集団心理の崩壊とは
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──集団心理の崩壊とは
「エーデ。追撃するよ。逃げる衛兵はなるべく少ない方がいいし、逃げるならばここから遠く離れた場所に逃げてもらいたい」
我々は奴隷の宿舎に閉じ込められていた奴隷たちを解放するための時間を稼がなければならないし、こちらが地下下水道を使って移動していることを悟られてはならない。
そのリスクを減らすためには衛兵たちにはひとりでも多く死んでもらうに限る。敗走する衛兵が完全に統制を失い、反撃を試みることもなく、デルフィ市の市街地の方に逃げ去ってしまってくれることが望ましいのだ。
「畏まりました、ヤシロ様。では、殺し続けましょう」
エーデは全身に返り血を浴びていた。アラミド繊維の手袋に覆われた手からは血がぽとぽとと滴り落ち、纏っている戦闘服は血で濡れていない場所はない。その神が与えたかのような美貌を湛える顔にも衛兵たちの真っ赤な血が付着し、エーデはその血を舌で舐めとった。その動きは酷く物騒であるにもかかわらず、艶やかだと感じられた。
エーデは敗走する衛兵を追撃し、俺も衛兵たちの背中に鉛玉を叩き込む。
逃げる衛兵は武器を捨て、防具を投げ捨て、着の身着のままで逃げ始める。撤退を統制する指揮官はおらず、衛兵たちは俺とエーデが誘導する方向に向けて、ただただ体力が続く限り逃げるだけの存在になり果てた。
「何事だ!」
衛兵たちが敗走を始めた時、男の声が響いた。
「貴様らには鉱山を警備せよと命じたはずだぞ! それが何故逃げ出している!」
現れたのは貴族だ。馬に跨り、プレートアーマーの鎧に身を包み、杖を携えた貴族が逃げ出そうとする衛兵たちの前に立ちふさがった。
「連中は化け物です! 勝てません!」
逃げようとしていた衛兵のひとりがそう叫ぶ。
「ならば、潔く死ね」
貴族はそう告げると杖の先端に展開した魔法陣から金属の槍を生成し、貴族に抗弁した衛兵の胸を貫いた。衛兵は口から血を漏らしながら、小声で貴族に対する悪態をつくと、そのまま地面に倒れて果てた。
「逃げるならばこのデルフィ市の金鉱山の管理をゲルティ・フォン・マントイフェル閣下から任されているスヴェン・フォン・ザロモンが死を与える。戦列に戻り、敵と戦え。そして、この鉱山を反乱勢力の手から守るのだ!」
ここで貴族が出て来ることもある程度は予想通りだ。
衛兵たちが抵抗運動のテロに警戒しているように、貴族たちもまた自らの命の危機と自らの財産の損害を恐れていた。まして、このデルフィ市の主要な収入源であり、土の精霊公であるゲルティ・フォン・マントイフェルから鉱山を任されている貴族は、鉱山が襲撃された場合に備えていただろう。
警備は増強した。奴隷の脱走も防止した。だが、そのふたつは役に立たなかった。
そこで貴族が直接出てくるというのは想定の範囲内となる。
「エーデ。貴族を仕留めよう。あれがいなくなれば衛兵たちは完全に崩れる」
「はい、ヤシロ様。お任せください」
エーデと俺は敗走する衛兵たちを追撃しながら、貴族に狙いを定める。
「賊が。下層民の分際で貴族を相手にしようというのか」
貴族はそう告げると杖を構えた。
「貫け!」
杖の先から金属の槍が出現し、それが我々に突き進んで来る。
狙いはエーデだ。引くことを知らない狂戦士のように貴族に向けて突撃している彼女に貴族は狙いを定め、金属の槍を放ってきた。
だが、エーデにその攻撃は命中しない。
エーデは貴族の動きが完全に把握できているかのようにその身を捻り、金属の槍はエーデの長い銀髪を掠めてそのまま通り過ぎていった。
「援護する」
エーデが突撃するのに俺は銃弾をばら撒く。
逃げ損ねた衛兵たちが銃弾に倒れると同時に貴族の跨っている馬にも銃弾は達した。馬は悲鳴のように嘶くと、大きく暴れ、貴族を馬上から振り落とす。
