参
次の日はちょうど、非番だったので、絵の師匠である、『嵯峨先生』の屋敷へ向かった。
紫苑から預かった、掛け軸の事だ。
昨夜気になり、家でひも解いてみると、唐楓と落款印がある。
楓派の画家で間違いないだろう。
墨でぼかした木々が描かれ、赤みがかった月が二つ。
月が二つ描かれたその意図はわからない。
前世でも見たことがあるような気がした。が、詳しく思い出せない。
全ての作品が後世に残される訳ではない。ふるいにかけられ、網の目から暗闇に落ちて無くなってしまう作品も中にはある。もしかしたら、資料で見ただけの作品なのかもしれない。
ここに来て、楓派の作品に良く出会うなと、少し甘い運命を感じたのと、なぜ、彼女がこれを持って、いたのか。それが気になった。
紫苑は楓派につながりのある人間なのだろうか? ――いや、もしそうなら私が絵を描いているという話をした時点で、自身も描いているという話を交えていたことだろうと思う。絵を描いていることを隠す理由が無い。いや、もしかしたら、楓派に所属するということを、誰かに話すことを禁じられているとか。秘密結社みたいな存在なのかもしれない。あとはその人について言いにくいことがある場合なども。しかし、朝議の明石の間に、それも帝の前に飾られる屏風を描ける程の人物なのだ。そんなに訳アリな人物のはずがない。と、思うのだけど……。
それについて、もう単刀直入に私の絵の師匠である、嵯峨先生。私は勝手に師匠と呼んでいる。直接、尋ねようという、目論見と一緒に、屋敷の扉を叩いた。
「『唐楓』という、画家について知っていますか?」
目の前にゆったりと座る、私より少し年上の青年。
すっと通った鼻筋に目の下にはうっすらとクマがある。昨夜は遅くまで、描いていたのだろう。
昼間は全く描けないらしく、夜にせっせと一人、作品を仕上げていくタイプだった。
黒い髪を束ね、きっちりというより、着物を着流すのは自由人な師匠の性格にぴったりとはまっていた。
「? どんな字を書きます?」
まだ眠たげなのか、よろよろとしている。
私は、昨日紫苑から預かった掛け軸を解き、落款印を見せた。《唐楓》という部分だ。楓派という言い方は、もしかしたら後世で出来たものかもしれないので、特に触れない。
下手な事を言うと怪しまれる可能性もある。
身を乗り出して雅号を見た師匠は途端に、非常に罰の悪そうな表情を浮かべた。
「この雅号の方はご存知ですか?」
実は、師匠が晴楓ではなくとも、楓派の人間ではないのかと思っている。師匠は誰かに依頼され作品を描く際は、誰にも見せずに自室にこもって描いている。完成した作品を見ることもない。見るのは依頼人のみだ。
なので、師匠の雅号は知らない。前にそれとなく聞いたこともあった。しかし、のらりくらりはぐらかされ、教えてもらうことができなかった。
「………」
案の定、師匠はだんまりを決め込んでいる。
「この掛け軸の作者は師匠が知っていることで間違いないですか?」
「えっと……それは……まぁ……」
この人は逃げると、とことん逃げて本当に何も話をしてくれなくなってしまう。
そうなる前に、たたみかける方が得策だと、数年の付き合いで学んだ。
「知っているなら、教えてください。あと、昨日初めて、朝議に参加した時に、帝がいらっしゃる御簾の前に置かれた、屏風を見ました。師匠は私の瞳の能力から、視力が良いのはご存知ですよね? 澄んだ透明感のある色彩が美しかった。その作品に入っていた雅号は《霜楓》でした。雅号に楓が入る作者は何か意味があるんでしょうか? また、どんな人が描いているのでしょうか。もしご存知でしたら教えてください。お願い致します」私は勢いよく頭を下げた。
目の前にいる師匠がどんな表情をしているのか、見ることは出来ない。
「それが……、あんまり、彼の事は話すことが出来ない」
「彼とは、霜楓、唐楓? 話せない?」
