55話目 虚構の理想
薄暗い部屋だった。
モニターの明かりだけが部屋を照らしている。
その中で、薄汚れた白衣が揺れた。
「ようこそ、天才マッドサイエンティスト、プリティ・ドクの研究室へ!」
「はっ?」
ぼさぼさの白髪に眼鏡をかけた、白衣の女博士
右手をVサインに親指も立てた状態で右目に掲げ、愛くるしいポーズを決めている。
朱の鋭利な刃物のような、冷淡な声で反応を返すが、とくに気にした様子もなく一同を見渡す。
「ここだけは私の天才的科学技術によってアレの管理から逃れているんだ。というわけで……」
ドクは悪戯な、狂気の笑みを浮かべる。
「初めまして、私がドクだ」
マッドサイエンティスト。そこには微塵の戦闘力もないはずであった。
それでも尚、対峙した人間は一人残らずその異様な雰囲気に背筋を凍りつかせる。
それは、彼女が創り出した作品たちの脅威を知っているから。
彼女の作品であるこのユートピア、朱、ゾーイ、アトランティス、その他の各機関が保有するテクノロジー。
その全てが、この一人の乙女じみた博士を中心に回っていた。
アルカディアにおいて、参加するだけで戦争の勝敗を決するといわれた者たち。
それに匹敵する、ユートピア側の強者が彼女であると、認めざるを得ない。
「さてさて、呆けている場合じゃない。君たちのご主人様が生きるか死ぬか、ここで見届けようじゃないか」
ドクは一際大きいモニターを見る。全員がその視線を追う。
そこに映し出されていたのは暗闇と、結城と、輝く水晶だった。
「マスター!」
「結城じゃないか、くそっ、一足遅かったというわけか」
「結城はこれから神と戦う。それはそれは過酷なことになるだろうね」
神、という単語。
科学者がその言葉を使うことの意味。
「アレが、お前の究極傑作か? ドク」
「ああ、そうとも。あろうことか、人工知能に転生した理想人。ユートピアの中枢にして管理・支配する者。機械仕掛けの楽園、楽園の神……デウス・エクス・マキナ」
「ドク、質問があります」
「どうぞゾーイ。興味、好奇心まで獲得させてしまうなんて、さすがは結城といったところか」
「生命は、人工知能に転生することができるのですか?」
率直な疑問をまっすぐにぶつけたゾーイ。
この場にいる全員、それが気になった。
「可能だよ」
ドクはあっさりと言い切った。
「ただし、人工知能となった以上、もはや彼には自我は無い。自我だったものがデータとして存在するだけだ」
「それは、私とは異なるものなのですか」
「ゾーイの場合は、あらゆる多様性と可能性を持つ、いわばXだ。しかし、アレの場合は既に完結している。欲望どころか雑念一つありはしない。いわばΩ(オメガ)。あれは彼の理想を実現させるための、いわば最終形態だ」
自分が望んだ理想を叶える為の存在。
そこに余計な感情はなく、感傷もない。
かつて意志であったプログラムと、かつて理想であったシステム。
自らの命を犠牲にしてまで、一体何を理想としていたのか。
「それを、今から見ることができるというわけさ」
画面に映る結城と、一つの人間一人ぶんの大きさの水晶。
対峙する二人。
理想戦争の決着の時が近づいていた。
ふと気がつけば、そこは先ほどまでとはうって変わって、暗闇の中であった。
しかし、唯一つの光源が、虚無のような闇黒の部屋と、結城を照らしていた。
「あんたか。この理想を創ったのは」
結城の問いに、若い男の声が答えた。
「ここはユートピア。私の理想郷」
「正しい者が報われ、優しい者が救われる世界?」
「正しく、優しい者が護られる世界」
結城は笑みをこぼした。
心の震えがくすぐったかったからだ。
