ニコラスのお悩み相談室
※近衛騎士ニコラス視点
朝日が明けかける時分から太陽が顔を出し切るまでの早朝が、自分の鍛錬時間だ。早春の清々しい朝の空気の元で軽く汗を滲ませて、心地よい疲労を感じる頃に終了となる。
先に朝食を終えてからやってきた同僚と、他愛ない言葉を交わす。その後、自分も朝食を取りに戻るべく訓練広場から近衛騎士宿舎へと向かう。
その途中のことだった。
(見てはいけないものを見つけてしまった……)
それで見えているのか?とよく聞かれる糸目を限界まで見開く。
通り道である王立図書館の裏手に来たところで、見たくなかったものに出会ってしまったからだ。
これは不運というべきか、大事になる前に見つけてよかったというべきか。
「そこで何をなさっているのかお尋ねしても良いですか? アルフェ様」
この国の第一皇女アルフェンルート殿下が、城が開門する前の時間帯に王立図書館に本を借りに来られることは、近頃ではよくあることだ。
しかし。
なぜか今日は完全に少年にしか見えない男装姿。それだけならまだいいが、人気のない図書館の裏手にある窓の枠に片足を掛けて、身を乗り出しているのである。
これは見過ごしてははならないものだろう。既にもう頭が痛い。
見咎められたことに気づいたアルフェ様は、俺の姿を認めると顔を強張らせた。
「ニコラス……少々、外の空気を吸いたくなりました」
「脱走なさらんばかりに身を乗り出されなくても、窓を開けるだけで十分ですよね。それと、護衛騎士はどうしました?」
ものすごく苦しい言い訳をされたが、見逃してやることはできない。
アルフェ様は痛いところを突かれたせいで、唇をきゅっと引き結んだ。黙秘権を貫きたかったみたいだが、じっと胡乱な目で見据えれば少し目線が逸らされる。
「護衛には、いつも通り図書館の扉前で待ってもらっています」
「つまりアルフェ様が気にせず図書館を見て回れるようにと気遣った護衛騎士の好意を踏み躙って、脱走なさろうとしていた、と」
「……私を見失っても、護衛が罰せられないように書き置きは残しています。今日1日だけのことですし、城内から出ないとも書いてきました」
アルフェ様があえて気に病みそうな言い回しをすれば、表情を曇らせた。それでもまだ体は窓から乗り出したままなのだから、隙があれば逃げそうな様相だ。
クライブ曰く、恐ろしくすばしっこくて足が速いらしい。となると、ここで逃すわけにはいかない。
だいたいやけに翳りのある表情をしているから、ここで逃げ出しただけでは解決しなさそうである。
仕方ないか、と密かに嘆息を吐き出した。
「いくら書き置きしてあっても、失踪なんてされたら俺達は通常業務を返上してアルフェ様の捜索になりますからね?」
なぜこの皇女は普段はおとなしいくせに、問題を起こす時だけはやたら行動派になるのか。勘弁してほしい。
近寄っていくと顔は強張らせたが、さすがに逃げられないと悟ってくれたらしい。とはいえまだ窓枠に片足を掛けたままだったので、両手を伸ばして脇の下に手を差し入れる。
ギョッとされたけれど、抵抗される前に抱え上げてすぐに地面に下ろした。
目を白黒されている間に地面にハンカチを敷いた。どうぞ、と座るように促す。訝しげにされたが、人一人分の距離を置いて自分も腰を下ろす。
そしてまだ立ったままのアルフェ様を見上げて、軽く笑いかけた。
「簡易お悩み相談室です」
「おなやみそうだんしつ」
図書館の裏に人気はなく、程よく木が生い茂っているので鳥や虫の声が響いている。遠くからは朝の準備で忙しなく動く人の声や雰囲気が伝わってくるものの、まだ一般人も司書もいない図書館周りは内緒話には丁度よかった。
俺が通ってきた通路を使う人間はいそうだが、声が届くほどでの距離でもない。それに朝は忙しいからこちらを気にかける余裕はないだろう。
「逃げ出されたくなるくらいのお悩みがあるようですから」
指摘すれば、アルフェ様は息を詰めて緊張を走らせる。
「メリッサやシークヴァルド殿下やクライブには言い辛いことでも、アルフェ様の事情はよく知ってるけど、別にどう思われても構わない程度の俺相手なら、話しやすいでしょ?」
「どうでもいい相手……」
「都合がいい人間だと思ってくれてもいいですけど」
そこまで言うと、アルフェ様は眉尻を下げた。
「今のアルフェ様には客観的に見れる相手がいた方が良さそうですから。殿下とクライブに伝えた方が良さそうだと判断したら、俺から当たり障りなく伝えますし」
