菓子職人の話
※前半部分/菓子職人ロビン視点
昼下がりの後宮の厨房。昼食が終わり、人の出入りが落ち着いた頃がアルフェンルート殿下専任の菓子職人である自分の仕事の時間だ。勿論、早くから仕込みが必要な場合は別だが。
近頃はアルフェンルート殿下からの依頼を前に、始める前から頭を悩ませている。出来上がったものを見ても首を傾げたくなる。
(コレで合ってるのかっ!?)
依頼された際に描かれたメモと、試作を重ねた菓子を見て眉間に皺を寄せる。
周りにも聞いて回りたいが、毒混入を警戒して菓子製作は基本的に一人か二人でやっている。今は一人だ。
腸詰を棒で突き刺し、小麦粉で厚い衣を被せて狐色に揚げた、ふっくらとした楕円形の物体。
仕上げに指示通りマスタードをかけてはみたが、見た目はとても殿下に差し上げる菓子とは思えない。
だいたい菓子ではなく軽食の部類ではないだろうか。いや、殿下に頼まれる物が菓子ではないのは今に始まったことではなかった。
常々、殿下に渡されるメモはいつも正解がわからないのである。
菓子の完成予想図と味、食感、それと多分使用するであろう曖昧な材料が記載されている。わかりやすいように調理法が図解されている時もある。
だが、肝心な材料の分量は全く記載されていない。
メモを持ってくる殿下付きの侍女からは「頼みましたと仰られておいでです」という重いお言葉のみ。
時には扱ったこともない材料付きで、こちらに丸投げである。無茶振りもいいところだ。
(最初は嫌がらせかと思ったよな……)
この職場に勤めて、今でちょうど五年目。元々は旧エインズワース領で叔父が経営する有名菓子店に勤めていた。小さい頃から従兄弟と共に下積みをしてきたから、職歴は長い方だ。
一度だけアルフェンルート殿下が彼の地を訪れた際、菓子を献上したのが切っ掛けで21歳の時に大抜擢され、殿下専任の菓子職人として王宮に上がった。
殿下は食が細く、少しでも食べられる物が増えるようにと願った、前エインズワース公爵の配慮だったと聞いている。
殿下にお会いしたのは、ここに任じられた時に挨拶した一度きり。
『よろしく頼みます』
ただ一言、直に言われた子供の声だけを覚えている。
専任の菓子職人とはいえ、王族に直に会うことは稀。畏れ多くてまじまじと姿を拝むことなど出来なかった。見上げたのは一瞬だけ。深い青い瞳が印象的だった。
それから五年。
殿下の菓子を作る一員としてやってきた。菓子を店に並べて多くの人を笑顔にできなくなってしまったのは残念に思うが、尊い身に菓子を作る栄誉に誇りは抱いていた。
ましてや食の細い殿下が美味しく食べてくださるなら、と思えば頑張り甲斐もあった。
ただ、去年くらいからだろうか。
殿下は異国の菓子を再現することに嵌られたようだ。時折、未知の菓子がメモで寄越されるようになった。
伝統的な菓子は別の職人が担当しており、一風変わったものを作るのが自分の役割だったので、それは自然と俺の元に来た。
はっきり言って、どれも見たことがない奇妙な物ばかり。
じゃがいもを極限まで薄くスライスして、油に浸して揚げろと言われたり。
見たことのない赤い豆を甘く煮詰めろと言われて、謎のドロッとした黒い塊が出来上がったり。
その豆を煮出した赤い汁を、甘くして飲みたいと言い出されたり。
きゅうりを塩揉みして、ごま油と和えてほしいという、酒のつまみ的なものを所望されたこともあった。
それと、城下で手に入れた奇怪な海の生き物の干物を、今後役に立つ日が来るかもしれないとお裾分けされたこともある。
嫌がらせかと思ったが、完成すれば殿下は「とても美味しい」「素晴らしい出来」等、侍女伝に惜しげもなく褒め言葉をくれる。春に恋人となった殿下付きの侍女であるノーラが殿下の喜びを語ってくれるので、けして世辞ではないようだ。
更には、特別報酬までくださる。
おかげで俺の部屋には、平民には使い道がない宝石がいくつもあって保管に困ってる。泥棒に入られたら怖い。けれど殿下から拝領したものを売るわけにもいかないし……。
それはともかく。
