公爵令嬢は蜘蛛を飼うのがお好き
おじいさーん! おじいさーん!
遠くで誰かが呼んでいる。
ゴーヤとヘチマの畑を挟んだ、五十メートルほど離れた遠くの土手で、真っ黒いヘンチクリンな格好の女が手を振っている。
「……おーい、ヨネスケぇ。だーれさぁ、あのフリフリの服のネーちゃん。東京に嫁ぎにいったカドサクんちのとこの娘かぁ?」
「んーなわけあるかい。カドサクんとこの娘はもっとブスさぁ。こんな村にはあんなベッピンさんおらんで。きっとよそのモンさぁ」
おじいさーん!
なおも両手をメガホンのように口元に形作り、ひたすら呼び続けるその若い女に、ヨネスケは喉から声を振り絞って返事した。
「なんだべ、おネーちゃん! いま見ての通り忙しいさぁ、ジャマせんでくれやぁー」
数十メートルの空気の壁を伝わり、広い畑の広がる平地の周囲に、ぽーんとひとつ老人の声が響きわたる。
やがて数秒を経て、黒いフリフリの服の女の声が返ってきた。
「あのですねー、取材をさせていただきたいのですー!」
「あー? 取材だぁ?」
「おじいさんのー、ゴーヤの畑をー、少しだけー! 取材させて頂きたいのですがー!」
フリフリの女は精一杯に声を張り上げる。
同時に小走りで、老人たちのいるゴーヤ畑へと近づいた。
「取材って、お嬢ちゃんアレかい? テレビ局のモンかえ?」
はあはあと息を切らしたあと、女は深く深呼吸をしてから答えた。
「いいえ、違いますわ。わたくしは小説家でございますの。いま書いております小説に『アシダカグモ』が出てくるので、この畑を探して捕まえて、よぉーく観察がしたい所存でございますのよ」
「あー……物書きぃ? そんなら帰った帰った。こっちは趣味で園芸やってんじゃないんだよ。生活がかかってんだ」
「お願いしますわ! 持ち合わせは少ないですけれど、見学料だってお支払いしますわ! どうかこの通り、頭を下げてお願いいたしますわ!」
「見学料ってなぁ……うちは植物園じゃないんだから。収穫の時期は忙しいんだ。収穫が終わったらぁ、そんときにでもまた来てくれや」
「ここ沖縄のアシダカグモは、そこらのとは一味違うのですわ。そこらへんの田舎にいるのは、アシダカグモではなく、だいたいが『コアシダカ』グモ。それに今いるここ、石垣島での出生の個体は、とってもサイズの大きな立派なものが多いんですの。だからわざわざ昨日、東京から自家用ジェット機でここまで飛んでやってきたんですのに!」
「なんだかアシダカとかジェット機とか……よくわからんけど、ダーメ。さっさとけぇれけぇれ。クモの取材だかなんだかしらんが、そんなに急なことならよそに行って頼みぃや。こちとらぁ、ボランティアで農家やっとるんじゃないんさぁ。年に一度の稼ぎどきなんさぁ」
「――アシダカグモ! そしてコアシダカグモだけではありませんわ! 石垣島には、気性こそは荒くて毒も強いながらも、外国のタランチュラ並みの大きさにもなる『オオクロケブカジョウゴグモ』! そして脚が長くてカッコいい、スイカのような模様が魅力的な『オオジョロウグモ』! どちらもビッグサイズですの! ビッグサイズ! ですの!」
「ダァメ! だーめ! けぇれ! クモならそこら辺にいっぱい色んなのがいるさぁ、テキトーに捕まえて帰りぃや!」
「……そう……なの、ですか。こんなに頭を下げて、頼んでも、だめなのですか……」
そう言って、うなだれた途端だった。
小説家を自称するゴシック・アンド・ロリィタの女は、自らのリボンの付いたワンピースの胸元のボタンを、一気に引きちぎってすべて外した。
フリルで装飾されたピンク色のブラジャーが、ビッグサイズの胸が、夏の炎天下の日差しの元にさらけ出される。
「だったら…………このわたくしを好きに抱きなさいよオラァッッッ!!!!!」
口をあんぐりと開けて、呆気にとられる農夫の老人たち。
