主にまつわるエトセトラアフター
※近衛騎士ラッセル視点
ゆっくりと日が暮れていき、窓の向こうの景色が朱色から藍色に染まり始めている。近頃は随分と日が落ちるのが早くなったので、一日が短くなったように感じられた。
訓練広場で鍛錬を終え、手早く汗を拭うと後宮のアルフェンルート殿下の部屋へと急ぎ足で戻る。
散策の後は許嫁のクライブに後宮まで送られ、今は後宮内の護衛騎士が守っている。とはいえ、自室で寛がれている殿下を見るまではやはり落ち着けない。
アルフェンルート殿下から直々に言い渡されている鍛錬時間とはいえ、唯一無二の主を持つというのはこういう気持ちを抱くものなのだろう。
「ただいま戻りました」
ノックの後で部屋に入ると、居間代わりの部屋のソファーに腰掛けていた殿下が顔を上げる。すぐに微かに笑んで頷かれた。
「おかえり。ラッセル」
女性にしては少し低めの声は柔らかい。当たり前に投げかけられるその言葉に自然と口元が綻ぶ。
ソファーの傍らに控えていた侍女のメリッサも安堵を滲ませるので、いつの間にかすっかり自分は受け入れられてこの場に馴染めていたようだ。
(最初の頃は、警戒心満載の猫達の巣のようだったが……)
感情を押し隠してこちらを窺う鋭い目にはかなり落ち着かないものがあった。今では、メリッサも「グレイ卿にもお茶をお淹れましょうか?」と聞いてくれるほどだ。
最初の頃ならば毒の混入すら警戒しなければならなかったが、今では単に気遣いは不要というだけの理由で断る。
その後は定位置である殿下の周囲がよく確認できる壁に沿って控えた。殿下から声が掛かるまでは、外の気配を警戒しつつ待機である。
しかし後宮内ではそこまで神経を尖らせることもない。穏やかな気持ちで見守れる殿下は、どうやら晩餐までの時間は手紙整理をされているようだ。
何通かは淡々と読んでいたけれど、最後の一通で不意に目を瞠った。
皇女に届いたにしては簡素で貧相にすら見える手紙をじっくり見る瞳は、やや輝いて見える。
(あの紙を見るに、城下の花屋の息子からだろうか)
城下街に家出されていた時に出会った、殿下のご友人である。
相手は平民ではあるが、殿下は紡がれた縁を今でも大事にされている。勿論、ご自分から皇女であることは明かされていないし、相手もあえて聞かないようだが、城に手紙を出せばちゃんと殿下の手に届くようにはなっている。
そしてそんな手紙は、城下街で面白い情報が入ると教えてくれるらしい。いつも殿下はとても嬉しそうに読んでいる。
とはいっても、殿下をよく知らない人から見れば嬉しそうに見えてはいないだろう。殿下はあまりはっきり感情を表に出されない。だからよく殿下を見知った者から見れば、である。目の輝きが違うのだ。
読んだ後しばらく無言で考え込まれていた殿下だが、不意に顔を上げて自分を見た。
(何か御用だろうか)
僅かに首を傾げて窺えば、殿下は躊躇いを見せた。数秒、唇を引き結んで難しい顔をしているので、出来るだけ優しく笑いかける。
すると安心したのか、「ラッセル」と呼ばれて手招きされた。
促されるままに近づいて、手が届くか届かないか程の距離を取って床に片膝を付く。
「いかがいたしました?」
問いかけると殿下はちょっと困った顔をして、手で向かいのソファーを示した。
どうやら向かいに座れと言うことらしい。殿下は傅かれるのがあまり得意ではないのだ。そうやってちゃんと一人の人として接してくれるところが大変好ましいと思う。
向かいに座り直すと、殿下が「これはラッセルの職務外になるのですが」と申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「城下街に立つマルシェの中に、今週は珍しい香辛料の店が来ているようなのです。あと二日は店が出ているようですが、次はいつ来られるのかわからないというのです」
「香辛料の店ですか」
「そちらの商品が欲しいのですが、私は先週、城下に下りたばかりなのです。そう何度も無理は言えません」
そう言って、殿下が唇を引き結ぶ。
殿下の仰る通り、先週お忍びでクライブが城下街に連れ出したばかりだ。立場的に安易に出掛けられる方ではない。