嫌がらせではなく、ただの好奇心からの依頼なのだとわかれば、こちらも応えたいと思うものだ。
怪しい依頼は多いが、菓子職人としての意地もある。信頼されてのことだと思えば、俄然やる気も湧いた。殿下からの挑戦と受け止めて、近頃では無理難題が来るたびに闘志を燃やしたものだ。
しかし、しかしである。
今回は特に正解がわからない。
食べてみたが、もっさり感が強い。高貴な方が食べる物とは言い難い。
ノーラにも探りを入れてみたものの、
「ごめんなさい、ロビン。私も殿下がお求めの味まではわからなくて……ただ、ずっと楽しみになさっていらっしゃるみたい」
と言われて、嫌な汗が滲んだ。
職人としては、喜んでいただきたいので中途半端な物は出せない。だが殿下のメモを参考にすると、出来上がるのはコレだ。
殿下が召し上がるに値するだろうか。どちらかと言えば、働き盛りの者が軽食に食べるのに適していそうな。やんちゃ盛りの子どもが喜びそうな……殿下も子どもといえば子どもだが、普通の子どもとは違う。
悶々とする。やはり今日も別の物を作るか。もう少し改良して、もっと自信がついてから……
「邪魔をしてもかまいませんか」
考えに耽っていた自分の背に、不意に声がかけられた。
慌てて振り向けば、そこには普段は見かけない若い金髪の侍女の姿があった。
咄嗟に袖口とエプロンのラインを確認すれば、三本入り。アルフェンルート殿下付きの侍女のようだ。だが菓子の受け取りにしては、いつもよりかなり早い。
近頃は担当になっていたノーラでないことに、今は落胆より緊張が走る。立場的には貴族令嬢である侍女の方が上なので、急いで頭を下げた。
「もちろんかまいません。どういったご用件でしたか」
「頼んだ物の試作段階で悩んでいると聞きました。完成されているように見受けられますが、頂いてかまいませんか?」
問われて顔を上げる。侍女の深い青い瞳は試作品に向けられていた。
その目元がちょっと笑んでいる気がする。
ということは、コレで正解なのか?
しかし待ってほしい。やはりまだこれで完成と言える自信はない。
「こちらはまだ試作中でして……アルフェンルート殿下にお渡しできる段階にありません」
「何が足りないのでしょう?」
「それはまだ……試行錯誤しています」
残念そうに眉尻を下げられて、こちらも眉尻を下げる。
なにせ、正解がわからないのだ。もっと美味しくなるのが正しいのではないかと迷走している最中。
「では、食べて確認してみましょう。何が足りないかわかるかもしれません。一口大に切ってもらえますか」
「試食されるんですか!?」
と思っていたら、侍女はとんでもないことを言い出した。思わず聞き返せば、何か問題でも?と言わんばかりに首を傾げられる。毒味の問題もあるが、コレはそれ以前だ。
「見た目は問題ないので、後は味の問題でしょう?」
「ですが、失敗してるかもしれません!」
いくら侍女とはいえ、試食なんて頼んでいいものか。相手は貴族令嬢だ。上品なものばかり食べていそうな相手の口に合うとは思えない。
だが相手は引かなかった。
「新たなことに挑戦するときに失敗は付きものです。失敗しても、諦めずに挑戦することが大切です」
侍女は凛とした態度で、アーモンド型の深い青い瞳がまっすぐに俺を見つめる。
一瞬、その瞳をどこかで見た既視感に襲われた。
「……と、料理長に言われました。先日、私が作った少なくない失敗作のオムレツも、後で失敗作の見本として皆が進んで食べてくれたと聞いています。今回こそ私も協力すべきでしょう」
続けられた言葉に、以前にもこの侍女の姿を見ていたことを思い出した。
そういえば先日、料理長にオムレツを習っていた侍女に違いない。貴族令嬢の気まぐれで、好きな男に手作りする料理の指南を受けているのかと呆れたものだが……あの時の侍女か。
確か彼女が作った焦げついたオムレツは、昔からいる料理人達と一部の侍女の間で取り合いだったはずだ。なぜ?と思った覚えがある。
ほんとになんでだ? 貴族令嬢の手料理に焦がれる若い男が群がるならわかるんだけど。