逆に言わない方がいいと思えば、伝えることはない。
言外にそう含めれば、観念したのか、それとも誰かに吐き出したかったのか、アルフェ様もそっとハンカチの上に腰を下ろした。
小さくなって膝を抱える。
「私が考えすぎているだけなのですが」
ぽつりと口を開く。
「今日の昼から、ドレスの採寸に人が来ることになっているのです」
「ああ、シークヴァルド殿下が何着か新調した方がいいと言って手配したやつですね」
今までアルフェ様は、シークヴァルド殿下の亡き母君のお下がりや、自分の母が残していったドレスを手直しして着ていたようだ。
アルフェ様は物に関して思い入れがないのかそれで良かったみたいだが、彼女があの母親の服を着ていると聞いて、シークヴァルド殿下が難色を示したらしい。春になることだし、新しく仕立てる手配をさせていた。
ただドレスを作ると聞いた時、アルフェ様は驚いた顔をした後、はにかんだように笑って喜ばれていたはずである。
その様子は年相応の女の子のもので、周りはその姿を微笑ましく思ったのだ。
「アルフェ様も喜ばれていましたよね?」
「……最初は、嬉しかったのです」
問い掛ければ、アルフェ様は苦く笑う。けれどすぐに瞳を翳らせた。
「今まではセインの服を着てみて、その状態から詰めて直していたり、ドレスも着た状態で詰めてもらっていたのです。……ただ今回は脱いだ状態で本格的に採寸されると聞いて、それを考えたら」
そこで言葉を止めて、アルフェ様が両手を前に広げてみせる。
なんだろう、と思って見つめれば、その手が小さく震えているのだと気づいた。
「こんな風に……なってしまいました」
ぎゅっと掌が拳を作っても、その手の震えは止まらない。
そこに見えたのは、拭いようのない恐怖だった。
皇子として身を偽り続けなければならなかったアルフェ様の立場を考えれば、今はもう大丈夫だとわかっていても、割り切れない部分があるんだろう。
これまではけして誰にも性別を知られてはならなかった。
14年間、細心の注意を払ってきたはずだ。自分が一歩でも踏み間違えれば、全てが台無しなってしまう。そんな場所で抱えてきた恐れは、きっとすぐには捨てきれない。
恐怖に支配されて逃げだしたいと思われても、なんらおかしくはなかった。
(だから今日は男装されていたのか)
自分の在り方に混乱してしまい、慣れ親しんだ形を求められたのかもしれない。
今更ながらに彼女の生い立ち故の繊細さに気づかされた。自分と周りの至らなさに顔から血の気が引いていく。
アルフェ様は眉尻を下げて、困ったようにまた苦く笑う。
「メリッサに言えば心配させてしまいます。兄様にも、わざわざ気にかけてくださった気持ちを台無しにするようで、とても言えないと思って」
息を詰めた自分の前で、アルフェ様は疲れたように細く嘆息を吐き出す。
「クライブにも……こんなに弱いところを見せるのは、情けなくて」
それでつい、逃げ出してしまいたくなった、と。
浅はかだとは自分でもわかっているのか、アルフェ様は肩を落として再び小さく縮こまってしまう。
お悩み相談室だとは言ったものの、思った以上に重かった。
どこから言えばいいかわからなくなったけど、一番気にしていそうなところから口を開く。
「アルフェ様。辛い時には『つらい』って言ってもいいんですよ?」
「え?」
「一人で全部抱え込まなくてもいいんです。誰もアルフェ様に強くあれとは思ってません。だいたいアルフェ様、頑固なわりに脆いところがあるのは既にみんな知ってます。以前、家出されたくらいですしね」
「え……」
アルフェ様が愕然とした表情になる。
もしかして、自分の弱い部分を周りがわかっているとは考えもしなかったのだろうか。
(アルフェ様の生い立ちを考えれば、強くないといけないって思ってたんだろうけど)
実際に、強くはあるんだろう。
大事な人たちの為に周りを騙し続けても平然と装ってきた程度には、したたかで、わがままで、頑固な人ではある。
でもきっと一度折れてしまえば、立ち上がるのに時間がかかる人でもある。
不安定な部分も多々あったし、特にクライブはそんなアルフェ様から目が離せなくなったようだった。気にかけて、心を砕いて、支えていきたいとまで思わせている。
今となっては、笑ってくれるだけで愛しくて仕方ないと言った有様だ。