そのとき、ピンクのブラジャーの内側から、着信の音色が響いた。
彼女はそれを、ぞぞいっと引っ張り出す。
「……もしもし。雲海京香お嬢さまでしょうか」
「ええ、そうよ」
「こちらは執事のセバスチャンでございますが」
「あら、セバス。何の用事かしら」
「何の用事って……今、お嬢さまはいったいどこにおられるのですか」
「沖縄よ。石垣島。小説家を偽って、畑にアシダカ軍曹を採取しにきたの」
「はあ。また蜘蛛のことだとは思っておりましたが……はやく東京に戻ってきてくださいね」
「はいはい。ところでだけど、セバス。明日の『ヴァガンス』の予定、どうなっているかしら」
太陽の照らす炎天下のなか日傘を差して、持参の折り畳み式のハンモック・チェアで華奢な身体をゆらりゆらりと揺らしながら、ゴシック・アンド・ロリィタの女は持っていた携帯電話越しにそう尋ねた。
「ヴァガンスの予定は何時なの」と繰り返して訊く。
「……お嬢さま、あの、失礼ですが。明日はバカンスの予定は、なにも入っておられません。それに、つい先日グアムから帰国してきたばかりではありませんか」
電話口の向こうで、神妙な面持ちをしながら分厚いスケジュールの手帳を確認する執事、セバスチャン。
ゴスロリの公爵令嬢、雲海京香は「一度電話を切るわ」と口早に言い置いて告げた。
「……おいヨネサク、あっりゃあ……なんさぁ。自衛隊か? それとも米軍のなんかか?」
「わからんが……『ヘリ』だよなぁ。ありゃあ」
「そんなん見りゃあわかるで。だから、なんでこんな畑や田んぼしかないとこにヘリコプターが降りてきてるんさぁ」
「さてな、わしに訊かれても知らんがな。それよりゴーヤの収穫と仕分け、はよぉ今日中にやらんと日が暮れてまうで。ヘチマのほうは明日でもええが」
「ああ……わかっとるべ。しっかしあのネーちゃん、でぇれぇエエ乳しとったなぁ」
「せぇやなぁ。そりゃ同感さぁ。あんなビッグサイズ見させてもらったんさぁ、クモぐらい捕まえさせてあげればよかったけんばい」
ゴスロリに身をつつんだ令嬢、雲海京香は携帯から直接呼んだヘリに乗り込むと、石垣島を後にした。
*
翌日の正午。
持て余すほど広い大豪邸の大広間には、小包がひとつ届いていた。
伝票の紙には『観葉植物 ※直射日光厳禁!』と大きく太く濃く書かれ、箱の表には注意書きのシールが、これでもか、というくらいにベタベタと貼られまくっている。
そんな段ボール箱が小さくひとつ、ペルシャ絨毯の上にぽすんと置かれていた。
「まったく……白猫急便はいつも届くの遅いわね。午前中指定していても、届くのはだいたい十二時頃よ」
段ボール箱のガムテープを引っ剥がし、箱のふたを慎重に開いていく。
中には、くしゃくしゃに丸めた新聞紙がいくつもがっちりと詰められていた。
相変わらず今日もゴシック・アンド・ロリィタの服に身をつつんだ令嬢、京香はニンマリとほくそ笑んだ。
「……お嬢さま。あの、何なのですか。その新聞紙の包みは」
隣で見ていたセバスチャンは、顔をしかめながらそう尋ねる。
「これはね、前から頼んでいた『例のブツ』よ」
それを聞いてますます怪訝な顔をする、髭をたくわえた白髪の執事。
「ぶ、ブツ……? はあ。それはそうと、昨日おっしゃっていた『バカンス』のことのほうは、もうよろしいのですか」
京香は無言で新聞紙の包みをペリペリと開ける。
包みのなかには、スーパーの刺身などで使われるような、長細い発泡スチロールのトレーが入っていた。
そこの上にはテープで、五百円玉くらいの直径の大きさのプリンカップが、四つ固定されている。
カップの底には、薄く微量に土が入れられていた。
彼女は一通り見て、一番左端のプリンカップの蓋を、パカリと開く。
「非常に良し」
京香は再びほくそ笑み、そうひとつ呟いた。
「お嬢さま、これはなんですか。もしや、また新しく蜘蛛を購入されたのですか」
