15 諦めが悪いんです
イースデイル領に到着してからのアルは、ひたすら忙しく動き回っていた。
視察に監査、隣国との代表挨拶。その合間にも細々とした所用を片付けていた様子。明日にはイースデイル領を立つ日になって、ようやく一日自由だと喜んでいた。
街の案内を申し出たけれど、これ以上は世話を掛けるわけにはいかないから、とやんわり断られた。
アル達の本来の目的は新婚旅行だ。きっと旦那様と二人きりで気兼ねなく過ごしたかったのね。それを邪魔するほど野暮ではないつもりよ。
朝からアルはお忍び仕様で町娘に扮し、旦那様と仲良く手を繋いで港へと降りていった。
その様は微笑ましいを通り越して、羨ましい。
私だって、そんな風に恋人と出かけてみたい人生だった……!
(そういえば私、ダリルと手を繋いだことはあったわ……もうどうでもいいことだけど)
元婚約者に関しては未練は欠片もない。彼とまた手を繋ぐのは死んでもごめんだ。
ただそうやって出掛けるシチュエーションには憧れる。きっと頭がふわふわして、心臓がドキドキして、素敵なものなんでしょうね。
好きな人と手を繋いだことがないから、わからないけど。
(セインと手を繋いだことはないのよね)
これに関しては立場的に当たり前ではある。これでも私は辺境伯令嬢であるし、セインは騎士とはいえ皇太子直属の一調査官に過ぎない。
待って。
そんな大層な肩書きを持っているのなら、私との関係も、もっと踏み込んでも大丈夫じゃない?
(こ、こここ恋人、とか。あわよくば婚約者的な? なんかそんな感じになっても良いのではない!?)
可能性がある。そう気づいただけで心臓が踊り出しそうに脈打つ。
だけどセインと手を繋ぐ様を想像しようと試みたものの、すぐに断念した。まず手を繋ぐ口実が浮かばない。
(友人同士じゃ手を繋がないわ、たぶん)
セインは私を友人認定してくれていた。それは嬉しい。
しかし果たしてこの先、友人以外になれる機会はあるのだろうか。
(セインは、アルと手を繋いだりしたのかしら)
脳裏に二人が仲良く手を繋ぐ様が浮かぶ。
ただアルは男装姿の方が印象に残っていたせいで、脳内では少年二人が握手している姿になった。
……違うわ。こういうのじゃないのよ。
(アルはセインが好きになった、女の子)
たぶんだけど。女の勘がそう告げている。
セインは彼女のどんなところに惹かれたんだろう。私にも、少しでも通じるところがあったりするかしら。
目を閉じて、私の目で見てきたアルを思い返す。
…………。
駄目だわ。
改めて考えると、普通じゃないわ!?
全然、私が予想していた可憐で繊細な悲劇の皇女感がなかった。
戦闘面では最弱なのに意外なほど思い切りが良くて、変なところで行動的でもあった。冷静に話をされていたからその場は呑まれたけれど、思い返せばかなり破天荒なことをしでかしていたように思う。
だけどその根底には、弱者を切り捨てない優しさがあった。
だからこそ、周りが止めきれずに手を焼くタイプなんじゃないかしら。
(なんだかほっとけないのよね……目を離したら危ない気がするし)
繊細といえば、見た目は繊細だった。
ただ最初の印象が強すぎて少年のイメージが拭えない。ランス子爵と並べば絵になる夫婦だと思うけど、アル単体で見るとドレス姿でも夫人特有の匂い立つ色気はなかった。
いえ、けして悪口のつもりではなくて。全く日に焼けていない肌は白く、ほっそりされた外見だからお人形のようなのだ。あまり公では感情を表に出されないから、余計に。
仲良くなれば、思ったよりも感情豊かでいらっしゃるとわかるけれど。
(私と重なるところ、ないわね?)
私はやたら出るところは出ていて、肉付きがいい。そして剣を振り回しているから、見るからに健康的。
更に考えるより先に自分から敵に向かっていってしまう短絡さがある。思っていることも、すぐ顔に出てしまうタイプだ。
全然、アルに似たところがない。
どうしよう。この恋は絶望的かもしれない。
(いいえっ。まだ諦めるには早いわ!)
せっかくセインの好きだった女性と話せる機会があるのだ。話してみて、見習えるところは見習わせてもらえばいいのよ!
