05 選択肢
目の前に現れた人に名乗られても、頭がついていかなかった。
この人がランス子爵夫人? つまり、元皇女殿下!?
(どう見ても、皇子様って言われた方が理解できるんですけど!?)
思わず上から下まで視線を走らせてしまう。
明るい長い金髪は襟足で一つに纏められていて、アーモンド型の深い青い瞳と左右対称に整った顔は性別が読み取りにくい。きっと表情がなければ、よく出来たお人形のよう。
だからなのか、今のように貴公子然とした男性の格好をされたら、完全に少年にしか見えない。
思わず胸の膨らみも確認してしまったけど、大変失礼ながら平坦……
いえ、非常になだらかでいらっしゃるような気もする。
言われてみれば男性にしては線は細く、身長も私と同じくらい。だけど成長途中の、青年に足を踏み入れる前の少年らしい体だと思えば違和感はない。15歳の頃に一度、デビュタントで王城に上がった時に見た貴族子息の中にはこんな子も見かけた。
都会の男の子って、なよやかそうな人が多いのね。
なんて思ったものだ。たぶんあの中に混じっていてもわからない。
おかげで正直、女性だと言われても冗談でしょ? と思えてしまう。
だって、さっき手に挨拶された時の動作はあまりにも自然だった。絵本の中の皇子様にでも遭遇したかの如く、ドキッとしてしまったぐらいなのに!
絶句して挨拶を返せない私を見て、ランス子爵夫人を名乗った人は更に眉尻を下げた。
「非常事態故のことでしたが、イースデイル辺境伯令嬢を大変驚かせてしまったようで申し訳なく思います」
そこまで言われて、ようやく我に返った。
この場にいる誰もこの方を咎めないということは、冗談ではなく本当に本物なのだ。
慌ててカーテシーをして居住まいを正す。
「こちらこそ、動揺してこのような醜態を失礼致しました。イースデイル辺境伯が第二子、レイチェル・イースデイルと申します。父より事前にご事情は伺っておりましたが、すぐに対応できず恥じるばかりです」
「この姿でわかっていただく方が難しいことですから、お気になさらないでください。不安な状況の中、イースデイル辺境伯の大切なお嬢様の手をお借りできたお気遣い、心より感謝致します」
どんな方なんだろうと思っていたけれど、ランス子爵夫人はどこまでも丁寧だ。
顔を上げれば柔らかく微笑む瞳と目が合う。そんな表情をされると人形っぽさが消える。皇子様っぽさが加算されて、なんだか直視していると照れてしまいそう。
私、もしかしてセインやランス子爵夫人の顔立ちが好きなのかも。いかにも貴公子な感じで普段周りにはいないタイプなので、どうしたらいいかわからなくて胸がソワソワしてしまう。
中身は女性だとわかっているんだけど!
「ところで、レイチェル嬢はイースデイル辺境伯からどこまで伺っておられるのでしょう?」
「私のことは、どうぞお気軽にレイと呼んでください。父からは、アーチボルト領に不祥事があり、それにハミルトン子爵も少なからず関わっていないとは限らないと聞いております。私は万一に備え、ランス子爵夫人の護衛として参りました」
「護衛……ですか」
困惑した表情をされて、慌てて言い直す。
「失礼いたしました。友人のような気安い存在として、道中のランス子爵夫人のお心をお守りできたら、と思っております」
慣れない言葉遣いに気を使うあまり、父に猫を被れと言われたことを忘れていた。うっかり事実を告げてしまった。
目の前の人が少年に見える割に、眉尻を下げて微笑まれると守ってあげたくなる雰囲気を醸し出すからいけない。
だが女の、しかも辺境伯令嬢に護衛を申し出られても困ってしまったのだろう。ランス子爵夫人の目が私の後ろ、セインに向けられた。
それまで黙って見守っていたセインが、視線に応えて口を開く。
「レイは裏表のない人間だ。見た目ではわからないが、かなり腕も立つ。イースデイル辺境伯もよく考えられた上でレイを寄越してると見ていい。俺は、信頼できる人間だと思ってる」
これには心臓が大きくドキリとさせられた。
まさか、そんな風に信頼を寄せられる立場になれていたなんて。ちょっとどころではない驚きだ。
対するランス子爵夫人は、セインの言葉に「そう」と頷いた。
「わかった。それなら信頼します」
「そんな簡単に!?」
あまりにもあっさり言われてしまった。周りの護衛が止めるより早く、自分の口が驚きの声を上げていた。
だって、まだ会って数分ですけど!? 自分で言うのもなんだけど、信頼されることなんて何一つもしてませんけど!