相対している理想の綺麗さを目の当たりにして、光栄に思ってしまったから。
この理想は、今まで出会ったどの理想よりも純粋で、素敵で、綺麗で、神々しい。
「貴方の行動は、この戦争を通して観察していました。ガンダーラから、今日、此処に至るまで」
「俺を?」
「私はこの戦争の全ての情報を収集しています。その中でも、私の目は貴方に惹かれた」
「俺なんかに? 安全無欠や、闇黒ノ徒でも、アルカでもなく、俺に?」
「そうです。その理由を知りたい。教えてください、貴方の理想を」
結城の理想。
それは永く見続けた夢、追い求めた幻。
しかし、長い旅の中で、薄れてしまった光。
必死に、我武者羅に、死に物狂いに追い求めた結果、定めるべき像がぶれてしまった。
それでも諦めなかったが故に、自分は此処に、こうして立っている。
二度目の旅。
一人の乙女の問いかけが、自分の掲げるべき理想を、執着すべき妄想を思い出させてくれた。
白銀の刀剣のように、凛と美しい乙女。
彼女が思い出させてくれた、自分自身の執着していた妄想、追い求めていた理想の根源。
「正義の暴虐を捻じ伏せるために、悪党の毒牙を叩き折るために」
結城の口は、祝詞のように呟き始める。
「あらゆる悲劇を覆すために。あらゆる摩訶不思議に触れられるように」
「恋しい人と結ばれるように、愛しい人と添い遂げられるように」
「そして導き、そして比べあい、そして飲み交わし、そして語り明かし、そしてやり尽くす」
「願い望み、欲し求め、乞い祈り、思い描き、想い呟く」
「現実を覆えし、実現させるために。自らの世界を妄想し、独創するために」
「世界を、創るために……妄想独創」
結城の持つ剣は、六角水晶へと姿を変える。
その輝きは、ユートピアの水晶に勝るとも劣らない眩さを秘めていた。
「そして、不思議と不可思議と、摩訶不思議を楽しむために……伝わるか、これで」
「貴方も私と同じ、理想の世界を求めた……」
「あんたとは違って、現実には求めなかったがな。俺にとっては、俺の世界だけが本当だ」
「貴方にも、この世界で救われて欲しかった」
「俺がここに生れ落ちたら、それもよかった」
手にした水晶が、結城の想いに共鳴するように強く輝く。
「でも、今はもう必要はない。俺にも叶えたい理想がある。あんたの優しさは受け取っておく」
「それは、私が実現する理想よりも、素敵なものなのですか」
「百聞は一見に如かず。言葉は尽くした。あとは見せ合って、ぶつけ合うだけだ。だろ?」
「確かに」
ユートピアの水晶の輝きが、部屋の暗がりを全て塗りつぶす。
「仮想実現システム:デウス・エクス・マキナ起動」
光が集い、物体となって再構成される。
そして結城は異変に気付いた。
「これは……なるほど、そういう力か」
結城を支える体から力が抜け、膝が屈した。
間も無く、ゆっくりと倒れこむ。
硬い床に突如現れた柔らかな寝台が結城の体を受け止めた。
「救われ、報われれば、もう妄想に囚われることもない。君は幸せになるべきだ。私の世界で」
その様子を見ていた観客は動揺する。
「マスターッ!」
「あの水晶、何かを……銀風、見えまして?」
「ああ、あれは妄想共有に近い何かだ。あの水晶が何かをしたようだな」
「で、ドク。奴は何をした。お前なら分かるんだろうが」
朱の問い詰めに、ドクはあっけらかんとして答えた。
「簡単なことだ。結城は仮想現実に引き込まれた」
「仮想現実?」
「二人の居る空間そのものは、君らがさっき居たZOEの仮想実現システムと同様のものだ」
ユートピアが行ったのは、その更に内側に引き込む行為。
結城の記憶を検索し、前世の情報を収集。
それを元に作った仮想現実に、結城の意識を引き込む。
