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とある図書室衛兵の独り言

※図書室モブ衛兵視点


 いつものように図書室の扉を守る任に付いている自分の耳に、リン、と涼やかな音が聞こえてきた。

 そちらに目を向ければ、明るい金色の髪が目を引く一人の少女が近衛騎士を伴って歩いてくるのが見えた。その足元には灰色の猫が付いてきている。

 どうやら音源は猫の首に付けられている鈴のようだ。

 少女が歩く度にドレスの長い裾が揺れるので、それが気になるらしく猫は裾に絡みつこうとしていた。ドレスを手繰り寄せ、それを器用に避けて歩く姿は随分と猫に纏わりつかれているのに慣れて見えた。


(そういえば、昔からアルフェンルート殿下は猫に纏わりつかれていたな)


 脳裏に浮かぶのは小さな皇子と、その足に絡みつくように歩いてくる猫の姿だ。

 それを初めて見たのは、自分が図書室の扉を守る衛兵に任命されて間もない頃だったように思う。



  *


 図書館と違って図書室には機密文書も数多く保管されているため、入室は王族と各部署の長以外は必ず許可証が必要だ。それがなければ立ち入ることは許されない。たとえ高位貴族であろうとも例外はない。

 だが中には賄賂を渡して入ろうとする者もいれば、許可証を誰かから借り受けて来る不届き者もいる。

 そのため図書室の衛兵は腕も立ち、記憶力もよく、なにより脅しに屈しない強い意志と真面目さ持つ者が選ばれる。

 それでも極稀に屈して通してしまう者もいたようだ。しかし自分は違う。断固として通さなかった。ただ立っているだけに思われがちの立場だが、これでも誇りを持って任に付いているのだ。

 ……普段はそう豪語している自分だ。しかし恥ずかしながら、この任を全うできない時があった。


 まだ小さかった頃の第二皇子、アルフェンルート殿下が図書室に出入りする時だ。


 殿下を図書室に通す。それ自体は問題ない。

 当時まだ5、6歳だったが、陛下が許可を出されたのだから自分は通すだけだ。滞在時間は午後の1、2時間程で、毎日ではないが結構な頻度で来ていた。近衛以外の騎士は入室出来ないので、後宮から付いてきている護衛騎士と自分は少しハラハラしながら扉の外で待つのがそのうち日課になった。

