漆
死者の庭と呼ばれる、花園に白花姫を残し(そんな言われ方をしているのなら、人は滅多に近寄らないだろうと思い)、朝廷へ戻る。
もう、辺りは真っ暗になっていた。
瞳の効力なのか、夜目はきくため、真っ暗で明かりが無くとも、辺りはうっすらと見える。
夜は好きだ。
特に、今夜の十三夜月は美しかった。
もやもやした気持ちのまま、家路に着く気分にはなれない。
朝廷の五芒庵で仮眠をとって、朝一番に、薬殿に行き、薬司長と面会し話しを聞くこうと思った。
ゆっくりと、朝廷までの道を一人歩く。
流石に、こんな夜道を歩く者はいない。
白花姫の思い人は誰なのだろう?
赤土の君。
聞いたことのない名前だった。
もちろん、僧侶と呼ばれる人物はピンキリなので、知らない名前のものもいるだろう。
これは、文殿にも行って、僧侶の名簿なるものがあれば、確認する必要があるなと考えていると、
「朱鷺殿」
背後から聞き覚えのある声がし、振り返る。
「銀様? 驚きました。こんなところで、どうしたのですか?」
「いや、それより浅葱卿から君に伝言があってここに来た」
それは今まで見せたことのない様な神妙な表情。
「もし、例の薬司のことを今でも調べているのなら、すぐに手を引いてほしい」
「?!」
「これは、浅葱卿からの直接の言葉であると理解してもらって構わない」
「でも、今日、丹色の宮様から継続すべきだと指示を受けたばかり。そう簡単に、はいそうですか、とは」
銀は薄っすらと目を細める。
「まあ、どちらにしろ、俺は俺の上司である浅葱卿からの伝言をアンタに伝えたまで。俺の仕事はこれで終わり。こっからはアンタ自身の判断だ」
「わかりました。あの、報告書見ました。ありがとうございます。花織峠で幽鬼が九条の姫であると確認しています」
「ほぉ」
「あと、浅葱卿にお伝えいただきたいのですが、彼女は薬司に手をかけていません」
「断言できるだけの理由があるのか?」
「朝廷全体に結界があるため、幽鬼は中に侵入することがまず不可能です」
「そうか」
銀は少し考える素振りを見せたが、すぐに踵を返し、「あと、白花姫についてもいわくつきらしいから、十分に気をつける様に」
と、言った。
「いわく?」
その言葉は夜風と木々のざわめきにかき消された。
銀の姿はもう、見えなかった。
朝一番に文殿を訪れる。
紫苑が倒れていた庭をひょいっと、覗いてみる。
死人が倒れていたような痕跡は一切見られず、いつも通りだ。
彼女に関わっていた全てが消えてなくなってしまうような気がして、それはなんだか空しく感じる。
気を取り直し、文殿の入り口に立つも、扉は固く閉ざされていた。黒飛の姿も周囲には見当たらない。ダメもとで、引いたり押したり、動かそうと力をこめてみるも、全く動く気配がない。
「アンタ、そこ、今日は開かないよ。回覧が来ていなかったかい? って、陰陽官だもんな」
通りがかった年配の文官の男性が残念そうな表情で、そう声をかけてくれたから、良かった。
「ありがとうございます」
開かないものは仕方がない。私はそのまま、薬殿へ急ぎ足で向かった。
「おはようございます。お忙しい中すみません」
そう言って、薬殿の中に入ると、つんと立ち込める薬草の臭い。
「何か御用ですか?」
受付の女性は、頭から頭巾の様なものをすっぽりとかぶり、マスクのようなもので顔を覆っていた。顔から眼だけがぎょろりとこちらを覗いている。
「はい。薬司長様に面会を」
「お約束はされていましたか?」
「いえ。先日、亡くなった薬司について、少しお話しを伺いたく」
「わかりました。確認して参りますので、少しお待ちを」
女性は、立ち上がり、奥へと消えた。
一人になって辺りを見渡す。数日前に、薬をもらいにこの場所を訪れた。
その時は紫苑が直接対応してくれたのだ。
はにかんだ笑顔に、真面目に薬を調合する姿。
今もそこに……。
「お会いになられるそうです。こちらへ」
物思いに耽っていると、先ほどの女性が戻ってきて、私を奥へ促がした。
中に続く廊下を先導され、歩いていく。
扉がいくつもあるのに、中から全く音が全くしない。
それは扉が厳重な造りのせいであろう。
前世で言う、コンクリートの壁の様な堅牢な造りをしており、その扉をどうやって開けるのか、その部屋がどんな部屋なのか全く想像がつかない。
「こちらです」
案内されたのは、一般的な障子の引き戸の前だ。
「失礼いたします」
私はそう言って、障子を開けた。
いつぞやの朝議であったままの、姿形の薬司長がそこにいた。
「おや、誰かと思えば」
「はい。朝儀の際にお会いしました、陰陽官の朱鷺と申します」
ペコリと、頭を下げた。
挨拶もそこそこに、私は紫苑について尋ねた。
「彼女は実際にどんな仕事をされていたのですか? 私は時々、薬をいただく事がありましたが、それ以外のことは、よく知らないのです」
薬司長は微笑んだ。
「そうですね……朝廷では、どんな貴人に会うやもわかりません。彼女は、言いにくいですが、元々身分のある、という訳ではないので、朝廷内の仕事より基本的には薬草の採取。また畑で栽培しているものの手入れ。基本的にあまり朝廷に居ることはありません」
