第五章 「明日、もしも、来未(きみ)が壊れても」 6
「でもまだこれからアル。奥の手使うネ」
アゴヒゲを摘まんでニタリと笑うチン。
「もう勝負はついたのではなくて?」
オヤジは逸らしていた顔を戻すと、とぼけた顔をチンに向けた。
「何を言っているアルか? 本来のワシは格闘家ではないアルよ」
「どういうことです? チン先生は潔く負けを認めたんじゃないの?」
「さっきまでは力でねじ伏せる戦い方だったネ。殴り合いでは今のワシは、アナタには敵わないの認めるネ。だけど、誰もワシのこと、伝説の格闘家とは言っていないアルよ」
「チン先生は、伝説の――暗殺者」
「こんな風に姿を晒して拳をぶつけ合うなんて久しぶりネ。楽しませてもらったよ。じゃが、仕事は仕事。きっちりやり遂げるアル」
そう言うとチンは、掌底の握りを止め、手のひらをピンと張った手刀の構えをになる。指先に力が込められているが見て取れる。
「それでリーチ差を何とか出来る……とは思ってはないわよね」
そんな単純なことしか思いつかない間抜けなら、伝説になるなんて不可能だろう。さっきまでの戦法からガラリと変えてくるはずだ。オヤジもそれを理解しているのか心なしか表情が硬くなっている。
今度のチンは両足で開いて、片足をオヤジへと向けている。それで間合いを測っているのか、すり足でジリジリとにじり寄っていく。手の形が違うが、どこかカマキリのような蟷螂拳を彷彿させる型だ。
さっきまでの猪突猛進とは違い、なかなか攻撃を仕掛けて来ないチン。
チンは何もしていないのに、オヤジの呼吸音が乱れていく。俺には分からないが、対峙しているだけでも相当のプレッシャーを感じているのだろう。
夜風がオヤジの前髪を揺らす。頬を静かに汗が伝う。ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込む。アゴ先から汗が落ちた。
とうとうしびれを切らしたのかオヤジが動いた。
けん制で、チンの突き出した足を踏みつける。身を引いてかわすチンに、オヤジはもう一歩踏み出して渾身のパンチを繰り出した。
と、チンは拳が当たらないスレスレの距離までさらに後退し、
「足元がお留守ネ」
オヤジの膝を踏み台にして、飛び上がり延髄蹴りを放った。
「なんの!」とオヤジも鋭い蹴りを腕で首回りをガードした。
「いい攻撃ですね。だけど、そこまで攻撃速度が変わってないわ。十分対応可能ですよ」
「いいや。アナタもう食らったネ」
そう言うと、オヤジの二の腕を指し示す。
見ると、ライダースーツの二の腕部分が1センチほど切り裂かれている。
「いつの間に?」
チンは蹴りを防がれた後、手刀を放っていた。オヤジからは腕で首をガードしていたから、死角になっていて見えなかったのだろう。
ライダースーツの穴から見える傷口が紫色に変色している。
それを見てオヤジは傷口に吸い付いて、吸った血を吐き出す。
「もう手遅れアル。少量でもワシの毒手は効果抜群」
言うが早いか、左腕がだらりと垂れ下がる。
「腕に力が入らないわ。これが、チン先生の奥の手……。油断したわ……」
「油断ない。ワシの奥の手を知らなければ、避けようないアル。ここまで慎重になるのも久しぶりよ」
だから、誇ってもいいとチンはオヤジを称えた。