私が彼と言う言葉を強調して言ったので、師匠は口を押えた。
「話すことが出来ないというのは?」
一体、何があるのだろう。
そっと顔を上げ、師匠の表情を伺う。
「そう……、そうなんだ。特別というか、まあ、もちろん人間が描いている絵な訳だから、えっと……、ただ、色々と事情があって」
嘘のつけない人だ。その人がそこまで言うということは、本当に何か事情があるのだろうと察した。
「それは一体?」
「まあ、それは……色々と、もう、僕からはこれ以上言うことが出来ないよ。というより、君はどこでこの掛け軸を手に入れたの?」今度は、私が師匠に問い詰められる番になった。
「えっと、昨日、薬司……」
答えることが難しい。紫苑のことから説明をするべきなのか。
誰からではなく、単純に人から預かったと言えばいいのだろうか。
師匠は真面目な顔で私を見ていた。
そっと、目を反らしたところ、急に後ろの襖が勢いよく開けられた。
「すみません、こちらに、朱鷺殿は……、貴女ですね?」
振り返ると、見たことのない少年が立っている。着ている着物から判断すると、東隊の下っ端と言ったところだろうか。
彼が私の元に来るということは、朝廷で何かあったのだろうということがすぐに察せられた。
「至急、朝廷まで一緒に来ていただきたいのですが」
陰陽官が呼び出されるのはそれほど珍しくない。
例えば、人が亡くなった時、呪いや幽鬼の類ではないか、検視の必要がある場合。
あとは急遽加持・祈祷が必要になった場合。
私はこちらの用事で呼ばれることはほとんどない。基本的にこの手の能力は皆無なので。
だから、私が呼び出されたとなると、前者になる訳で、誰か亡くなられた方がいるのだろう。
「わかりました」
私はすっと、師匠の方へ一礼し、立ち上がる。
ほんの少しだけ、ほっとしていた。
「もしかしたら、もう彼らに会っているかもしれない」と、師匠は呟いた。
私は襖を閉めた後だった。
私は文殿へ向うため、廊下を走る。
『文殿で薬司の女が殺された。紫苑と言う者らしい』
先ほど、私を呼び出した少年に言われた言葉を胸の中で反芻した。何度も何度も。
信じたくない。
私は少年を振り切って、一人駆け出す。胸が苦しい。息が出来ない。全身の血が凍りついているようだった。
嘘だと思いたかった。自分でソレを見るまでは誰の言葉も信じたく無い。
文殿は朝廷の外れにある。白壁の蔵のような建物で中には、所狭しと言う程、書物が並んでいる。
朝廷に勤めるものなら、一度は足を踏み入れる場所だと思う。
書物の並び方は、一般の者にはわからない法則をしており、それを管理するため書官が置かれている。詳しくはわからないが、書物の並び方を記載したマニュアルの様なものがあるらしい。その見方を理解することが出来れば、誰でも出来る仕事だと言われているため、割と年を召した方が就くことが多い。前世の私流に言うと天下り先。
文殿が見えた。
建物の東側に庭園がある。
庭園と言っても、何本か松が植えられ、白砂の上に水琴窟、格子状に石板をかたどった石が置かれている、そんな庭だ。せいぜい、数名が見ることが出来るほどのスペースなのに、そんな場所に、数十人の人が集まっているのが見えた。
私は、人をかき分け、その奥に生気なく倒れ込む一人の女の姿を確認した。
水琴窟の岩についた血のあとが生々しい。
うつ伏せに倒れ、顔が右側を向き、手足はだらりと、力の無い状態だった。
真っ白な肌。虚ろな表情。
出血部分の血液は、もう乾ききっていた。
薬殿の薄暗い部屋ではなく、陽の光の下で彼女を見たのは初めてだった。
いつも、白い頭巾で隠していたため、あまり見たことない、やわらかな髪の毛。
透き通る白い肌に飛び散る紅。
人間離れした妖精が羽をもがれ倒れているように見えた。
それは間違いなくその人、紫苑だった。
「彼女はこの庭の水琴窟の岩石に頭を強くぶつけた。苦しんだ表情は見られない。おそらく即死している」