「ええ。これは買ったというより、もらったのよ。『Brachypelma vagans』。知り合いのところで繁殖させて殖えたから、四匹ほど譲ってもらったの。無事にみんな生きて届いてよかったわ」
「さようですか……。『ヴァガンス』とは『バカンス』のことではなく、タランチュラの学名のことだったのですね。ちなみにその蜘蛛は、毒はお有りではないのですか」
「毒がないクモなんて、この世にほぼいないわ。毒といってもしょせんは消化液の役割だし、三万五千種もいるクモのなかで、人間に対して毒性が心配されるものは、わずか0.2パーセントほどだといわれているの。それに、このヴァガンスの毒なんて、大土蜘蛛の中でも弱いほうよ。咬まれたって、せいぜい手がゴム手袋みたく腫れて、病院送りにされるくらい」
雲海京香はプリンカップを四つまたトレーに乗せ、そのまま二階へと向かおうとする。
長く続く豪邸の階段に足をかけ始めたとき、ふと考えだした。
「そういえば、セバスはわたくしの飼育部屋に入ったことがなかったわね」
執事のセバスチャンを連れ、二階の先の部屋の扉を開く。
そこには、本来ならば植物用に使用する目的のガラス温室が、ドンと巨大な存在感を醸しながら佇んでいた。
そのなかに羅列し、積み重なったアクリルケージの山。
セバスチャンは、思わず息を飲んだ。
「ようこそ…………『乙女の世界』へ………………」
京香はさっそく、ガラス温室の中の温湿度計のひとつを確認する。
温度は二十五度。
湿度は約五十パーセント。
良し。
彼女はひとつ、そう呟いた。
「あの……お嬢さま。なにもこんなに部屋中にたくさん温度計や湿度計を設置しなくても、部屋に一つで良いのではないでしょうか」
「……あのね、ぜんぜんわかってないわね。たとえばだけど、この部屋の床と天井の付近の温度や湿度は同じだと思う?」
「いえ、当然ながら違うと思うますが」
「そうでしょう。つまりはそういうことよ」
京香とセバスチャンは、飼育部屋をぐるりと見回す。
「わたくしの大切な愛しい蜘蛛が十七匹もいるのよ。温度と湿度は徹底しなくてはならないわ」
「はあ、なるほど」
部屋にある飼育用品や書籍を一通り見回していたセバスチャンに、一つの段ボール箱が目に入る。
そのフタは、大きく開いていた。
「お嬢さま。あの段ボールのなかの、大きなプラスチックの飼育ケースの中身も蜘蛛なのですか?」
「ああ。それゴキブリ」
「ゴキ……ゴキブリ?」
セバスチャンは不意にそのケースから一歩、後ずさりをする。
「な、なんで、ゴキブリなんて飼育ケースに入れて飼ってらっしゃるのですか」
「なんでって、そりゃあクモの餌よ。タランチュラだって、食べ物がないと死んじゃうじゃない」
「しかし、なにもゴキブリを飼わなくたって……」
「あら。アルゼンチン・フォレストローチ、通称『デュビア』はとっても便利なのよ。コオロギみたいにうるさく鳴かないし、臭わないし、世話もラクだし。おまけに跳んだり跳ねたりしないから、脱走もそうそうしないわ」
「でも、見た目はどう見てもゴキブリなのですよ」
「しいて言うならば欠点はそれだけね。見た目が完全にGなところ以外は、もう言うことなしのパーフェクトな活き餌よ。常に三百匹ぐらいストックしていれば、勝手に自動的に殖えるし、餌をショップにいちいち買いに行かなくても困らないわ」
そうですか……。セバスチャンはとほほといった顔をし、ガラス温室のなかに並べ積み重ねられたケージやプリンカップにと目をやる。
「お嬢さまの趣味がタランチュラの飼育だとは存じておりましたが……それにしてもあらためて拝見させていただくと、ものすごいコレクションでございますな」
温室のなかを覗いていたセバスチャン。
彼は一瞬、目を疑う。
「このプリンカップの中の体長一センチくらいの小グモ……」
「『グレーターホーンド・バブーン』がどうかしたかしら」