それは今は置いておこう。
そこまで言っていただけるなら、試食をお願いしようじゃないか。殿下の侍女直々の評価は正直ありがたい。
「それでは、お願いします」
棒を引き抜き、食べやすいように一口大に切って出す。
フォークを差し出すより早く、侍女は待ちきれないとばかりに指先で一切れ取り上げる。パクリと口に頬張った。
貴族令嬢のはずだが、相当な食いしん坊なのだろうか。
無意識に息を呑んで見守ってしまう。無言で咀嚼して飲み込む姿まで見届けると、侍女は口元を綻ばせた。
「この、もっさり感……」
しかし、口にされたのは懸念していた食感。
「やっぱりダメでしたかっ」
「問題ありません。外側のカリッと揚げられた食感も素晴らしいです。出来れば生地はもう少しやさしい甘さがあると好ましいですが、総じて完璧です」
もう少し甘く、と指摘を頭に叩き込む。
「ありがとう、ロビン。貴方の努力に感謝します」
そのとき、不意に名前を呼ばれて驚いた。
名乗っただろうか。名乗ってないよな。
菓子職人は俺だけではない。ましてや、見慣れない侍女に名前を知られているとは思わなかった。お礼を言われることも想定していなかった。
動揺して固まっていたら、侍女が癖のない金の髪をサラリと揺らして小首を傾げる。
「私が言ったことは難しい注文でしたか?」
「いえ、そうではなくて。名前を覚えていただけているとは思ってなかったので」
殿下付きの侍女は生粋の貴族令嬢だ。男爵令嬢のノーラと恋人にはなれたが、王宮料理人とはいえ平民の自分とは本来ならそこまで交わらない立場である。
ただでさえ、今まで関わりのなかった侍女。この対応に驚くのも無理はないだろう。
と思っていたら、侍女が眉尻を下げた。
「直に会ったのは一度とはいえ、自分の菓子職人の顔と名前は覚えています」
「え?」
「日頃から我儘を言って、こうして世話になっているのですから」
え?
今度は声なく、疑問が吐息となって零れた。
それってつまり……えっ!?
「今日こうして来たのは、試作状況が気になっていたのもありますが、あなたに話があって来たのです」
現実を受け止めきれずにいる自分の前で、侍女……というより、なぜか侍女姿の主が話し出す。
そう、アルフェンルート殿下が。
「年が明けて春になれば、私がランス伯爵家に嫁ぐことは既に承知のことと思います。その時に、出来ればあなたについて来てほしいのです」
やっと脳内で目の前の人物が誰か気づけたばかりなのに。心の準備もなく、大事な話を切り出されて息を呑んだ。
かつて一度だけ見た青い瞳は、あの日と同じようにまっすぐ自分を見つめる。
「王宮の菓子職人でいた方が名誉なことでしょうから、無理強いはしません。残りたいならば陛下に話を通しておきます。あなたの腕ならば兄様も欲しがることでしょう」
淡々と自分に不利なことも曝け出して、それでも。
「ただ、もしもロビンが私について来てくれたならば、私の食生活はとても楽しいものになります」
俺が欲しいのだと。この方の人生に必要とされているのだと。真摯に語ってくれる。
その言葉に、心を揺さぶられない者がいるだろうか。
今まで殿下の為に菓子を作って来た時間と、無理難題を寄越されて頭を抱えても、充実していたと思える記憶が脳裏に過っては消えずに溢れていく。
きっとついていけば、また無理難題が降ってくるだろう。
それはきっととても大変で、また胃が痛くなるようなこともあって、だけど面白い日々になることも想像出来てしまう。
「あなたの人生ですから、遠慮はいりません。まだ時間はあるので、ノーラと二人でよく考えてみてください」
「ノーラと、ですか」
「共に将来を考える仲だと聞いていましたが」
「えっ、あ……はい、俺はそのつもりで、います。あの、まだプロポーズの返事待ち、ですが」
不意打ちで恋人の名前を出されて、照れて狼狽えてしまった。
ノーラが自分のことを殿下に語っていたのは驚きだ。しかも、ちょっとどころでなく期待しても良さそうな手応えなんじゃないのか!?
