54話目 ハッピーバースデイ
「行くぜ」
「どうぞ」
結城は駆け出す。
対してゾーイの周囲を浮遊する四つの子機が独特な軌道で動きだす。
子機は結城を取り囲み、砲口から光を撃ち出す。
結城は体を捻り、光弾を紙一重で避け、回転と共に剣で弾いた。
ゾーイは新たな兵装を装備し、ガトリングで弾をばら撒く。
しかし結城の一瞬で消失し、反応が背後に現れた。
「はっ!」
残す残像は極彩色、見事な一太刀。
だが結城と同じようにゾーイは姿を消した。
咄嗟に振り返り、下から剣を振り上げると、ゾーイの刺し貫く蒼い刃が上に弾かれた。
「質問があります」
「なんだ?」
「あなたは何故、楽しそうに笑っているのですか」
「楽しいからさ!」
横薙ぎの刃を結城は跳んで避ける。
刹那の滞空、結城は逆様の状態でゾーイを見ていた。
「憧れていたものに、手が届きそうだからだ!」
至近距離で着地し、結城は手を伸ばした。
だがゾーイもまた手を出し、互いに手が組み合う。
「憧れていたものと、触れ合えているからだ」
「憧れ? 私が貴方の憧れなのですか?」
「ああ。機械でありながら生命だなんて、そんな夢みたいな存在と、こうしていられることが、俺にとって幸せだ」
「不可解です」
ゾーイの体は機械。
その力は到底、人間の及ぶものではない。
それでも結城の手は潰れることなく、力を拮抗させていた。
「ゾーイ、お前はなんのために戦っているんだ?」
「貴方から感情、生命として確立するために必要なものを得るためです」
「生命としての確立って?」
「今の私は不完全の、製造された生命に過ぎません。私の思考回路が感情、または欲求を獲得することによって、私は完全に自立した、一つの生命体として確立することが可能……というのが、ドクの理論です」
「じゃあ、それがゾーイの理想ってわけだ」
「いえ、これはプログラムされた目的であり、自発的な欲望である理想とは……」
「さて、どうかな」
結城は更に手に力を込める。
ゾーイの体が徐々に押されていく。
「なりたいかどうかはともかく、なりたくないものなら、そこにはためらいが生まれるはずだ」
「ありえません。私は現状、機械ですので」
「そうかな。生命のあり方なんて、性格一つでいくらでも変わ……」
ゾーイの力が急に増し、結城の体は浮き上がり、右へ左へと振り回され、投げ飛ばされる。
「うおっ、おおっ、っと」
くるくると回りながら、猫のように着地した。
「さて、どうするか」
「結城、生命とはなんなのですか?」
ゾーイからの問いに、結城は少し考えて答える。
「意志を持って生きる命。意志なき生命は人形と同じ……そうか、それならいけるか」
結城の剣の極光は、その輝きをさらに強めた。
「ゾーイ、生命が忌避するものがあるとすれば、それは?」
「苦痛、不幸、危機、あるいは死」
「そう、死だ。意志ある生命は、意志を手放さないがゆえに死を忌避する」
それは死にたくないという生存本能ではない。
こんなところで死ぬわけにはいかないという、不屈にして強靭な意志だ。
「ゾーイ、死を怖れろ。そうすればお前は命を得られる」
言い終えた途端、再び結城の姿は消えた。
そして眼前に現れ、右手の剣を振り翳す。
ゾーイは太刀を蒼の刃で受けた。
「障害を忌み、外敵を憎み、死を恐れろ。理想を抱き、意志を貫き、生を想え」
結城の斬撃の速度が上がる。
辛うじて対抗するゾーイだが、徐々に機体に傷がつき始める。
「死を恐れる……」
「機械に生命はないかもしれないが、死ならある。想像しろ。目的を果たせず討たれ、朽ち果てる自身を」
「っ……」
ゾクリと、全身が冷えた。
気温に変化はなく、機体の温度に変化が現れたわけではない。