「そうなのですか?」
そう言われる割には、この薬殿でよく彼女に会っていたと感じる。
「朱鷺殿には、彼女は心を許していた様です。彼女は朱鷺殿がいらっしゃる周期がわかるようで。まあ、全てとは言えませんが。私から見ても、朱鷺殿は、陰陽官と言う職業柄かもしれませんが、そういった身分には寛容であるように見受けられましたので。特に、それに対して咎めたことはありません。それに、薬司としての才能は誰よりもありました。優秀でしたからね」
「はい。実際、私も何度彼女の調合した薬にお世話になったことか。本当に、惜しい方を亡くしました」
「そうね。だから私としても、症状が難しい方など、彼女を遣わせたならよかったと思った事例は過去に何度もありました。やはり、身分について気にされる方は多く、まあ、それ以外にも色々あるのですが、対面的にそれが叶わない場合がほとんどでしたが。彼女は賢い人です。そう言った細かい事情も言い聞かせたことは一度もありませんが、わきまえているようでした。ただ、貴女がいらっしゃった時には存分にその腕を奮っていただきました」
薬司長はにこりと、私を見て微笑んだ。
私はその話を聞いてほっとした。朝廷内は陰陽官を除いて、ほとんどが身分社会だ。だから、紫苑の立場を少し心配していた部分がある。
前世の知識を引用すると、《出る杭は打たれる》ということわざがある。これは、他者の平均よりも能力が高い人は非難を浴びるということだ。これが出過ぎる。例えば、誰も手出しが出来ないような身分の人であれば特に問題ないが、彼女のような身分だと、大きな非難を浴びる可能性があると思っていた。
他の薬司に調合してもらったこともあるが、明らかに違うのだ。
だけど、薬司長の今の話を聞く限り、ある程度穏やかに仕事が出来ていたのだと思う。まあ、中にはやっかみを持っている同僚もいるかもしれないけれど。
それでも少し安心した。
「彼女が誰かと問題があったとか、恨まれていたとかそんなことは?」
「ないですね。私が知りうる限り。今、申し上げた様に、彼女は表立った仕事よりも裏方の仕事をしている事が多いです。薬殿に勤める者はチームワークを組んで行うものより、個々で行う仕事が多いので薬殿内でも、それほど人と接する機会は他から比べると少ない様におもいます。頭の良い子です。人からの悪意に対しても、そう言った事情もふまえて、他者から朱鷺殿が思う様な感情を持たれることはあまりないかと」
薬司長が、わざわざ嘘をつく必要もない。
そうなると、彼女自身が殺される理由がない。残る可能性としては、何らかの事件に巻き込まれた、と言うことだけど。
「彼女が文殿付近に行くことはよくあるのですか?」
その質問に薬司長は腕を組み考え込む。
「さぁ、それがわからないのです。私は彼女にそんな場所に行くように命じた覚えはありません。それに、一人であんな場所に行くはずがないと思うのです。これは、こちらにお見えになった東隊の方にも申し上げました。その話しをすると、彼女が殺されて、文殿に運ばれた可能性もあるとか。とにかく、私や例えば東隊の浅葱卿に言われたとか、そう言った事がない限り、彼女の意思で、文殿へ行くことはありえないと」
「薬司長が、彼女に最後に会ったのはいつでした?」
「朝儀の前に私、薬殿へ一度来ましたので、その時ですね」
「その時の彼女の様子、些細なことでも構いません。教えていただけますか」
「特にいつもと変わりないと。薬殿の入り口ですれ違ったの。その時挨拶をしたわ。薬を調合している様だったから、貴女が来ているのだと思ったの。ずいぶん熱心に。私は話かけた時、ずいぶん驚いた表情をしていたから、そのまま」
「いえ、昨日は……」
浅葱卿はこの話を聞いて、私に何故会ったことを言わないのだと尋ねたのだ。
だけど、私は朝儀の前じゃなくて、後に訪れたのだけど。
目の前の薬司長を見て、その話しはすべきでないと判断した。
「この薬殿には、亡くなった後、死後の硬直を早める薬などはありますか?」
「いえ、聞いたことないわ。そもそも、死者へ薬を飲ませるなんて不可能だわ。それに基本的に薬は生きている者へお渡しするものだから」
「最後に、彼女、もしくは知り合いが絵を描いていたとか、そういった事はご存知ですか?」
「いえ、聞いたことないわ」
「そうですか。ありがとうございます」
最後に彼女の自宅の場所など、最低限のことを聞き、お礼を述べて退室した。
今のところ、利害関係などを理由に彼女に怨みを抱く、人物は見当たらない。それに、彼女が殺されたと思われる時刻にはちょうど朝廷が開催されていた。つまり、ある程度の人物全員にアリバイが成立しているということ。
その場にいたのでわかるが、朝廷から席を離れたものは、いなかった。
後、考えられるのは、何故、掛け軸を持っていて、私に預けたのか。
掛け軸自体におかしな仕掛けは見当たらない。としたなら、書かれている題材に何かあるのだろうか。あの、月と木々が描かれただけの風景画に。
受け取った時点で、彼女にちゃんと話しをするべきだった。
あの時、紫苑と目を合わせて向き合って会話をしていたらと、何度も悔やまれた。