第三奏 奏器《ダウ》の咆哮
イルヤは未だに木箱の前に立たされていた。
先程、自身の手――厳密には足だが――で開けた木箱の中に居た女の子の声の正体、エーヴィアは人間では無く妖精であった。
妖精という存在は、様々な民話やおとぎ話に頻繁に現れ、また現代にも実在することは分かっている。だがその数はとても少なく、基本的に人間の前に現れることは殆ど無いと言われている。
さらに、そういった物語に登場する妖精というのは、たいていがその物語における主人公を導く存在として描かれ、選ばれた者の前にしか現れないという設定になっている。
それが、こんな場末にある、古びた木の匂いが充満する倉庫の中の、さらにその中の木箱に入っているなんてことがあるのだろうか?さらに言えば、見つけた者は日雇いの身分であり、今まさに誰の目にも触れることなく孤独に死を迎えようとしている。
イルヤは未だに『危機的状況に陥った自身の精神が作り出した幻想』である可能性を捨てきれないでいた。
「妖精って、触れる存在なんですね」
だがしかし、まさに今、許可も取らずに自分の肩に座り始めた妖精――エーヴィアの姿、そして肩に掛かる小さな重みが、最終的な判断を鈍らせていた。
「そうみたいだね。良く分かんないけど」
相変わらず緊張感の無い返答であった。当の本人が「良く分かんない」で良いのだろうか。
「色々と聞きたいことはあるんですが、とりあえず今、可及的速やかに助かりたいので、助けて欲しいんですけれども。そろそろ限界が近いです」
「そうだね、人間はお腹がすくからね」
出会ってから初めて、エーヴィアは妖精らしい言い回しをした。「人間は」ということはつまり、妖精はお腹がすかないのだろうか?
「餓死というより、恐らく凍死が先なのではないかなと思っています。今かなり眠いです」
実際イルヤは今、身体の震えが止まらない状態であり、徐々に意識が遠くなっているのを感じていた。にも関わらず、心中はむしろ穏やかな気持ちになりつつあり、体温が低くなると人間眠くなるというのは本当だった。
肩に乗っているエーヴィアにもその震えは伝わっており、そのため座り心地が良くないようで、時折イルヤの髪を掴んでいる。その髪の痛みは不快だが、眠気防止には良いかもしれない。
「そ、それで、どうすれば良いんですか? これ……」
歯が噛み合わなくなりつつあるイルヤは両手で身体を抱くような姿勢を取りながら、自身の足元にある物体に目を落とした。
木箱の中には、更に一回りか二回り小さな木箱が入っていたのだが、非常に高級な木材が使われていた。さらにその箱の上蓋を開けると、破損しないようにという配慮だろう、幾重もの柔らかな稲が丁寧に敷き詰められており、まるで伝説の剣のように、それは箱の中に収められていた。
大きさはイルヤの丈の半分ほどはあり、艷やかな銀色をしている。全体的には動物の化石のような無骨さがあるが、細部の形状は斧の刃にも似た美しい曲線を描いている。先端から末端にかけて、四本の弦のようなものが張られており、遠くから見ればそれは大きな盾のようにも見えるかもしれない。そして、それと対をなす小剣のような、細長い銀色の棒のようなものがその横に収められている。
それはエーヴィアと共に木箱に詰められていたもので、どちらかと言えばこれを収めるためのものだったのだろう。ちなみに、箱に結ばれていた青色のリボンは今、エーヴィアが服代わりに身体に巻いている。
エーヴィアが言うには、これは奏器と呼ばれる楽器の一種だという。
「俺も楽器がどういうものかくらいは知ってますけど、見たことないですよ、こんなの」
目の前にある物体は楽器というよりも、どちらかというと武器のように見える。
「そりゃそうよ。なにせ特注品だからね、これ」
「はあ」
高級な木の箱に入っていたことを考えると、確かにその可能性はある。それにしても、エーヴィアは随分とこの楽器について詳しい。
「そんなことは良いからさ、ちょっと試して欲しいことがあるんだけど」
そう言って、エーヴィアはイルヤにあれこれと指示を出し始めた。イルヤの疑問は増える一方だったが、ひとまずはエーヴィアの言うとおりにすることにした。
最終的に、大きな盾のような物体は地面にまっすぐ立たせ、左手でその先端部分を支える形となった。さらに右手には銀色の棒を持っている。
「お~、結構さまになってるじゃない!」
エーヴィアは奏器を構えたイルヤを見て、興奮気味にそう言った。
「そうですか、それはどうも……」
一方、イルヤは足の震えを抑えながら、淡々とそう言った。
見た目からかなり重厚感のある楽器だったが、その見た目通り、地面に立たせて抑えるだけでもそれなりに負荷が掛かる。
「じゃあ、左手はこのあたりを押さえてね……そうそう、そんな感じ」
エーヴィアは浮遊してイルヤの左手付近に近づき、両手でイルヤの左手の位置を調整した。
「俺は何故、楽器を持たされているんでしょうか?」
「いいからいいから。それじゃ、その右手に持ってる弓で、この4本の弦を力いっぱい擦ってみてよ」
「擦る?」
「こう……こういう、感じで……」
エーヴィアはイルヤの右手に持った銀色の棒――弓と呼ぶらしい――を両手で持ちながら、本体側の楽器に張られた弦の上を左から右へ滑るように動かした。
「この弓にも細かい弦がたくさん張られていて、本体側の弦と擦ることで音が出るんだよ」
「なるほど……」
「じゃ、やってみて! 思いっきりね!」
未だにその目的とする所は分からないが、イルヤは先程言われた通り、弓の根元を本体側の弦の左側に置いた。
