01 出会いは最悪
※新婚旅行編…ヒロインは違います。辺境伯令嬢レイチェル視点。
出会いは最悪だった。
私にとっても、なによりきっと、彼にとっても。
私が生まれた時から暮らしている海に面した辺境の街、イースデイル領。
大きな貿易港を有するこの街は、かつては隣国との戦禍に巻き込まれた経験を持つ。しかし今は見る影もなく復興し、様々な国を繋ぐ玄関口として機能している。
海の男たちが多いせいか少々気性が荒い者も多く、喧嘩沙汰も多々ある。だが陽気で気の良い人たちが、元気よく生活している賑やかな街だ。潮を孕んだ風が心地よく肌を撫でていく。
そんな土地を治めるイースデイル辺境伯家の次女として生まれた私、レイチェル・イースデイル。
めでたく16歳を迎えた三ヶ月前、父の部下でもある馴染みの男性と婚約した。
結婚後は領主となる姉夫婦を支えながら、昨日も今日も明日も、ここで平穏な生活を守るために暮らしていくのだろう。
……と、思っていたのに。
「すまない、レイチェル。君との婚約を解消させてほしい」
苦悩に満ちた顔をした婚約者ダリルに、そう告げられるまでは。
「ダリル、それって、どういうことなの……?」
美しい夕暮れに染まりかけた空の下。今日も元気に剣の鍛錬を終えての帰り際に呼び止められて話しかけられた内容は、青天の霹靂と言っても良かった。
思わずポカンと間抜けツラをしてしまった私は、悪くないと思う。
ダリルは四歳年上で、荒くれ者が多いこの街の中では穏やかな気質の文官である。お転婆な私には真逆でちょうど良いだろう、と父が決めた相手だ。
優しそうだし、ちょっと頼りなく見えるけど、仕事は真面目にコツコツされる方だと聞いていた。この人が私の伴侶になるのかと、少し心が浮ついて落ち着かなかったのはつい三ヶ月前のこと。
そう、たった三ヶ月前。
そんな相手が今、苦悩に満ちた顔をして私の目の前にいる。
その表情になりたいのは、いきなり婚約解消を言い出されたこちらの方じゃない!?
「本当にすまない。領主様に勧めていただいた婚約だったし、僕も、こんな気持ちになるとは思っていなかったんだ。ただ君を見る度に、やはりどうしても僕は君に釣り合わないと思ってしまうんだ」
悲壮感すら漂わせてダリルが肩を落とす。四歳年上とは思えない頼りなさを醸し出す。
だけど、そんなことを言われても私も困ってしまう。
確かに、私は美人だと言われる方だ。立場も次女とはいえ辺境伯家の第二子である。
癖は強いけど、オレンジ寄りの黄金色の髪に海色の瞳。目元はきつく吊り上がり気味だからか、よく猫のようだと喩えられる。趣味は剣術で、体を動かすのが大好きだ。幼い頃から祖父に戦争の話を聞いていたからか、この国に女騎士が認められるなら騎士になりたいと思っていたくらいである。
はっきり言えば、お転婆だ。
対してダリルはイースデイル領で働く文官で、裕福な家の出身とはいえ、彼の祖父が男爵だが本人は平民。私の父は「出来ればこの街に残って姉を支えたい」と言っていた私の意志も汲んでくれて、相手の爵位には拘らず人柄重視で選んでくれた。顔立ちは柔和で物腰も優しく、おっとりした青年だ。
私とはまったく違う性質の彼に戸惑いもあったけど、お転婆な私には真逆くらいでちょうど良いだろうと父がすすめてくれた人だ。
私はそんなものなのかな、と思っていたわけだけど……
ダリルは違ったらしい。
「婚約すれば君も落ち着いていくかと思っていたけれど、変わる様子はないし……いや、それが悪いわけじゃないんだ。レイチェルが元気に剣を振るう姿は輝いて見えるよ。ただ、僕はそんな君が心配になってしまうんだ。できれば、剣を握らない生活を望んでしまう」
つまりダリルは、婚約すれば少しは大人しくなると思っていた私がまったく変わる様子を見せないので、途方に暮れてしまったようだ。