しかし、ゾーイの心境は確実に変化していた。
「そうだ、恐れろ。脅威に怖れ、死を懼れろ。その先の、そのまた先に答えがあるはずだ。俺たちの望む答えが」
戦いの流れは一方的なものになりつつあった。
「思考にエラーが発生、動作に支障をきたしています。回路にバグが発生、思考が阻害されます」
「感情か。そうだな、恐怖とか、殺意とか、そういうのも必要なんだろうな」
どうして自分は気付けなかったのか。
潔癖では、聖人君子では、本当の生命とは呼べないのだと、結城は今になって気付いた。
「ゾーイ、お前から学べることもありそうだ。よろしく頼む」
横薙ぎ振り払う一太刀が、蒼の刃を叩き折った。
「ブレード破損、一時退避します」
「させない」
ゾーイの首を結城の手が掴んだ。
「しかしまあ、面倒は嫌いだな。いっそ殺すか?」
邪悪な笑みを浮かべる結城。
そのまま持ち上げ、地面に機体を叩き付けた。
砕け割れる床、ダメージがあるのか無いのか分からない。
だが、その脅威はゾーイに伝わっていた。
危険、危険、危険、危険。
回路が正常に作動しない。思考が混線する。
データ、数値上では、こちらの戦力が圧倒的だった。
しかし、状況はまったくの逆。
もはや弄ばれてすらいる。
認められない。
こんな現象はあってはならない。
こんなこと、理屈が通らない。
不条理、理不尽を目の当たりにしたゾーイが恐怖の次に得た感情。
それは憤怒、憎悪、殺意、敵愾心。
「新たなメンタリティを取得しました。目標を排除します」
先ほどの華麗な舞いが、殺戮と破壊に特化した直線的な動きを多用したスタイルに変わる。
結城は懐を狙われ、咄嗟に後方に下がった。
「来たな」
「セカンドリミッター解除」
ゾーイの青い光が、見る見るうちに赤黒く変色する。
機体の色も漆黒に染まり、完全に黒の機体へと変貌した。
「キリング・ゾーイってところか」
その姿は、うっすらと残像を残したかと思えば、新たな赤色の刃が結城の右肩を貫いていた。
「うぐっ、がぁ……!」
肉の焦げる音が鼓膜を這い、焦げる匂いが香る。
苦痛に歪む結城の顔。ゾーイは構わず掌で胸部を強く打ちつけた。
「がはっ……!」
衝撃が全身に伝わり、激痛で呼吸すらままならない。
よたよたと後ずさる結城に、赤い閃光を放ち、両方の太ももを射抜く。
「ッ!?」
反射的に、結城の体は倒れこんだ。
苦痛に蹲り、呻き声を上げる結城。
「新たなメンタリティを取得しました」
ゾーイの機体の色が元の青色に戻る。
しかしその輝き、色の鮮やかさはより強く、より美麗だった。
恐怖、そして怒りを経て、衝動のまま敵を甚振ることで味わえる、カタルシス。
もっとも身近で、生々しい理想。
不条理、理不尽への反逆。その後に残る達成感は、人が理想を抱く意味を教えてくれる。
「これが、生命……」
「まだっ、だ」
白い床が赤に染まる。しかし、結城の傷は既に癒えつつあった。
「まだ、次がある」
「敵のスキル情報に加筆、自己再生」
結城は剣の切っ先を構える。
「お前の理想はなんだ」
「私の理想……」
ゾーイは、生命を得た。
生命は物質ではない。実体のあるものではない。
それは存在の一つで、概念の一つ。
ゾーイが、自身が生命であるという自覚さえあれば、ゾーイは既に生命体なのだ。
「貴方は、私に生命を押してくれました。その恩を返したい」
「そっか。それじゃあ……決着をつけよう」
結城の剣は、極光の刃は分裂し、虹へと変わり、七色の光が束ねられて水晶の剣となった。
水晶の剣のなかに、虹色の光が奔る。
それに呼応するかのように、ゾーイの機体が発する光も、より鮮やかな青、藍、蒼が迸る。