深く息を吸って、吐く。そして――思いきり右手を横へ引いた。
直後、爆音が轟き、イルヤは自身の耳の鼓膜が直に揺らされているような感覚を感じた。
自分の手にしている奏器が大きく震え、手を伝わり身体全体が震えているようだ。
それは優美な音でも、軽快な音でもない。どちらかというと、何かの動物の鳴き声のような、そんな音だ。今まで耳にしたことのあるどんな音楽的な響きとも似ても似つかない、非常に低く、不安定で、不思議な音。
イルヤはたった今自分の行動により発生したその意外な音の響きに、更に言えば思ったよりも大きな音だったことに驚いたが、とりあえずそのまま右手を引ききれる所まで引ききった。
十秒くらいだろうか。その不安定な音が倉庫の中にしばらく響き渡り、そしてゆっくりと余韻を残しながら消えていった。
大きな音が頭の中で反響したせいか、イルヤは再び目眩を感じながらエーヴィアの方を見た。
「……」
なんと彼女は自身の耳を両手で塞いでいた。更にはなぜか目も閉じている。
静寂が訪れてから数秒して、エーヴィアはゆっくりと目を開いて両手を耳から離した。
「いやー、やっぱり思いっきり不協和音を鳴らすと破壊力があるね。うん」
「そういうの、事前に説明しておいて欲しかったですね。耳がすごいキーンとしてるんですけど」
「演奏者はほら、両手塞がちゃってるからね。仕方ない!」
どうやら「仕方ない」らしい。
一瞬の轟音の後だからだろうか、倉庫の中の静寂がより強くなった気がした。そして結局のところ、イルヤはただ楽器を思い切り弾いただけだった。
「それで、この後どうなるんですか? 今の大きな音で、誰かが来てくれるのを待つんですか?」
音に気付いた誰かが助けに来る――たった今行った動作の目的はそれが一番合理的であるかのように思えた。だが、いくら大きな音だからと言って、今のが3キロも離れた港町まで届いているとは考えにくい。
「ノンノン!」
しかしエーヴィアは良く分からない言葉と共に人差し指を口元で左右に振るのだった。それは否定なのか?肯定なのか?
「……」
かと思えば、エーヴィアは突然神妙な面持ちになり、右手を耳に当て、遠くの音を聞くような素振りを見せる。
「……」
エーヴィアが黙ってしまったので、特に言うことも思いつかないイルヤもそのまま黙った。
そして再び倉庫内は静寂に包まれた――と思ったのだが。
「(……なんだ?)」
イルヤは自分の足元に違和感を覚えた。最初はその正体に気が付かなかったが、それが微弱な振動であるということに気が付いた。
何故なら、先程までエーヴィアと奏器が入っていた木箱がカタカタと音を立て小さく左右に移動し始めたからだ。
「来た!」
エーヴィアがそう叫んだ直後、振動は徐々に大きくなり、やがて周囲の大きな木箱までが振動し始めた。そしてどこかから、地鳴りのような音が聞こえてくる。
「ちょ、なんですかっ、これ!?」
倉庫全体が揺れ動き、まるで地震が起こっているかのようだ。もしくはさっきの音が地震を呼び起こしたとでも言うのか?
「とりあえず、イルヤ君は伏せてた方がいいかも!」
そのエーヴィアの言葉と共に、イルヤの目の前にある倉庫の壁が破裂した。
「うわ!?」
反射的にイルヤは両手で頭を抱えてその場に伏せた。異常な程大きな振動と地鳴りの音。そして視界の隅の方には、非常に太く、ひび割れた灰色の足が何度も現れては消えていく。
自分の横を巨獣の群れが走り抜けているのだ。
巨獣の群れは鳴き声を上げながら倉庫の壁をぶち破り、周囲の木箱を吹き飛ばし、怒涛の勢いで走り抜けていく。
その鳴き声にイルヤは聞き覚えがあった。何故なら、それは先程自分が例の楽器で発した音にとても良く似ていたからだ。
「ひいぃー!」
圧倒的な轟音と振動と砂ぼこり、それらが嵐のようにイルヤの周囲を駆け巡っていく。イルヤは身動きを取ることも出来ず、その場に屈み込んで自分が吹き飛ばされない事を祈るしか無かった。
――いつの間にか、周囲には静けさが戻っていた。
イルヤは頭上に振った木片を払いながら、ゆっくりと顔を上げた。
先程まで上下左右、どこを見ても木の板だった壁や天井は蹂躙され、もはやそこは倉庫とは呼べない、あまりにも変わり果てた姿となっていた。もはや、森の中の一部といった状態だ。
何かに背中をつつかれるような感覚がしたイルヤは「うわ!」という声と共に振り返った。
「……」
そこに居たのは、先程この倉庫を襲った巨獣の子供のようだった。イルヤと同じくらいの背丈で、どこか親しげな雰囲気を感じる。
「これは、マトラか……」
マトラは四足歩行の獣だ。巨獣だが温厚な草食の生物として知られており、その角は高価で取引されている。
「あ! 無事だったんだね」
エーヴィアの声が聞こえて頭上を見ると、少し離れた所にある木の枝に座っていた。
「森の中で痺止草が群生している場所は、マトラが住んでるんだよね。その子たちって、痺止草が大好きだからさ」
「今のは、何だったんですか?」
「驚いた?」
「いや、驚きましたけど」
「……そう、今のがその楽器の持つ音の力! そして“バード”の能力なのだ!」
木の枝の上で不思議なポーズと共に得意げな顔をするエーヴィアに対して、イルヤは真顔のままだった。
「これ、倉庫とか在庫の責任とか、どうなっちゃうんだろう……」
そう呟いて仰いだ空は、深い紺色から徐々に赤く色を変えようとしていた。
かくして、イルヤとエーヴィアの出会いの夜は明けていくのだった。