いつまでも傍にいて
彰が実家に帰ると必ず言われる言葉がある。
「お前にもそろそろ真剣に結婚を考えて欲しい」
だとか、まして母親なんかは「普通の人でいいのよ。今は共働きのところも多いけれど、しっかり家庭を守ってくれる女性なら」なんてことを平気で言う。彰がゲイであることを知っていて、いや、知っているからこそ。彰が女性よりも男性を愛する人間だという事実自体を、無かったことにしようとするように。
そこでは彰も何も言わず頷いているだけだったが、彰は心の中で、このわからず屋! 馬鹿野郎! と口汚く両親を罵っていた。強く噛み締めた唇を開けば、彰の胸の内に渦巻く怒りがそのまま止まることなく飛び出てしまったことだろう。それを顔を顰めるように顔面に力を込めることで何とか抑え込んだ彰だが、彼にとって「結婚」とはそれこそ「人生の墓場」なんてよく聞くフレーズの通り、もしくは「監獄」のようだと思っていた。
女性と結婚して、幸せな家庭を築いているゲイもいるが、彰は彼らほど器用でもないし、そういう自分を認めてあげられる余裕もない。セクシャルマイノリティには、生きにくい世の中だと彰は思う。
一言にセクシャルマイノリティと言っても、例えばゲイのことだけを示す言葉ではない。ゲイ、レズビアン、バイ、パンセクシャル、トランスジェンダー、クロスドレッサー、……。ましてゲイの中にも様々なゲイがいるし、一人ひとりの認識や考え方は確実に違うのだから。しかしいずれにしても、マイノリティというのは差別や偏見を受け易い対象だった。
世間体ばかり気にしている両親のことが、彰は悲しく寂しく思うのと同時に、怒りに感じていた。どこの親だって、子供のことになれば身勝手にもなることを知っている。けれど、「あなたのことを想っているからこそ、こう言うのよ」という押し付けの感情は、彰が一番嫌悪するものだった。
彰は、自分のセクシャリティを理解して欲しいとは思っていない。ただ、そういう人間もいるのだ、と知って欲しいのだ。知った上で、勘当されようが軽蔑されようが、それはまた違う問題だった。
そしてまた、彰は彰なりに、母親が思っている以上に将来について真剣に考えている。もちろん、「結婚」のことだって。その自分の考えを、話を、一度くらいは否定せずに最後まで聞いて欲しいとも思っていた。それは、彰が雄一という最高のパートナーと出逢い、周囲の友人が立て続けに幸せな結婚をするようになったことで、今まで以上に強く思うようになっていた。
「この前、ドレス見に行ってきたって。」
友達がね、今度結婚するんだって――…真剣な顔付きでみかんの皮を剥きながら、彰は唐突にそう言った。
彰には女友達が多く、その女友達の内のひとりが、今年の秋に式を挙げる。まだ10カ月以上先のことだ。それでも早い内に予約しておかないと、ウエディングドレスもお色直し用の様々なドレスも、当日レンタルが出来なくなってしまうからだ。どうも彼女たちの結婚式は身内や親しい友人を招待するだけの、規模の小さいリーズナブルなもののようだ。最近では「スマート婚」というように、人気になっている様式だった。
大規模だろうが小規模だろうが、結婚式は結婚式に変わりはない。誓い合う内容は、何があっても変わらないと彰は思っている。そして心から、その友人の幸福を願っていた。
「慎太郎が写真を撮ったんだけど、下手でさ、こいつどこ撮ってんだって感じ。……でもやっぱり、ウエディングドレスって綺麗だよね。いいなあって思った。」
脈絡のない言葉をぽんぽん言い出して、突然黙り込んだり、突然どこから持って来たのかと思うくらい意外な話題を言い出したりする彰には珍しく、しみじみと同意を誘うような言い方だった。
雄一からの返事はないが、彰には、雄一が自分を見詰めていて、じっと話を聞いていてくれることが分かっていた。彰はそのまま、みかんの皮を剥き続ける。
「女の人にしたら、ウエディングドレスを着るっていうのは…ひとつのアイデンティティじゃない? そうでない人もいるけれど、大抵の男は、彼女にドレスを着せてやりたいものじゃない? それだって、男の一種のアイデンティティだ。」
彰はみかんの内皮についている白い筋をひとつひとつ丁寧に引き剥がしている。何度かそれを繰り返して満足したのか、ようやくひと欠片を口に放り込んだ。