 その小さな姿も随分と見慣れた、と感じるようになった頃。

 殿下が足元に猫を纏わりつかせてやってきた。

 毛足の長い白猫は随分と懐いており、図書室の前まで来ても離れていく気配はない。殿下も追い払う様子は見せない。一人と一匹は扉が開くのを並んで待った。

 まさか一緒に入る気なのか。

 思い至って、頭を抱えたくなった。

 自分は図書室の扉を守る衛兵だ。たとえ相手が皇子だろうと、言うべきことは言わねばならない。


「アルフェンルート殿下。猫は入れません」


 普段は何も言わずに扉を開く自分にいきなり話しかけられたからか、殿下はアーモンド形の瞳を驚きに大きく瞠った。

 殿下の背後では護衛騎士が責める眼差しを向けてきたが、屈するわけにはいかない。

 殿下は襟足で整えられた金髪をさらりと揺らして小首を傾げた。不思議そうに自分を見上げる顔は「どうして?」と言わんばかりである。

 こういう時、頭ごなしに駄目だと言っても納得しないのは我が子達で経験済みだ。まずはしゃがみこんで殿下の目線に合わせた。


「図書室は許された者しか入ってはいけないのです」


 教えてやれば、金の睫毛に縁どられた深い青い瞳を何度か瞬かせた。自分を見つめていた目が猫を見下ろし、再び視線がこちらに戻される。


「ゆるします」


 小さくても自分が偉いことはわかっているのだろう。あっさりと猫に許可を出されてしまった……。

 でも、そういうことじゃないのです。


「ここには大事な本が置いてあるので、いたずらをする猫は入れられません」

「いたずらしません」

「爪で本をボロボロにしてしまいます」

「しません」

「ですが、もししてしまったら」

「しませんっ」


 まろい頬に朱が入り、ムッと唇を引き結ばれた。こちらが言い終えるより先にムキになって言い返してくる。

 普段あまり話さないのでおとなしいと思っていたが、意外に頑固だ。これ以上言えば癇癪を起されそうな気配を感じた。泣かれでもしたら手に負えなくなる。

 既にちょっと涙目になっていた。

 一度泣き出すと手が付けられなくなる我が子を思い出して嫌な汗が滲む。ましてや相手が皇子ならば、尚更泣かせるわけにはいかない。

 賄賂にも脅しにも屈しないと誓ったはずなのに、この時の自分は結局折れてしまった。


「わかりました。では殿下、ひとつだけ約束してください。部屋から出る時は、猫と一緒に出てきてください」


 最大限の譲歩だった。

 殿下はすぐに涙を引っ込め、大きく頷いた。足に巻き付いていた猫を撫でて、「いっしょ」と言い聞かせている。

 その姿に不安を抱きながらも、自分は扉を開けて殿下と猫を図書室へと入れてしまった。


 とはいえ、本当に猫を連れて出てきてくれると信じていたわけじゃない。


 相手は幼子と猫だ。ちゃんと言うことを聞いてくれるとは思えなかった。夜番の同僚と交代した後、図書室に放たれた猫を捕獲しにいく羽目になるに違いないと思っていた。

 しかし驚いたことに、殿下は約束通り猫を伴って図書室から出てきたのだ。

 利口な猫だったのだろう。守るように殿下の行く先々に纏わりついていた猫は、どうだ、と言わんばかりに自分を見たような気がする。

 そんなことが何度かあって、殿下が猫を連れてきてもこっそりと入れてやるようになっていた。

 毎回猫を連れていたわけではなかったし、一応「本当は猫は駄目なんですよ」と釘は刺していた。だが、そこまで本気で注意していたわけではない。



 そんなある日、殿下はいつものように猫と一緒に図書室に入っていった。

 そしてその日の殿下は、なかなか図書室から出てこなかった。

 腹時計に誘われておやつの時間には出てくる殿下が、夕日が差し込む時刻になっても出てこない。体が弱いと聞いていたから倒れている可能性もあったが、今日は血色もよく、普段と変わらない様子であったので考えにくい。この間に人は二人ほど出入りもしていたので、何かあれば気づいたはずだ。

 護衛騎士も同意見だったので、熱中しているか、寝入っているだけかと待った。けれどさすがに心配になってきて、中を伺う為に扉を開いたのだ。

 すると扉のすぐ傍には、殿下が一人で座り込んでいた。いつからいたのか、目に涙をいっぱい溜めている。


「どうされました! 転んでしまわれたのですか? 痛いところはありますか」


 咄嗟に扉を押しのけて駆け寄ると、怪我はないかと全身に目を走らせた。それに対して殿下は小さく首を横に振る。

 不測の事態なので一緒に入ってきた護衛騎士もそれを見て胸を撫で下ろした。無事ならいいのだ。

 安堵の息を吐く自分を、殿下が涙で潤んだ青い瞳で見上げた。唇を戦慄かせ、小さな声を発する。


「ねこ、いなくなって」


 そう訴えると、瞬きをした拍子にぽろりと涙が落ちた。

 一度零れてしまえば、次から次にボロボロと大粒の滴が頬を伝い落ちていく。だが大声で泣くわけではなく、唇を強く引き結んで泣き声を噛み殺す。

 身を縮みこませて、漏れる嗚咽の間に「ねこ……」と訴えてくる姿は悲壮感すら感じられた。


(もしかして、猫を探していたのか!?)


 一緒に部屋を出るように約束させたから、きっとずっと猫を探していたのだ。猫がいないと部屋から出てはいけないと思ったのかもしれない。

 しかし差し込む日が赤く染まるにつれて、不安で堪らなくなくなってしゃがみこんでしまったのだろう。

 殿下を腕に抱え上げて宥める騎士が、「おまえが余計なことを言うからだ」と目線だけで責めてきた。涙で赤く染まった頬と濡れた睫毛が痛々しく目に映って、胸が痛い。


(だってこんな小さな子が、本気で約束を守るつもりだなんて思わないだろ!)


