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第ニ奏 エーヴィア

イルヤは再び木製の箱の前に立っていた。


だが今回は果物が入っている箱ではない。そもそも何が入っているのかも分からない。配置票にすら掲載されていなかった。つまり本来この倉庫には存在してはいけない箱だ。


「いや~、そっかそっか。そういう感じな訳ね~はいはい、なるほど」


イルヤが自分の状況を箱に向かって説明すると、箱の中からは確かに先程聞こえたのと同じ、女の子の声が聞こえてきた。なぜか口調も気さくな感じになっている。


つまり、先程聞こえた声は、倉庫の外からではなく、倉庫の中の、さらにその箱の中にいる存在だったということで、イルヤは引き続き窮地に立たされているのであった。


「それにしても初日からそんな目に遭うとか、ついてないね~。まあ、私も、ある意味ではついてない感じなんだけどさ~今。お互い大変だね」


大変だね、という割には緊張感が全く伝わってこない言い方だった。


「あ、私の名前はエーヴィアって言うんだけど……私のこと、知ってる?」


エーヴィアは、何故か知っていることが前提であるかのような聞き方で自己紹介をしてきた。


「当然ながら知りません」


「ええ! ……そっか。まあいいや。それで、君の名前は?」


「ええと、イルヤです」


「そっかそっか。よろしく! イルヤ!」


この状況下にはあまりにも不釣り合いな明るさで、箱の中の女の子――エーヴィアは挨拶をしてきた。


「……俺、いま、箱と話をしているのかな? ついに孤独と恐怖に耐えきれなくなって、箱と話せるようになっちゃったのかな俺は?」


「いやいや、わたしは箱じゃないから!」


「まあ、君が箱だろうと箱じゃなかろうと、俺が助かる見込みは全く無いという事実には変わりがない訳で……」


「ちょっとー! 君まだ28歳でしょー? 全然これからじゃん人生!」


「うん、まあ寿命的にはね、これからかもしれないけどね」


「はあ、なんか、目眩がしてきた……」


それは果たして、この倉庫の中に何時間も閉じ込められているからなのか、箱と話している今の自分を客観的に見たらどうだろうかと考え始めてしまったからなのか、イルヤにとって判断が難しいところであった。


「それで、どうして箱の中にいるんですか?」


何はともあれ、この箱の中に居るらしいエーヴィアが、イルヤにとって唯一の話し相手であり、ここから出るための取っ掛かりになるかもしれないのは間違いない。ゆえに、イルヤはとりあえず、再び箱に向かって話し始めた。言葉遣いもとりあえず丁寧にしておいた。


「いや、それが自分でもよく分からなくて……目が覚めたらこうなっていたという感じ?」


「はあ」


要領を得ない答えに、イルヤは曖昧にうなずくしかなかった。


「とりあえず、ここは倉庫の中で、更に私は箱の中に居るらしいということは分かった」


「そうですね……」


「君、びっくりするほど興味無い感じの返事するよね?」


箱の中のエーヴィアの声は不満げなご様子だ。イルヤはまた「はあ」と曖昧に返事をするしかなかった。


「まあいっか……ちなみになんだけど、この倉庫ってどこにあるの?」


「ここですか。ここは海沿いの森の中ですね。最寄りの港町へは3キロくらい離れた場所です。そして今は深夜なので、ここに近づく人は殆どいません」


「なるほど、そこそこ厳しい状況だね」


本来なら自分よりもこの箱の中に居る人の方が危機的状況である筈なのだが、相変わらずエーヴィアの「厳しい」という言葉には緊張感が無い。そんなことを考えながら、イルヤはまたぼんやりとした返事をする。


「まあ、そうですね」


「ちなみに、近くに川はある?」


「川ですか……?」


そう言えば、この倉庫に来る途中、川を渡る端を通った記憶があった。


「そんなに遠くないところにあったと思います」


「ほーん。じゃあ、痺止草ひしぐさ火種花ひだねばなは?」


痺止草ひしぐさは薬の原料となる草の一種だ。雨季の終わりに多く出現する。火種花ひだねばなは花びらを集めて棒で擦ると燃えやすい花であることから、火付け用に重宝されるためそういった名前が付けられている。こちらは冬に咲く花だが、この辺りではあまり見かけない。


痺止草ひしぐさは良く見かけますね。丁度いま雨季が終わりかけなので。火種花ひだねばなはあまり見ないかな……」


「ほーん。今は雨季終わりなんだね、そうかそうか」


エーヴィアは不思議な相槌を打ちながら、何やら納得したらしい。一方イルヤにとっては、どうしてこんなことを聞くのだろうと、既に存在する多くの疑問の中に、また一つ疑問が追加されただけだった。