思い立ち、日が落ちかけた頃になって旦那様と手を繋いだアルが屋敷に帰ってきたところを捕まえた。
ランス子爵の片手には土産らしき数冊の異国の本、アルの片手にはイカの姿焼きがある。
屋敷の玄関フロアで待ち構えていた私を見て、アルがさりげなくイカを背に隠した。気まずそうにしているのは、夕飯前の間食を咎められると思ったのかしら。
大丈夫、焼きたてのイカの香りに抗えない気持ちはわかるわ。何も言わないわよ。
「おかえりなさい。楽しんでこられたかしら」
「ただいま。とても楽しかったよ。それよりレイはどうしたの。何かあった?」
アルは安堵を滲ませて笑い、小首を傾げる。
そうだった。イカに目を奪われていたけど、私は大事なお誘いに来たのだった。
「あのね。いきなりだけど良かったら今晩、私の部屋に泊まりに来ない?」
「レイの部屋に泊まりに?」
「ほら、アルは忙しくされてて、なかなかお話できなかったでしょう? こんな機会でもないとゆっくり話せないから、どうかしら……って」
予定外の申し出に、アルは何度か目を瞬かせた。
よく考えたら、新婚旅行に来ている夫婦に無粋な申し出だった。そう気づいたのは誘ってからで、嫌な汗が背筋に滲む。
しかし焦る私の前で、不意にアルが嬉しそうに笑った。
「喜んで」
驚くほどあっさりと快諾される。
いいの!? 旦那様に恨みがましい目をされたりしない!?
「クライブ、私にも泊まりに誘ってくれる友人が出来ました。素晴らしいことです。ぜひ受けたいです」
「わかりました。楽しまれてきてください。レイチェル嬢、妻が世話になります」
嬉しそうな顔をするアルを見て、ランス子爵は目尻を下げて微笑ましげだ。私を見て丁寧に頼む声には、妻への愛情が溢れている。
なんというか、とても愛してるのね……。
伝わってくる感情に見ているこちらが恥ずかしくなる。そわそわしてしまうわ。
ともあれ私は無事、アルとお泊まりをする権利を得たのだった。
***
入浴後、寝巻き姿にガウンを纏って私の部屋に現れたアルを招き入れた。
部屋までは侍女も連れていた。だが私がお茶が用意しているのに気づくと、何かあればすぐに呼ぶから、と言って侍女を下がらせる。
静かに扉を閉められたら、部屋には私とアルの二人きりになった。
よく考えたら、二人きりになるのは初めて。今更ながらに緊張してきた。対して私の向かいのソファーに腰掛けたアルは、優雅にティーカップを傾ける。
「それで、レイは私に何か聞きたいことがあるのかな?」
「!」
初っ端から図星を刺されて、心臓が止まるかと思った。
お茶を吹き出しそうになったのを必死に堪えて、アルを窺う。アルはまるで何もかもを見透かす瞳で私を見ている。
僅かに首を傾げ、しかし警戒しているようには感じられない。深い青い瞳が安心させるみたいに三日月型に細められる。
「違った? 人目のないところで話したいことがあるのかと思ったのだけど」
あっさりと思惑を看破されてしまった。
私って、そんなにわかりやすい? それともアルがよく人を見ているのか……。
どちらにしろ、私の狙いは筒抜けだったみたい。それならば覚悟を決めて向き合う。
と言っても、いきなり本題からは入りにくい。とりあえずワンクッション置きたい。
「その、大したことじゃないんだけど。アルはセインの叙爵のお祝い、何を贈られるのかしら、と思って」
「セインの叙爵のお祝い?」
予想外の切り出しだったのか、アルが目を瞬かせる。
「そう。私は小型ナイフを贈ったのだけど、被らない方がいいかと思ったから」
別に被っても困る物ではなさそうだったけど。なんとなく、なんとなくだけど、私と被ったらショックだから。
だって好きだった(と思われる)相手からとただの友人から贈られたものでは、同じ物でも価値が変わりそうじゃないの。それを知ったところでどうにも出来ないとわかってはいるけど。
うじうじ考えていたら、アルは「それなら」と軽い口調でほがらかに答える。
「現金だよ」
「現金なの!?」
想像を超える答えが来た!
えっ。それはちょっと……えっ? 好きだった(かもしれない)相手から、そんな俗物的な物を贈られるなんて、どうなの?