焦る私を見て、ランス子爵夫人が微笑む。
「セインが信頼できると言うのなら、私は信じます」
告げる声に迷いはなかった。気負いもなかった。ただ当たり前のことを言ったと、まるで息をするような自然さがあった。
セインは小さく溜息をついただけで、苦言を呈することもない。それが二人の間の『普通のこと』なのだとわかる。
「セインは、ランス子爵夫人とどのような御関係なのですか?」
純粋な疑問だった。
二人の間に入れない悔しさを覚えるよりも、立場が違いすぎるはずなのに似ていることや、二人の気安い態度から謎ばかりが膨れ上がっていく。意味がわからなすぎて、嫉妬が湧く隙もない。
ランス子爵夫人は驚いたのかちょっと目を瞠った後、セインに視線で答えていいかを問う。
セインは私をチラリと見て、ただ面倒そうな顔をした。しかし「隠してるわけじゃない」と言って頷く。
ランス子爵夫人も頷くと、まずは「長くなりそうですから」と私にソファを勧めた。促されるまま座る。セインは一人分空けて、私の隣。
というか、すっかりランス子爵夫人に言われるままに座ったけど、ここはセインの部屋では?
すっかり主導権がランス子爵夫人に握られている。
すごい。これが、元皇女の貫禄!
ランス子爵夫人も向かいに座った。護衛二人は慣れた様子でその斜め後ろに控える。
「セインは、私の元侍従です。今は平民という身分ですが、元々は亡きエインズワース公爵の庶子でした。私から見ると、家系図上は叔父になります」
「叔父……!?」
思わず復唱してしまった。
そういえばセインは、ランス子爵夫人を主人兼弟みたいなもので、姪だと言っていた。
つまりあれは例えではなく、本当に姪だったってこと!?
その前に庶子とはいえ、エインズワース公爵家は妃殿下の正家で、王家に次ぐ力のある家じゃなかった?
(確か、当主と嫡子が食中毒で同時にお亡くなりになって。継ぐ人がいなかったから、元々王家から発生した家だから王家に吸収されてなくなったはず)
つい二年ほど前の話だった。セインは当時まだ成人前で庶子だから継げなかったのか。道理で貴族慣れしていたはずよ。
だけど今は平民だなんて……誰か引き取る人がいてもよさそうだったのに。
衝撃の事実を知ってしまった。
気遣ってセインを横目に見てみたけど、当のセインは無表情だ。否、面倒そうな顔をしている。渋々と言わんばかりに口を開いた。
「そういえば言ってなかったけど、今は平民じゃない。騎士爵を持ってる」
「えっ。いつの間に!?」
驚きの声をあげたのはランス子爵夫人だった。
「成人迎えたすぐ、シークヴァルド殿下から必要になる時もあるだろうからって。半ば無理やりに」
「そういうことは報告くらいしてほしい。祝えなかったじゃない」
「祝ってほしいことではないしな」
なぜか姪であるランス子爵夫人まで叙爵を知らなかったらしい。セインの発言に絶句して責めているが、セインはやはり面倒そうな顔のままだ。
……もしかしたら家を継げなかったのではなく、継がなかっただけじゃないかと思えてくる。それぐらい、本人からは嫌そうなのが伝わってくる。
「俺のことは今はいいだろ。それより何がどうしてアルが直に単身で乗り込んできたのか。そっちを説明してくれ。ランス卿はどうした」
セインの話し方は素っ気無いどころか無礼。とても元侍従とは思えない。
だがランス子爵夫人は気にした様子は全くなかった。
どうやら二人は主人と侍従である前に、叔父と姪としての関係の方が強いのかもしれない。年齢は、セインが一つ上なだけのはずだけど。
しかし今はそんなことより、言われてみればランス子爵の所在が気になった。
(そうよ、ランス子爵夫人の旦那様は!?)