「そして結城は仮想現実において、その現実において起こりうる、その人間に最適な、理想の人生を歩むことが出来る」
「理想の人生というと……」
「さあ、それは人によるだろう。裕福な家庭に生まれ、何不自由なく暮らし、友人と遊び、多少の悪事を働き、恋人を作り、青春を謳歌し、やがて結婚し、幸せな家庭を築く……なんてね」
「…………」
レイランたちは沈黙する。
レイラン、銀風、新月、チェリー、彼女らは結城の過去を聞いていた。
不条理と理不尽を許せず、しかしそれを押し付けることなく、自分は自分の妄想の世界で幸せを築き上げた。
彼にとって、現実で幸せになるとはどういうことなのか。
「なんにせよ、自分の理想が叶ってしまうのだから、そこから脱することはほぼ不可能だろうね。意識だけを取り込んだなら、肉体に残っている此処での記憶は思い出せないはずだ」
つまり、ユートピアの仮想現実から逃れることが出来る可能性は、ほとんどない。
絶望的な話に、レイランたちは言葉を失っていた。
「…………」
鉛のように重い空気がのしかかる。
「ふ……ふふ……」
そんな中で、二人のパーヴァートは笑っていた。
「はは、なんだ。その程度のことか。心配して損したぞ」
「ですわ。そんなことくらいで彼が自分の妄想を諦めきれるなら、最初から苦労なんてしてませんわ」
そのあまりにも軽い口ぶりに、ドクが驚いてしまった。
「へぇ、二人とも随分と余裕だね。そっちの剣士は心底心配そうにしているけど」
「銀風、どういうことですか。マスターに何か秘策が?」
「まあ、レイランはパーヴァートじゃないから、ちょっと分からないかもしれないな」
銀風は倒れている結城を見つめる。
「ふふっ、奴の抱える妄想は、現実が許容できるようなモノじゃない」
銀風は確信に満ちた表情で語る。
「私の心を虜にした結城という男は、現実で満足するような奴じゃあない」
「銀風の言うとおりですわ。結城の抱く妄想は、惨いほどに深く、そして哀しいほどに強い」
それはどれほど強く望んでも届かない。
どれほど報われなくとも、決して諦められないほど深いところに根を張る妄想の世界。
結城が抱く妄想は、それほどに深い。
妄想を抱く結城は、それほどに強い。
「最初から生まれる場所を間違えていたんだ。それが奴にとっての一番の悲劇だろうさ。だがもう心配は要らない。奴は自分の妄想を叶える手段を得た。それをみすみす、理想の現実と引き換えにするほど、安い男じゃない。私は、そんな彼の想いの強さに惚れたんだ」
「ええ、銀風の言うとおり」
新月もまた銀風と同じ意見だった。
「人間、生きていれば誰もが妥協を知りますわ。結城もきっとそう。前世では数え切れない妥協をしてきたでしょう。ただ一つ、自分の望む妄想にだけは、一切の妥協を許さなかった。その頑なさ、執着し続ける強い姿に、私は魅入られてしまったのですわ」
パーヴァートである彼女らだけに理解できる、結城は大丈夫という確信。
レイランはしかし、不安を拭いきれない。
「ですが……」
「まあ見ているといい。私たちの愛しいあの男は色々と忘れっぽいが、不死鳥並みに蘇るからな」
「やけに自信満々だなぁ。一応、相手は私の究極傑作なんだけどなぁ」
「アレはお前の創作物かもしれないが、同時に対等な一人の理想の形だ。なんにせよ、私は結城を信じるだけだ」
ドクは椅子に体を預ける。
「仮想現実がどういう影響を及ぼすのかは、私にも分からない。とはいえ、決着にそう時間はかかららないよ」
誰もが寝静まり、虫の音と風の音だけが響く夜。
幾つも立ち並ぶ建物も照明を落としている。
しかし、一棟だけ、窓から照明の明かりが漏れていた。
