陸
花織峠を行き交う商人からの情報で、幽鬼らしい女を見たという。
それが四隊に情報が伝わり、最終的に私の元に来た。
宮様に報告するため探したけれども見つからない。淡藤の姿も見当たらないことも気になった。
他の同僚に話しを聞くも、行方について誰もが首を横に振った。
仕方がないので、花織峠に出向くこと、少しの間、不在にするというメモを残し、そのまま向かった。
着物の上から、墨色の羽織を纏い、錫杖を持つ。陰陽官の外出着だ。
歩いて、花織峠まで、昼までには着くだろうと計算した。
歩き始めたとき、涼しげな風が通り抜ける。
峠道に入る手前、一件の茶屋が目に入り、足を止めた。
「ごめんください」
暖簾を潜る。客の姿は見当たらない。
程なくして、「どうぞ」と、奥から張りのある女性の声が響く。
暖簾の奥から割腹の良い、人好きするような臙脂色の着物の女性が顔を覗かせる。
「こんにちは」
「あら、珍しいお客さんね。こんな所だけど、どうぞ座って頂戴」
女性はパタパタとまた暖簾の向こう側に戻って行く。
一番近い、席に腰掛け、纏っていた羽織を少し緩めた。
「このぐらいしか、今用意が出来ないのだけど」
再度、姿を現した女性は、お盆に湯気がふわりとわくお茶碗と皮がむかれた梨が置かれている。
「ありがとうございます。いただきます」
注がれた茶碗に口をつける。
味は薄い。けれど、歩き疲れた体に程よく染み渡る。
「美味しい」
自然と言葉になる。
女性は微笑んで、「とんでもない」と言う。
「最近は、この先の峠で何でも幽鬼が出るとかで、峠を越える人の数も減っちまった。安全な道へ迂回しているらしくてね。うちも商売あがったりだよ」
「その幽鬼が誰かを襲うなど、被害は聞いたことありますか?」
女性は少し考え込むような素振りを見せて、
「いや、誰かが殺されたとかって話しはアタシが知る限りは聞いたことないね。大抵聞くのは、この道をまっすぐ行った、山の中腹ぐらいに、この辺りじゃ『死者の花園』って言われている場所があるんだけど、そこに一人佇んでいるって話だよ」
「死者の花園ですか?」
「そう。夏には、唯の草原なのに秋に入るちょうど今ぐらいの時期にどこから湧き出たのか花が一斉咲き出すんだよ。それが、血に濡れたような色でね。怖がって、みんな近づかないよ。まあ、今の時期は丁度咲いているだろう。目立つから行けば、すぐにわかるよ」
「そうですか、貴重なお話をありがとうございます」
私は茶碗を飲みほし、梨をさらうと、お金を置いて席を立ち上がった。
「まさか、峠道を行こうなんて考えていないだろうね?」
「そのまさかです」微笑みながら、羽織を着込む。
「アンタみたいな若くて可愛らしいお嬢さんがかい?」
「これでも、仕事なものなので」
「そうかい、何だかわかんないけど、気をつけて。こっちに帰ってくるときは、また寄っとくれ」
心配そうな表情で手を振られる。
ぺこりと頭を下げ、歩き出した。
峠道に差し掛かった時点で、昼を過ぎていた。
このまま登ると、峠を降りる前に夜を迎えるだろう。
幽鬼の活動時間は、夕方から夜。
まあ、ちょうど良い時間帯だろうと。思った。
緩やかな坂道は所々細く、急勾配になる。
息を切らしながら登っていくと急に道幅のある空間に出た。
「ん?」
自分の耳を疑った。美しい声の音色が聞こえる? そんな気がした。
こんな山の中で? しかし目を閉じて聴覚に全てを集中するとやはり聞こえてくる。
何処から聞こえているのかと、きょろきょろと辺りを見回し、ぎょっとした。
ちょうど右後ろ。
木々の奥に、一面深紅の花が咲き乱れ、その奥に真っ白な着物姿の女性が立ちすくんでいる。
(これ、彼岸花だわ)
前世の記憶を辿る。
インスタ映えと言われて、彼岸花の群生地にわざわざ出掛けたことがあった。
彼岸花の花が咲く前は緑の茎がにょきりと伸びただけの状態なので、他の雑草に紛れ、それが彼岸花であるとなかなか気が付きにくいらしい。
前世の私はこの花が好きだった。繊細な花弁とめしべやおしべが放射線状に開く造形美は、他の花にはない美しさだったから。
その真っ赤な花の中心に佇む白い着物の女。
さっきの、女将さんの話しとも合致する。ということはあれが、白花姫なのだろう。
不思議な音色の歌声が止むことがない。
幽鬼が歌を歌うのだろうか?
