眠らない姫との攻防
※メル爺視点の昔の話
(この歳になって、子どもの面倒を見る日が来るとは……)
仕事を終えてから、毎夜アルフェンルート様の部屋を訪れる。
これが日課になったのは、乳母のメアリーに「なかなか眠っていただけないのです」とか相談されたのが始まりだ。
併せて「アルフェンルート様はお話をされるのが苦手なようです」とも言われており、言葉の勉強も兼ねて寝る前に読み聞かせを始めることとなった。
今では寝る前にアルフェンルート様を膝に抱き上げてソファーに座り、本を読み聞かせるのが自分の役目だ。
今夜もゆっくりとした口調で読み聞かせながらページを捲る。
最初は興味を示して前屈みだったアルフェンルート様だが、今は丸い小さな頭は私の胸に預けられている。そろそろ眠気がやってきてくれたようだ。
読み聞かせる合間に、思わず安堵の息が混じる。
今夜はなかなか手こずった。ちなみにこの本、今夜だけで5回目の朗読である。
読み終えた途端、小さな手がページを捲って最初のページに戻されてしまうのだ。あとは気に入ったページ。もう勇者と姫が何度結婚式を挙げたかわからない。そろそろ二人をゆっくりさせてあげましょうぞ。
そんな爺の気持ちも知らず、「よんで」とねだる天使のように甘い声が、悪魔の呻きに思えた。
子どもの気力と体力は、想像を遥かに超えていた。
たかが本読みとはいえ、子ども向けの本を何度も読むのは苦行と言っていい。だが別の本に替えたら、興奮して余計に目が覚めてしまう。これはすでに経験済みだ。だから同じ本を納得するまで読むのだが、こちらの心が挫けそうになることが多々ある。
メアリーから寝かしつけを請け負った時は、ここまで大変だと思っていなかった。
恥ずかしながら、これまで子どもの面倒は見たことがなかったのだ。息子達に医術と剣術と護身術は私が教えたが、それ以外の世話はすべて妻と乳母任せ。
そのせいで、ここまで大変だとは思っていなかった。今は、たかが寝かしつけ、と思っていた過去の自分を殴りたい。
以前に恥を忍んで、なんとか早く眠ってもらえないか、と妻に助言を請うたりもした。
『殊更ゆっくりとした口調で読まれるとよろしいですわ。膝の上に乗せて、体温を伝えると安心して眠りやすくなられるでしょう』
これらは妻から教えてもらった技だ。
三割ほど眠る率が高くなった時には、心から妻に感謝したものだ。
この経験のおかげで、近頃は妻にこれまでの感謝の気持ちが絶えない。今更だが、労いに花や菓子を買って帰るようにしている。
寝かしつけで帰りも遅くなるからか、妻には他に女がいるのかと疑われたが……
確かに女ではあるが、相手は幼い皇女殿下である。とんだ誤解だ。
苦い気持ちを腹に沈めたところで、胸に預けられていた頭がゆらりと揺らぐ。金の細い髪がさらさらと揺れ、どうやら完全に寝落ちたようだ。
だが、油断はできない。
これは罠だ。すぐに読み聞かせをやめたら、必ず目を覚ますだろう。これまでにも何度か私はやらかしてきた。
かわりに読み聞かせる声量は少しずつ下げていく。ページを捲る音も気をつかって最小限に。
もう数ページ読み進めてから、アルフェンルート様の顔を覗き込んだ。
(眠った……!)
寝顔は天使だ。瞼の奥、金の睫毛に縁取られた青い瞳は綺麗に隠されている。
大きく安堵の息を吐くところだった。慌てて止めて、最新の注意を払って本を置く。
揺らさぬよう、そっと抱き上げた。
眠ると一気に重みを増したように感じる体。まだまだ軽いとはいえ、歳を重ねた身の腰には負担が来そうだ。だが、こんなことで腰をやられているわけにはいかない。この先、更に重くなるのだからしっかり鍛えねば。
自分を鼓舞しながら、そうっと、そうっと。揺らさないように。
事前に開けておいた寝室の扉を抜け、広いベッドにゆっくりと小さな体を下ろす。
これで布団を掛けてやって、天蓋の幕を下ろしたら私の役目は終わり。毎夜、祝杯をあげたいと思う瞬間だ。
鼻歌を歌い出したい気分でタッセルを外す。今夜も苦労したが達成感はすごい。
どれほど面倒だと感じても、最後にすやすやと眠る愛らしい顔を見れば微笑ましい気持ちになれる。
ほら、今夜も青い瞳がぱっちりと開い、て……る、だと!?
「メルじぃ。つづき」
伸びてきたあたたかい手に、きゅっと指を掴まれた。
けして解けない強さではない。だがしかし、爺にはとても振り解けそうにありませぬ。
だから今夜ももう少し、姫にお付き合いするのです。
2022/05/21更新