「深夜2時。これで一ヶ月連続。一月の残業時間100時間を越えた」
建物の屋上に居る男が呟いた。
「酷いものだ。これだけ活動していても、まだこういう企業は絶えないのか」
すると、耳に装着しているヘッドセットから声がした。幼げな少女のような声だ。
「そのための私たちですもの」
「それはそうだがな、月隠……これじゃいつまで経っても安心して働ける社会なんて実現できるわけがない」
「ふふ、でも私は貴方と一緒にこの仕事が出来て、毎日がとても充実してますわよ? 私にとっては、十分な社会ですわ」
「それは光栄だな」
他愛もない会話をしていると、新たな声が会話を遮った。
「社長、こちらの準備は既に整っています。いつでも突撃可能です」
「早くしようぜ結城! こんな違法企業、さっさとぶっ潰しちまったほうがいい!」
冷静で静かな、凛とした女の声と、荒々しい声の男の声。
「そうだな。総員10秒後に突入。制圧しろ。夜海、データは確保してあるな?」
「当然。勤務時間の改竄履歴、監視カメラの映像まで全てを保存してある。突入開始と同時に、その企業のあらゆるデータを凍結させるよ」
「さすがだ。それじゃあ……行くぞ」
窓ガラスを突き破り、一人の影が広い部屋に侵入した。
「なっ、なんだ!?」
「ブラックブレイクカンパニー、と聞いて分かるか?」
室内は作業デスクが並び、深夜だというのに未だ多くの社員が残業をしていた。
「この企業の違法な行いは既にこちらで把握してるぜ。全員お縄につきやがれ!」
企業の入り口、誰も居ないはずの、しかし照明がついたままの受付ホール。
そこに黒井スーツを着た一人の女性が入り口から足を踏み入れる。
黒の服の上に長い銀髪が彩り、見るものの目を惹く魅力があった。
「鈴蘭 御剣、参ります」
「オメェさんが噂のブラックブレイクカンパニーか」
通路の影から、ぞろぞろと人影が現れる。
その誰もが強面の男性で、間違いなく2、3人は殺して居そうな雰囲気があった。
そしてその手には銃器の類があった。
「あなた方は、守護天使……に雇われた狗ですね」
「テメェ、自分の状況分かってんのか? そんな刀一本で何かできるのか?」
「……月隠」
鈴蘭が呼びかけると、次の瞬間、レイランの背後のガラスが割れ、何かが強面の足元に転がった。
「あぁッ!?」
瞬間、強烈な光が目を潰し、音が耳を麻痺させた。
「ぐっ!?」
「がっ……」
驚き、乱射する者や、音と光に反射的に身をちぢこませる者などが居る中、鈴蘭は右往左往する男たちを手にする日本刀の峰で打倒していく。
僅か15秒で、十数人の男たちを制圧した。
「社長、こちらは完了です」
「お疲れ様。奴らがくるまでその場を確保しておいてくれ。油断しないように」
「はい、そちらもお気をつけて」
「結城! 私にも何かコメントがあってもいいのではなくて?」
「月隠もよくやった……今度は何が欲しいんだ」
「それはもちろん、愛の言葉を」
「……あとでな」
「もう、恥ずかしがりやですのね……って、あれ? 結城? 結城!? 切られましたわ!」
「というわけで、お前の会社はもうこっちで制圧した」
「なんということだ……」
一人の小太りの老人が、寝室の床に跪く。
「私が、私がどれだけ苦労してあの会社を維持し続けてきたか……」
「よく言うぜ。労働者はお前なんかとは比べ物にならないくらいに苦労していただろう。まさに死ぬほどに」
「私は経営者だぞ! 企業の全責任を負っている!」
「責任を負っているなら残業代くらいキチンと払うべきだったな。ただでさえ時給換算では最低賃金を下回る法外な額だったというのに」
「それが仕事だ! それが嫌なら辞めてもらって一向に構わない!」