「いえ、カップのフタの上のラベルに『一万一千円』と書いてありましたので、目を疑ってしまいました。まさか、こんな小さなアリみたいな蜘蛛がそんな値段するのかと思ってしまいましてね」
「ああ、そのクモね。高かったのよ」
「えっ」
「ダニみたいなサイズの小さい幼体でも、高いクモは高いのよ。そういう世界だから」
「もしや、一万円も出してこの地味~な色の超小さなクモを買ったのですか?」
「そうだけど」
セバスチャンは思わず口を手で覆った。
「これは……そんなに希少な種類のクモなのですか? その『グレーターホーンド』というタランチュラは」
「いいえ。本来は、ベビーなら二千円ぐらいで買えるクモよ」
「ええっ! じゃあ、なんでわざわざ高いものを……」
「あのね、セバス。型よ。同じ種類でも『型』によって違ってくるのよ。ツノの大きくなり方が」
「えっと……なにが大きくなるですって?」
「タランチュラの角よ。アフリカの『バブーン』と呼ばれるタランチュラには、頭の上に大きな角のような突起が生えるものがいるのよ」
セバスチャンは目を見開いて、プリンカップの中身を眺める。
「確かに言われてよーく見れば、ツノのようなものがありますね……。でも、これは角というよりは、どちらかというと『できもの』のような」
「それはまだ、今年生まれたばかりのベビーだからよ。いまのところは目立たないけど、これは『野生型』の個体だから、成長すればとても大きくなるわ」
「いろいろな型があるのですか……」
雲海京香は腕を組むと、語り始めた。
「基本的にショップとかで売られているのは、繁殖型のCaptive・bred。そして趣味型と呼ばれているホビー・フォームが主に流通しているわ。しかし……この『ワイルド・フォーム』こそが、本物の野生下の個体なのよ。だから、もっともツノが大きくなるの。ウナギでも鮎でも、天然物が大きくてイチバンでしょう。そういう理由で特別高いのよ」
「そうだったのですか……この世界も奥が深いのですね」
「わたくしの夢は、この『グレーターホーンド・バブーン』を世界一ツノの大きな個体に育て上げることですの。だから今のうちから、めっちゃパワーフィーディングをかけて育てているのよ!」
「はあ。それはそれは、是非とも頑張ってくださいませ」
(※パワーフィーディングとは:幼体時に温度を高めて過剰に給餌することによって、成長をはやく促し、大きな体に育てるちょっと上級なワザ)
*
セバスチャンはグレーターホーンドのプリンカップを元の場所に戻すと、今度は温室の下の段を覗いた。
「……あのふわふわしている蜘蛛なんかはかわいいですね」
指さした先では、漆黒の美しいボディに金色のもこもこふわふわの長い繊毛をたずさえた、可愛らしい蜘蛛が餌を器用に頬張っていた。
「あれはね、カーリーヘアーというタランチュラよ。わたくしも大好きなクモだから、メスの個体を二匹持っているわ」
「ほうほう。確かに非常にお綺麗な蜘蛛です。しかし、お嬢さま。そのカーリーヘアーという蜘蛛、二匹ともメスである必要はお有りなのですか? せっかくですし、雌雄で揃えてみれば如何かと思えるのですが」
「タランチュラのオスはね、成熟して一年やそこらで死んでしまうから、ペットとして飼うのには向いていないのよ。メスの場合は十年から二十年、長く生きる種類だと四十年とか生きたりするんだけどね」
「よ、四十年でございますか」
「野生下の個体では、それ以上生きたという例もあるわ」
京香は温室から小さなプラケースをいくつか取り出してみせる。
「こっちは『smithi』でこっちのは『emilia』という種類。これらもカーリーヘアーも、さっき届いた豆サイズの『vagans』も、同じ『Brachypelma』という属のタランチュラよ」
