自業自得
いつも通りの朝だった。
いつも通りに目を覚ました私は少し疲れていた。
私は吉村正人40歳。離婚歴2度の独身おやじ。
その日いつも通りの時間にベッドを出ると、何も考えずにいつも通りに出勤の準備を始めようとしていた。
すべてがいつも通りに感じていた。
そう、すべてがいつも通りのはずだった・・・・。
時刻は6時30分。 晩秋のこの季節、夜が明けるにはまだ少しの時間があった。
会社の同僚から比べると出勤準備を始めるにはかなり早い時間だった。
まるで案山子のようにゆらりと立ち上がった私はだらしなく衣服の散らばった煙草臭い部屋の電気をつけ、いつも通り顔を洗おうと、洗面所に向かった。
部屋は去年に引っ越してきた2K、家賃は私の給料ではぎりぎりのものだった。
おかげで私はいまだ母に借金をすることがあった。が、そのかなりたまっている母への借金を私は返すつもりはなかった。どうせ母も覚えちゃいまい。
母は85歳。そろそろ認知症の症状が出始めているのだった。
とりあえず私はこの部屋を気に入っていたのだった。すばやく顔を洗った僕はまず朝食をとることにした。その時だった、突然、昨日の課長のあの一言が私の耳に響き渡った。
その瞬間に何時ものストレスが僕の内に積みあがって行く様だった。僕はそのストレスを叩き潰そうと躍起になったが、事実まで叩き潰すことまで出来はしなかった。
その事実は「契約解除」そう、そうなのだ。私は会社をクビになったのだ。
課長は、クビとまで強く言わなかったが「契約解除」つまるところクビなのだ。
課長の言った「契約解除」それはクビとは言わなかった、課長の最後の私に対する思いやりの言葉だったのかもしれない。とにもかくにも、私はもう会社に行く必要はないのだ。
正直なところそろそろ覚悟はしていたのだが、思い出した「契約解除」の事実は私に大きな衝撃を与えた。「何をしよう・・・」私は思った。何もしなくてもいいのだが、何もしない訳にもいかないのだった。
暫く私は考え込んでしまっていたが、取り敢えず仕事を探さねば。そう思い部屋を出る準備を始めた。何日も寝間着にしていた紫の汗臭いトレーナーを脱ぎ捨て、2、3日履いたままのパンツも脱ぎ捨てると、ベッドの上に放り投げた。
晩秋の夜明け、部屋の中の空気はいつもより冷たく重く、部屋の外に響く市電の警笛もいつもより寂しく悲しかった。
私は通勤用に使っている1週間続けて履いている黒のチノパンと、3日間続けて着ているタバコ臭い赤色のトレーナーに履き替え、着替えた。でも、街ゆきの市電の時刻は8時23分、まだ時間までには30分以上あった。
私は先月中古の家具屋から3300円で買った、座り心地のいい木製の椅子に座布団を敷いて腰を掛け、これも最近、中古でようやく買った2万5千円のTVのスイッチをつけた。
出勤、いや、出かける時間までにはまだ30分以上はあった。冷蔵庫の中から3日前に買った缶コーヒーを取り出し、ニュースを見ながら30分経つのを待った。交通事故に殺人事件、おまけに戦争ときたが、ニュースの中の出来事は私にとってはまるで、すべて、ただの他人ごとに思えた。総理大臣がアメリカに出かけたらしいが、今の総理大臣は誰なのだ?
特別、私に関係のする事でもないように思えたので、考えるのはやめにした。
その日の30分はいつもよりゆっくりと、とても長い30分で僕にはじれったくもあった。
ようやく30分経つと、私は立ち上がり、黒のダウンを少しだらしなく引っ掛け、テーブルの上のタバコとライターを無造作につかむとポケットに突っ込んだ。部屋のドアを開け、外に出たが、石油ストーブの火を消すのを忘れて戻った。まあよくある事だ、気にはしない。
いつも通りに階段を降り歩道に降りた僕は、まだ少し暗い道路をまるで犯罪者のように素早く左右を見渡して道路を横切り、そしてやはりいつも通りにうつむくと、ダウンのポケットに手を突っ込み市電の駅へ向かって足早に歩き始めた。
この時間、風もなく、まっすぐな歩道には、人一人歩いていなかった。所々で赤黒いカラスがカアカア鳴きながら、捨てられたゴミを奪い合うようにつついていた。
道路は時々、空車のタクシーが走っているだけだった。
少しいくとコンビニが見えてきた。その時、僕は今日起きてから、まだタバコを吸っていなかったことに気が付き、ダウンのポケットに無造作に手を突っ込むとタバコを取り出し口にくわえた。
タバコに火をつけ、僕は腕時計を見た。今日はいつもの時間より少し早いかもしれない。私はポケットから携帯灰皿を取り出し、立ち止まった。
100円の安物の携帯灰皿だった。以前この辺でタバコを吸いながら歩いていた時に、近所の親父に睨まれた事があったのだったが、それ以来、灰皿は常に持ち歩くようにしていた。中には吸い殻が詰まって膨らんでいる。
立ち止まった僕はタバコを大きく吸い込むと空を見上げた。ただ真っ白な雲のかかった空。雲しか見えなかった。僕は突然大きな不安に包まれ、加えていたタバコを路上に捨てて踏みつけると、携帯灰皿をズボンのポケットに入れ、市電の駅へと急いだ。
金のない一日というのは非常に単純なものだった。することが毎日決まってしまうのだ。その日も昼飯は近所のすき屋で済ませることにした。結局それ以上の事をすることもできないし、それ以下の事にする訳にもいかないので、毎日が非常に単調なものになってくるのだ。