「それならば、ちょうどよかったです」
アルフェンルート殿下はエプロンのポケットから小さな小箱を出した。
「これは今回の褒賞です。よく頑張ってくれました。調理法はまた後から纏めていただけると嬉しいです」
「承りました。ですが、アルフェンルート殿下……大変心苦しいのですが、ひとつだけ、お聞き遂げいただきたいことがございます」
料理人にとって料理の調理方法は財産だ。だが、アルフェンルート殿下に依頼された場合は公開する。原案は殿下であるし、褒賞で俺の年収を軽く超える価値のある宝石を寄越されたりするから、むしろ貰いすぎなのだ。受け取る度に震えが走る。
今回もきっと、差し出されている小箱の中身は宝石だろう。これ以上はもう、受け取ったら後が困る。
「聞きましょう」
「褒賞を頂けることは大変有難いです。ですが、俺には身に余る光栄すぎて、こうして頂いても使えずにしまい込むばかりで申し訳ないのです」
やっと言えた!!! 毎回どうしようかと途方に暮れていたのだ。
すると殿下は不思議そうな顔をした。
「売れば良いのでは?」
「殿下から拝領したものを売るなんてとんでもありませんッ!」
咄嗟に反論してしまった。殿下は、「なるほど……?」と言いつつ意外そうに首を捻る。
本当に売っても構わないと思っていたのがありありと伝わってくる。王族から授けられたものは名誉の証だ。売れるわけないというのにッ。
「手持ちが宝石しかなかったからなのですが、配慮に欠けていたようです。今度からはちゃんとお金に換金してから渡しましょう」
うん、と頷くと殿下は朗らかに約束してくれた。
いや、そういうことではなく……!
しかも、差し出された手は引っ込められることはなかった。
「ですが、こちらはこのまま渡しておきましょう。たぶん使い道はあると思いますから」
「?」
殿下は悪戯っ子のように目を三日月型にする。有無を言わさず小箱を俺に手渡した。
「ロビン、これはあなたの頑張りで勝ち得たものです。私にとって、あなたの働きはそれほどの価値があるものでした」
歌うように上機嫌で告げられる。
「それではこの菓子は来週にでも、二十人分ほど用意をお願いします」
殿下は最後に無茶振りをしてから帰っていかれた。
……侍女の姿をしていても、やはりこういうところは紛れもなくアルフェンルート殿下だった。
後からノーラに殿下がいきなり現れたこと、侍女姿だった理由も聞いてみた。
どうやら厨房に入るなら、汚しても良い服の方が良いだろうという判断だったらしい。俺を驚かすつもりはなかったようだ。
なんて紛らわしいッ。
ちなみに、厨房の古株達はそんな殿下のたまの出入りをよく知っていたそうだ。幼い頃は猫のおやつを求めてよく来ていたこともあり、後宮の厨房において殿下の来訪はさほど珍しくもないことだと。
彼ら彼女らは、立派に成長された殿下を喜んで見守っているようだが……
そういう大事なことは先に言っておいてくれよっ!
ところで、頂いた小箱の中身だが。
プロポーズを受け入れてくれたノーラの指に、彼女によく似合う淡い色合いに輝く石が、婚約の証として嵌まっているのだった。
***
先日頼んでいた菓子が完成したと聞いたので、待ちきれずに厨房まで赴いて籠に詰めてもらった。その足で、後宮の庭を抜けて訓練広場へと向かう。
夕方一歩前の日差しは強くて不快になりかける時期だが、私の足取りはいつもより軽い。
(アメリカンドッグが再現できたなんて!)
誰も見ていなければ小躍りをしていた。
残念ながら今は護衛のラッセルと、籠を持ってくれている侍女のノーラがいるから、そんな真似はできないけれど。
(さすが、ロビン。いい仕事をしてくれました)
しかもつい先ほど、嫁ぎ先に一緒について来てくれる約束までしてくれた!