今まで聞いたこともない話だった。
しかし、彼女以外に発生源は考えられない。
まるで、彼女に導かれているかのような気持ちになる。
一歩一歩近づく度、サク、サク、と足元で草が折れる音がする。
どきどきと心臓がうるさく音を立てる。
本当に白花姫なのか?
もしも、白花姫じゃなかったら。
私がここまで来た意味がなくなってしまう。
錫杖を強く握りしめ、自分の立っている位置に用意をほどこし、呼吸の整える。
「白、花姫?」
恐る恐る声をかける。
その声に答えるように、着物の何かがこちらを振り返る。
張り詰めた空気に息が出来ない。
赤い光を帯びた鋭い瞳。
人の肌などいとも簡単に引き裂く鋭利な爪。
以前の彼女からは推測もできないほつれた髪の毛。
それなのに、彼女の面影が端々に感じられ、胸がきしむ。
其れがこちらを見た時、一瞬、目を細めるような仕草を見せた。
しかし、すぐに、こちらへ爪をむき出しにし、奇声を発しながら襲ってくる。
間際のところで、私は、其れをかわし、印を結び、念をこめる。あらかじめ、私が立っていた位置にほどこしておいた、結界が作動する。
ぎゃあぎゃあと、わめきながら其れは手足を五芒星に白い光に拘束され、そこから逃れようとさらに体をばたつかせている。
「あなたは、白花姫?」
私はゆっくりと歩きながら、其れにそう問いかける。
「うぅ……」と、唸り声を上げる。
其れと、二十センチの距離まで近づくと、再度印を結び、其れの額に護符を押さえつける。
赤く染まった瞳は一瞬波打つように色が薄まり、波がさらに押し寄せ色が引いていく。
「……?」
女は真直ぐに私を見据えた。
その目に理性が戻っている。
しかし、それを押し返すように澱み、それから澄む。
おそらく彼女の中の何かの比重と戦っているのだろう。
時折、赤みが濃くなると、私におそいかかりそうな素振りを見せる。
「白花姫?」
瞳の赤は完全に無くなっていた。
「……、そうよ。私、死んでないのかしら。確か……」
「あなたは亡くなったわ。でも気持ちが消えずに残った。それで現世にとどまった」
「ここは現世?」
「そう」
「じゃあ、死ぬことができなかったのね」
彼女の瞳から涙が一滴、零れ落ちる。
表情は変わらない。というより、表情がない。
ただその代わりに瞳が彼女の何かを雄弁に語っている。そう見えた。
やはり、病死ではないのだと、彼女の死の真相を知った。
「どうして死のうだなんて思ったの?」
「あの人が約束を破ったから。だからいけないのよ」
その言葉を発すると、彼女の瞳が一気に赤く染まり、白花姫としての人格がうすまり、また白い光の拘束にあがなうよう、じたばたと縦横無尽に体を動かし始める。
私は再度、印を結び護符の力を強める。
赤みが瞳から引いていく。
宮様の話を思い出した。
その時に見た色のない瞳を持つ式のことも。
「あの人って?」
「今から一年程前の話になるわ。その日は雨がひどく、その上雨も打ち付けるような降り方をしていた。そんな日の夜、あの男は、都の屋敷まで帰れそうにない。せめて雨宿りをさせてほしいと、私の屋敷に来たの。お母様はちょうどお体を崩していたので、侍女からその話を聞いて、私が直接、玄関で待つ、男のもとに行った。その人、全身真っ黒で僧侶の恰好をしていた。托鉢をされて、帰られなくなった方なのだわと思って。
そのまま、屋敷に上がっていただいたの。履物を脱ぐように伝えて。真っ暗だったので、私が手に持っていたろうそく立てを彼の方に近づけて、見やすいようにしたの。それまでは、その方の御顔も見えない程暗かったのだけど、その一瞬、彼の御顔が見えて。私、美しい方と、一目で恋に落ちてしまった」
白花姫はうっとりとした表情を浮かべながら、話を続けた。
「それをきっかけに、その殿方と文のやり取りを始めたわ」
「殿方の名は? 文はどちらに送っていたの?」
「私は、赤土の君と呼んでいたわ。送り先は……忘れてしまったけれど、どこかの寺院だったわ。もちろん都にある。詳しいことは、私に仕えていた、萌黄というものに聞いてちょうだい。
お父様、左大臣の命で朝廷に行く用事を持っているから、きっと会えるはず。
赤土の君とは何度か文を交わし、気持ちを確かめ合った。だけど、彼は世を捨てた僧侶。私は、これでも左大臣の娘。だから、いずれどなたか殿方に嫁がなければならない。だから……、だから、約束したの。なのに……」