「同じ属の蜘蛛なのですか……・。それでも、ぜんぜん模様や色が違っておられますね」
「そうでしょう! そうでしょう! これだからクモのコレクションはやめられないのよ!」
恍惚にひたって手を頬に当てる彼女を前。
ほう、と言ってセバスチャンはケースのフタに顔を近づける。
「あっ、それはあんまり顔を近づけない方がいいわよ。Brachypelma属のクモは、頻繁に『刺激毛』をとばしてくるから」
「はて、刺激毛、とは?」
「簡単にいえば、目に入ると危ない毛のことよ。または頻繁に吸い込むと、人によってはアレルギーを起こしたりするわ」
セバスチャンは瞬間的に、ケージを京香に手渡して返した。
「Brachypelmaを含む『バードイーター』種は比較的おとなしくて飼いやすいんだけどね。どうしてもこの毒毛を飛ばしまくるのはしょうがないのよ。わたくしも飼い始めたばかりの当初はホコリと間違えたりして、ふーって吹いて死にかけたりしたけど、もうすっかり慣れましたわ」
「お嬢さま……すっかりタフネスが鍛えられてますね」
京香は口元に手を当て、おほほと高らかに笑った。
「それはそうと……さっきセバスが指さした『カーリーヘアー』には、綺麗な個体と汚い個体がいるの。わたくしのものは言わずもがな超絶美麗だけれども、汚い個体っていうのは本当に、毛もカールしていなくて短くて、ただの黒いデカいだけの魅力ないクモなのですのよ」
「そうなのですか? 同じ種類なのに、いったいなぜそんな違いが出てくるのでしょうね」
「それをわたくしも調べておりますの。単純に『丹精込められて育てられたかどうか』の違いなのか。もしくは『環境』の違いでそうなるのか。さらにいえば、ヒョウモントカゲモドキのように『遺伝』に関係のある違いなのか。これをはっきりと解明させることも、わたくしの夢ですの」
「お嬢さまには、いろいろな夢がお有りなのですね」
セバスチャンは満足げに聞いて、うんうんと頷いた。
*
ようやくやがて、日も暮れ始めた頃。
「……セバス、これも見てちょうだい。綺麗なレイアウトでしょう?」
次に京香が指さす先には、流木やサボテンの骨や造花の葉っぱで彩られた、美しいレイアウトが施された縦長のケージがあった。
「このケージだけ、いやはや、やけに凝った装飾ですね。綺麗ですけども。さっきの『バードイーター』とか『バブーン』のケージはいささかシンプルでしたのに」
セバスチャンは造花の葉の隙間を覗く。
そこには青紫色にギラギラと光り輝く、まるで宝石のような蜘蛛が巣を作っていた。
「それは『アンティル・ピンクトゥー』というタランチュラよ。世界一美しいといわれるタランチュラなの。樹上棲の『ツリースパイダー』と呼ばれるクモの代表種ね」
「世界一美しい蜘蛛……ですか」
「本当に世界一美しいかは置いといて、とても綺麗でしょう?」
「ええ。これは本当に、生きた宝石のようです」
セバスチャンはしばらく、その蜘蛛に見とれていた。
「一度、世話をしているときにね、手の先から、顔の下の首元までアンティル・ピンクトゥーが登ってきちゃったことがあったのよ」
「ええっ! お嬢さまはそのとき大丈夫だったのですか?」
「首のあたりまで上ってきたときに、とっさに着ていた服を脱いだのよ。ツリースパイダーには『上へ上へとひたすら登る性質』があることを思い出したから。服を脱がなかったら、たぶん顔にまで上られていたわ。あのときは本当に危なかったわ」
京香は笑いながらそう言っていた。
*
「本日はお嬢さまのプライベートルームを拝見させていただき、ありがとうございました。私もそれなりに長くは生きておりますが、まだまだ未知の世界があることを学ばせて頂けて、たいへん良い勉強になりました」
セバスチャンが部屋を出ようとしたとき、京香は思い出したかのように言った。
「セバス、実はわたくしにはまだ、他にも夢がありますの」