 ましてや皇子。猫がいなくなっても平然とした顔で、放置して出てきてもなんらおかしくはない。人に任せるのが当たり前の立場じゃないか。

 でもこの小さな皇子は、ちゃんと約束を守るつもりだったのだ。

 途中で蹲ってしまったようだけど、必死に探す姿を想像すると胸が軋んだ。


「猫は自分が探しておきますから大丈夫ですよ。実は猫探しが大の得意なのです。安心してお任せください」


 結局この場は、慌ててそう言い聞かせた。猫探しなど得意ではないが、嘘も方便だ。

 殿下は不安そうにしていたが、ずっと気を張って疲労していたのだろう。頷くと、こてんと護衛の肩に頭を預けた。すぐに眠そうな顔になって目を瞑ってしまう。

 護衛の腕に抱えられて後宮に帰っていく殿下を見送り、詰めていた息を深々と吐き出した。


(交代したらすぐに猫を探さないとな)


 図書室の出入りはこの扉しかない。たとえ猫といえど、部屋から出ていくことは出来ない。中二階と地下もある部屋だが、探しきれないほどの広さではないのが幸いだ。

 もう少しで交代時間の夕刻の鐘が鳴るから、勝負はそれからだ。

 そう思い耽っていたせいで、近づいてきた人の気配に気づくのが遅れた。


「――随分と騒がしかったな」


 投げかけられたのは、まだ声変わり前の少年の声だった。

 その声にギクリと心臓が竦んだ。

 この年頃の声の主で、ここに来られる者は一人しかない。


「シークヴァルド殿下……!」


 この国では珍しい白銀色の長髪を後ろで一つに束ねている少年は、冷たく見える淡い灰青色の瞳でこちらを見据えていた。

 成長途中の体と顔だけ見れば、男とも女ともつかないほどの美貌。肌も髪も瞳も全体的に色素が薄く、妖精や精霊の類だと言われたら納得してしまいそうである。

 それぐらい人の温度を感じさせない皇子だ。この年齢で既に安易に近寄れない雰囲気を纏っているから、余計に。

 実のところ、こんなに近くで会うのは初めてだった。その姿を目にするや、反射的に背筋を正して深く頭を下げた。

 アルフェンルート殿下とのやり取りを見られていたのだろうか。

 そう考えると、じわりと嫌な汗が背筋に滲む。

 第一皇子であるシークヴァルド殿下と第二皇子のアルフェンルート殿下の間にある確執は、暗黙の了解として横たわっている。二人が共に同じ時間を過ごすことは、まずありえない。

 今回のような僅かな接触と呼べない接触すら、本来はあってはならないことだ。これまで一度も第一皇子の姿を見たことが無かったから、ここには来ないと油断していたのが悪かった。

 こういう時、自分はどう対応すべきなのだろう。


(このまま何も仰られなかったら、扉を開けばいいだけだ……いや、駄目だ。中にはまだ猫がいる)


 猫を図書室に入れたことは、自分が叱責されて当然のことだ。アルフェンルート殿下の泣きそうな顔に抗えなかった自分が悪い。

 だが、そもそも猫を連れて入りたいと願ったのはアルフェンルート殿下である。後からその件で殿下が糾弾されたりしたら、と考えたら可哀想に思えた。

 自分はどちらかといえば第二皇子派である。そうでなくとも小さな第二皇子の姿をよく見ていたし、これまでにも話したことがあるせいか情は湧いていた。自分の子と同じぐらいの年だと思えば尚更だ。

 自分はどうすればいいだろう。

 いっそ猫が姿を現さなければ、この場を誤魔化せるだろうか。


「アルフェンルートに何かあったのか」


 そんな卑しい打算を見透かしたように、頭上に無情にも問いが投げかけられた。感情の読めない淡々とした声だった。

 第一皇子に問われた以上は、事情を話さないわけにはいかない。

 ぐっと奥歯を噛み締めてから、覚悟を決めて口を開いた。


「申し訳ありません。アルフェンルート殿下が猫を連れて図書室に入れられたのですが、はぐれてしまわれたようです。猫の入室を拒否できなかった自分の甘さが招いた事態です。すぐに捕獲しに参ります」

「……そんなことで泣いていたのか?」


 頭を下げたまま伝えれば、少し呆れたような声が耳に届いた。

 その声には先程と違って、少し人間らしい熱が感じられる。

 思わず驚いて顔を上げてしまえば、まだ自分より背の低い少年が小首を傾げて見上げてきた。


「猫を連れて入ったぐらいで目くじらを立てることではない。外で遊べる子ではないのだから、それぐらいは許してやってほしい」


 そんなことを言い出されたので、息まで飲んでしまった。

 シークヴァルド殿下はアルフェンルート殿下を気遣う表情をしていたわけではなかった。声も先程と変わらず淡々としていた。

 けれど、口にした内容はアルフェンルート殿下を庇うものだ。

 更に、「猫なら私が捕獲しておく」と言い出すものだから驚いた。


「シークヴァルド殿下のお手を煩わせるわけには参りません!」


 第一皇子が、猫を捕獲!?