白花姫は肩を落とし、項垂れていた。憎しみよりも、悲しみが彼女の心を占めているのだとわかった。
彼女の中で初めて、知った外の世界と異性だったのだろう。その赤土の君が全てで、その人に裏切られ、聡明で純粋な白花姫は、幽鬼になってしまった。
《わかるよ》
と、私が言っても、きっと今の白花姫には伝わらない。
口先だけに聞こえてしまうだろう。
確かに、今の朱鷺としての私は、陰陽官としての職務一筋で、それ以外のことは知らない。でも、前世の私は、一通りの経験をしていたから、その気持ちは痛い程わかる。そして、涙をぬぐって、乗り越えて進んできた。
もちろん、一人では乗り越えられなかっただろう。だけど、辛い時にそばにいてくれる友人と言う人々がいたから。
でも、白花姫は一人で、暗い屋敷の中で、耐えていたのだろう。果てしない心の苦しみに。
だから、今、私がそう言ったところで、信じてもらえるわけがない。
それで、納得できる気持ちの重さなら幽鬼になるはずがない。
「白花姫はその男を殺したいほど怨んでいるの?」
「そうよ、だって、約束したのよ? 現世で一緒になれないのなら、来世で一緒になりましょう。と。あの人もそれに合意して私に微笑んでくれた。だから、約束の日、私、一人で屋敷を抜け出して、ずっとずっと待っていたの。もしかしたら、もう少しで来るかもしれないって思いながら。もう少しだけ、と思って。だけど、どんなに待っても、待っても、待っても来なかった。
その約束をした時、赤土の君からの文箱に文と一緒に、薬袋が入っていたの。その中の薬を二人で飲んで来世で一緒になりましょうって。文にも書いてあった。だから、一人でその薬袋から薬を取り出して飲んで、それから、の事はもう……」
「薬?」
白花姫はうずくまり、顔を伏せた。
「もし、その殿方にもう一度会えるとしたら、会いたい?」
「会いたい」と小さな声で呟き、「ねぇ、願ってもどんなに想っても誰かの気持ちを動かすことって難しい。わかってる、わかってるよ。もちろんすっぱり諦めることが出来たら楽だけど、諦めよう諦めようって何度念じても、この気持ちは変わらないんだよ」
白花姫の目は強い光を放って流れた。声は荒げ涙と嗚咽で途切れ途切れになる。
「みんなにやめた方が良いって言われて、私がその言葉を飲み込んで理解することが出来たらどんなに良いか、貴女に……わからないよ」
一瞬、宮様の『式との契約』の文字が浮かんだけれど、こんな痛々しい白花姫を現世に引き留めるのは、私には出来ないと思った。好きな殿方のために、命をかけて、それでも報われない恋だったなんて、とてもじゃないけど、私には……。だから、今、私が彼女に出来る精一杯の事を。
「ねえ。絶対に会いたい?」
「ええ、もちろん」
強い意志を持って顔を上げて答える。白花姫はもう取り澄ました令嬢の顔を見せた。
「じゃあ、私を信じて欲しい。必ず、会えるように、その赤土の君を私探すわ。これは約束。時間がかかるかもしれない。だけど、必ず」
「うん。待ってる」
私は白花姫のその言葉に、やっと微笑むことが出来た。それと、彼女の嫌疑も晴らさなければならない。
「あと、一つだけ、教えて欲しい。今、貴女に嫌疑がかかっているの。だけど、私は貴女を信じているし、間違いなら嫌疑を晴らしたいと思っている。だから、教えて。貴女は、朝廷に勤務する、薬司の女性に手をかけた記憶がある? 先日、朝廷の文殿の辺りで、殺されていたのだけど」
私の言葉に白花姫は頷き、少し考える様に目を細めた。
「覚えていないわ。正直な話、幽鬼としている時の記憶はほとんどないの。まあ、断片的に見た記憶が少しだけある、その位。だけど、殺していないと思う。薬司に知り合いはいないし、何より、昔、兄から朝廷は全体的に結界が掛かっていて、文殿の辺りは特に強い結界があり、幽鬼は入る事が出来無い。って、聞いた事があるわ」
「結界?」
陰陽官でありながら、聞いた事のない話しだった。確かに、朝議の時も宮様から、陰陽官としての瞳で見ることは出来ないと言っていた。それと同義のことなのだろうか。
