縁の下では
※ニコラス視点
まだ陽が明けたばかりの人の動きの少ない早朝。
清々しい朝日が降り注ぐ中、近衛宿舎を出て訓練場へ向かうために歩いていく。その途中にある渡り廊下を意外な人物が歩いていくのを見つけてしまった。
(こんな朝早くに、こんなところでアルフェ様?)
以前より城内を出歩くことが多くなったとはいっても、彼女が行く場所は限られる。図書室、中庭、訓練広場の横を抜けて医務室、それと時々シークヴァルド殿下の暮らす皇太子宮ぐらいだ。
渡り廊下はそのどこにも繋がっていない。
彼女の数歩後ろを歩くのは時間帯的にラッセルではなかったが、護衛の騎士はちゃんと連れていた。以前のような脱走ではないことにひとまず胸を撫で下ろす。このまま見送っても問題はなさそうだ。
と思ったものの、自分の足はすぐにその後を追いかけていた。
監視しろとは言われていないが、彼女が普段と違う行動をする時は警戒した方がいい。
(アルフェ様が何かしでかしたとき、絶対にあの二人が面倒臭いことになるからな)
脳裏に浮かぶのは、彼女の兄皇子と許嫁の姿だ。
彼女が問題を起こす度に、あの乳兄弟が喧嘩を始めることがある。それを仲裁する羽目になるのは大抵、俺。
あの二人の図体で取っ組み合いをされると引き剥がすのに苦労するのだ。考えただけでうんざりしてしまう。そうなりかねない不安の芽は事前に摘んでおくべきだ。俺の為に。
(アルフェ様もアルフェ様で問題児だしね)
時々常人には考えつかない思考と行動をするので、定期的に様子を見ておかなければならない。
何か問題が起こっていても、話をすれば捩れる前に解決できることは多いのだ。幸いにも俺のひいひい爺様がアルフェ様の同類だからか、彼女の身内枠扱いで気を許されている方だから話は聞きやすい。
しかしそのせいか、以前「クライブは、女装している男の私が好きだったのではないかと思うのです」というとんでも相談をされたこともある。
当人は至極真剣に悩んでいたようだったけど、俺から見ると「どうしてそうなった!?」と絶句しかなかった。
しかもあのときはクライブもタイミング悪く失言をするし、結局なんやかんやで丸く収まったようだけど、婚約破棄なんてことになったらどうしようかと思っていた。折角穏便に纏まった現状をぶち壊しかねないような、あんな胃が痛くなる思いは二度と御免だ。
(皇子だと思ってたはずのアルフェ様に懸想するぐらいのクライブだから、アルフェ様の不安も全く的外れってほどではなかったんだろうけど)
だから一応あの後、念の為にクライブに「女装してる男って好きか?」と訊いてみた。
結果は、眉を顰めて「は?」と聞き返されてしまった。何言ってるんだこいつ、と顔に書いてあった。
そうなるよな。俺だってそう思うよ。
そんなことを思い返している内に、アルフェ様は城内に併設されている王立図書館へと向かっているのだと気づいた。薄々そうだろうと思っていたけれど、納得の場所であることに安堵の息を吐き出す。
図書館が一般に公開されるのは城門が開いてからなので、アルフェ様が本を選ぶには誰もいないこの時間が都合がよいのだろう。
行き先に問題なかったので踵を返そうとしたものの、それでもやはり不安が残った。
この時間はまだ司書すらいないんじゃないだろうか。警備の衛兵は立っているものの、アルフェ様が通っている図書室ほどの万全さはない。護衛は連れているが、普段と違う場所だと勝手も違ってくる。ましてや背の高い書棚で死角だらけとなれば、護衛が一人だけでは心許なく感じられた。
(過保護かもしれないけど、何かあってからじゃ遅いか)
大丈夫だろうが万が一にもアルフェ様に何かあれば、面倒な二人が荒れるのは必至。それぐらいなら、ここでさりげなく護衛して無事を確認できた方が俺の心は平穏でいられる。
そうと決まれば、図書館へと繋がる廊下を渡ろうとしているアルフェ様に向かって歩いていった。
