41話目 現実と理想
銀風と淫夢は美鈴を庇いながら麗華と対峙し、新月は五龍を相手取る。
「さて、このまま退いてくれると非情にありがたいのだが?」
「それは出来ません。私たちが師に叱られてしまいますから、ねッ!」
瞬時の踏み込みが地面を砕く。その力を乗せた拳が銀風の腹部に触れた。
「がっ……」
強烈な衝撃が体内に響き渡る。内臓が圧迫され、肉と骨が軋む。
「形意拳、麗華。ここで学べる武術は、皆が一撃必殺を目指す。あなたのような外来には耐えられはしないでしょう」
「……だ」
「?」
「不足だ、と言った」
銀風がその腕を両手でしっかりと掴む。驚き、振り払おうとする麗華だが、びくともしない。
「一撃必殺には程遠い。淫夢ッ!」
「本当の一撃必殺……ここっ!」
淫夢は右手の中指を立て、放たれた矢のように疾く腰の中心に突き立てた。
「ひゃんっ!?」
麗華の口から甘い声が漏れた。淫夢の腰に突きたてられた中指は、そのまま内部へと衝撃を伝え、一瞬の震動を起こさせる。それがある種の快感となって、麗華の全身を一瞬だけ支配した。
「手際が良くなったな、淫夢」
「えへへ。たくさんイメトレしたから」
砕けるように麗華の体が倒れる。それを受け止めようと銀風が動く。
だが、麗華の体は踏みとどまった。
「なにっ!?」
「噴ッ!!」
再び拳を腹に打ち込まれ、銀風は硬直する。
「うぐっ」
「邪ッ!」
馬のように足を後方に、淫夢の顎が打ち抜かれる。即座にその足で銀風の顔面を打ち抜く。
「乙女の顔を足蹴にするとは」
しかし、銀風は腕をクロスさせて麗華の膝を防いでいた。間髪いれずに銀風の喉に手を伸ばすが、銀風は肘をぶつけて攻撃を相殺した。
「あなた、何者?」
「言ったろ? 通りすがりの」
銀風は麗華の手を引っ張り、踊るようなステップで回転し、腰に手を回して抱きかかえる。
力が抜けるほどに優しい手つき、そして吐息のかかるほどに誓い互いの顔。
それは宝石のように眩く、そして見とれるほどに美しい銀髪、青と金色のオッドアイ。
「っ……」
「変態さ」
銀風は笑むと、麗華は恥ずかしさで目をそらした。その頬には赤みが差していた。
新月の体は軽々と宙を舞う羽のように。五龍の攻撃を回避していた。
「一撃必殺の私の攻撃を受け止め、いなすなど……並の人間には出来ない」
「うふふ、こんな可愛い子に褒められるなんて、感激ですわ。あなたも私の鞭を尽く捌き切るその技量、中々でしてよ」
外見で言えばウーロンより新月の方が幼い。
「さて、これ以上の戦いは無意味だと思いますわよ。交渉の余地くらいはあるのではなくて?」
「……私は、頭を使うのは苦手だ」
ウーロンは大地を踏みしめ、拳を打ち、蹴りを放ち、体で舞う。演舞、舞踏を見せる。
アクロバティックに飛び跳ね、回転し、一切の隙を見せずに、一撃の拳と共に静止する。
「私にはこれしかない。私は、これでしか物事を図れない」
一方、新月はその舞に目を奪われていた。激しい動きが美しく、力強く。生の躍動を感じ取っていた。
「なるほど。難儀ですわね。なら、私があなたを導いて差し上げますわ。貴方が仕える、新たな女王としてね」
新月の声を絶やすため、ウーロンは飛び込んだ。
その踏み込みは相手の迎撃速度を上回り、正確に一撃必殺を見舞う、かに見えた。
「っ!?」
拳を放つ瞬間、体は強く拘束され、身動きが取れなかった。
気が付いた時には、既に体は鞭によって雁字搦めに縛られていた。
「ウッ、クッ……」
鞭に締め付けられ、うめき声を漏らす。
「可愛らしい呻き声。惚れ惚れしますわ」
うっとりする新月。ふと銀風のほうを見て、終わったことを確認する。
「さて、色々と詳しく聞かせていただきましょうか。お嬢さん方?」
聞くところによれば、麗華とウーロンの二人は、神美の言いつけで美鈴の身の回りの世話をさせられていたらしい。
彼らは仙人となるために神美に弟子入りしていた。
美鈴を楽しませられるように、俗世の話をたくさんした。美鈴はそれに憧れ、しかし醜さや愚かさを同時に教えることで失望させるところまでがセットだった。