「お祝いなら、もっと記念に残るものがいいんじゃない?」
「以前は宝飾品にしていたけど、周りの人から私が贈る宝飾品は換金しづらいから現金が良いという要望があって」
アルは困り眉になって、そんなことを言い出す。
確かに皇女に下賜された宝飾品は売れないわ。名誉として大事に取っておくでしょうね。
「最初から現金なら、自分の欲しい物が好きに買えるでしょう?」
「それはそうなんだけどっ。でもね、せっかくのお祝いなら、記念に残るものがいいと思うの」
「私は贈り物のセンスがないみたいだから。よく兄様にも微妙な顔をされてしまうので、物は迷惑になりそう」
「そんなことないわ! 気持ちを込めて贈られたら、どんな物でも嬉しいものよ。アルだって、旦那様に何を贈られても嬉しいでしょう?」
焦って、自分の中で勝手に恋敵認定していた相手に助言してしまった。
だってそんなの、セインの気持ちを考えたら気の毒じゃないのっ。
アルは眉尻を下げて「言われてみれば、そうだね」と呟く。内心、兄である皇太子殿下に今まで何を贈ったのか気になるところだけど、ここは「そうよ」と強く頷く。
するとアルは頬を緩めた。
「わかった。何か考えて贈ってみるよ」
「きっとそれがいいわ」
助言してしまったけど、仕方ないわよね。セインのがっかりする顔は見たくないし。
「相手がどんな人か、よく考えてみるといいわよ。アルにとって、セインはどんな人?」
ふとここで、好奇心に負けて一歩踏み込んでしまった。
さりげなく言ったつもりだけど、実は心臓が皮膚の下でばっくんばっくんと鳴り響いている。無意識に握りしめた拳の中で、掌に爪が食い込む。
私の様子には気づかず、アルは少し考えてから口を開いた。
「面倒臭がり屋に見えて、実は真面目。あれでいて痒いところに手が届く気の回しっぷりで、細かいところまで抜かりなく仕事をこなす有能な人。兄様のお役に立っているようだから、将来有望そうで身元保証人としては喜ばしいよ」
「そういうことじゃなくてっ」
思っていたのと全然違う返答が来た。
人物評価を聞きたかったわけじゃないのよ!
反射的に突っ込むと、アルは驚いた顔をした。必死な顔をしている私をまじまじと見返して、何か思い至ったらしい。
不意に、とても柔らかい微笑を浮かべる。
「私個人としては、セインには幸せになってほしいと願ってる」
先程と打って変わって、声に滲むのは愛情だった。
だけどきっと、それは恋愛的なものではない。もっと優しくて温かい。家族を想うのに似た眼差し。
私が知っているアルとセインの関係は、元主人と侍従。姪と叔父。それからきっと、幼馴染で友人。
だけどアルの一言からは、それだけでは片付けられない重さを感じた。
けして、アルに勝てると思っていたわけじゃない。だけど思っていた以上に絆が深いのだと察せられて、思わず言葉を失った。
そんな私を真っ直ぐに見つめて、アルが薄い唇を開く。
「レイにとっては? セインはどんな人?」
どんな人なのか。改めて聞かれると、すぐに言葉が出てこない。
アルは静かな瞳で私を見つめ続ける。なぜか試験を受けているかのごとき緊張を覚えた。
唇が震えて、閉じて、開いて。
「私にとってセインは……もっと一緒にいたい人」
まだまだ知らないことはたくさんある。会う度に、もっと知りたいと思う気持ちが湧いてくる。
「できれば手も繋いでみたい。またハミルトン領に行った時みたいに、街を見て歩いたりもしてみたい」
ひとつひとつ、自分の気持ちを整理していくように。思いついたことを口にしていく。
言葉にすれば欲望ダダ漏れで恥ずかしくなってくる。だけどチラリとアルを窺えば、不思議と優しい顔をして見えた。
それに促されて、再び口を開く。
「どんなことが好きなのか、もっと知りたいって思うわ。いつかこの街を出ていくんだって考えるとさみしいし、引き止めたいって考えちゃう」
「うん」
「きっとこれって、好きってことだと思うの」
つらつらと気持ちを語る私に、アルが優しい声で訊ねてくる。
「セインと一緒についていきたいと思う?」
「それは……それは、出来ないわ。私はこの街が好き。お姉様だって支えていきたい。ここを離れるのは、今は考えられないわ。だからって、セインを引き止められないこともわかってる」