「アルフェ様、こんな朝からお散歩ですか?」
下位の者が高位の者に声を掛けるのはご法度だが、それなりに親しい仲ならば咎められることもない。
案の定、振り返ったアルフェ様は俺の姿を認めてちょっと驚いた顔をしただけだ。微かに笑って「おはよう、ニコラス」と挨拶をしてくれる。
近頃は俺に限らず、少しずつ笑ってくれるようになったことは進歩だとしみじみ思う。
(こうやって笑えば可愛いんだよ)
今までが一貫して澄まし顔だっただけに、時折見せる笑顔に絆される奴らも結構いる。
そうやって、使える武器は使えばいいのだ。当人が武器とわかっていて笑顔を見せているとは思えないけれど。
「ニコラスも朝早くから図書館通いですか?」
「俺は訓練広場に行く途中でアルフェ様を見かけたので、面白がって付いてきただけですね」
厄介な思考をするアルフェ様には、下手に隠すより正直に言った方がいい。
するとアルフェ様はちょっと苦笑いをした。自分のこれまでの行動を顧みて、監視されても仕方ないとわかっている顔だった。
しかし気分を害するどころか、「暇を持て余しているニコラスには仕事をあげましょう。本探しを手伝ってください」と言って、一緒に付いていてもおかしくない理由までくれた。
こういうところがアルフェ様らしい。クライブはこういうところも堪らなく好きなんだそうだ。以前、酔っぱらわせた時に零していた。
しかし、あいつの惚気を思い出すと今でも胸やけしそう。すぐに記憶に蓋をして現実へと立ち戻る。
連れてきた護衛は入口の警備を任せ、アルフェ様に付いて図書室に入る。いつもは賑わっている場所だが、今は人気がないので別世界に見えた。本の詰まった背の高い書棚だけが立ち並ぶ様は圧巻と言える。紙とインクの匂いに包まれ、天井近くに設置されている小さな窓から差し込む光が舞う埃をキラキラと輝かせていた。
「ところで何の本を探せばいいんです?」
図書室と違い、図書館はちゃんと分類表が掲げられているのでさほど困らない。平民にも公開されているから大衆が読める本が多いとはいえ、専門書が主だ。
もしアルフェ様が娯楽を主とした大衆小説的な本を望まれているのなら、そういったものはほぼ無い。せいぜい時事問題が載っている週間、月間情報誌がそれに当たる。
以前シークヴァルド殿下に買ってきたような本は求めているのなら、がっかりすることになるだろう。
興味深く周りを見渡すアルフェ様の望むものがあればいいと思いながら問いかければ、迷うことなく目的のものを告げられた。
「かまどの本です」
「かまど料理の本ですか?」
言われた言葉が一瞬理解できなくて聞き返した。
自分で聞き返しておいてなんだけど、かまど料理の本ってなんだ。料理は大抵かまどを使って作られるだろう。
「いえ、かまどの構造がわかる本です」
訂正されたけど、更に理解できなくなった。一体なぜ。皇女がかまどの構造を知ってどうするんだ。かまど職人でも目指したいのか。
そんな内心の動揺が隠しきれなかったせいか、アルフェ様が少し恥ずかしそうに目線を泳がせた。
「実は、オムレツを作りたいのです」
「それなら卵料理の本を探されるべきじゃないですか?」
それ以前に、オムレツは料理人に作ってもらうんじゃ駄目なんです? なんでかまどの構造を知りたがっちゃうんです? かまどから造る気なんです?
「作り方は覚えているのです。問題は火力です。火力の制御さえできれば、もう卵を炭にはしません。完璧なオムレツを作ってみせます。私の唯一誇れる手料理……になる予定です」
予定かぁ……。
拳を握って力強く言われたけど、アルフェ様は手料理が作れなくても問題ないと思うんだけどな。
この方、王都でどうやって過ごしてきたんだろう。かまどの勉強から始めるぐらい、心奪われるほど美味しいオムレツにでも遭遇したんだろうか。どんなオムレツだよ。
やっぱり時折この方はよくわからない。
クライブはこの方のどこがよかったんだろうな?