これは喜ばずにいられない。
駄目で元々のお誘いだったのに。プロポーズを受けたノーラが、それでも私について来てくれると言ったせいもあるかもしれない。ノーラ、グッジョブ。
努力家で好奇心もあり、挫けない彼がいれば念願のコンビニのホットスナックコーナーを再現する夢も叶いそう。
今は手が届かない、故郷の味。
……コンビニが故郷の味というのもどうかと思うけど。でも馴染み深い味を再現できそうで嬉しい。
目的地に着くとすぐにクライブの姿を探した。向こうもすぐに私に気づいてくれるので、じっと視線で訴えれば足早に来てくれる。
「ご機嫌ですね」
開口一番に見透かされると恥ずかしい。表情は変えていないつもりだったのに、なぜわかるのか。歩き方? そんなちょっとの差で!?
「後で話します」
澄ました顔で取り繕い、まずは周囲を見渡す。私の視線を感じたのか、訓練していた者たちも困惑気味に手を止めた。
「皆に少し手を休めてもらっても良いですか? 差し入れがあります」
訓練広場を見渡し、だいたい十組二十人程が集まっているのを確認して頼んでみた。
現在、広場にいた近衛騎士はラッセルとクライブを含む四名。それ以外は、主に平民である内と外の衛兵が時間帯をずらしつつ鍛錬に励んでいる。
差し入れ、と聞いた彼らの表情が明るくなっていく。
「皆の分もあるのですか?」
「試食をしてもらいたいのです。忌憚ない意見を期待しています。ノーラ、頼みます」
「お配りして参ります」
ひとつはクライブに渡す。残りはノーラが集まってきた人達に配り歩いていく。
試食した彼らには、感想と幾らなら買って食べたいを聞いてもらう予定だ。貴族と平民が入り混じっているから、調査をするには都合が良い。
ランス領は観光名所でもあるから、将来的に名物として売り出してもいいかと思っている。手に持って食べやすいし。
(油をかなり使うから、原価が思ったより高くなるのが難点)
観光地なら、ちょっと高くても買ってもらえる。でも、できれば皆に手軽に食べてほしい気持ちもある。とりあえず今日の調査結果次第だ。
食べた人たちの感想はノーラが聞いて回ってくれている。見た感じ、若手には概ね好感触。クライブも私の隣で齧り付いて満足そうだ。
「お菓子にしては腹持ちが良さそうですね。マスタードがきいているので、甘いものが苦手な方にも受け入れやすそうです」
「兄様も好まれるでしょうか」
「そうですね。城下でも出回れば人気が出るんじゃないでしょうか」
頷かれたので、兄には後でレシピを横流ししてさしあげよう。
「それで、ご機嫌なのは菓子が完成したからですか?」
「それもありますが、先程ロビンが私の嫁ぎ先までついて来てくれると言ってくれたからです」
早々に食べ終えたクライブが尋ねてくるので、上機嫌な理由を答える。声が弾んでしまったかもしれない。
対してクライブは怪訝な顔をしつつ、「ロビンというと、アルト様専任の菓子職人でしたか」と聞いてくる。
「そうです。これを作ってくれた料理人です。受け取る時に返事を頂けました」
「直にお話しされたんですか?」
「はい。顔を合わせたので、ちょうど良かったです」
頷けば、クライブが意外そうな表情をする。
「以前から思っていましたが、アルト様は後宮の使用人達との距離が近いですよね」
「少し話すぐらいは普通では?」
「普通は直に厨房まで出向きません」
苦い顔で言われてしまった。けれど言われてみれば、そうかも。
例えば兄や父が厨房まで出向く姿を考えてみたけど、まったく想像できない。料理人と直に話す姿も違和感がある。
ただ私は昔から後宮から出ない生活をしていたから、後宮内を出歩くのは散歩みたいなものだった。あんな場所までは両親も来ないし。遊びの一種というか。
それに幼い頃から、乳母のメアリーもそんな私を止めることもなかった。
(むしろ……)
乳母には、後宮に勤める者には「なるべく丁寧に接してあげてくださいませ」と言われていた。
彼ら、彼女たちがいるからこそ、私の生活は支えられており、心地よく過ごせるのだから、と。
美味しい食事を食べさせてくれる料理人。
庭で綺麗な花を咲かせ、詰める実を育む庭師。
安心して後宮の中を歩き回れるよう、守ってくれる護衛。
清潔な皺のない服や、洗い立てのベッドシーツを用意する下女。
生活環境に細々と気を回してくれる侍女。
何度も言い聞かされてきたから、自然と使用人には丁寧に接するようにした。そうすると、相手も優しくしてくれる。そして後宮内で彼らに接する私を、メアリーが咎めたことはない。
反面、貴族には近づくなと釘を刺された。けして心を許すなと。
(今から考えると、メアリーの言っていることは矛盾してる)
後宮内では人に丁寧に。だけど外に出たら突き放せ。
おかげで私は未だに安易に近づいてくる貴族には塩対応。だいたい碌なことじゃないと肌で感じるせいもあるけれど、無意識に一線を引く。
そう育てられたからこれが普通だと思って来たけど、メアリーの教育方針に違和感がある。
だいたい、皇子が使用人に気安くする必要はあまりないんじゃないだろうか。
むしろ、推奨されないのでは?