しかし、それは聞いただけの話。実際に目にして見なければ分からない。
だから美鈴は時々屋敷から抜け出し、行動範囲を徐々に広げていった。
やがてこの街まで辿り着けるようになったのだそうだ。
とはいえ、さすがにこの街は物騒すぎる。美鈴の不在を隠蔽したり、擁護したりなども難しくなってきた。
そろそろ潮時。今回で彼女を連れ戻し、未練も何もかもを断ち切ろうと思っていた。
そこに銀風たちが現れたわけだ。
「私は美鈴の好きなようにさせてあげたいと思っています」
銀風たちは亀に乗って三神山の一つ、蓬莱へと向かっていた。
「それに、パーヴァートというのも聞いてみればそこまで悪い者ではないようですし」
「悪者だなんてとんでもない。正しい性を身につけることの出来、尚且つ気持ち良くなれる素敵な存在だ」
銀風の説明によって、パーヴァートというものがどういうものか、というのを理解してもらえたことで、二人は銀風たちを敵ではないと認識した。
「さて、最後の仕上げだ。美鈴」
「はい?」
「お前の母、神美に会う。そしてお前が直接、その意思を伝えるんだ」
「私が、母上に……」
美鈴が息を飲む。
「それなら銀風、いっそあなたが美鈴を連れ去った方が良かった」
「ん? それはどういう?」
「あの方は蓬莱を代表する仙人。天女とまで呼ばれたお方だ。だがあの方は強く、そして厳しい。下手に手を出すのは……」
「そんな弱腰でどうする。美鈴は自らの意思で選択し、自らの足で立ち上がった。ならば、障害となる存在は自らの手でもって排除せねばならない。それが自立というものさ」
「それは……」
「なんにせよ、いずれは越えなければならない。そういう相手ってのは誰にでも居るものだ」
「私、やります」
銀風の突然の提案に途惑う麗華。すると美鈴は自ら宣言した。
「私は、母上を越えます。そうすることが本当の意味での、<自分の意志で生きる>ってことだと思いましたから」
銀風は蓬莱の島を見、おそらく一戦交えるであろう神美という名の敵に思いを馳せた。
数ある桃源郷の中で、あらゆる仙境をも凌駕する力を持った断絶世界。
それがこの寺院、武陵桃源である
「この馬鹿者がッ!」
青天にもかかわらず、雷鳴のような怒声が響く。
「すみません……もう一度、お願いします」
とある寺院。広大な敷地には、修行に最適な石塔や鉄棒があった。
そこには二人の影があった。一人は年老いながらも尚、力強く大地を踏みしめ、大きな二振りの刀剣を持つ男。
もう一人は、綺麗な長い銀の髪と蒼天の瞳の、鉄の棒を持つ少女。
「レイランよ、体の隅々まで気を廻らせるのだ。剣を自らの体の一部とし、気を自らの刃とせよ。体躯は剣であり、その四肢を刃とする。さすれば大地の岩山も、天空の雲海すら両断出来よう」
「はい!」
レイランは再び木刀を持ち、眼前の大岩に対して、大上段で向き合う。
「すぅ……」
呼吸を整え、全身に意識を巡らせる。気の存在をイメージし、気の循環をイメージする。
それがやがて自分の握る木刀にさえ通い、木刀は体の一部と化す。
次の瞬間、一瞬よりも速い一閃が放たれた。
「ッ!」
木刀は、無傷。そして岩は……
「見事だ、レイランよ」
レイランの眼前には、両断された大岩があった。その断面は、研磨されたように滑らかだった。
「なるほど、確かに剣神と噂されるだけのことはある。だがまだまだ未熟。それを咄嗟に、日常でもこなせるようになるまで研ぎ澄ませ!」
「はい、ジエン師匠」
「お前の主を、心の中から排せ」
レイランが弟子入りして初日、ジエンから最初に言われた修行だった。
「剣とは心そのものだ。お前の想いがいかに強くとも、その切れ味は曇り続ける」
「しかし、師匠」
「この馬鹿者がッ! 師に口答えするなど何たるザマか!」
「っ……失礼しました」
「良いかレイランよ。お前はお前自身の剣というものを見直さなければならん。そうでなくば、お前の剣は永遠に鈍のままだ。まずは一切の邪念を捨て、己が剣を鍛え直すのだ」
そしてレイランは、心の中から結城という存在の一切を捨てた。