 しかも、あの異母弟殿下の連れ込んだ猫を!

 いったいどういう風の吹きまわしなのか。目を瞠って動揺する自分の前で、大きな皇子は当然のような顔をして言った。


「下の者の面倒を見るのは、兄の役目だろう」


 全く想像もしていなかった言葉に、絶句して言葉が出なかった。

 動かない自分に痺れを切らしたのか、シークヴァルド殿下は己の手で扉を開けてさっさと図書室に入っていった。

 護衛に付いていた長身の近衛騎士もそれを止めることはなかった。釣り目気味のヘーゼルの瞳を笑ませて「任せておきなさい」と告げると、一緒に扉の向こうへと消えて行く。

 その姿を見送って、この時の自分はひどく呆然としたものだ。

 距離を置いていたのではないのか。

 虐げている立場ではなかったのか。

 自分よりも価値があると思われている異母弟を、厭わしく思っているわけではないのか?

 それらに対して、一介の衛兵である自分などでは答えなど見つけ出せなかった。



 この時、随分経ってから、疲労を滲ませた顔でシークヴァルド殿下は出てきた。

 連れていた近衛の制服の袖はほつれていたし、シークヴァルド殿下の髪も来た時より随分と乱れていた。

 そんなシークヴァルド殿下の両腕に捕獲されている猫は、ひどく不服そうな顔をしていた。それが妙に記憶に残っている。

 図書室の扉を出たところで下ろされた猫は、一目散に後宮に向かって逃げ去っていった。その後ろ姿を見送るシークヴァルド殿下の顔は、呆れの中にやりきった満足さが垣間見えた。


(あの後、結局シークヴァルド殿下が猫を探してくださったとは伝えられなかったんだよな)


 翌日、いつもよりかなりはやくアルフェンルート殿下はやってきた。

 自分の顔を見つけるなり、パッと顔を輝かせて足早に寄ってくる。

 ちなみに問題の猫は性懲りもなく、殿下の足元に纏わりついていた。どうやらちゃんと戻っていたことにほっとしたものだ。


「猫はちゃんと戻られたのですね」

「はい。ありがとう」


 目の前までくると、驚いたことに律儀に礼を言われた。そして両手に持っていたハンカチに包まれたものを「おれい」と言って差し出してくる。

 ぎょっとした。結局、猫を探したのは自分ではなくシークヴァルド殿下だ。自分がそれを受け取るわけにはいかない。


「実は猫は、」


 そう言いかけて、けれど護衛騎士が付いていることを思い出して咄嗟に口を噤んだ。

 アルフェンルート殿下に常に付いている護衛騎士は当然、第二皇子派だ。シークヴァルド殿下の手を借りたことを知れば、良い顔はしないだろう。もし知れば、そんな状況を作ってしまったアルフェンルート殿下が叱られてしまうかもしれない。

 その結果、言葉を濁すしかなかった。


「親切な方が、連れ出してくださったのです」

「だれ?」

「お名前は名乗られませんでした」


 咄嗟に誤魔化した。だが嘘は言っていない。


「せっかくあつめたのに」


 殿下はひどく残念そうに眉尻を下げた。


「そちらは何が入っておられるのですか?」

「やきぐり」

「焼き栗ですか」

「あさ、にわでひろいました」


 たどたどしい説明を整理すると、どうやら後宮の中庭にある栗を拾い、焼き栗にしたようだ。本来は殿下のおやつとして持たされたものではないだろうか。

 さすがに食べ物をシークヴァルド殿下に渡すのは憚られて、仲介することは難しい。

 仕方なく、この時の自分は「今度あの方がお見えになられましたら、御礼をお伝えしておきますね」と言うことしか出来なかった。

 実はそれすら、伝えるのは難しかったわけだが。


(でもそれからも、何度かシークヴァルド殿下は猫を回収していたんだよな)


 シークヴァルド殿下が、それをアルフェンルート殿下に悟らせたことはきっとない。だが当時のシークヴァルド殿下にとって、それがアルフェンルート殿下との最大限の交流だったのだろう。