「嫌なら辞めろか。自分の嫌なことはやらずに済ませるくせにな」
結城は懐から拳銃を取り出す。
「ま、待て! まさか……」
「ただの護身用だ。許されるならお前のいたるところに風穴を開けてやりたいが、そんなことをしても労働者にはなんの得もない。死人にもな。それに……」
結城は経営者に銃口を向け、狙いを定める。
経営者はまるで蛇に睨まれた蛙のように怯え、動けずにいた。
「そう簡単に死ねると思うな。お前は経営者から最底辺の更に下まで落とされる」
少子高齢化、ニートの増加、過労死者の続発。
もはやこの国では、労働とは自らの命を切り取って売ることを意味していた。
あまりに深刻なその問題に、とうとう国は対策を打たざるを得なくなった。
そこで発案された違法企業を取り締まるための組織。
法律を犯し、何度も注意勧告され、一向に労働環境に改善が見られない企業に潜入、調査し、執行する組織が生まれた。
違法な、あるいは非人道的な経営を現行犯で取り押さえ、あらゆる資産を差し押さえる。
結果、労働者は働く場所を失うことになるが、経営者と違法経営に加担した労働者が持つ資産は、全て労働被害者へと分配される。
また、経営者の意思とは関係なく、違法な労働を強制する労働者に対しても対策がなされている。
労働者の要請、経営者の協力によって、非人道的な労働を強制する労働者、例えば管理職に対して解雇、そして労働被害者への賠償が命じられる。
こうして、国内での労働環境は改善をはかっている。
ニートに就職の意欲を湧かせ、労働者に適正な賃金を支給させるようにすることで、労働者も将来の不安を抱くことなく、過剰な節約志向から脱することが出来る。
違法企業への潜入調査、そして強制執行を請け負う企業があった。
労働者のための企業、ブラックブレイクカンパニー。
基本的には、労働者から以来を受け、国が定めた正規の手順に乗っ取って調査し、国の許可を得て執行する。
結城はその企業のいわゆる社長であった。
違法な企業は潰しても潰しても存在していた。
キリがないながらも、それを解決できる力を得て、人々が少しでも救われ、人々の努力が報われる社会への実現に貢献できているのは嬉しかった。
信頼できる友人、仲間。慕ってくれる恋人。
言うなれば充実していた。十二分なほどに幸福であった。
しかし、ふと頭を過ぎるのだ。
自分が求めていたのは、こういうものだったかと。
「結城、今日は妄想演劇のDVDの発売日ですわ。買いに行きますわよ」
妄想演劇。
それはこの世ならざる剣と魔法の物語のアニメ。
空想と幻想と理想と夢想と妄想のごった煮。
いい年齢の大人が、こういうものにハマってしまうのはどうかと思うが、しかしどうにも、自分はそういった夢物語の御伽噺に目がなく、月隠も同じだった。
この世界には、魔法などないし、妖精や妖怪、魔物など実在しない。全ては絵空事である。
そんなことは分かっているのに、どうにもそれを求めずにはいられないのだ。
まるでそこが自分の在るべき場所であるかのように。
そしてふと蘇る記憶。
色とりどりの幻想、広く自由な幻想、深く魅惑的な夢想、より豊かな妄想。
画面の奥で動き回る主人公に、赤面する美少女に、彩られる魔法に、摩訶不思議に心が躍る。
狂おしく、求めずには居られない、衝動がどこから来るのか分からない。
自分は今のままで十分幸せじゃないか。
これ以上、何を求めるというのだ。
二次元至上主義という言葉も聞いたことがある。
しかし、自分はこの三次元で何不自由なく生きてきた。
学生の頃はそれなりに異性に好かれていたし、友人も多かった。
成績もトップとまではいかなくとも、悪くはなかった。
何が不満なんだ? 何が不足なんだ?