それは結城に出会う前の、自分には剣しかなかった頃に戻るということだ。
剣神レイランですらなく、ただの一人の剣士として始める。
そして僅か一日にして、気力と気の剣を会得した。
「ただただ剣に己を費やせ。剣だけに思いを馳せ、剣のみに一心一体を込めよ」
「はい。師匠」
「ではレイランよ、次の修練だ」
レイランは着実に、更なる力を掴み始めていた。
一人の男の話をしよう。
別段、彼の人生は不幸と言うわけでもなかった。
異性に困る事など無い、ということはなく、かといって悲惨なほどに醜いというわけでもない。
頭脳が取り立てて良い、というわけはなく、かといって凄惨なほどに悪いというわけでもない。
身体は強く育ち逞しい、というわけはなく、かといって無惨なほどに弱いというわけでもない。
全てが人並み。あるいは何かしらは劣り、何かしらは優れ、家庭は裕福でないにしても、やはり食うに困ることは無く。
その人生もまた、言うほど特別なことなどなかった。
否、だからこそ彼はそうなってしまったのだろうか。
彼の持つ心。それだけは、普通ではなかった。それだけは人と違った。
彼は現実に対してあまりに無頓着であった。
彼が熱中するのは常にゲームやアニメの空想と幻想の類だった。
では、彼が生きる現実はどういうものか。
それは、人が生み出した理不尽な世界だった。
そこには魔法も、神秘も、奇跡も、神も悪魔もありはしない。
ただただ、人間の醜悪さだけが蔓延り、他者の利を貪り、己の害を他者へとなすりつける。
そんな世界だから、自ら命を絶つ者も、少なくはなかった。本当に理不尽で、救いようのない世界だった。
なので彼はただやり過ごした。ただ耐え忍び、ただ過ぎ去るのを待った。
この辛抱と耐久の果てに、きっと報われる日が来ると信じていた。
それは預言者が謳った運命の日を待ち望むように。
空想が語る伝説の日に恋焦がれるように。
そう、彼は信じていたのだ。現実に生きながらにして、焦がれた空想が自分を誘ってくれることを。
彼が現実に生きる理由は、ただそれだけだった。空想を、幻想を、妄想を求めることだけ。
年月が経過し、彼は少年から大人へと変わる。
故に、彼もまた自らの意思で立ち、歩き、生きらねばならなくなった。
だが彼には何もない。この現で生きる意味は、とうの昔に破綻した。
何も変わらず、何も訪れず、何も起こらない。永遠に変わらぬ、生温い日常という地獄。
その中で、彼は現を生きてきた。目指せるものもなく、標もなく、ただ擦り切れそうなほどに使い古された想いだけを抱えて一生を捧げた。
やがて、彼は現実に期待することをやめた。
一縷の望みすら捨てさって、己の心にある妄想だけを信じた。
研ぎ澄まされた妄想は、三次元はおろか、夢幻の空想さえも及ばぬ存在にまで達していた……
「生きる人間には二種類ある。生きて遂げる目的がある奴、生きるに足る理由がある奴」
結城は語った。日が暮れ、夜が明けて尚尽きることなく。
「現実で生きている俺には、そのどちらもなかった。強いて言うならば妄想に生きるために、現実で生きざるを得なかったってところか」
いずれにせよ、そうやって生きてきたがためにこの世界にこれた。
結城は理不尽な世界に打ち勝ったのだ。
「この世界に来た時、現実感がなかった。だから反応できなかった。チェリーが俺を珍しいと思ったのは、そういうことだ」
「そう、なるほどね」
初め、空想や幻想を現実に求めた彼はやがて、自らの内側で世界を築いたのだ。
より色濃い極彩色の妄想と、より奥深い深淵の夢想。
それでも尚、彼が死ぬその時まで長い旅を続けてきたのは、結局どれも諦められなかったからだ。
それら全てをひっくるめた理想を追い求めずに入られなかったからだ。
「そのためなら何もかも捨てた。肉親も友人も、自分の金や欲だって捧げられた」
自らの生きるに障りない程度には欲望をそぎ落とし、それゆえに金銭すら必要ないので、時間を得るために労働さえ惜しんだ。