それにバレたら即処刑されておかしくない私だからこそ、憐れみから甘やかされて、傲慢で高慢に育ってもおかしくなかった。
だけどメアリーはそうしなかった。
あえて、私をこうやって育てたのは。周りからは憎まれないよう、私に情を抱くように仕向けたのならば。
(いざという時に、あの人たちに私の味方になってもらうため?)
もしもの時に頼りになるのは、すぐそばにいる人たちだ。いざという時がもしも来てしまったら、少しでも周りに助けられて、見逃されて、生き延びる道を残そうとしてくれていたんだと。
今になって、わかる。
(そこまで計算していたのなら、改めてすごい人だよね)
今更ながらに思い至った事実に驚かされる。
柔らかな印象とは裏腹に芯が強く、それでいて時に柳のようにしなやかで強かだった乳母。娘のメリッサにも通じるところがある。さすが親子。
ただこれが、計画的に作られた善意だとしても。私が私の周りを大切に思うのは、私自身から生まれた気持ちだ。
せっかく培ってきた関係も、このスタンスも変えたくない。
だから。
「裏方の仕事をしてくれている人がいるからこそ、私は快適に過ごせているわけですから。たまに話を聞くと勉強になりますし」
本心から思ったことを口に乗せる。
「いけませんか?」
クライブを見上げれば、ちょっと困ったように微笑まれた。
「いいえ。アルト様がそうしたいと仰るなら。ただ……ちょっとずるいな、と」
ずるい?
理解できなくて、唖然と見上げてしまう。クライブは一瞬バツが悪そうな顔をしたけど、「正確には」と向き直って言い直す。
「昔からアルト様にそんな風に接してもらっていたなんて、羨ましいと言うべきでした」
「はあ……」
言われた言葉がすぐに理解できなくて、思わず気の抜けた声が漏れてしまった。まじまじと見つめていると、じんわりとクライブの耳が赤く染まっていく。
私の頭も時間をかけて言われた言葉を噛み砕いて、ようやく理解した。喉から頬へと熱くなっていくのがわかる。
えっと、つまり、嫉妬した……ってこと?
「念のために言っておきますが、ロビンはノーラの婚約者です。そういう気持ちは互いに一切ありません」
「それはわかっています!」
クライブが慌てて頷く。そうだよね。
だいたい、ロビンの方から私なんてお断りだと思う。ナイスバディーで穏やかな気質のノーラを好きになる人だからね。
それでも不安になる気持ちはわかる。私もクライブが侍女や令嬢にキャーキャー言われていると、少々面白くないと感じる時はあった。悔しいから教えてあげないけど。
代わりに。
「それに生憎と、今の私の手はクライブだけでいっぱいになるので」
手を伸ばして、クライブの指先を掌に包み込んだ。今は人目があるので、これだけだけど。
後で二人きりになったら、証明するために両手で抱きしめてあげよう。……大木にしがみつくコアラみたいになりそうだけど。
クライブは息を呑んだ後、
「アルト様の殺し文句には負けます」
と、ちょっと照れ臭さを隠した顔でぼやいて。
私の手を握り返した。
2022/05/21更新…本編500万PVありがとうございました!