何を求めているんだ、この心は。
一向に、結城は動く気配を見せなかった。
「遅いな」
「遅いですわ」
「マスター……」
「ドク、状況の説明をお願いします」
ゾーイの言葉にドクは首を捻る。
「どうやら、大分長引いているね」
「んなことは見れば分かる。何が起こっているのかを教えろ」
「そうは言っても、さすがにユートピアの中身までは覗けないしなぁ。とはいえ、予想はつく」
ドクは椅子から立ちあがり、薄暗い部屋を歩き回りながら話し出した。
「彼の理想は正しく優しい人を救い、報わせ、守護ること。ならば、結城はそれに引き込まれたんだろう」
引き込まれた結果、結城は前世において、最も理想的で、どれほど可能性がないことでも実現させることが出来る。
「つまりこのネクストワールドの亜種みたいなものだね。並大抵の理想では、その世界の供給に欲を満たされてしまう」
「それで?」
「ユートピアの引き込んだ世界の力を上回るには、引き込まれた者の理想がユートピアのそれより強くなくてはならない。つまり、どれだけ執着してるかで勝負が決まる」
「それなら、奴ならとっくに……」
「記憶は引き継がれないからね。まず自分が何を求めているのかを思い出すところから始めないといけない。これさえ乗り越えられれば、彼にも勝機はあるんだが……んっ?」
ユートピアの水晶が発する光が、明滅した。
「どうやら、勝機が見えてきたみたいだね」
気がつくと、結城は旅に出ていた。
自分が築いてきた企業の全てを次世代の人間に託して、今の結城は山の中を歩いていた。
どこまでも続く新緑と、穏やかな木漏れ日。見上げれば、枝葉の隙間から覗く青い空。
とても美しい情景。
その道なき道を行く、一人の老人の姿があった。
「まだ……まだだ……」
枯れ枝のように痩せ細りながら、しかし少なくない荷物をしっかりと背負い込み、一歩一歩進んで行く。
何が結城をそこまでさせるのか。
それは、抑え切れない衝動だった。
愛おしく、狂おしい情欲のように、抑え切れない欲望と渇望。激情のようの衝動。
沸き立つ血潮と、疼く骨、軋む肉。
謎の想いを秘めて、どこまでもどこまでも歩いて行く。
そして、結城の理想は果たされることはなかった。
「どうして、これでは不満なのですか。これでは足りないのですか」
ユートピアは結城の人生を初期化し、より理想に近づかせる。
それを何度か繰り返すが、どうやっても結城は満足できない。
結城の理想は満たされない。
「どうして、なぜ……」
「無駄だ。いくら偽りを重ねたところで、そんな虚構では結城の心は満たされない」
ユートピアの内側に、結城以外の何物かが侵入していた。
否、反応は結城のものとほとんど同一だった。
漆黒の髪から覗く真黒の眼、純黒の衣を纏い、闇黒の剣を携える男。
「貴方は……」
「結城はお前の思っているような正しい人間ではない。まあ優しくはあるがな」
「そんなはずはありません。この世界での彼の活躍は……」
「奴は善悪や正謝に惑わされるような男ではない」
「惑わされるなんて」
「お前がいい例だ」
黒の男の黒い眼光は、侮蔑の視線を向ける。
「優しさと正しさを貫くために、護るために、お前自身が犠牲になるなどと……最も救われるべき人間が救われないような思想など、思想を持つ者が救われない思想など、奴は認めまい」
「私は、救われている」
「お前がそう思うなら別に構わん。だが奴をお前の自己犠牲思想に染めようとするのは見過ごせん」
黒の男は剣を引き抜く。あらゆる光を飲み込む闇黒の剣を。
「奴は強い男だ。光と闇、相反する二つを内包し、冷酷な正しさを、優しき過ちを犯せる男だ。機械仕掛けの神如きに、私の若き芽を摘み取られるわけにはいかない」
闇黒の剣に、闇が集う。
「仮想実現システム起動……エラー発生」
「お前の仮想ごときが、我が闇を塗り潰せると思ったか」
生み出されるユートピアの水晶の光は、黒の男が宿す闇黒の剣に飲み込まれていく。
「結城には悪いが、万が一ということもある。こちらで片をつけさせてもらおう」