自分で言っていて、ちょっと泣きそうになる。
セインのことは、きっと好き。
自分で思っていた以上に、好きになっていると思う。
セインは安易に私に同情して、腫れ物を扱うみたいにはしなかった。ただ私の気持ちが晴れるまで淡々と付き合ってくれた。
それに女だからって、ただ守られることを良しとしない私の意志を尊重してくれた。
だからといって男勝りだと突き放す訳でもなく、ちゃんと守ろうともしてくれた。
こんな私自身を、そのまま受け入れてくれた。
(そういうところを、好きになったの)
だけど私は恋だけに全力になれる立場じゃない。今までここで生きてきて、決めた生き方を捻じ曲げたら私じゃなくなる気がする。
でも今度こそ元婚約者の時みたいに、簡単に諦めたくはない。
「私ね、きっと欲張りなの。この街も捨てたくない。でもセインも諦めたくない」
「うん」
「だから、セインがまたここに帰ってきたくなるぐらい、魅力的な人間になりたい」
アルを見つめて、はっきりと希望を口にした。
セインに役割を捨ててほしいわけじゃない。私も何かを諦めることはしたくない。
だからセインがどこに行っても、帰りたいと思える場所が私の元であればいいと願ってる。
その為に、セインが目が離せなくなるくらい魅力溢れる人間を目指したい。
言い切った私を見て、アルは嬉しそうに微笑った。
「セインがレイを好きな理由、わかった気がする」
「えっ」
「今はまだ友達としてかもしれないけれど」
「やっぱりそうよね……」
思わず期待を持ったけど、申し訳なさそうに眉尻を下げられてしまった。
だけどすぐにまたアルはにこにこと笑う。嬉しいのが抑えきれないみたいに。
「アルはなんでそんなに嬉しそうなの」
「セインをそんなにも好きになる人がいて嬉しいからだよ。セインは人付き合いに壁を立てがちだから心配していたのだけど、レイがいるなら安心できる」
そう言って、ゆっくりとティーカップを口に運ぶ。口を湿らせてから、「一応、言っておくけれど」とアルが話し出した。
「私とセインは親戚というだけで、それ以上の関係はないからね。強いて言えば、元主従で今は友人なだけだから」
「その割には、セインはアルをすごく大事にして見えたけど」
「それはたぶん、染みついた習性というか……」
アルは困った顔で小首を傾げる。
「レイが本心を話してくれたから、教えるけれど。私達は以前は難しい立場に置かれていて、お互いに依存する形で育ったんだ。だから今もお互いの距離がうまく掴めないことがある」
それは私が聞いてしまって良い話なのかしら。
内心では焦ったものの、語る声があまりに穏やかでそのまま聞き入ってしまう。
「でも恋愛感情があるわけじゃない。少なくとも私はセインに負い目があるから、そういう感情を抱くことはない」
「負い目?」
「私が存在したことで、セインから奪ってしまったものがたくさんあるから」
アルの声には自嘲が滲んでいた。表情も苦いものを無理に飲み込んだかのよう。
「セインはアルに対して、なにか思うところがあるようには見えなかったわ」
咄嗟にそう言えば、アルは頷く。
「セインなら、きっと私のせいじゃないと言う。私が負い目を感じていること自体、知れば重荷に思うだろうね」
私に言われなくても、アルはセインのことはわかっているんだろう。「だから」と続ける。
「セインと私は、今ぐらい距離がある方がいいのだと思う。それに私はもうランス家の人間で、セインが気兼ねなく帰れる場所にはなってあげられないから」
お互いに、別々の道を歩き出したのだと。
少し淋しそうにアルが微笑む。
「これからセインを幸せにするのは、セインを想う誰かの役目」
自分ではない、と言外にアルが告げる。
そして優しい眼差しは、私に向けられる。そこには大事な人の幸せを願う愛情が滲んでいた。
「きっとレイだからこそ、掴めるものがあると思うな」
アルはそう言うと、花が綻ぶように笑った。
その一言で胸の辺りがじんわりと熱くなる。顔も熱い。まったく、簡単に期待させることを言ってくれるのだからっ。
(私が私だからこそ、掴めるもの)
背中を押してもらったら、少し足取りが軽くなったように感じられた。
誰かの真似なんかじゃなくて、私は私のまま。
勇気を出して、足を踏み出してみたいと思った。