彼の性格を考えればわからなくもない。ダリルには、私のお守りは荷が重すぎたのだろう。
これは、ダリルがそんなことを気にしていると考えなかった私が悪い。これでもちゃんと将来を考えた相手だ。歩み寄りを見せるべきかもしれない。
「つまり、私が大人しく過ごせばいいということ?」
「そんなことは望んでない。今の君は輝いているし、辞めさせるなんて勿体ない。それに僕の希望を押し付けたら、君に不自由な思いをさせてしまうだろう?」
眉尻を下げてダリルが言う。
確かに、趣味の剣術を取り上げられたらショックは大きい。私もずっといつまでも今のように生きられないとは思っていたけれど、完全に切り捨てろと言われるのは抵抗がある。
しかし婚約までした立場ならば、どうしても続けたいなら、せめてダリルの目の届かない場所でこっそりするくらいの配慮をすべきだった。
これからは世間の目を考えた場所で密かに続ける形で、どうにか……。
そう考えている前で、ダリルが視線を地面に落とす。
「それに、とても言いづらいんだけど……他に、好きな人ができてしまったんだ」
そこまで聞いて、今まで考えていたことが一瞬で吹っ飛んでいった。
ちょっと待ちなさいよ。
そっちが婚約解消の一番の理由なんじゃないの!?
絶句した私の前で、ダリルが申し訳なさそうに肩を縮こませる。しかしすぐに柔らかそうなクリーム色の髪を揺らし、ヘイゼルの瞳は意を決して私を見つめた。
「彼女はよく行く食堂で働いている子で、僕が婚約したと聞いて、実はずっと好きだったと告白してくれたんだ。いつも細やかなことに気づく控えめな笑顔が可愛い人で、言われて初めて僕も彼女を好きになっていたことに気づいたんだ。……今頃気づくなんて、僕は本当に間が抜けていて馬鹿だと思うよ」
こちらが罵倒するより先に打ちひしがれた顔で自虐されると、怒りよりも呆気に取られてしまった。
おかげで唖然としたまま、何も言葉が出てこない。
「ごめん、レイチェル。君を傷つけたいわけじゃなかったんだ。でもこんな気持ちを抱いたままじゃ、君と結婚しても僕は君を幸せにしてあげられない」
勢いよく、深々と頭を下げられる。
「お互いのためにも、婚約を解消させてほしい」
馬鹿正直に言われて、思わず遠い目になった。
まあ……ダリルは悪い人では、ないのだ。
相手の女性に対して、婚約者がいる男に告白するなんてどういうつもりなんだ、と思わなくもない。だけど、自分の気持ちに区切りをつけるために告白したかった、というのなら気持ちはわかる。
相手も、まさかダリルが婚約を解消してまで彼女を選ぶとは思わなかったんじゃないだろうか……。
と、自分に言い聞かせていないと怒りたくなってくる。
(でも私も、好かれる努力なんてしていなかったわ)
なんとなく今のままの自分でいいと思い込んでいた。
婚約してから数回デートをしたけど、好みがまったく違うことにダリルが困惑していると気づいていたのに。
ゆったり本でも読みながら木陰で過ごしたい彼と、色々な物を見て回ったりしてはしゃぎたい私とでは、確かに噛み合っていなかった。
それでもそのうち彼も私に慣れてくれるだろうと思っていた。この先の二人の在り方を、深く考えもしなかったのだ。
まだ婚約して三ヶ月。手を繋いだだけで、キスすらしていない清い仲。友達とすら言えないくらい、趣味も好みも合わない私たちだった。
なにより、婚約したことに浮かれる気持ちはあっても、私はまだ彼を好きになったわけでもなかった。
ダリルと浮気相手の気持ちを押しのけてまで、叶えたい結婚ではなかった。
(まだ早いうちに正直に言ってくれただけよかった、と思うべきかしら)
父が聞いたら頭を抱えそうだ。
だけど私にも、きっと問題はあった。もちろんそれは時間をかければ改善できたかもしれない。でも今はもうそんな努力する気力は湧かない。