実のところ、クライブが連れ出す際にも様々な許可と手続を取っている。
思いつきで連れ出して見える時でも事前にシークヴァルド殿下の許可を取り、クライブ自身に加えて手練れの騎士を更に二名は配置する手続きも取り、出かけられる際には密かに護衛をしているのだ。
殿下は万人の目を奪うという方ではないが、端正な美しさではある。身代金目当てだけではない人攫いや、よからぬ輩の目は引いてしまう。以前、家出されていた時のように顔立ちを誤魔化す化粧をされていればまだいいが、素顔で、しかも信頼できるものの前で見せる笑顔はとても可愛いのだ。
不意に出るそんな表情を見れば、気を惹かれる者は少なからずいる。
だから出先で怪しい動きをする者がいる場合、クライブが尾行している護衛たちと連携して、殿下に気づかれないうちに排除していたりもする。
それ以外にも、外出に纏わる細々とした申請書類や報告書なども作成しているのである。
クライブがあえて言わないだけで。
でもアルフェンルート殿下も薄々は勘づいておられるのか、自身が動かれることの大変さはわかっているようだ。
クライブはそうしてでも殿下を喜ばせて差し上げたいのだから気にすることはないと思うのだが、それを気になさるのが殿下の性格なのだろう。
「以前はセインに頼めていたのですが、今は侍女しかいないので安易に頼めないのです。これが手に入れば、念願のカレーパンが出来るかもしれないのに……」
「かれーぱん、とは新たなお菓子ですか?」
「お菓子というより食事パンです。じゅわっとして、サクッとした、辛くて美味しいカレーという具の入ったパンなのですが」
殿下は無念さを露わに嘆息を吐き出す。
自分が知る限り、侍従だったセインはよく気がつく方だった。
無愛想だから誤解されがちだが、常に殿下の表情や視線の動きから興味を向けられたことを丁寧に拾い上げていた。
殿下はよく「私は甘やかされて育ちました」と言うけれど、彼女が心地よく過ごせるようにセインは細やかに気を配っていたのだ。それは傍で見ていればよくわかることだった。
だから自由に動けていた有能な侍従がいなくなった今、良家の子女ばかりが侍女として配置されている今の殿下は、安易に頼み事をするのが難しい。皇女として正しい位置に戻れた分、以前に比べて不自由にもなった。
だから、安心させるために柔らかく微笑んでみせる。
「では、明日の午前中に殿下のお望みの香辛料を買って参りましょう。リストをいただけますか?」
「良いですか? 本来の勤務時間外に、職務外のことを頼んで申し訳なく思います。勿論、手間賃込みで手当は払います」
「いえ、そこまでしていただかなくとも」
「ラッセル。正当な報酬なのですから、受け取ってください」
それぐらいなら気にしなくていいと思ったが、主人は頑固だ。甘えすぎてはいけないのだと、こういう面ではきっちりと線を引く。
でもこれは、純粋に切り出したい好意なのだ。
「では、そのカレーパンが出来上がったらぜひ食べさせていただけますか。実は辛いものに目がないのです」
だからそう妥協案を出せば、殿下は目を瞬いた後で嬉しそうに微笑んだ。
「勿論です。一番にラッセルに食べさせてあげますね」
そして屈託なく約束してくれるから、やはりこの方が主でよかったと思った。
ここは人よりずっと満たされているようでいて、常に人目に晒される窮屈な鳥籠でもある。
その心身の拘束は、きっとその立場にはない自分にはわからないものである。
だからせめて心が和らぐように、寄り添って差し上げられたらと願うのだ。
*
ちなみに約束していたカレーパンなる試作品は、揚げパンと言われるものだった。
ピリリと辛さの効いた挽肉と甘い玉ねぎのみじん切り、ピーマンのほろ苦さが大変美味ではあった。
しかし殿下曰く、
「美味しいけれど、コレジャナイ……これはカレーとは別物の辛さのピロシキ」
だそうだ。
眉根を寄せて微妙な顔をしていらした。
だがコレはコレで新しい味覚として広められると聞いた。美味しかったので自分としては嬉しい限りだ。
尚、正しいカレーパンへの道のりは、まだ続くらしい。