だが僕はまだ40歳だった。
当然、あちらのほうにもそろそろ欲求を感じていた。僕はその日、一度以上使ったことのある、デリバリーヘルスとやらに思い切ってTELしてみることにした。以前パソコンで調べておいた金は残り少ない残高の通帳からATMで引き落としてきた。
そしてTELをすると、部屋に戻って僕は女が来るのを待つことにした。
TELしてから女が来るまでの間に僕は部屋をかたずけた。
流し台の皿とコップを洗い、ベッドの布団をそろえ、消臭剤をかけた。
散らかってる衣類を箪笥にしまい、部屋の中に掃除機をかけた。
すると連絡してから1時間程たち、部屋に女がやってきた。
僕が思っていたより若い女だった。
長い黒髪がいやに美しく、厚化粧の白い顔に真っ赤な口紅が艶めかしく輝いていた。しかし女は僕が思っていた程、美しくはなかったのだった。
その女をみた瞬間に僕の胸中の男としての欲求は、何故かろうそくの灯が消えていくように消えてしまっていた。
女は部屋に上がり込むと何も言わずに寝室へ向かい、赤いウールのコートを脱ぐと、続けざまに着ていたピンクのワンピースと黒の下着を脱ぎ捨てた。
僕は部屋の中央にすえた炬燵の上に二つのコップをおいて、それに安物のインスタントコーヒーを入れると彼女に進めた。
「飲まないかい?」
「どうしたの?」
寝室のベッドに腰を掛けた彼女は少し不思議そうな顔で、僕を見つめながら言った。
「時間は40分よ」
「いいんだ」
「こっちに来て坐って」僕は少し微笑むように言った。
「それならいいけど」女はやっぱり不思議そうに僕を見つめ、素っ裸のまま炬燵に入ってきた。
「・・・・・・」しかし女とまともに向かい合ったことがここ最近、全くなかった僕は微笑みながらも言葉を失ってしまっていた。
「出身はどこだい?」僕は苦し紛れに女に何とか尋ねた。
「あなたに関係ないでしょ」女は怒った様に僕を睨みつけた。
正直、初めて女が自分の部屋に入ったということで僕の心は満足し、僕のその男の欲求は十分に満たされてしまっていたのだ。
ニコニコと微笑みながら僕は女を見つめてコーヒーを口にした。
「気持ちの悪い人ね」
「どうせならビールでも無いの?」女が言った。
「酒は飲まないんだ」僕が言った。
僕が酒を飲まないのは事実だった。
彼女はあきれたように表情を崩し、コーヒーに手を差し出しながら言った。
「料金は安くならないわよ。金はあるんでしょうね」
「大丈夫、お金は準備してるよ」僕は言った。
そして40分経つと素っ裸の女は立ち上がり、僕に向かって右手を突き出した。
「時間よ」女が言うと僕はいつもの黒いリュックの中の財布を取り出し、中から新品の1万円札を一枚取り出し女に渡した。
すると女はポケットの中からしわくちゃの千円札を取り出し、3枚そろえると投げつけるように僕に差し出した。
僕は「おつりはいらない」、そう言いかけたがさすがに言葉にはならなかった。
そしてそのしわくちゃの千円札を3枚素直に受け取った。
女は部屋に投げ捨てていた真っ赤のウールのコートに身を包むと
「私はサチコ。またよろしくね」
「次があるから」そう言うと玄関に出て靴を履き、まるで真っ赤な猫のように素早く部屋を出て行った。
僕は満足していた。
今度の時はビールを用意しておこうと僕は思った。
炬燵の上のコーヒーカップをかたづけ、そのままベッドに入って僕は目をつむった。
いい一日だと僕は思った。
僕はそのまま眠りについた。
その日、僕が部屋を出ると街中にはまるで雪が降る様に雪虫が跳ねていた。
思わず空を見上げると、空には雲が満ちていた。
財布の中は千円札1枚しかなかった。僕は結局、認知症の母をあてに、ポケットからスマホを取り出し、母にTELをした。
「生きてるか?」僕は言った。
「そう簡単にくたばりゃしないよ」母は言った。
「今から帰る」僕は言った。
「どうした、金か?」
「コメか?」母は聞いてきた。
「帰ったら話す」そうして僕はTELを切った。
その日、久しぶりに僕はバスに乗った。
僕がバスに乗り込むと、バスは空いていた。
僕は一番後ろの窓際の席に深々と腰を掛け、窓から外を見つめた。
家までは40分だった。
ターミナルに着くと僕はそこで降りて昼食を取ることにした。
僕はターミナルにある食堂の唐揚げ定食が気に入っていた。
僕は母からの借金を当てにして、少し贅沢をすることにした。
家に帰っても食事は魚ばかりで肉は出てこないのだった。
母は帰ると必ず稲荷寿司を作り、僕の好きなホッケか鮭を焼いてくれたのだ。
しかし母は自分が食えないからと言って肉は焼かないのだった。
家に着くと母はもうすべて知っているように僕に行ったのだった。
「何があったんだい」
「会社をクビになった」
母は少しうつむき、その表情に陰りを見せたようだった。
そして僕に向って言った。
「金はもう貸さないよ。失業保険が出るんだろう」僕は驚いた。
「そんな、失業保険が出るまで3か月もあるんだ。その間収入がないんだよ、お袋の借金当てにしてたんだよ」
僕は懇願するように母に泣きついた、しかし母は一度行ったことは変えない人間だった。
「頼むよ・・・」僕は苦し紛れに泣きついた。
「うるさいね、お前、私にいくら借金があるのか知ってるのかい」
おふくろは僕の借金を覚えていた・・・・・。
その日僕は部屋に帰ると飯も食わずに、いや、食えずにいつも通りに眠った。
おわり