モヤモヤする気持ちはあれど、縋りつくほどの情熱もなかった。ただ肩透かしを食らったような、なんとも言えない複雑な心境だ。
「そこまで言うなら、わかったわ。お父様には私から話しておく。ただダリルの気持ちが変わったせいだということだけは、きっちり伝えさせてもらうから」
足に力を入れて、なんとか気を張って言うべきことは告げた。
せめてもの、ダリルの有責で婚約解消という名目にしてもらわないと私も立場がない。
好きになったわけでもない男に捨てられた。というのも複雑だけど、この先ダリルと結婚してもうまくいかないのは今回のことでよくわかった。
だいたい、浮気する人間は何度でもするというし。まあ、浮気云々以前で気持ちが足踏みしていた私たちだけど。
相手の女性も、婚約早々に婚約者を捨てるような、優柔不断で薄情な男でいいの?とも思うけど。
とにかく、この人と結婚しなくてよかった。
そうやって自分に言い聞かせていないと、やっていられない。
私の諦めに対し、ダリルは弾かれたように顔を上げる。
「もちろん、全面的に僕が悪い。領主様にはちゃんと僕からも謝りに行くよ」
そう言うと、ダリルはもう一度深く頭を下げた。
……悪い人では、ないのだ。
元々、領主からの縁談を彼から断るのは難しかったはずだと考えれば、彼も被害者と言える。
だから憎めない。ダリルもこの先の自分の立場が悪くなることも覚悟の上で、彼なりに考え抜いた末での結論なら私も頷くしかない。
お互いのために白紙に戻すのは賢明な判断だ。きっと。
「話がそれだけなら、もういいかしら。ちょっと疲れたわ。引っ叩きたくなる前に立ち去ってくれると嬉しいのだけど」
下げられたままの頭を見て、深々と嘆息が唇から漏れる。
頭では冷静に判断できたけど、気持ちがついていかない。怒るよりもモヤモヤ感と疲労が激しい。剣術の鍛錬後の心地よい疲労は、いつしか心労による疲労にすり替わっていた。
ダリルは本当に申し訳なさそうに眉尻を下げて、「ごめん。殴りたくなったら、いつでも言ってくれ」と告げて立ち去っていった。
本当に、悪い人ではなかったんだけどなぁ……。
ひとり残されて、またも深いため息が溢れる。自然と頭も項垂れてしまう。
(別に、好き、なんかじゃなかったわ)
だけど、嫌いでもなかった。
いつか隣を歩いていく人なのだと、今から好きになろうとしていた人だった。
「最悪……っ」
気持ちがいきなり放り出された形になって、行き場のない感情が宙ぶらりんのまま。
好きではなかったけど、自分が選ばれなかった悔しさがじわじわ湧き上がってくる。顔も今更ながらに怒りなのか、これまで空回っていた恥ずかしさなのか、熱を帯びていく。
ダリルが早々に立ち去ってくれてよかった。目の前にいたら、やはり殴ってしまっていたかもしれない。
ぐっと奥歯を噛み締める。目頭が熱いけど泣きたいわけじゃない。もし泣くとしたら悔し涙だ。
(だって、好きでもない男に振られる形になったのよ。これがムカつかないでいられる!?)
そう、これはムカついているのよ。
ダリルからは断りづらいとわかっていながら、彼を選んだ父すら憎らしくなってくる。
(そうよ。お父様だって悪いわ)
そもそも父が「お転婆娘ははやく嫁いだ方が落ち着くかもしれない」なんて言って、自分の子育ての失敗をダリルに投げ出そうとしたわけだから。
これは、だいたい父が悪いんじゃない!?
「ぶん殴ってやりたいわ……っ」
ぐっと拳を握りしめて、勢いよく顔を上げる。その勢いのままクルリと踵を返した。殴らないまでも、八つ当たりで文句は言いたい。
その時。
視線の先の回廊に佇んでいた青年と目が合った。
「げっ」
思わず喉の奥から自分のものらしからぬ呻き声が漏れた。
(まさか、今のダリルとの会話を聞かれていたわけじゃないわよね!?)