それは今までを乗り越えてきたからこそのものであり、弱いから悪いということばかりでもないのだ。
「シークヴァルド殿下に泣き言を言えば、きっと困らないように対処なさいます」
妹には優しいから、即座にどうしたらいいかを考えるだろう。
「クライブに弱いところを見せたって、クライブのことだから支えたいと思うだけですよ? 何も問題はないです」
アルフェ様は意外なことを言われたとばかりに、アーモンド型の深く青い瞳を瞬かせる。
「それとアルフェ様の一番近くにいるのはメリッサですから、言わなくてもアルフェ様の気持ちは感じ取ってると思いますよ。きっと何も言われない方が心配させてます」
自分の知っているメリッサならば、主人の気持ちを慮って口にしないだけで、察してはいるだろう。
自分が知る限り、乳姉妹であるアルフェンルート殿下を何よりも大切にしているのはメリッサだと思う。それはシークヴァルド殿下やクライブとはまた別の次元で、苛烈に、一途に。常に自分の主を守ろうとしている。
その揺るぎなくまっすぐな姿を見て以来、その眩しさ故に自分は彼女が気になって仕方なかったのだから。
しかし、言われたアルフェ様は呆然としている。
言い聞かせてみたものの、まだどこか頼りなさは拭えない。そんな馬鹿な、と言いたげですらある。
うーんと首を捻ってから、「例えばですけど」と話すことにした。
「シークヴァルド殿下にものすごく苦手な人がいて、なんとしてもその人から逃げ出したいとアルフェ様に言ったとします。幻滅されます?」
「しません。兄様を匿って、そんな風に困らせる人の弱みを掴めるように頑張ります」
「その方向性はちょっとどうかなって思いますけど」
アルフェ様は迷わずに言い切った。内容には思わず口元が引き攣ってしまう。
「それとクライブが疲れ切って、もう仕事はできないと泣きついたとします。俺なら幻滅しますけど、アルフェ様はどう思います?」
「人間、疲れてしまってどうにもできない時もあるでしょう。そのときは元気になるまで、私が働いて支えます」
「今の言葉、クライブが聞いたら泣いて感動しそうですね」
「そこで泣かれるのは引きます……」
「そこは引いちゃうんですね」
出来るだけ明るい口調で話しているうちに、アルフェ様も少しは気分が上向いてきたようだ。少しだけ顔に血の気が戻ってきている。
まだ、手の震えまでは消えないけれど。
だがその強張りをほぐす役目はさすがに自分じゃない。もっと適任者に投げるつもりだ。
クライブに任せれば、アルフェ様を逃すまいと腕の中に抱き上げて宥めてくれることだろう。
真綿で包むように。
大事な宝物を守るみたいにして。
弱くても、見捨てたりはしないのだと。その脆さごと愛しいと思っているのだと伝えるだろう。
それが想像できたので胸の内で僅かに安堵して、息を吐き出す。
「つまり、そういうことです。アルフェ様が心を砕かれるように、周りもアルフェ様の為に出来ることをしてあげたいんですって」
明るく言って、勢いよく立ち上がる。
手を差し伸べれば、アルフェ様は軽く首を振って一人で立ち上がった。
人の手を借りようとしない頑固さはまだあるけど、それは性格に違いない。それにもしここにいたのが彼女の大事な人であれば、素直に手を借りただろうとも思う。
自分はただ、事情は知っていても客観的な立場だ。せいぜい、ちょっと頼もしい親戚のお兄さん的な感じだと思ってる。
近すぎず、遠すぎず。この立ち位置は悪くないと思う。
こういう人間も必要だろうから。
とりあえず今日のドレスの採寸は見送りになるだろう。だが、このまま後宮に返したところでアルフェ様に対処できるとは思えない。指示を仰ぐべく、シークヴァルド殿下の元へと促した。
アルフェ様も納得したのか、おとなしく着いてきてくれる。
まず図書館の扉前にいた護衛騎士に、アルフェ様を預かる旨を告げた。途中でクライブにすぐ来るようにと伝言を頼む。朝に弱いクライブは今頃起きたところだろうが、アルフェ様のこととなれば急いで駆けつけてくるはずだ。
段取りをして一安心してから、シークヴァルド殿下の元へと向かう。今の時間なら朝食を始める頃合いだから丁度いい。
隣を歩くアルフェ様を見下ろして、先程言いそびれていたことを告げる。
「ともかく、メリッサにはちゃんと相談するべきですね。後で叱られたくなければ」
すると、アルフェ様がまじまじと俺を見つめた。
なんだろう。おかしなことを言ったか?