「不可解……いえ、不思議です。これは、高揚?」
「そりゃそうさ。誇れる理想があるんだから、それを成し遂げた誇りが持てるんだから、幸せだ。そしてそれをぶつけ合えるのも」
結城は構える。応じてゾーイも刃を出現させる。
「理想……夢は見る時間が長いほど、より強く、速く駆け出せる。俺の夢はそこらのよりはだいぶ濃いぞ?」
「数値では劣りますが、こちらにも譲れないものが出来ましたので」
その言葉に、結城は思わず口元を緩めた。
「じゃあ、始めようか。終幕を!」
生命を獲得するために、ゾーイは結城から様々なものを学んだ。
生命は、予想していたよりあまりに面倒で、厄介で、エラーやバグの塊だった。
しかし、獲得した今、それがむしろ心地よいと思える。
この生命を、より強く育みたい。
それをするためには、この世界では理想を持つことが必要だという。
とりあえずは、この妄想溢れる少年じみた青年に、沸き起こる喜びの限り尽くしてみようと想う。
その行動が正しいのかどうかは分からない。
ただ、自分がそうしたいから、そうするだけ。
生命とは、きっとそういうものなのでしょう? 結城。
二人は楽しく剣戟を繰り広げた。
自分たちの思い思いに動き回り、剣と刃が交差する。
結城は笑っていた。心の底から楽しそうに。
ゾーイは無言だった。しかしその動きから、生命を謳歌する喜びに浮き足立っているのが分かった。
実際、浮いている。
「では、そろそろ受け取ってください」
ゾーイは仮想システムで巨大な砲を出現させた。
一門の砲。背部に蒼い剣を差込み、更に両腕を左右の穴に接続する。
それがトリガーとなっていたのか、唸るような音を立てながら、砲口に光を集め始めた。
「銃砲・オーバーロード」
結城は悟った。この一撃で、ゾーイは全てを決着させるつもりだと。
「オーバーロードはユートピアの防御システム・雷光を強化、小型化させたものだね」
ドクの解説が入る。
「雷光って……」
「君たちが一度吹き飛ばされたあの光だよ」
どうやらドクは常時こちらを監視していたようだ。
いや、探知できたからこそあの光がこちらに向いたのだろう。
「なら、俺も全身全霊で応えるっきゃないな」
結城の剣は一つの光に還元され、形を変化させ、一丁の銃になる。
「込めるのは弾。弾頭は妄想、火薬は衝動。撃ち出す弾丸は、全てを穿ち貫き通す、不屈の理想」
想いを込め、弾を込め、全ての力を一つに集約させる。
「考えてみたら、今日は記念日だな」
「記念日?」
「誕生日だよ。お前の、生命の誕生日。とすれば、これは祝砲だ。受け取ってくれるか?」
「……」
結城はなんとなく、ゾーイが微笑んだ気がした。
恐らく気のせいである。
だが、その気のせいを信じることこそが妄想の本質である。
それが出来たからこそ、途方もない妄想を信じ貫いたからこそ、こんなところにまで来れてしまった。
しかも機械に生命まで吹き込んでいる。
「ははっ、まったく!」
前世ではまずあり得ないことだ。
夢物語と馬鹿にされるのが自然なことだ。
それでも結城は、今ここで、御伽噺の夢物語を実現している。
それがあまりに誇らしくて、楽しくて、面白くて、結城の表情はより嬉しそうに歪んだ。
「ざまぁ見ろ、クソつまらない現実どもめ」
散々苦しめられた前世の現実に対する言葉。
これを以って、彼は纏わり吐く過去の呪縛を引き千切った。
「チャージ完了、発射」
ゾーイの砲口から、極大の光が放たれ、光の壁が、奔流が迫り来る。
「込めろ、込めろ、込めろ……」
「マスター!」
その光に気付いたレイランが叫ぶ。
しかし、朱と紅の猛攻が結城の元へ駆けつけることを許さない。