屋敷内とはいえ、砦も兼ねているのでここにはいろんな立場の人が行き交う。まさか婚約解消の話だとは思ってなかったから、ダリルと話すために少し回廊から外れた人気のない中庭で話していたのだ。話し始めてすぐに場所をうつさなかった自分が悪い。
もし彼がたまたま通りかかった人なら、内容が内容だけに気配を殺して立ち竦むしかなかったことも理解はできる。
相手は青年というか、まだ少年というべきか。
つい最近、王都からイースデイル領に異動してきた老医師が連れていた助手だったと思う。騎士ではなかったはずだが、軍医の助手だからか腰に剣を下げている。
自分と同じくらいの年頃の黒髪の男は、私と目が合ってちょっと唇を引き結んだ。アーモンド型の深い青い瞳がするりと逸される。
それがまるで、まずいところに居合わせてしまった、と言わんばかり。何も聞かなかった、と態度で示された。
だけど、このまま行かせるわけにはいかない!
「待って! 今の話、聞いてた!?」
早々に立ち去ろうとした男を呼び止める。
「聞いてません」
「嘘でしょ!? いかにも話を聞いてた人の態度じゃないの!」
即座に聞かなかったことにしてくれたけど、信じられるわけがない。
これまで話したことはない相手だったから、彼の口が硬いか軽いかもわからないのだ。
咄嗟に前に立ち塞がって進行を遮る。すると僅かに迷惑そうに目を細められた。そして諦めたのか小さく嘆息が吐き出される。
「いちいち言いふらしたりはしません」
「あなたがどんな人かもわからないのに、信用できないわ」
「言いふらす利点が俺にはまったくありません。むしろ辺境伯令嬢の醜聞をおもしろおかしく話したりしたら、人間性を疑われて信用を失くす」
「それは……そうかもしれないけど」
彼の言う通りだ。
異動してきたばかりの老医師は昔、この地で戦争をしていた時に活躍していた人だと聞いた。祖父の友人でもある。厳しい人だと聞いていたから、そんな人の助手なら口は堅そう。
実際、目の前の彼は巻き込まれたことを面倒に感じているのがわかる。話さないとわかったのなら、はやく解放してくれと目で訴えられる。
……。ちょっと、冷たすぎない?
こちらは婚約解消を申し出られたかわいそうな娘だというのに、もっと親身になるとか、気の毒そうな顔をするとか! 憐れみの目を向けられても腹立たしいけど!
でも、その態度はあんまりじゃない!?
「私のこと、気の毒だと思わないの?」
「あんな男なら、結婚しなくて済んでよかったと思います」
八つ当たりで恨みがましく見上げた相手は、真顔でそう言って退けた。
あまりにも正論をはっきり言われたので、ぽかんと間抜けな顔で見つめてしまった。
それは、そうね。うん。やっぱり私の考えは間違ってなかった。
冷静に思う反面、自分で思う以上に婚約解消に動揺していたのだと思う。なんだか変なテンションになってしまっていて、気づいた時には目の前の相手におかしな申し出をしていた。
「ねえ。傷心な私に、ちょっと胸を貸してちょうだい」
泣きたかったわけじゃない。
むしろ、そうよね。なんで私が傷つかなきゃならないのよ。という苛立ちの方が凌駕していた。
迷惑そうに眉根を寄せられたけど、たぶん、素っ気ない態度に反して彼は世話焼き体質だったのだろう。渋々だが「少しなら」と頷いた。
泣かれると、思わせたかもしれない。
しかし私は彼を伴ってもう一度鍛錬場に戻ると、彼を相手に力いっぱい剣を振り回したのだった。
木剣を手渡された時の彼の顔が絶句に変わった瞬間は、ちょっと面白かった。
ちなみに彼は細身な身体に似合わず予想より遥かに強かった。最後の方は楽しんでしまったのは良い思い出だ。
彼は終始、迷惑そうにしていたけど。
これが私レイチェルと、王都からやってきた同じ年の青年セインとの出会いだ。
お互いにとって……なによりセインにとっては、最悪の出会いだったでしょうね。悪かったと今では思っているわ。
ここから、私とセインの付き合いは始まったのだ。