冷静な声で、そう言うのは、青い羽織を着た、四隊のうち東隊に所属する短髪の若い男性。
「すみません」
隙間から、顔と手を出し、彼女を間近で見た。
こみ上げる感情を押し殺し、彼女肌に触れる。冷たく、死後硬直している。生命力はもう感じられない。
紫苑の器だったものを、触れているような感覚に囚われる。
ただ、その事実を受け止め、妙に冷静になっていく自分もいる。
目を閉じて集中力を研ぎ澄ませ、それからもう一度目を開ける。
先ほど見ていた景色と何も変わりがない。
という事は、彼女の死について呪詛や幽鬼が関わっているということは無さそうだった。
もしもあった場合、黒いもやが見えたりする。
彼女の顔から髪を払い除けた。
額の辺り。確かに、岩にぶつかりえぐれているように見える。ただ、傷の程度からは擦り傷の域を出ないと感じる。
もちろん、打ちどころが悪い場合など、その限りではないかもしれない。
だけど、何か違う気がする。
乱れているけれど、着衣は問題ない。軽く、着物を点検すると、石がポロリと袖から落ちた。
拾い上げてみる。なんの変哲のない石だった。しいて言うなら、黒っぽく、形が人工的に整えられている。
「それ、こっちでもらいます」
私の所作を見ていたのだろう。東隊の一人が私にそう言ったので、黒い石をそのまま手渡した。
さらに、彼女の髪の毛を首筋が見える位置まで払いのける。
「この傷が致命傷ではありませんか?」
首筋に、鋭利な刃物で突いた傷がある。そこから、血がついたい、岩にも付着している。
「おそらく、傷は奥まで達していると思われます」
そこに居合わせた、全ての視線が私に集まる。
「何故、そこに傷があると分かった?」
指揮を取っていたらしい、羽織を着た若い男性が、キツく尋ねる。
長身で程よく鍛えられた体躯。鋭い目は凄みを帯びる。
まるで、尋問されているような気分にさせられた。
「それは、なんとなくとしか言いようがありません」
申し訳なさそうにそう言うも、納得してもらえなく、「君は一体誰だ?」と、言葉を続ける。
「失礼、陰陽官です。先ほど、こちらへ行くよう呼び出されましたので」
「ああ、君が」
ようやく納得してくれたようだ。
私も非番だったため、いつもの陰陽官を主張する装束は着ていないのだ。
陰陽官だと分かった後、あやふやな勘だと言う私の言葉に十分な納得を示した。
「俺は東隊所属の銀だ。陰陽官殿は?」
「朱鷺です。早速ですが、状況を教えてください」
「それなら本人から聞いた方が話は早い」
銀の言葉に、黒い着物に一文字の紋を背負った男が前へ出て来た。
「私はこの書庫の管理をしております、黒飛と申します」
第一印象は、若いいかにも文官と言った感じ。
きっちりと結い上げた髪は彼の生真面目な性格を表しているように見えた。
「初めてお会いしますか?」
私は、宮様の用命で文殿には来ることがよくあった。しかし、黒飛という男の顔は初めてだった。
「はい。人事異動がありまして、最近こちらを赴任いたしました」
この時期に? と頭をよぎった。
文殿管理の統括は左大臣にある。
左大臣は上皇派の一派で、右大臣派に次いで権力を持っている。要するに右大臣と左大臣の二派閥で勢力争いをしているのだ。
なにか不穏な動き。ではないかという予感がする。でも今回のことに何の関係があるのだろうか。
「彼が、第一発見者だ。状況を説明してくれ」
銀に促され、黒飛は話始める。
「はい。『話す』という程のことでもないのですが。私が、仕事のため、文殿にきましたら、こちらに倒れていまして、体をゆすってみるも、もう既に……」
「こちらへ来たのは何時ごろだったのです?」私は黒飛に問いかける。
「朝一番です。まだこちらへ到着したころは薄暗かったと。昨日、朝議の参加しておりましたので、仕事が滞っていたものですから」