 そう察していた自分は、何も言えなかった。ただ黙って見守っていただけだ。

 そうして今。


 小さな皇子は、成長して皇女になった。


 この件に関して、今もそうなった経緯を疑っている者はいるようだ。

 自分も当時の彼らの関係性を見ているだけに、説明された内情に首を捻りそうになることはある。

 けれど小さな第二皇子に関わっていた誰もが沈黙している。

 猫騒ぎに巻き込まれていた図書室の扉の衛兵の自分も。

 きっとあのとき早朝から栗拾いを手伝った庭師も。

 焼き栗にしてほしいと強請られた料理人も。

 それを見守っていた侍女や護衛騎士も。

 どこにでもいる子どもと同じように、怒って、泣いて、あどけなく笑っていた。あの頃のアルフェンルート殿下を知っているから。

 その顔から、徐々に感情が抜け落ちていく姿を見てきたから。

 人形のように硬く感情を凍らせていく様を、何もできずに見ていることしか出来なかったから。

 だからまた昔のような感情を取り戻していく皇女の姿を見て、誰もが違和感から目を逸らす。余計なことを漏らすまいと口を噤む。

 しかし自分の場合は黙っているだけではない。

 疑いを持つ誰かに問われた時には、平然と答えるセリフがある。


「シークヴァルド殿下は、それは甲斐甲斐しくアルフェンルート殿下の面倒を見ておられました」


 髪を乱し、時には服の裾やリボンをほつれさせ、疲労を滲ませながら猫を抱えて出てくる姿を思い出す。

 幼い下の子の尻拭いをする様は、ちゃんと『兄』であったと。

 それは決して嘘ではないので、晴れ晴れと嘯いでみせるのだ。



   *


 昔を思い出していた自分の前までやってきたアルフェンルート殿下は、視線が足元の猫に向けられているのにすぐ気づいた。


「この仔はロシアンⅡ世と言います」


 こちらを見て、猫を見て、再びこちらを見て丁寧に紹介してくれる。

 ちなみに猫は、シークヴァルド殿下の言があったので今では図書室への入室も可能となっている。アルフェンルート殿下が大きくなるにつれて猫を連れ込む頻度は減ったものの、どうやら久しぶりに復活したらしい。


「まだ仔猫ですね?」

「兄様の猫が子どもを産んだので、一匹譲り受けたのです」


 そう言って、殿下は足元の猫を見て嬉しそうに口元を綻ばせる。

 彼女が兄と呼ぶのは、当然シークヴァルド殿下お一人だ。今では随分と兄妹仲良くやっているようだ。

 昔の二人の間の距離を知っているだけに、胸の奥があたたかく熱を帯びる。


「とても活発そうですね」

「やんちゃな盛りなので、もしはぐれたら世話を掛けます。外に出る時は鈴をつけているので探しやすいとは思うのですが」


 ちょっと眉尻を下げて言われた言葉には苦笑いをしておいた。

 そんな会話をしてから、殿下は猫を伴って図書室へと入っていった。

 その後、そう間を置かずに今度は廊下の角を曲がって珍しい人物がやってくるのが見える。


「アルフェはこちらに来ているか?」


 そう問いかけてくる主は、先程まで思い出していたシークヴァルド殿下である。

 今では、その問いに躊躇することなく穏やかな笑顔で頷くことが出来る。


「本日は猫も伴われていらっしゃいました」

「……猫もか」


 一応言い添えておくと、シークヴァルド殿下は少し遠い目をしたように見えた。脳裏にはやんちゃな仔猫の姿が過っていそうだ。

 目の前で小さく嘆息を吐かれ、シークヴァルド殿下が伴っていた長身の近衛騎士を振り返った。

 昔と違い、伴っている近衛騎士は変わっている。しかし長身と焦げ茶の髪が、昔見た近衛の姿と重なる。確か親子だけあって、顔立ちはあまり似ていないが雰囲気は似ている気がした。


「だそうだ、クライブ。Ⅱ世を捕まえるのは骨が折れるな」

「僕が捕まえるのですか」

「おまえの猫でもあるのだから当然だろう。捕まえるコツくらいは教えてやる」


 顔を引き攣らせている近衛を横目に、シークヴァルド殿下が開かれた扉から中へと入っていく。

 視界の端にさっそく室内を駆け回っている仔猫が過った気がするが、気づかなかったフリをしてそっと扉を閉めた。

 扉の向こうは平穏でありながら騒がしく、それでいて優しい世界が広がっているのだろう。

 それを脳裏に思い描いて、小さく笑みが溢れた。




2019/11/5 活動報告投稿再録

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