「よそ見している場合か、レイランッ!」
無数の影の刃がレイランを襲う。
レイランは剣の一振りでそれを微塵にして散らす。
続けて朱が構える銃、引き金を引かれる前に銃を切断する。
「ハハ、ハハッ!! なんだなんだ、居るじゃないか。私よりも化物みたいな奴がぁッ!」
朱は狂喜のあまりに乱舞する。
レイランはまったく押されることなく、むしろ圧倒する。
それでも尚、殺しきれる気配はなかった。
「マスター!?」
全力の一撃を振り下ろし、朱の体は両断され吹き飛ばされた。
「心配するなよレイラン。俺を誰だと思ってる?」
圧倒的な力を前に、結城はただ銃を構え、その瞬間を待ち構える。
「我が不屈の理想……誇大妄想ッ!」
極光の瞬きと共に、放たれた弾丸。
彩光の尾を引き、光の奔流と衝突した。
「行けッ!」
迫る奔流は止まり、弾丸が徐々に光を引き裂き始めた。
「いけぇええええッッ!!」
弾丸がより強く輝き、彗星のように突き進む。
一度亀裂の入った光は、容易に引き裂いてゾーイに迫る。
「二段階砲撃、解放」
すると、徐々に光が収束し始め、その代わりに勢いを増す。
弾丸はそこから前進できずに、互いにせき止められる拮抗状態に陥る。
「なら、もう一発!」
結城は次の弾丸を既に装填していた。
無限に湧き上がる妄想を再装填し、二射目の弾丸を放つ。
弾丸はまったく同じ場所へ、一射目の弾丸に命中し、後を押す。
その一瞬、ゾーイの光が押された。
「三段階砲撃、解放」
ゾーイの銃砲の側面から太いコードが延び、足元に出現した穴と接続される。
更なるエネルギー供給を得たゾーイの光は、その出力を増した。
「やるなゾーイ!」
「貴方こそ」
結城は極限まで妄想を詰め込んだ三射目を放つ。
弾丸は更に一点を穿つが、しかし拮抗状態を打ち破るには至らない。
「俺の妄想とお前の仮想、どちらが勝るか。こうなったら、お釈迦になるまで突いて来い!」
「望むところです。最終砲撃、解放」
光の出力がさらに増す。
ゾーイの脚部から、自身を支える鉤爪が出現し、床に深く突き刺さる。
「クリスタルソード」
結城は銃を剣に戻す。
「全身全霊をかける」
剣身が極光を宿し、彩光の輝きを放つ。
目の眩むような光を手に、結城は影を置き去りに駆けた。
「っ!?」
ゾーイの想定できなかった結城の動き。
最後の最期に取っておいた、取って置きの弾丸。
「おらぁッ!」
結城は……そして、輝く剣は閃光の如く飛ぶ。
それは不屈にして頑なな理想のように、遮る全てを切り裂き、刺し貫いた。
「回避、不可」
光を切り伏せ、砲を両断した虹色水晶の刃は、言うまでもなくゾーイの身にも届く。
「終わりだ」
ゾーイの体に触れた剣は、硝子のように砕け散った。
妄想の剣、仮想の砲、共に幻のように消え失せる。
後に残ったのは、結城とゾーイの二人だけ。
「今日のところは、俺の勝ちってことで。また今度な」
「……任務、完了」
「時間切れか」
狂喜の笑みを浮かべる、レイランの左胸に銃口をうずめる朱。
「なぜ、止めるのですか」
青い瞳を向け、刃を朱の左胸に突き立てるレイラン。
「時間稼ぎはもう要らなくなったからな」
「時間、稼ぎ?」
「残念だ。もう少しで殺してもらえるところだったというのに」
「ならば構わず続ければよいのでは? あなたの悲願ではないのですか」
「その前に、済ませないといけない野暮用がある」
「野暮用……」
朱の遠まわしな言い方に疑問を抱くも、朱が銃を引いたので、レイランもまた剣を納める
三者三様の戦いが終わった頃合、ドクの音声が響いた。
「おめでとう結城。君はとうとうここまで辿り着いた。私たちの大望はもうすぐ叶う」
「私たちの?」