剣が纏う闇黒が形を成し、巨大な悪魔の手を模し、次の瞬間、襲い掛かった。
「ッ!」
突然、ノイズが走った。
悪魔の爪が水晶に触れる寸前で止まる。
「余計な世話だったか。まったく……」
正しく、優しく生きてきたのかもしれない。
それを護ることが出来るのは意味のあることなのかもしれない。
それでも尚、それよりも叶えたい理想がある。
それよりも願ってしまう妄想がある。
「正しさより、優しさより、清さよりも……」
そんな欲望は間違っているだろうか、過ちなのだろうか。
「いや、それでも……」
それでも尚、この想いは誰よりも強いはずだ。
この想いは誰にも劣らず、勝るはずだ。
「そこらの軽い妄想と一緒にするな」
その辺の俗物的な欲求と一緒にするな。
「深く、高く、遠く、激しく。俺の想いは、この命をかけるほどに……妄想独創!」
虚構の世界に亀裂が走る。
軋み、罅割れ、やがて砕けて散りゆく。
「俺の目指しているものは、親兄弟、友人でさえ及ばない、かけがえの無いものだ」
それは、現実には成し得ないが故に。
より深き友を、肉親よりも愛しい人を、結城は妄想に見出してしまっていた。
「どれだけ理想的な現実だろうと、現実は現実だ。俺はもう元の現実には戻れないし、戻る気もない。俺は、この妄想を実現したい。ただそれだけだ」
そして、結城は目覚める。
薄暗い部屋を、水晶の明かりだけが照らしている。
「まったく、不快な夢を見せてくれたな」
「不快……ありえません。貴方にとって最も理想的な環境を用意したはずです」
「……ああ、なるほど。そういう類の。なら無理だな」
結城は自分だけ納得した様子だった。
「俺はあの世界に未練なんてない。俺が求めた理想は、あの現実にはない」
「そんな、では貴方の求めた理想は一体……」
「言ったろ。不思議、不可思議、摩訶不思議。この世ならざる物を求める。そして俺の理想はついに果たされなかった」
それは即ち、現実において、結城の理想を叶えることは不可能だったということだ。
「穢れ切った世界と、薄汚れた人間。あそこは俺の嫌いなものばかりだ」
真上に手を翳し、己の妄想を、虹色の六角水晶を顕現させる。
「俺の求める物は夢物語の夢想、絵空事の空想、極彩色の幻想、御伽噺の理想、独創的な妄想のなかにしかない。現実なんて、お呼びじゃないんだよ」
虹色の光が、部屋を塗り替えていく。
広大な海原、雄大な大地、壮大な天空。青空には、七色の橋がかかっている。
膨大な妄想が顕現する。
「さあ、勝負だ理想郷。俺の妄想とお前の仮想の比べあいだッ!」
空間すら塗り替える結城の妄想。
対して、ユートピアも自らの仮想を投影し、平地を埋め尽くす兵器、能力者、異形が結城の前に現れる。
「ふふ……良いな。滾る。蓮華の言うことも分かる気がする」
「貴方は、私の理想を受け容れてくれると思っていました」
「冗談じゃない。お前の理想は確かに力強く、清清しく、きっと正しいんだろう。でも俺は正しさだけを求めてきたわけじゃない」
深い欲望と、猛る渇望、憧れの羨望。
正しさだけでは駄目だった。
眩い光の輝きと共に、深い闇の暗さも望まずにはいられなかった。
「こんな欲深な俺が、正しいだけで収まれるわけが無いのさ」
結城はその手にある虹色の六角水晶を、剣へと変化させた。
「決着をつけよう、ユートピア」
「ほら見ろ。私の信じたとおりだ」
「ええ、私の思ったとおりですわ」
銀風と新月のドヤ顔など気にする風もなく、ドクは哄笑と共に拍手を送っていた。
「はっはっはっはっはっは! すごいな! 本当にすごいな彼は! 一体どれだけの理想があればああなるんだい?」
「だがまだ勝負は続いている」
「はい。その通りです」
朱の言葉に、レイランが頷く。
「さて、二人の言うとおり。問題はここからだ。あのスパコンの完成形ともいえるユートピア相手に、どれだけ前線できるか……見ものだね」
ユートピアの仮想システムが生み出した圧倒的戦力と物量。
しかし、結城は余裕の表情を浮かべていた。




