夫婦の日
悪気はなかった。
先に言っておきたい。けして悪気はなかった。ちょっとした好奇心だったのだ。それに不可抗力に近い状態でもあった。
ことの発端は、昼になってからイヤリングを片方落としていることに気づいたことにある。
(屋敷の中にはあるはずなのだけど)
朝から王都にあるランス伯爵家のタウンハウスを出ていない。朝つけたばかりだから屋敷内にあるのは確実。周りの人には掃除のついでにでも見つけたら教えてくれるように頼んだものの、侍女のノーラは一階を、自分も二階の寝室への道を戻って探している途中のことだった。
廊下には落ちておらず、自分の寝室にも思い当たる場所にはない。今朝もクライブを起こしに隣室の主寝室に入ったので、そちらかもしれないと足を踏み入れた。
今朝の行動を思い出しながら床を見ていき、ふとテーブルの上に置かれたままのブローチが目に入った。
(あれ? クライブが忘れていくなんて珍しい)
結婚してしばらく経ってから、ずっとクライブが好んで付けているものだ。深い落ち着いたシックな青が美しいラピスラズリのブローチ。
今朝はいつもより出る時間が一刻も早かった為、朝が苦手なクライブは慌ただしくしていた。そのせいで忘れていったのだろう。
いくら愛用品とはいえど、無くて困るものではないだろうから届けるほどではないと思う。
とりあえず、片付けておいてあげよう。
そんな親切心を出したのが悪かった。
テーブルを覗き込んでみたら、ブローチが開いていることに気づいた。ロケット型になっているとは思わなかった。私ならば防犯用に痺れ薬でも仕込んでおくところだけど、クライブも職業柄、似たようなものでしょう……
なんてことを呑気に考えながら覗き込んだのが悪かった。そこにある予想外のものに息を呑んだ。
(女性の顔!?)
な、なんということなの。
夫が愛用するブローチに、女性の横顔を描いた絵姿が嵌め込まれている。しかもこっそりと隠すように、ロケットの中に!
愕然としたまま、固まってしまう。
えっ。こういう時ってどうすればいいの。浮気? もしくは初恋の相手……実は好きな女優の絵姿だとか? そんなの聞いたことないけれど。
でもこれ、新婚間もない頃から付けていた気がする。自分で言うのもなんだけど、私を好きだと言って憚らないし、行動でも示し続けているクライブが別の女性の絵姿を持ち歩くだろうか。
驚きすぎて目が泳いでいたけど、改めて意を決して絵姿を見てみる。
女性というか、まだ少女らしさも残した横顔。細い首元まで白いレースで彩られ、淡い黄色に彩飾された髪は綺麗に結い上げられている。
そして頭の上には、小さなティアラ。
(まさか、これは……私、なのでは?)
だってこのティアラ、見覚えがある。
結婚式の時に使った祖母のものだったティアラによく似ている。
ただ、絵姿なんて描いてもらった覚えはない。結婚した時に王都をパレードしたから、よほど記憶力の良い絵師が描いたものだろうか。短時間のことだったし人も驚くほどたくさんいたから、あの姿を描けた人がいたことにびっくりなのだけど。
ということは、私? やっぱり私なの?
いや、クライブが私以外に誰の絵姿を持ち歩いてるんだ?って話だけれど。
(私、こんな横顔だったの……)
自分で自分の横顔なんて見たことないから、なんとも不思議な感じがする。
というか、いつもこれを身に付けていたの? 既に結婚してあと少しで六年目なのだけど。毎日会う嫁を持ち歩いていたとは……
どんな顔をすればいいかわからない。自分でも昔、密かに推しキャラを待ち受け画面にしたことはあるけど、クライブも推しの嫁を待ち受けにしてる的な?
される側になると、小っ恥ずかしい。あーーー!って意味もなく叫んでベッドの上を転がり回りたい。できれば勘弁してほしい。心臓がばっくんばっくんと脈打っている。
だいたいこの絵姿、ちょっと美化されすぎでは? あの時の私は、こんなにも幸せがダダ漏れな顔で笑ってたの?
恥ずかしすぎて顔を覆って床に転がりたい!
凄まじい衝動をしばらく息を止めて噛み殺した。実際に転がり回るわけにはいかない。即座に医者を呼ばれるし、まずそんな危険な真似はできない。
しかし。どうすべきか。
今までクライブが何も言わなかったということは、私に教える気はなかったのだろう。これは知らないふりをすべきなんでしょう。うん。私は何も知らなかった!
いや、無理でしょう。無理。
クライブが帰ってきたら、変な顔してしまいそう。困惑と照れ笑いと恥ずかしさで顔面が固まる。クライブなら、私がおかしいことにすぐに気づくだろう。
ただでさえ、近頃は過保護に拍車がかかっているのだから。
そんな時だった。
階下が少し騒がしくなった気配がした。何事かと顔を上げれば、慌ただしい足音が部屋に近づいてくる。
さすがに家主の足音くらいはわかる。滑り込むように走り込んできたクライブは、寝室のテーブルの前に立つ私を見て目を瞠った。
緑の瞳が私を見て、テーブルの上の開かれたままのブローチを見て、再び私に視線が戻ってくる。
「アルト……見ましたか」
「ええ、……はい」
この状況で「見ていません」は通用しないだろう。どんな顔をしたら良いかわからなくて、困ったように眉尻を下げてしまった。
どうやらクライブも恥ずかしさがあるのか、じわじわと顔が赤くなっていく。
「これは、よくあることなんです。こういうのは、既婚者なら家族の絵姿は誰でも持っていますし。僕だけでなく」
そして必死に言い募る。
とても皆が皆、妻の姿絵を持ち歩いてるとは思えない焦りっぷりだ。だいたい、昼休みに焦って取りに帰ってきている時点で、説得力がまったくない。
その姿を見ていたら、なんだかちょっと笑ってしまった。恥ずかしさより、幸福の方が上にくる。
「家族が増えたら、三人の絵姿に差し替えるのですか?」
少しずつ重くなり始めたお腹をゆっくりさすって問えば、クライブは「それはまた別に作ります」と真面目な顔して、間髪入れずに告げるので。
今度こそ、口から笑い声が溢れた。




