第二章 第二十九話 【 ムステーラ 】
夜の森特有の濃い暗闇の中、クリーム色をした影が、森を駆けていく。
黒い木々を媒体に濃度を増してゆく暗幕の中で、明確な目的を持った獣達は更に足を早めた。
枝葉と闇が、森を覆う────。
暖かな光の灯る村が見えた。
「────!!敵襲!敵襲ッッ!」
雑に組まれた櫓の上の番人が、こちら目掛けて牙を剥くイタチの群れを見つけて叫ぶ。
「····焦るな、おい、鐘を鳴らせッ!!」
リーダー格であろう壮年の男が、落ち着いた声で周囲に指令を下す。その確かな命令に、突然の奇襲に揺れかけていた空気が瞬く間に消えてなくなる。
「キャンっ!」
見張りの一人に飛びかかったイタチの一匹が、脳天に矢を受けて絶命する。
「───、ぐぁッ!?」
空中で息絶えたイタチに注意が向いた一瞬──、仲間の仇と、茂みから飛びかかったもう一匹のイタチが見張りを押し倒して、その顔に噛み付いた。
「グるギャァァ───ァ····」
「一隊、村を中心に旋回!」
見張りに覆い被さって、恐怖に染まった顔を噛み潰そうと力むイタチの喉にナイフを突き刺して、素早く始末した男が、再び指令を送る。
見張りのリーダーだろう。
「森に隠れているものを含めても数は少ない!一匹ずつ確実に仕留めろ!」
「「おうッ!!」」
あの男·····邪魔だな。
頭を殺せれば、見張りの群れを壊せる可能性もぐっとハネ上がる───、
周囲より一回り大きな体格のイタチは、忍び足で木組みの砦に近づきながら、標的をリーダー格の男に定めた。
「──ッ!!」
最前線で、男が飛び付いてきたイタチを切り捨てた瞬間、その死体の後ろから大きなイタチが飛び出した。死角からの奇襲に、何も出来ずに固まる男。
男が首から血飛沫を上げた────。
「リーダーッ!!」
背後から飛んできた矢をヒラリと躱した大きなイタチは、クリーム色の毛並みを月明かりに晒しながら、首を押さえて膝をつく男を見下ろした。
「ッ····お前ら、何をしているッ!気を取られるなッ!」
リーダーを助けようと、弓を大きなイタチに向ける見張り達を制して、男が立ち上がる。パックリと切れ込みが開いている筈なのに、立ち上がった男の首には傷が見当たらない。
すれ違いざまに確かに頸動脈を掻っ切った筈だが·····
「おかしいな···って顔だな。」
自分を見下ろすイタチ越しに、再び弓を周囲に向けて警戒を始めた部下達を確認した男が、不敵な笑みを浮かべる。左眼の上から縦に走る傷跡が、その顔に凄みを引き立てる。
「回復魔法だよ───こいつは俺が殺る。引退試合だ!」
男は素早くナイフを抜いて、イタチに切りかかった。
·····が、男の二本のナイフが届く前に、イタチの首と胴が離れた────、
「おい、俺の引退試合をどうしてくれるんだ····」
キンっ、と甲高い音を立てて剣を納めた剣士の背中を見た男が、緊張が解けた様な抗議の声を上げる。
それを受けて、剣士が長い髪を靡かせて振り返る。
「誠に申し訳ないが、引退はもう暫く待ってもらう。歳をとっても戦力になるのだから····」
「鬼畜め····」
「ふふっ、おもしろい冗談だ·····」
左手を剣の柄に載せて月を見上げた隻腕の剣士が、恨みがましく呟く男を見やる。
「残りは?」
「····気配が無い、逃げたのだろう。」
「そうか·····そう云えば、ラットスが助太刀を連れて来たらしいな」
「あぁ、これから顔合わせだ。貴女にも来て頂きたい」
「私は村の戦士ではない。」
「言いよるわい、村の誰よりも強いくせに····ぜひ助っ人に挨拶して貰いますよ────」
森に背を向け、見張りを労いながら雑な作りの砦をくぐる。
「───レクスディア殿。」
「····よかろう」
カンッと、剣士は指先で剣の柄を弾いた─────。
§
「ティー、リョーガ、こっちだ!」
「コロル!」
「父上!····あとお爺!」
まだ半鐘の音の残る村の空気を割った声に振り向くと、コロルと長老····そして、あの人形みたいな老人────大長老が、コロルに背負われてこちらに手を振っていた。
「私は父上───、大長老を安全な場所に運ぶ····。ドウヒ、村の者を集めていつでも逃げられる様に言っておけ─────」
「あぁぁぁあぁぁぁあッッ!!」
「どうしたティー!·····───ッ!!嘘···だろ。」
突然叫び声を上げて蹲るアルティマを心配して駆け寄り、声をかけたコロルが、遅れて気付く。
「父上!」
「·····ぬっ!?」
一陣の、風が吹いた─────。
その風は、コロルに代わって長老がおぶっていた大長老の短い首をはね落として、森の木々を切断しながら、遥か遠くの山肌に三日月型の傷を付けて消えた。
「父上ぇぇぇッッ!!·····ぁ、あ─────」