「夢? 夢とは……またしても蜘蛛のことでございますか?」
「ええ。そうよ」
雲海京香は再び、語り始めた。
「タランチュラの分類は大きく分けて四つに分かれるの。そのうち三つは『バードイーター』『バブーン』『ツリースパイダー』……これらは今さっき、すべて見せたわよね」
「ええ。拝見させて頂きました」
「最後の一つは『アースタイガー』と呼ばれるの。直訳して、大地の虎って意味よ」
「ほう、アースタイガーでございますか。いささか凄そうな名前ですね」
「そう。ものすごく素早くて、凶暴なのよ。アジアの現地では『空間を縮めて移動する』とまでいわれているほどなの。毒も非常に強い種類が多いわ。どれも咬まれれば、ただでは済まされない種類よ」
「それは手に負えませんね」
「ええ。でもね、そのぶん、それに見合った魅力があるクモたちなの。だから、わたくしもっともっと頑張ってクモの飼育の経験を積んで、扱いに十分に自信が持てるようになったら、飼おうと決めておりますの。そうしたら、四分類のタランチュラをすべてコンプリートなのですわ!」
是非とも目標に向けて頑張ってくださいませ。そうセバスチャンが微笑んで言おうとしたときだった。
一階に置いてある電話から着信音が鳴り響く。
京香は執事とともに、階段をかけ下りた。
「――はい、もしもし。こちら雲海でございますが」
「あー、京香! 実はうちの『マレ虎』がさぁ、うまい具合に卵嚢つくっちゃってさぁ~!」
*
スマートフォンをテーブルに置いてソファに寝転がる京香に、セバスチャンが問いかける。
「先ほどのお電話は、いかがなご用件だったのですか?」
「タランチュラ関係の友達がね、『マレーシア・アースタイガー』を上手く殖やせたんだって。でも、百匹以上もいてもさばくのに困るから、何匹かもらってくれないかって」
「それで、もらうことになったのですか?」
京香はテレビのリモコンを手に取り、電源をつける。
「いいえ。さっき言ったでしょう。アースタイガーの飼育は、知識と技術をもっとつけて、経験を磨いてからチャレンジするって。乙女に二言は無しよ。それが乙女の世界なの」
「しかしですが、お嬢さま。とは言いましても……本当は欲しいのではないのですか。海外の珍しいタランチュラなんて、そうそう簡単に、欲しい時に手に入るものでもありませんでしょう」
「欲しいわよ、そりゃあ。でももしもらって飼ったとして、未熟で拙い技術のわたくしが世話の最中にでもミスって『瞬間移動するようなスピードの巨大な毒グモ』を外に逃がしちゃったりなんてでもしたら、どうなると思う? 警察隊が五十人は出動することになるのよ。多分、ミヤネ屋とかにも出るわ。そうなると、迷惑が掛かるのは他の飼育者よ。そしてなにより、飼われたクモも可哀想」
「はあ。はあ、なるほど。つまるところ、お嬢さまは『蜘蛛には恐怖ではなく、尊厳をもって扱うべき』とお考えなのですね。そして『宮根誠司は敵に回すべからず』とも」
「そう。その通りよ。まるでダニやアリのようなサイズの産まれたてのベビーのクモにしても、相手は命と感情のあるひとりの生き物なの。ただ欲しいからもらうだとか、買うだとか、そういう次元のお話ではないのよ。人生という長い寿命の電池の中での、一人と一匹の割り切った付き合いの話なのよ」
それを聞いたセバスチャンは、彼女が寝そべるソファの後ろでにっこりと微笑む。
「ゆっくりと、ゆっくりと頑張ってくださいませ。私はいつでも、いつまでも、お嬢さまのことを応援しておりますゆえ」
「ええ。ありがとね、セバス。わたくし、なんだかやる気が湧いてきたから、明日こそはハロワに行ってみようかと思うわ」
彼女はテレビのチャンネルを、お笑い芸人の出ているバラエティ番組へと変える。
「……あーあ、わたくしもタランチュラのブリーダーとかになれたらなぁ」
雲海京香はこう見えて、無職なのだ。