「ニコラスは、随分とメリッサのことがよくわかっているようですね。対外的に見れば、メリッサが私を叱るなんて考えもつかないはずですが」
深い青い瞳はこちらの心の奥まで見通す色を讃えている。思わずギクリと胸が竦んだ。
メリッサがアルフェ様を大切に思うように、アルフェ様もメリッサをなにより大事に思われている。それこそ、自分の首を掛けたほどに。
ある意味、メリッサはアルフェ様にとってかけがえのない存在なのだ。
だからこそ、生半可な相手に託す気はないのだろうと感じさせた。
おかげで探る眼差しが真剣のように鋭く輝く。
「いつの間にか、呼び方も変わっています」
「メリッサから、敬称はなくてもいいと言われましたので」
無意識に緊張して背筋が伸びた。試験を受けているかの如き緊張感に包まれる。
「そう言えば、先日のメリッサのお返しに12本の花束を贈ったと聞きました」
「ええ、実はその時に」
「……そうですか」
あの時のメリッサの思いがけず可愛い反応を思い出して笑みを浮かべてしまったら、ようやくアルフェ様も微かに笑んだ。
その微笑みは、とても安心したかのように。
大事な乳姉妹の幸せを願うみたいに、それは慈愛に満ちていた。
「お願いですから、私にニコラスを排除させるような真似だけはしないでくださいね」
だが柔らかく微笑み掛けられながら続けて言われた言葉は、あまりにも恐ろし過ぎた。
万が一にも傷つけたら絶対に許さない。という圧が、ひしひしと伝わってくる。
そしてやっぱり、と脳裏をよぎる出来事がある。
「アルフェ様。メリッサに言い寄っていた人間のうち二人ほど、領地に問題があったようで王都から消えたんですけど」
なぜかメリッサが厭わしく思っていた相手の家に限って監査が入り、見過ごせない問題が幾つかあったらしく、その家の子息たちは領地に呼び戻されていた。
なぜだろう。まるで見えない手に排除されたみたいじゃないか。
アルフェ様はただ静かに微笑んだ。
……それが答えに思えた。
(アルフェ様だけは、敵に回さないようにしよう)
後ろ暗いところはないけれど、背筋に冷たいものが走り抜けていく。
メリッサがアルフェ様のことを、
『私にとっては、やはり皇子様でもあるのです』
そう微笑んで言っていた意味を理解してしまった。
確かに、メリッサを守るための鉄壁の防御を誇る皇子様でもありそうだ。
そう考えると自分の最大の恋敵は、アルフェ様なのかもしれない。
「そういえば。先程ニコラスは自分のことを私にとって都合の良い人間だと言いましたが、それは少し違います」
「そうなんです? 親戚の頼れるお兄さん枠だったりします?」
「それに近いものはありますが」
そう言った後にアルフェ様が笑顔で告げた関係は、ちょっとどうかな、と思うものだった。
「一緒に悪ノリもしてくれる、悪友だと思っています」
それは断固、お断りさせていただきたいですね。