ランス子爵夫人がいきなり目の前に現れたことで動揺していたから失念していた。
一緒に連れている護衛の誰かではなかったの? あっ、でもそれだとハミルトン子爵が気づかないわけがないわね。
だいたいいくら男装してるとはいえ、ハミルトン子爵が皇女の顔を判別できていなかったのもどういうことなの。
「そうだね。話すと長くなるのだけど……」
ランス子爵夫人は躊躇いがちに口を開いた。
視線がなぜか私に向けられる。
「まずは、レイチェル嬢。お言葉に甘えて、レイと呼ばせていただきますね。私のことも、アルと気軽に呼んでください。話し方も楽にしていただいて構いません。それでまず先に、貴女にお伝えしたいことがあります」
顔に微笑みはなく、真剣な眼差しが私へと注がれる。
感情のない顔に、場の緩んでいた空気が張り詰めた気がした。
「私は貴女を信用しますが、これからの話は貴女には聞かない権利があります。このまま何も聞かずに部屋に戻る、という選択も可能です」
「は、はい」
「ただ一つ確認させていただきたいのですが。もしご不快な記憶でしたら大変失礼ですが、半年前に婚約解消なされた相手は平民の方で、同じ領で文官をされていらしたと」
「えっ……と、はい。そうですが……」
なぜいきなり過去の私の婚約解消話を持ち出されたのか。ただの興味本位には見えなかった。
「お辛い想いを思い出させてしまったなら、申し訳ありません」
「いえ、あんな優柔不断な浮気男なら結婚しなくて正解でした。結婚する前に縁が切れてよかったです!」
眉尻を下げた気遣わしげな態度にむず痒くなってきて、ついはっきりと本音を零してしまった。言い過ぎたくらい。
ランス子爵夫人……アルは目を瞬かせた後、少しだけ笑った。嫌な笑い方ではなく、私の振り切り具合に安心したかのように。
「お心に迷いがないならば良かったです。重ねて不躾な問いで恐縮ですが、この先のご結婚も、お姉様ご夫婦を支えていかれる立場を選ばれるご予定ですか?」
「え……ええ」
そのつもりだ。
父が今度こそ政略結婚を考える可能性もないわけではないけど、私は大好きで大切なイースデイルの為に生きたい。
そう決めていた。
だけど。
ふと、隣に座る人のことを考えて心が一瞬揺らめいた。
よくフラリと姿を消すセイン。先程この国の皇太子であるシークヴァルド殿下の名前が出てきたこともあり、そんな立場の人と関われるくらいのセインなら、いつかイースデイル領を出て帰ってこなくなる日も来るんじゃ……。
そんなことに、今更気づいてしまった。
今は当たり前に見れる顔を、見られなくなる日が来るとしたら。
私は。
躊躇いを感じ取ったのか、アルは優しい声で話を続ける。
「イースデイル辺境伯は、きっと貴女がこの先もお姉様を支えていく立場になるからこそ、今回こちらに遣わされたのだと思うのです。貴女がイースデイル領に尽くしていかれる方なら、今回の話は今後の為にも知っておいた方が良いと判断されたものと推測します」
そう言われて弾かれたように顔を上げた。
あの父が、そんなことまで考えていただろうか? そういえばセインも、父は考えた上で私を寄越したと言っていた。
……買い被りすぎじゃないかしら。
それとも本当に、私には近すぎて見えていないだけで、この二人には父の心情が見えているのかしら。
困惑を隠し切れずにいる私を、アルが真っ直ぐに見つめる。
「ですが、大事なのは貴女の気持ちです。貴女はどうされたいですか?」
「私が、どうしたいか……?」
「ここから先は聞いて楽しい話ではありません。本来なら、御令嬢の耳には入れたくない話です。聞かなくとも誰も責めません。むしろ、個人的には退席を推奨します。聞いてしまえば、貴女に危険が及ばないとも限りません」
心臓が緊張でバクバクと脈打つ。アルの声はどこまでも優しい。耳を塞いで、目を閉じて、起こっていることを知らないままでもいいと甘く囁く。
でも。
(セインは、そちら側の人なんでしょう?)
私より一つ年下の女の子であるアルも、貴族の責務として向き合っていることなんでしょう?
ならば、私は?
(私は昔、騎士になりたかった)
それはなぜ? 何を守りたかった? 誰の役に立ちたかった?
姉を支えたいと思った気持ちの大元は、大好きな街を、そこに住む人達を守ること。
私の大切な場所で、大事な人達が安心して生活を続けていくこと。
「聞かせてください」
顔を上げて告げる。
選べるというならば、私は守られるより守る側の人間になりたい。
アルは細く息を吐き出すと、ちょっと苦く笑って「わかりました」と頷いた。