「社会にどう思われようと、自分が生活できるだけの金さえ稼げれば何も問題なかった。幸いなのは親がそれで何も文句をつけてこなかったところか」
「友人は?」
「人付き合いには金がかかる。極力避けた。とはいえ障りない程度には付き合ったが」
「……彼女、とかは?」
「あの世界に女なんて上等なものが居たかどうか。金がかかって仕方ない。作ろうとも思わなかった」
チェリーの目に、結城の姿はひどく老いたように見えた。まるで死の間際、老人が己の人生を振り返るかのような。
「この理想のためなら、善行も悪行も無差別にやった。バイト先で廃棄された食い物を漁ったり、言いたいことを押さえ込んで、人の言うことに笑顔で相槌を打ったり」
そもそも、どうすれば叶うのかすらも分からない理想なのだ。彼はただ、出来ることを、出来る限りにやるしかなかったのだ。その当てもなく、当所もない理想を。
理不尽な世界で、必死に足掻いてきたのだ。その拠り所は唯一つ。己の心の内にある、魂に宿る妄想のみ。
「まあ、ざっとこんなところか。どう? 言ったとおり面白みもない話だろ?」
「……ええ、面白くないわよ」
予想していたとはいえ、ストレートな返答に結城は苦笑する。
「かわいそうだって、そう思った」
「チェリー……同情とかするんだな。意外だ」
「そりゃするわよ。そんな生きがいもないまま、それでも生きてきたなんて、しかもそれが、叶うかどうかも分からない願いで、純粋にファンタジーへの憧れだなんて……かわいそうすぎるし、強すぎるわよ」
結城は困ったように苦笑を続けた。
するとチェリーは飛行し、結城の眼前で制止する。
「ねえ、結城。それでも今は……今は楽しい?」
「今?」
その瞳は、憐憫というか、悲哀というか、まるで悲しい結末の物語を聞かされた子のような。
「レイランが居て、私が居て、皆が居て、魔法があって、力があって……ここには、あなたの前世にはなかったものがたくさんあるわ」
「あっ……」
チェリーに言われて、結城は初めて気付いた。
「そうか、ここは……」
ここは理想を叶える世界。夢を追い、空に馳せ、理を掲げ、幻がかかる場所。
理想を胸に、しかし果たせず空を仰ぐことになった者たちの集う場所。
それだけだと思っていた。
でも、それだけじゃない。ここには、自分の求めていた全てがあった。
「どうして気付かなかったんだ」
魔法も、異能、モンスターも、奇跡も、色々なものがごちゃ混ぜになった、求めてやまなかったモノがここにある。
否、病むほどに求めたモノがここにはある。
「理想を叶える……それしか見えてなかったんだな。我ながら、本当に……ふふっ、ハハハ……」
己が想い描いた妄想世界。それに辿り着くために、無いならば創り出す為に。
「そっか、そうだよな! あっ、そういえばチェリー!」
結城は興奮気味に、チェリーを両手で水を掬うように抱いた。
「わっ、ちょ!」
「そうだ、お前も妖精だったな! 妖精!ピクシーっ!」
「そ、そうよ! って何よ、今更!?」
そう返すチェリーも、なぜか顔は笑っていた。
チェリーは結城の手から逃れるように飛ぶ。興奮が増していく結城はとうとう立ち上がった。
「ハハハッ! そうだ。そうだよ。ローラは魔法使いで、蓮華は最強の格闘家で、レイランは……最高の剣士だ」
「あっ、そこは剣士なのね……」
チェリーはぼそりと呟くが、際限なく昂ぶっている結城には届いていなかった。
「銀風や新月も、肩を並べる戦友だ。そうだ。ここだ。ここが俺の……理想の世界じゃないか!」
そして結城は嬉しさのあまりに、溢れ出る興奮に身を任せて笑った。哄笑した。爆笑した。
自分の求めた全てがここにはあり、辿り着けた喜び。そして、それに今まで気付かなかった滑稽さ。
全てが可笑しく、全てが愛おしい。
「はっはっはっは!!」
「……ふふっ!何笑ってんのよ、バカみたい! ははっ!」
チェリーも釣られて笑っていた。嬉しかった。案内妖精なんて自分の柄じゃないと思っていた。
だがどうだ。結城の気付いていなかったことを、気付かせてあげられた。