「結婚して、夫婦になって、子供を授かって、……子供が成人したら夫婦ふたりで老後を過ごすんだろう、そこまで何十年ってあるけれど、きっと人生って単純に言ったら、そういうもんだ、」
器用に喋りながら、味を確かめるように淡々と咀嚼。真面目な顔付きを変えない彰の視線は、白い筋がびっしりくっ付いている剥きたての実に向けられていた。
彰は、雄一の視線が自分の左頬の上を滑るのを感じた。
「……ねえ俺はさ、あなたからそういう幸せを奪っているんじゃない?」
内皮のついたままのみかんを口にしながら、彰は初めて雄一へ顔を向けた。真直な眼差しが重なり合う。彰は雄一を見詰めながら、手元のみかんの皮を剥いていた。
雄一が手を伸ばして、剥いてあったみかんをひと塊、取っていった。雄一も彰と同じように、みかんの白い筋を丁寧に取り除いて、口に放った。
「結婚って、」
もごもごとみかんを飲み込んで、雄一は静かに口を開く。
「たとえば…死ぬほど好きな相手とだって、上手くいかないことってあるだろう?」
それは何でだと思う? と、雄一は自分の指先を見下ろした。右手の、親指と人差し指の爪の間に、みかんの白っぽくて橙色の混ざっているような皮の破片が挟まっている。雄一がそれを気にするように頻りに指先を擦り合わせるので、彰も自分の指先を見下ろした。この指先を鼻に近付ければ、きっと手を洗ったとしてもみかんの香りがするだろうと思った。
「好きなだけじゃ駄目なものって、なあに?」
びっしりと爪の間に入り込んだ薄いみかん色の繊維を掻き出しながら、彰はぼんやり問い掛けた。
好きなのに一緒にいられないなんて、辛いだけだ、と彰は思う。
「じゃあさ、一緒に暮らすことと一緒に生きること、それは違うと思う?」
彰は自分の爪を見詰めながら、さあ…それが一般的に言う「結婚」じゃないの? と答える。雄一は頷いた。
「一緒に暮らすのは簡単だけれど、一緒に生きることって、すごく難しいと思わないか?」
雄一の言葉に、彰はついこの前の、ふたりで夕飯の買い出しに行った帰り道、土手で見た景色を思い出した。緩やかな流れの川の、その向こう岸には団地が立ち並んでいて、少し遠くに見える橋にはトラックや乗用車が頻りに行き来していて、何の変哲のないいつもの風景のくせに、黄昏時の夕焼けの空と川面の濃厚な色とが、ふたりにはとても貴重で美しい景色に見えていた。きっとこの景色は自分たちが生まれる前から変わっていなくて、これから先何十年経っても変わらないのではないかと思ってしまうような、不思議なノスタルジーを感じて、彰と雄一は同時に顔を見合わせた。
その視線がかち合った時、一瞬の内にふたりの間に電流が走ったように、彰には、きっと自分が年を取って腰の曲がったお爺さんになったとしても、ここには同じように雄一が立っていて、雄一だって同じように年を取った姿で、そして微笑み合っているだろうと、確信したのだ。もしかすると――…一緒に暮らすことと、一緒に生きることの違いとは、そういう日常の中に落ちているほんの些細なことではないか?
「うん、難しい。俺だけならね……きっと幸せな結婚が出来なくたって仕方ないって諦めていたと思うし、女と恋愛出来なくたって気にしなかった。でもあなたは、もともとは女の人と付き合っていたから、だから、俺は、……」
彰は顔を上げて、雄一の様子を窺うように見詰めていた。雄一は爪の間のみかんのかすを取ることを諦めて、彰が剥いたまま置きっ放しにしていたみかんを取った。
「結婚ってさ、きっと…その人と同じ風景が見られるかどうか、なんだと思うよ。」
別に趣味が合うとか価値観が合うとか、そういうものとは関係ないところで――…と内皮についた白い筋をひとつひとつ摘むように取りながら、雄一は何てことない口調で頷いた。
「俺は俺なりに、お前が思っている以上に将来のことを真剣に考えているよ。」
雄一の言い草にどこかで聞いた台詞だと思いながら、彰はくしゃりと表情を崩して笑った。雄一の、目尻に皺の寄った優しい笑顔は、彰が大好きな笑顔だった。
「独り善がりじゃいけないよ、雄一。」
「そうだな、」
声を立てて笑う彰に、雄一はますます目元を和らげて笑っていた。
彰は、今度は自分から実家に帰ろうと思った。そして、自分の将来と向き合おうという気になっていた。