく、連れ込んだ者がするんですよ」

「えっ」


 そんなの聞いてない! ということは、クライブが厩舎掃除するの!?

 けれど安堵を滲ませた表情を見れば、ここで謝罪の言葉を告げるのは野暮に思えた。

 眉尻を下げたものの何も言わなかった私にクライブは満更でもなさそうに目を細める。そして実は体力が限界だったのか、「すいません」と呻いて次の瞬間にはベッドに倒れ込んだ。


「クライブ!? 私に気にせず、今は休んでください。眠るまでここにいますから」


 そんなので一週間の厩舎掃除に釣り合えるか不安だけど、ベッドの縁に浅く腰かける。掛け布団をかけてあげて、投げ出されている手に躊躇いつつもそっと手を重ねた。

 すぐにやんわりと熱い指先に握り返されて、胸の奥までくすぐったい。

 込み上げてくる羞恥心を抑えるために、必死に意識を逸らす他愛もない会話を続ける。


「二人で掃除して、3日と半日に出来ないか兄様に交渉しましょう」


 そうだ、そうしよう。入ったのは私なのに、クライブだけが罰を受けるのはおかしい。


「……連れ込んだと知られたら、むしろ僕だけ二週間の掃除を命じられる」

「何か言いました? あっ、欲しいものがありますか? 水を頂いてきましょうか?」

「いえ。……そこにいてくれるだけで、十分です」


 一人で納得してどう交渉するかを考えていたので、クライブが最初に呟いた声は擦れていたせいもあって聞き取れなかった。

 けれど目を閉じて、まどろみに落ちそうになりながらもクライブは告げた言葉はしっかり耳に届いてしまった。


 おかげで私の重ねた手は、たぶん熱がうつったせいだけじゃなく、熱かった。



2019/12/01更新

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