「そう、私たちの……そろそろ話してもいい頃合かな」
ドクの声は、あのタガの外れた声から、静かで真剣な声色に変わる。
その豹変ぶりに、一同が困惑する。
「一人の男の話をしよう」
彼は、清く正しく、優しい青年であった。
自分の正義を貫き、しかし自分と異なる正義にも寛容で、悪にさえ慈悲を与えていた。
青年はまるで、優しさと正しさの良いところだけを抽出したような人間だった。
しかし、そんな彼を、世界は取るに足らないと軽んじた。
その優しさは、悪魔を忌避する天使には異端なものであった。
その正しさは、主神を憎悪する悪魔には不快なものであった。
その在り方は、俗世を謳歌する人間には邪魔なものだった
優しい人間が早死にするのは、その優しさにつけこむ者がいるからだ。
故に、彼は人生でほぼ報われることは無かった。
彼がその生き方に膝を屈した時、自分に足りないものに気付いた。
青年は、力を持っていなかった。
青年のように、優しさにつけこまれ、不正や暴虐によって搾取されたものは、少なくない。
その優しさは掬われず、その正しさは報われない。
青年は悟った。人間を含めた、この世界の全ては怪物だと。
彼が抱いた理想は、力だった。
力に対抗する力。
優しさを救う優しさ。
正しさに報いる正しさ。
横暴を摘み取る暴力。
悪逆を屠り去る戦力。
反逆を握り潰す権力。
歯向かう者を粛清する、能力を。
しかし、自分は所詮は人。
寿命がくれば死ぬし、人間ゆえに過ちを犯さないとも限らない。
ならば、もう自分は人間でなくてもいい。いや、人間をやめてしまいたい。
青年が望む、新たな自分の姿は……機械。
心無く、ただ純粋に正しく、そして優しい機械。
それで優しい者が救われて、正しいものが報われるならば。
自分の魂一つでそれが叶うなら、それがいい。
機械になりたい。
自我も心もない機械になって、かつての自分のような、清く正しく、優しい人々が幸せになれるような。
そんなシステムになりたい。
「そして、それを体現したのが私の究極傑作、ユートピアであり、これがディストピアとも呼ばれる由縁でもあるね」
「……なるほど。いい理想だ」
結城は短く感想を告げた。
「へぇ、君はそう思うのかい、結城?」
「ああ、素敵な理想だと思う」
「普通の人間ならば、馬鹿げていると言うところだと思うけどね。まあ、馬鹿げていると言った者の全員が、既にこの世には居ないけれど」
「正しい者が報われ、優しい人が救われる世界。こんな素晴らしく純粋な世界を叶えたなんて、俺には偉業としか思えない。その本人が報われていないことだけが心残りかな」
「ねぇ、本当に素敵だと思ってるの?」
結城の服の裾から、チェリーが飛び出す。
戦闘中、ずっと背中に隠れていたのだ。
「正しさなんて、人それぞれでしょ? それを一つの価値観で決めるなんて……」
「チェリー、ユートピアは正義だけでは動かない」
「えっ?」
「ユートピアは、正しさと優しさを両立させた、強い弱者を守るために存在してる」
強い弱者。一見して矛盾しているようにしか見えないこの言葉。
「チェリーの言うとおり、正しさは多種多様。だから優しい人は、自分の正しさを押し付けない。しかし人の正しさを押し付けられてしまうことがある。ユートピアはこれを罰すべき悪と定義したんだ」
それはもっと言えば、それが正しくとも、正しくなかろうとも、正しく優しい人に対して向けて危害を加えたものを咎め、罰するというだけの機能。
「逆に言えば、正しく優しい人を傷つけさえしなければ、ヤりたい奴はヤりたい奴同士で思う存分ヤればいいという、非情に大らかで、気前のいい理想だ」