持ち主の胴体を離れて地に落ちた父親の首を見た長老が、震える指で、リョーガ達の背後を指差す。
「なんだ─よ────ッ····」
殺気───と呼ぶには、それはあまりにもハッキリとした実体を持ちすぎていた。
振り返ると同時に────いや、それより一瞬早く、本能が悲鳴を上げた。
────さっきリョーガが装備に着替えたテントの上に、黒く大きなイタチが、立っていた。
天まで届くかの様な体躯に、艶やかな夜色の毛並み。リョーガが今まで見た、どんなものよりも大きく、恐ろしく、美しかった。
全身の皮膚に針を突き刺すように刻み込まれた、前代未聞の感覚·····法治国家ではついぞ体験することのできなかった、最も単純で、最も大事な本能が激しく警鐘を鳴らした。
動悸は激しく、視界が白い霧に覆われる。────だが、その肉体の変化すらも、今は認識する事が出来ない。
〝やばい····気絶しそう····〟
「ふむ、全員のそっ首を落とすつもりダッたが·····命中したのは一匹だけか。」
〝マジかよ····喋れんのかよ·····〟
体が動かないとか、そんな次元の話じゃない。
もう────どう動かすのかを忘れてしまったのだ。
あまりの恐怖に、頭が働かない。なにも考えられない。視界が歪む。
「では、父の形見を返してもらおうか····」
真っ黒な目が、自分を見た────、
〝ぁぁぁッ!!ふざけんな!今気絶したら死ぬぞ!?〟
濁流のように押し寄せる恐怖に揉まれながら、皮一枚で思考する。·····コイツは何を求めている?
その時リョーガは、右手の腕輪の感触を思い出した。
〝これか····〟
「ん?貴様·····?─────ッ?」
「ティーッ!!」
天まで届くかと見紛うほど巨大な黒イタチが、一瞬身を強ばらせる。その瞬間、未だ動けないリョーガの影から、剣を抜いたアルティマが飛び出して、地面を蹴った。
優に5メートルは跳び上がり、イタチの鼻先目掛けて剣を振り下ろす────、誰もが、攻撃が通ったと脳で認識する遥か前に、アルティマは一直線に吹き飛ばされていた。
「ガッ!!──────」
「なるほど、退魔の術石か·····我輩に効能があるということはかなりのモノだな。」
テントを三つ崩壊させて吹き飛んでいったアルティマに目もくれず、黒イタチは鋭い爪の並んだ手で、赤い宝石の嵌め込まれた剣を軽く振ってみせた。
「ほら、返してやろう····足掻け、少しは我輩を楽しませろ。」
────男か女か、分からないその声は、黒イタチのその見た目とちぐはぐに、リョーガが今まで聞いたどの〝人間〟よりも流暢だった。
「ぐッ─────」
黒イタチが地面に放り投げた剣を、アルティマがふらつきながら拾う。
「〝【旋風鎌】〟」
「ッ!────」
テントの上に座るイタチの口から、不気味な単語が溢れる。
周囲の空気が一瞬で渦を巻き、イタチの鼻先に集まるのを肌で感じた。
アルティマが、素早く地面に張り付く。
風の刃が、空気を裂いた─────大きな音と共に、アルティマのすぐ後ろの地面が砂埃を上げて割れる。
「〝【風燃】〟」
「「!?」」
黒イタチを中心に、突如吹き出した二つの突風が、ぶつかる。弾けた風の爆風に責められ、収縮した視界の中でリョーガは、黒イタチが、手から出したファイアーボールを暴風のただ中に投げ込んだのを見た────、
「おいっ、コロル!?」
コロルが、風に逆らって駆け出すのが見える。
爆風が────燃えた。
空間に一枚、分厚い炎の壁が現れた。
地べたに這いつくばったまま固まるアルティマに、天まで立ち昇る炎の柱が迫る。
「逃げろアルティマぁぁぁぁ!!」
リョーガの叫びが終わる前に、渦巻いた炎の柱がアルティマの顔を焼き焦がす─────事無く、掻き消えた。
「ほう、貴様も見える口か·····」
大地を黒焦げにし、どこまでも燃え上がりそうな勢いを見せていた炎は、跡形もなく消え失せていた。残ったのは、呆然と剣を握るアルティマと────、左の拳を振り切ったコロルだけだった。
「これでも昔は鳴らしたもんだぜ····ま、ただの漁師じゃねぇってこった」
いつ付けたのか、両拳のガントレットを打ち鳴らし、コロルは黒イタチに真っ向からメンチを切った。
「フフ、ハハハッ!!良いだろう·····全力で挑み─────自らの無力を痛感するといい。どうせどう足掻いても、お前達では我輩に勝てぬ·····」
コロルとアルティマの、灼熱の炎を灯した瞳をまともに受けながら、真っ黒なヒゲを上下に揺らし、黒イタチは心底愉快で堪らない様に笑った。
「九天龍 龍の爪〝 永戦将のリベル 〟─────頑張って覚えるといい·····もうじき、物を覚える事のできぬ体になるのだから」
ペロリと右手の爪を舐めて、酷く芝居がかったお辞儀をした黒イタチは、全てを呑み込む様な目で一同を見回した────。