すぐに、クライブなら「かまどの勉強から始めるなんて、真面目なところが好きです」と言いかねないと思ってしまった。
あいつ、アルフェ様ならもうなんでも可愛いと思っていそうだもんな……。
「上手に作れたら、ぜひ食べてもらいたいと思って」
半ば現実逃避をしかけていた俺の前で、アルフェ様が微かに笑んで噛み締めるようにそう言った。
誰に食べさせたいのかは、言わずもがなってやつだろう。
それにしても、そう言った時のアルフェ様の表情は何かを懐かしんでいるようにも見えた。静かな声と眼差しは不思議と大人びて見えて、ここにはない光景に想いを馳せているかのよう。
そんなに美味しいオムレツに出会ったのか……。その手で再現したいと思う気持ちはわからなくもないような、いや、やっぱり俺にはわからない。とはいえ、ここで水を差すのは無粋に思えた。
だがオムレツを上手く作るのに、かまどまで深く知る必要はないと思う。
「かまどを本で覚えるより、料理人から直に調理のコツを習った方が早いですよ」
「私に教えるとなると慄かれてしまいそうで、言い出しにくいのです」
「アルフェ様お得意の変装をしていけばいいじゃないですか。侍女姿なら無碍にされませんって」
「その手がありました」
名案だと言わんばかりにアルフェ様が目を瞬かせた。
これで納得してくれたようで良かった。本当に良かった。
悪知恵を吹き込んでしまったようで胸は痛むが、かまど造りをされるよりマシなはず。最悪の事態だけは事前に食い止めることが出来た俺を、後で殿下は褒めたたえるべき。
(厨房に乗り込みそうなことは、後で殿下に話を通しておかないと)
妹に甘いあの人のことだから、裏で手を回していいように取り計らうだろう。
こうやって、アルフェ様の生活は守られていたりする。
そんな俺らの苦労を知ってか知らずか、アルフェ様は「上手に作れるようになったら、ニコラスにも御馳走します」と言ってくれた。
引き攣りそうになる顔を堪えて、「お気持ちだけで十分です」とやんわり断っておくことは忘れない。
アルフェ様の手料理を食べて、嫉妬に狂ったクライブに睨まれたくないですし。殿下に羨まれて、後でどんな嫌味を言われるかわからないですから。
*
アルフェ様に付き合っていたので、今日の鍛錬をする時間はなくなってしまった。
これ以上は朝食を取る時間が無くなるので急いで宿舎に戻って食堂に飛び込む。そこではようやく起きたらしいクライブも朝食を取っているところだった。
受け取ったトレーを手にクライブの前の席を陣取ると、まだちょっと寝惚け眼のクライブがゆっくりと顔を上げる。
こっちは朝からアルフェ様のフォローをしてきたというのに、呑気なもんだ。
「珍しく遅かったですね」
「ちょっと野暮用で」
アルフェ様と朝から図書館に行っていた、なんて言おうものならクライブに根掘り葉掘り聞かれるのは目に見えている。うるさくて仕方がないので、黙っておくに限る。
これまで色恋には興味ありませんって感じだった奴が、恋に落ちるとここまで変貌するなんてな。
(こいつも変わったよなぁ)
初めて会った時はいつだって作り笑いをみせるから、なんてふてぶてしくてムカつくガキだろうと思っていた。
けれど今は以前と比べて、もっぱらアルフェ様の前でだが外でも素の表情を見せることが多くなった。
それを成長と呼ぶのか、腐抜けたと言うのかは、人によって違うだろう。
(俺としては、可愛げが出てきたと思うんだけどね)
こいつもこの年齢の割に嫌なものも結構見てきているから、歪んでいる部分もある。そんなクライブが呑気に恋愛にかまけていられる姿を見ると少しほっとする。
殿下とクライブが12の時から面倒を見てきているので、これでも一応、弟分のように思ってはいるのだ。
アルフェ様とクライブの組み合わせは時折面倒事も引き起こすけど、そんな彼らのフォローも実のところそれほど苦ではない。末っ子だった俺は、今更だけど兄貴面が味わえて楽しかったりもする。
(まぁ、クライブにそんなこと言ったら「こんな兄はいりません」って真顔で言うだろうけど)
クライブはこっちの気も知らずに黙々とオムレツを口に運んでいる。寝起きでまだ味覚がはっきりしていないせいもあるかもしれないが、別段美味しそうに食べているようにも見えない。
「なぁクライブ、オムレツって好きか?」
「好きでも嫌いでもありません」
クライブは素直に答えたものの、それが一体なんだと言いたげに僅かに眉を顰めた。
「予言してやるよ。おまえはいつか、毎朝食べたいぐらいオムレツが大好物になる」
「はぁ?」
何言ってんだこいつ、と言いたげな顔をされてしまった。
この予言が無事に実現されるように、きっとこれからも俺はさりげなくあの二人のフォローに回ることになるんだろう。
どう考えても貧乏くじを引いた感があるものの、案外このポジションは嫌ではないしね。
2019/09/15 活動報告投稿文再録