自分の力で、結城を導き、気付かせてあげられた。停滞した前世の思考の中で彷徨う彼を、その光満ちる出口へと『案内』してやれたのだ。
そして確信した。彼を導けるのは自分だけだと。彼を案内してやれるのは私なのだと。
そう思うと、あまりに嬉しくて、喜ばしくて、笑うしかなかった。馬鹿笑いする彼と一緒に笑う以外の選択肢が無かった。
一通り、力尽きるまで笑い通した結城は深呼吸し、息を整える。
「ふぅ……いやぁ、気が違ったみたいに笑ったな」
「ほんとよ。とうとう狂ったのかと思ったわ」
一緒に笑っていながらひどい言い様だった。だが結城は気にすることも無く、ただ一言。
「ありがとう、チェリー」
「っ……ば、バカじゃないの? 私は案内妖精としての勤めを果たしただけよ」
案内妖精にこんな勤めはない。そんなことは、両者共に分かっていた。だから、微笑んだ。
「まっ、今後ともよろしくね、結城」
「こちらこそ、チェリー」
握手……はサイズ的に無理なので、互いに拳を軽くあわせた。
「さて……おっ?」
「どうかした?」
「いや、なんか……あっ!」
「だから何よ!」
「左腕、感覚が戻った」
「えっ!?」
チェリーは急加速し、結城の左腕付近に寄った。
「ちょっと動くようになったし、感覚もある」
「えいっ」
「痛い!」
手の甲の皮膚を遠慮なく抓るチェリーは、結城の反応を見て皮膚から手を離した。
「あっ、本当だ」
「少しは加減してくれ……さて、いつまでも引き篭もってるのもアレだな」
結城は部屋の出口に向き直る。
「聞けば、ここには仙人がいて、女仙もいる。仙術というのが存在するらしいな」
「そうね。そんなことを言っていたような気がするわ……行くの?」
「もちろん。そんな素敵なものがあるんだ。見て、触れてみないと損じゃないか」
「まだ左腕も治っていないっていうのに、無茶するわね」
「まあ、理想が理想だからな。妄想の世界を実現するまでは、この世界をじっくり堪能させてもらう。それにリハビリにもなるだろう、多分」
楽しそうに笑みを浮かべながら言う結城。チェリーは溜息一つこぼした。
「しょうがないわね。私も付き合ってあげるわ」
「ふふっ……よろしくチェリー」
チェリーのやや高揚を隔しきれていない上ずった声に笑わせられながら、結城たちは部屋を出た。
「さあ、準備は整った。全てが君の望むとおりだ」
闇黒を、ディスプレイの照明が照らすだけの部屋で、ドクは独り、しかし確かに誰かに語りかけていた。
「私の力はすべて君に与えた。あとは君次第だ。ディストピア」
すると、電子音声が闇黒の部屋に響き渡る。
「システム起動。シナリオコード・ディストピアを選択。チェック……OK」
「イレギュラーズプロジェクトの人員は戦闘配置についてください。繰り返します……」
「サブリメーションメンバーのメモリーを読み込み中。人員データを指定機へ転送」
「バイオキメラを輸送。作業員は配置についてください。バイオキメラの取り扱いには適切な手順を……」
「総員、第一種戦闘配置……」
けたたましく鳴り響くアラーム音と、ディスプレイの向こうで慌しく動き回る人員たち。
それらを傍観し、ドクはほくそ笑む。
「機械仕掛けの神は動き出し、すべての歯車が回り始めた。アルカ、君の方はどうだい? 私たちの野望は叶いそうかい?」
いつもの狂ったような声ではなく、心地よいほどに穏やかな女性の声だった。
ユートピアから遠く東。過酷な山脈の向こうのアルカディア。その城の頂の玉座の間
「ドクめ、とうとう待ちきれなくなったな」
金色の髪の青年は、アルカは立ち上がり、開いた窓から西を見る。
「そうか。もう神が出来上がったか。さて……誰が本当にこの世界を救うのか。機械の作り出す仮想か、輝かしき英雄か、闇黒の徒か。それとも、フフ……」
楽しそうに笑う。まるで待ち焦がれていた劇が、今その幕が開こうとしているのを見る子供のように。
「君たちの理想はまだ始まってすら居ないのだ。不条理に抗い、不合理すら捻じ伏せようと言うならば、君たちは必ず大きな壁に当たるだろう。その時こそ……」




