最終話 不屈にして潰えし理想
どれほどの時間、この世界で生き続けただろうか。
人間の寿命はそう長いものではない
せいぜい80年、100年越えて長寿。そう大した時間じゃない。
鶴亀、大樹に比べれば、なんということもない。
それでも、彼にとっては途方もなく長く、苦しく、険しい旅路であった。
「はぁ……はぁ……」
だが、それももう終わる。
年老いた体に成り果ててなお、子供の頃の理想が彼を突き動かしている。
寿命に追われ、衰弱に苦しみ、病に冒されて尚、諦めなかったこの理想を遂げねばならない。
命を感じさせる鮮やかな新緑と、優しい木漏れ日。
鳥の声が疎らに響き、妖精が姿を現すのではないかと思うほどに、自然に満ちた場所。
「ははっ、まったく……」
木々の隙間を抜けて、歩き続ける老人が一人。
荷物は多く、しかし食糧の類は無いのかその体は酷く痩せ細り、聞いただけでも苦しくなるような呼吸音が鳴っている。
ふと、その足が止まった。
ゆらりと揺れたかと思えば、片膝を地に着けた。
「くっ……まだ、ここで終わるような俺じゃないだろ……なぁ、結城」
独り言を呟きながら、その足に再び力を込める。
顔は窶れ、疲労が限界に達しているのが一目瞭然であった。
しかし、呟く口は笑みに歪み、瞳は焦点が定まらずも、意志の火は絶えていない。
一歩、また一歩と森を歩き、山を登る。
すると突如、開けた場所に出る。
そこは、寂れた……朽ち果てた神社だった。
「ふぅ……さて」
彼は適当なところに腰を下ろし、大層な荷物から一冊のノートとシャーペンを取り出すと、何かしらを書き込みはじめた。
そして荷物をその場に置き、神社の至る所を観察してはノートに書き込んでいく。
鳥居、境内の様子、周囲の風景、神社全体の景観その他諸々を書き終えたところで、今度は財布を取り出す。
人の気配は微塵もなく、長らく誰も立ち入ってはいないであろう神社。
そして朽ち果てた賽銭箱に、十五円を放り込む。
「これでよし、と」
そして彼は荷物を背負い、神社を後にする。
あの過酷な、到底道とは言えない山道を、今度は下っていく。
「……今回も外れかね」
彼は、全国の神社を巡る旅をしていた。
別に神社が特別好きであるというわけではない。
その目的は、彼の持つ願いを叶える為に。
叶う筈のない、叶う訳がない。
そんな途方もない、馬鹿にされ、引かれ、笑われ、呆れられるのがオチの、そんな願い。
運命に抗い、悪魔の手を借り、神々に縋ってでも叶えたいと思う、そんな空想。
しばらく歩いていると、川に出た。
飲み水を切らしていた彼は、丁度いいと川に近寄っていく。
辿り着き、荷物を下ろしてペットボトルに水を汲もうとしたその時、草が音を立てて揺れた。
「んっ?」
彼の目に映るのは、黒い巨体。
屈強で、頑強で、剛毛で、強大にして、巨大な体躯と、こちらを見る双眸。
「熊かぁ」
自分でも見事に思えるほど、淡白な反応だった。
彼は熊から目を離さずに荷物を手で漁り、一本の木刀を手に取る。
「ああ、結局こうなるんだよなぁ。予想はついてたけどさ」
歳を取ると大抵のものは怖くなくなるという。
しかしながら、圧倒的な力と死を前に、彼の反応はあまりに緊張感がない。
命の危機にあるという自覚が微塵もないかのように。
「前は上手くいったけど……」
彼は木刀を構える。
熊もこちらを凝視し、じわじわと迫り来る。
と、次の瞬間、勢いよく駆け出した。
「ぐっ……」
飛びつかれる、寸前に彼は横に飛んだ。
置いたままの荷物が熊の豪腕で破け、中身が散乱する。
「あーあ、これじゃ生き延びても一苦労だわ」
熊がこちらを振り向いた瞬間、その鼻先に木刀を叩きつける。
熊は小さく悲鳴を上げて後退する。
逃げるかと思いきや、ある程度の間合いをあけては再びこちらに迫ってくる。
「荷物……」
散らばってしまった荷物は、そう簡単には回収し切れそうにない。
一度ここを離れてしまっては、またここに戻れるかも分からない。
「毒を食らわば……っ!?」
今度は一度目よりも速い動きで熊は駆けた。
再び横に跳び回避しようとするが、熊は機敏に方向を変えて、爪で肉を裂き、牙で抉る。
「がっ、ぐぅうああッ!!」
痛みに悶えながら逃れようともがく。
熊はびくともせず、彼を荷物の方へ投げ飛ばした。
彼の体が荷物とぶつかり、更に中身が散らばった。
肉を抉られ、叩きつけられた苦痛と衝撃で、体を動かすことも、呼吸をすることもままならない。
身もだえしていると、熊が更に体を叩き、噛み付いて地面に叩きつける。
「…………」
彼の体はすでに動ける状態ではなかった。
声すら出せず、熊は彼の肉を貪り始めた。
ああ、ようやくこの時が来たのだ、と。
彼の視線の先には、熊ではなく、散らばった荷物の一つであるノートがあった。
先ほどの神社で取り出したものではない。
もう一つの、自分の夢を書き綴ったノート。
それには、彼が幼少の頃から夢見た空想が、幻想が、理想が、それらが集約された妄想が綴られている。
彼は苦痛の中で笑った。心の中で笑った。
この途方もない願いを追い求め、最期まで叶うことはなかった。
夢物語の御伽噺、自分でも分かっている。
それでも彼にはあきらめることは出来なかった。
諦めてしまえば、もはや自分に生きる意味はない。
この世界に生きる価値は無い。
彼は、彼にとっての世界は、リアルは、妄想と空想と幻想の世界。
現実は、耐え難い辛苦の世界だった。
この理想を追い求めるために、彼は現実におけるあらゆる価値を投げうった。
両親も、友人も、金銭で得られる贅沢も、ほぼ全てを放り投げて、自ら想い描く夢に、己の人生の全てを捧げた。
そして、途方もない、馬鹿げた夢を追いかけた結果がこの有様。
彼は手を伸ばした。
妄想を綴ったノートを、自分のかけがえの無い世界の傍で、最後の最期を迎えたい。
間も無く彼は死ぬ。しかし、彼の心は穏やかで、満たされていた。
きっと生まれ変わっても、同じことをするだろう。過去に戻ったとしても、同じ道を辿るだろう。
後悔などない。悔しさなど微塵もない。
ただ、惜しい。口惜しい。
この有様になって尚、この旅の先に、自分が望む世界へとたどり着ける入り口があったのではないかと、そう思わずには居られない。
希望と妄想を重ね合わせ、死ぬそのときまで、彼は心の中で誇った。
この現実世界で唯一、愛しいと感じたモノへの、愛を貫き続けた自分を誇った。
「…………」
こうして、彼の理想はただの一度として屈することなく、潰えた。
血肉は熊に、骨は自然に、精神は無に還る。
では、魂はどこに?