「そっか、ユートピアは自分が正しいことをしたいんじゃなくて、自分と同じような人を守りたかっただけってことね?」
「その通りだ。要するにこのユートピア、俺が感心してしまうほどに優しい」
結城は周囲を見渡す。
床も壁も天井も、扉さえもひたすらに白い。そして外には、あの近未来的な街並みが広がっている。
現代風の街並みも、貧困を極めたスラム街のような区画もある。
その顔は、哀しげな笑みに変わった。
「結城、どうしたの?」
「もし俺が普通に生きる場所がここだったら、もう少し幸せに生きられただろうなって」
「あなたも正しくて優しい人間だったの?」
「自分の口から言うのは変な感じがするな。まあ、正しいかどうかはともかく、かなり寛容な方だったんじゃないかな」
「そういえば、人間が食用として養殖されてるって聞いても、あんまり拒絶してなかったわね」
結城はさり気なく戯れるためにチェリーに手を伸ばすが、人差し指をさらっと小さな手で弾かれた。
「世の中には犬の肉を食う食わない一つで仲違いが出来る。人間とはかくも愚かしい」
「何を言い出してるのあんたは」
「俺とこのユートピアの違いは、俺が心底、現実の人間が嫌いだったところくらいかな。この世界の人間は嫌いじゃないけど」
「何が違うの?」
「さてな……って、こんなところでおしゃべりしてる場合だったかな。ドク、結局お前は、俺に何をやらせたいんだ?」
結城がドクに注意を向ける。
ドクはというと、うーんと唸っていた。
「君には、ユートピアの中枢を破壊してもらいたかったんだ。それが君の成長の証となるはずだったからね」
「……またいきなりな」
「結城、そこまで彼の理想に気付いていながら、まだ分からないのかい?」
「なに?」
「ユートピアは、彼の望んだ世界だ。そして、ここはユートピアだ」
「それは……おい、もしかしてそれは、ここは!?」
「そう、君が理想とする、自分の妄想の世界を創る。それに限りなく類似した理想だ。そして、この世界のルールはまだ覚えてるね?」
この世界のルール。
己が理想を、より高く掲げ、より強く想い貫いた者だけが、真に理想を叶えることが出来る。
「そう、君はなんにせよ、彼と戦うしかない。そして彼もまた、君と戦うしかない」
思わず、右手で頭を抱えてしまった。
あまりのことで倒れそうになるのを、新月が支えた。
「結城、しっかりなさいな」
「参ったな……そうか。そういうことか。これが、自分の理想をかけて戦うってことなのか。これが」
理想:ユートピア。
結城はそれを認めていた。素晴らしいと賛美すらしていた。
それを、自らの理想のために壊さねばならないことに、今更気付いてしまった。
ガンダーラの時から先延ばしにしていた、相手の理想を砕くという行為。
此処に来て、とうとうやらねばならなくなってしまった。
「はぁ……結局、こうなるんだよな」
分かりきっていたことだと、結城は再び剣を握る。
「それでも、俺の妄想は必ず実現させる。で、どうすればいい?」
「ユートピアはディストピア。君の敵対の意志を感知したようだ。すぐにその場所へと誘われるだろう」
「そうか」
結城はただその瞬間を待つ。
すると、その体が徐々にノイズのようにブレ始める。
「マスター、どうか、ご武運を」
「結城、パーヴァートとしての誇りを失ってはいけませんわよ?」
「ああ、ありがとう。行って来る」
「わ、私も! 私も行くわ!」
結城は先ほどのお返しとばかりに、チェリーの体を手で遮り、さっと除ける。
「さ、さっきの怒ってるの?」
「チェリー、ここまで案内ありがとう。俺が最初の頃から此処まで来れたのは、お前のおかげだ」
「なら、なら最後まで付きあわせなさいよ!」