「そうなると、犯行は昨日、終日可能だったということになるのかしら。もしくは今日の早朝という可能性も?」
「亡くなったのは、今日じゃない。少なくとも、昨日の午前中と推定される」
「根拠は?」
銀が、戸惑いもなくそう言ったので、私は思わず聞いた。
「まあ、一番は体の硬直具合からだな。もし今朝だとしたらこんなに固くはならない。半日以上は確実に経っている。午前中としたのは、その他の状態からみて総合的に判断した。これは、もう経験からの勘に過ぎないが」
「勘ね」
前世の膨大な知識から行くと『勘』で死亡推定時間を決めるというはほぼあり得ないことだと思う。しかし、前世にあった文明の利器の多くはこの時代には全く無いもい。
ただ、東隊、しいて言うと、四隊はこういった事例に多く直面することから、人の死にざまを良く見ている。私もこういった事件に時々関わることがあるが、割と的を射た回答だと思う。
「ちなみに、昨日の昼頃はどこにいた?」
銀は、黒飛を見た。
「昨日は一日ここを閉めていました。昨日は朝議の後、上官から呼び出しがありまして。おや、疑われるのは無理もありませんが、それと、呼び出したのは左大臣です。疑われるようでしたら、直接確認してください」
「確かに。東隊にも一昨日のうちに、文殿が閉まっている旨、その回覧が回っていたのを見ました」
一人の東隊の男が答える。その言葉に、黒飛は余裕のある笑顔を浮かべ、銀を見た。
「わかった。まあ、どちらにしろ、いつからここで倒れていたのか、も含め関係がありそうなところに聞き込みをする予定だ」
銀の言葉を聞きながら、『亡くなったのは、昨日の昼頃と推定される』という言葉を頭の中で反芻する。
と、言うかそもそも、昨日の昼頃、私は薬殿で間違いなく、彼女と会って、薬と掛け軸を受け取った。
その時まだ、間違いなく彼女は生きていた。
それを伝えるべきか否か。
もし伝えなかった場合、どうなるか......朝議に出ていた者はだいたい、アリバイがあると見なされ、容疑者から外れるだろう。
もしなにか細工があり、彼女に手をかけた犯人がそう思わせるように仕組んでいたとしたら?
薬殿と文殿は、真逆にあるため、まともに歩くと二十分程かかる。
そもそも、紫苑はなぜ文殿にいるのか? 何か用事があったのかもしれない。しかし、黒飛は『昨日、文殿を一日閉めていた』と言った。それなら、各部署に回覧なりが回っているのだろう。その状況下でなぜ。
あと、刺した刃物、恐らく刀だろう。この行方は探すのが難しい。
多分、出てこないだろう。
朝廷に出仕するものはそれぞれ、帯剣している。
私も、小刀ぐらいは護身用に持ち歩いている。
一人一人の刀を調べるのにどれだけの時間がかかるか。
むしろ、血液をふき取ってしまえば、もうそれまでだ。
「銀、そろそろ」
白砂を踏む音が新たな来訪者を知らせた。その声の方に銀は膝を付き、礼。の姿勢を取る。
「浅葱卿」
私は振り向き、姿を見る前に、銀に続き低頭した。隣にいた黒飛も、礼をした。気配を感じる。
「いや、顔を上げてくれ。そろそろ、彼女をしかるべき場所へ送り届けようと思う」
浅葱卿の後ろには、ぞろぞろと、竹で編んで作られた、担架の様なものをもって男が並んでいる。
「はい。問題ございません」
銀は顔を上げ、そう答えた。浅葱卿は頷き、私の方を見る。
「陰陽官を呼び寄せたのは、幽鬼の可能性が無いかどうか見てもらいたかった。最近、都ではその噂を耳にするので。万が一と思い。『なぜ、可能性を調べなかった』と、あとから横やりを入れられるのも面倒だからな」
と、黒飛に視線をやる。
「いえ、幽鬼及び呪詛の反応、痕跡は私が見る限り見当たりません」
「そうか」
浅葱卿は羽織を翻し、元来た道を戻っていった。
私は顔をあげ、ゆっくりと紫苑が運ばれていくのを見送った。しかし、一目で見て私が陰陽官だとわかったのだろう。
※ちなみに、陰陽官に様々な理由で、回覧は回ってこないことの方が多い。