私の様子を察したのか、「ええ、もしかしたら、一部の高官しか知り得ない話しなのかもしれない。昔、本当に小さい頃ころ、幽鬼を怖がった私に、お兄様がそう教えてくれたの。でも、私が聞いたのもずいぶん前の話だから、今と現状は異なるかもしれないけれど……、でもその結界をほどこしたのは、初代陰陽長官だった青明様と聞いたことがあるわ。その結界は朝廷と都が無くならない限り、永続的に続くものだって」と、言った。
「青明様? なるほど。確かに考えられない話じゃないわね」
青明様ならあり得ない話ではない。初代陰陽官長官を務められ、比類なき力をふるったお方だ。
出自は人間ではなく、稲荷様の子孫だとも言われ、式をいくつも抱えられていた。とか、御伽草子のような内容が続く。
もしかしたら、実在しない人物なのかもしれないとも思われるが、朝廷の所々に青明様の痕跡が残されているため、実在された方なのだろうと、私は思っている。
仕掛けは不明だけど、朝廷内にはなんらかの結界が青明様の手によってかけられているのだろうと判断した。
「貴女は、朱鷺よね? 陰陽官になったのね。すごいわ。小さい頃によく一緒にお花を摘んだり、ひいな遊びをしたわね。懐かしいわ。あの頃に、もしも、戻れたら。幸せだったあの時に」
瞳が赤くなることはなかった。ただ、静かに、彼女は空を見上げた」
「もういいのよ、早くやってしまって。私の消すのでしょ? 最後に会ったのが貴女でよかった」
と白花姫は目を閉じた。
「いいえ、私は約束したわ。必ず、白花姫の逢いたい人、連れてくるから、待っていて」
私は懐から一枚の護符を取り出し、白花姫の額に貼り付ける。
白花姫は一瞬目を見開き、「萌黄に」と小さい声が聞こえ、そのまま瞳はゆっくりと閉じられた。
これは、幽鬼を一時的に眠らせる護符だ。効果は二日。
それまでに、白花姫をこんなふうにした人を連れてこなければならない。
「朱鷺殿ですね」
気配を感じる事ができず、身構え、白花姫を庇う様に振り返ると、宮様の式である淡藤が色のない瞳をこちらに向け、立っていた。
「私に何か?」
「こちらを」
相手からは戦意は感じられない。
警戒を解いて、差し出された、書簡を受け取る。
文面を見ると、宮様だ。
「そちらの方は?」
「ええ、九条の」
そこまで言ったならわかるだろうと、思い、立ち憚っていた私の体を少し避けた。
淡藤は眠りに落ちている、白花姫を見ると、優しい笑みを浮かべた。
眠りに落ちている白花姫も「懐かしい、香り」とむにゃむにゃと呟いた。
「幽鬼同士だから、そう思うのでしょう」
と、言い訳がましく言葉を残し、淡藤は姿を消した。
受け取った書簡の中身を確かめる。
朱鷺
今回の任務は上手く行っただろうか?
この文書を読んでいるということは、幽鬼になった彼女を式にしたのだと思う。
本来なら直接伝えるべきなのだろう。
けれど、こちらも立て込んでいるものだから、そうはいかない。
帝から勅命があり、淡藤と共にしばらく不在にする。
何点か式について注意事項があるので、忘れないでほしい。
まず、みだりに式を他のものに見せないこと。
理由は言わずもがな。
一言で言うとマイナスに作用することが多い。
特にこの朝廷内。知られない方が自分のためだと言うことを肝に銘じるように。
もう一点は薬司の件。
なによりも、若い女性をそんな風にする輩なんて絶対に許されない。
この状況の中で酷なことかもしれないが、この件にはしっかりと片をつけること。
犯人を見つけられない場合でもだ。
私が戻るまでに何らかの解決ができることを願っている。
草々
いつもなら、簡単な指示のみで、情感を訴えるような書き方はしない。
珍しく、長い内容だと思った。
なぜか、私が、白花姫と式の契約をしたことを、信じて疑わない言葉。
もう一度、白花姫を見る。
彼岸花の中に、安らかに目を閉じている彼女を見て、やはり、出来ないと思った。
宮様の信頼を裏切ってしまった様で、何処か申し訳なく思も、誰かを恨んでその怒りだけで、存在するなんて、悲しすぎる。
昔の何も知らない清らかな笑みを浮かべる表情を見ながら、ふう、と息を吐き出す。
とりあえず、やるべきことを頭の中で反芻する。
○薬司を殺した犯人を見つけ出すこと。これは、白花姫の無罪を主張することに繋がる。
○白花姫の思い人を探し出すこと。
○白花姫が言い残した『萌黄』さんに会って話を聞く事。
◯紫苑から預かった掛け軸について。