しかし、結城は首を横に振る。
「これは俺の理想と彼の理想。俺と彼だけのやりとりだ」
「邪魔はしないから、ね?」
「なんだチェリー。今までのキャラが総崩れするくらい子供っぽいぞ?」
「っ……」
「お前が案内した理想人が、こんなとこで果てるわけないだろ」
「当然よ……もうっ! ほら、さっさと済ませてきなさいよ」
強がるチェリー。その目に溜まっている水を指で慎重に拭った。
「もちろん、そのつもりだ。じゃあな」
「ゆうっ……」
ノイズが一層強まった次の瞬間、結城の姿はそこから姿を消した。
残された一同は、ただ沈黙するしかない。
「それじゃあ、観戦といこうか」
「ああ。あのユートピアにどう立ち回るか、私も興味がある」
「あんたたち、何を言ってるの?」
拠り所をなくしたチェリーは、ひとまずレイランの右肩に隠れながら問う。
「朱、どういう意味です?」
「決まってるだろレイラン。あの途方もない理想を引っさげた馬鹿二人、どんな戦いをするのか高みの見物と洒落込もうってんだよ。ドクの隔離質に転送されるから近くに寄れ」
レイランとチェリー、新月もまた朱に歩み寄る。
「おい、何してやがんだよアイス」
「…………」
「ッチ」
朱はめんどくさそうにアイスの元へ行き、首根っこを掴んで引きずっていく。
「朱」
「なんだ」
「あの男は、ラガーの理想は、なんだったんでしたっけ」
「アイツの理想か? 前線で、血で血を洗うような闘争と、地獄のような戦争のなかで生きることだ」
「そこに、譲れないものとか、あったんでしょうか」
「私がそんなこと知るか」
アイスはまた黙り込み、朱はまた舌打ちする。
「執着ならあったろうよ」
「えっ?」
「戦争を楽しむってことは、余程のことが無い限り殺されないっていう自信があったってことだ。追い詰められることはあっても、最終的には自分が勝つと確信してただろう」
「自信……」
「そういや、こんなことを言っていたな」
『戦争は命が軽んじられる、なんて思われてるがな、俺から見れば、平和な方が命が軽ィぜ。平和は生きたいって欲が削がれるからな。死が間際にあったほうがいい』
「あれは奴なりの信条だったんだろう。柄にもないことを言いやがる」
「……でも、そうかも」
アイスはラガーに命の重さと軽さを教わった。
生きようとすることの重要さを知った。
父親と一緒ならば心配は要らないなどという、そんな安心感に浸かっていたのだと、思い返してみればそう思う。
その甘さがある限り、自分は呆気なく死んでいておかしくなかった。
「それが奴にとっての譲れないものだったのだろう。ただの憶測だがな」
「……探さなきゃ。私の譲れないもの」
強く、静かに呟いた。
「勝手にしろ」
冷たく、突き放すような言葉。
しかし、アイスの心はぶれない答えを掴み取っていた。
アイスがもがくと、朱は何も言わずに首根っこから手を離した。
白い床に頭を打つアイスは、痛がるそぶりも見せずに立ち上がり、自らの足で朱に続いた。
「ドク、いいぞ」
「はいはい、それじゃあ……」
途端、白い天井が突如として崩壊した。
あまりに予想外のことに、レイランも新月も構える。
瓦礫と煙の中に人影が一つ。
「この感じ、まさか……」
銀風だけが、その影の招待に気付いた。
「察しがいいな、新月。ところで、結城はどこだ?」
姿を現したのは、パーヴァート:彩の銀風だった。
「さっきまで結城の匂いがしてたんだが」
「貴女は……もしかして、結城以上に自由奔放なんじゃないですの?」
「お前に言われたくない。で、ここはどこだ? 何がどうなった?」
「……いいから、早くこっちにいらっしゃいな。詳しい話はあとでして差し上げますわ」