「もしかすると、これはイケるかもしれないぜ?」


さらに、エーヴィアは何かがイケることを確信したようだった。


「何の話ですか?」


「ここから出る方法に決まってんでしょ!」


イルヤは三回目の「はあ」を吐き出した。お互いが見ているビジョンがあまりにもかけ離れている。


「もしそれが本当なのであれば、大変お手数なんですが、ここから出して頂けますでしょうか」


あまりにも真偽が定かでは無い話だったが、イルヤはとりあえずお願いしておくことにした。


「なんで突然よそよそしい態度になってるのかな君は?」


「むしろ、丁寧にお願いした感じを出したかったんですが」


「ふーん、まあいいけど。そしたらまず、君がこの箱を開けてくれないかな?」


「はあ」


「君、今後『はあ』っていうの禁止ね!」


「はあ」


「って、おい!言ったそばから無視かい!」


「ああ、つい……でも、倉庫の中の物を勝手に壊すっていうのは、どうなんでしょうか?」


「真面目かっ! そこから出たいんでしょ!」


「まあ、そうなんですけど」


イルヤは再び熟考しなければならない立場に立たされてしまった。目の前の木の箱は、他の箱に比べると、大きさも半分以下で、やりようによっては壊すことが出来るかもしれない。配置票にも記載されていないのだから、厳密に言うとこの倉庫の商品ではないかもしれない。だが、今日の倉庫管理の担当者は自分であり、後日箱の損壊について問い詰められたらと考えると、胃が痛くなってくるのであった。さらに賠償まで要求されたらと思うと……。


「……」


そこまで考えて、イルヤは考える事を一旦やめた。自分はいつも後々のことを考えては胃が痛くなり、怒られないようにして生きてきた。だがそういった無駄な気遣いは何の役にも立たず、誰にも感謝されず、こうして今ひとり、孤独に倉庫で野垂れ死のうとしているのではないか。


「……分かりました。なんとかしてみます」


そうして、イルヤは人生で初めてと言えるかもしれない、小さな謀反を起こすことに決めたのだった。


「おお、そうこなくちゃね!」


箱の中のエーヴィアも、どこか楽しげな様子でそう答えた。


「ちなみになんですけど、箱を持ち上げて、床に叩き落としたりしても大丈夫ですか?」


大きさ的に持ち上げることも可能そうなので、それが出来れば割りと容易に開けることは出来るだろう。


「明らかに大丈夫じゃないよね?」


「やっぱダメですか。エーヴィアさんが中に居ますもんね」


当然の返答が来て、イルヤは少し安堵した。エーヴィアにも最低限の常識があるらしいということが分かったからだ。


「いや、私がっていうより、この箱の中にあるモノって壊れ物だからさ……」


だがエーヴィアの答えは、イルヤの想像していたものとは違っていた。


「エーヴィアさんの他に、何かが中に入ってるんですか?」


「ああ、そういえば言ってなかったっけ」


「そうですね。何が入っているんですか?」


「ふふふ、それは開けてのお楽しみだ!」


「……」


何故か楽しげなエーヴィアの返事に、イルヤは突然投げやりな気持ちになってきて、右足で軽く木箱を蹴った。


「うわっ! ちょっ!」


突然の衝撃に、流石のエーヴィアも少し驚いた様子を見せた。そしてその声の直後――


「あれ?」


「あれ?」


箱の側面のひとつがパタンと倒れた。丁度イルヤの正面にあたる位置だ。


「……」


イルヤはエーヴィアの姿を見て、一瞬言葉を失った。


肩まで伸びる金色の髪と緑色の瞳、背の高さはイルヤの四分の一程度だろうか。一般的な人間よりもはるかに小さい。それは箱のサイズからある程度予想できることではあったが、置かれている状況のことで精一杯であったイルヤは、そのことに今まで気付かなかった。


そしてなにより、エーヴィアの背中で、小さな羽がパタパタとはためいていたのだ。それは、イルヤが聞いたことのある、珍しい生き物の特徴と一致するのだ。


「……妖精、だったんですか?」


それは紛れもなく妖精の姿だった。


さらに言うと、エーヴィアは一糸まとわぬ姿だった。胸部には控えめな膨らみがあり、イルヤは条件反射でそちらへと視線を動かした。その視線に気付いたエーヴィアも、自分の身体へと目を向けた。


「うわわわわ~~!」


直後、両手で胸を隠しながら木箱の奥へと引っ込んでいった。


「……」


イルヤはその一連の騒動に対し、何も反応することが出来ず、暫くそのまま立ち尽くしていた。


やがて、エーヴィアおずおずと箱の中から顔だけを覗かせてこう言った。


「あの、えーっと、どうも……えへへ」


神聖という言葉からはあまりにもかけ離れた妖精との出会いに、イルヤは再び目眩を覚え始めていた。

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