「な、何が……」
この貴族は抵抗運動についての情報収集を怠っていたようだ。抵抗運動が今や銃火器で武装し、貴族を容易に殺せるのだということを知らなかったようだ。その代償を今から支払わされることになるだろう。
支払いの方法はひとつ。自分の命を以て支払うこと。
「クソ。壁よ!」
俺が機関銃から放つ銃弾と貴族に向けて突撃するエーデから身を守ろうとでも思ったのか、貴族は土の壁を構築した。土の壁からは岩でできた槍が突き出し、貴族をハリネズミのようにして守っている。
土の壁と言うのは古典的な防衛手段であり、今なお使われている手段だ。軍隊では土嚢で陣地を構築する。それはものによっては対戦車ロケットの攻撃にすら耐えるものがあるほどに、有効的な手段なのである。
この土の壁が形成されてしまうと、今回は対戦車兵器を全く持ってきていない我々は些か困ったことになる。恐らく銃弾だけであれを破壊しようと思うのならば、それない以上に苦労するか、その苦労も徒労に終わるかだ。
「大丈夫ですよ。私に任せてください」
そんな俺の不安を感じたのかエーデがそう告げた。
エーデはそのまま突撃を続け、土の壁に向けて迫る。貴族は混乱しているのか反撃するような様子を見せない。ただ、四方を覆った壁の中に立て籠もっているだけだ。それでは何の解決にもならないだろうに。
「行きます」
エーデは壁の手前で大きく跳躍した。
壁の高さは5メートルほど。僅かに曲線を描いており、その表面は鋭い棘に覆われている。だが、エーデはそれを飛び越えた。飛び越えたのだ。
5メートルの高さは人間が飛び越えられる高さではない。強化外骨格を装備していても不可能だ。ましてエーデは完全な生身の人間である。そんな高さ飛び越えられるはずがない。そのはずなのにエーデは軽々と5メートルの壁を飛び越えた。
「なあっ!?」
壁の向こうで貴族が驚きと恐怖の声を発するのが聞こえる。
壁の中にいれば安心だと思ったのだろう。まさかそれが飛び越えられるなど思ってもみなかったのだろう。その驚きの声は恐怖の色が混じり、悲鳴にも似ていた。
そして、エーデが貴族に向けて降下する。5メートル上空から銃剣を突き出し、貴族に向けて真っすぐ降下していく。
「か、壁──」
「遅いです」
貴族の叫び声が掻き消された。
不意に戦場に静寂が訪れ、それと同時に貴族が築いていた壁が崩れ始める。
「なっ……!」
その壁の壊れた先の光景に衛兵たちが恐怖の表情を浮かべた。
貴族は死んでいた。
エーデの銃剣に眼球を貫かれ、銃剣はそのまま脳を貫き、昆虫標本のように貴族を地面に釘付けにしていた。断末魔の悲鳴を上げる暇もなく、貴族はエーデによって刺殺されたのだ。
「さあ、続けましょう。神の名において」
エーデはズルリと銃剣を貴族の眼孔から引き抜くと、血を帯びたそれを構えた。
「ば、化け物……」
「殺される! 殺される!」
辛うじて彼らを戦場に留めていた指揮官も、貴族も死んだ。衛兵たちはもはやただの人の群れとなり、武器を投げ捨てて逃げ出した。抵抗しようと考えた人間もいたかもしれないが、一度崩壊した戦意を僅かな人間で立て直すことは不可能に近い。
人間とは人種や職業がどうあれど、他の人間の行動に流される傾向がある。集団心理というもので、それは戦場においても適用される。
“みんなが戦っている。俺も戦おう”と兵士たちは考え、“みんなが逃げている。俺も逃げよう”と兵士は考える。それは一部隊でも間違った行動をすれば全員に影響するというものであり、致命的な破壊力を有するのだ。
指揮官はそうであるが故に撤退などの行動には慎重になる。自分たちが逃げることで戦線全体が崩壊するのではないかと考えるからだ。そして、そのようななし崩しの撤退に陥った時こそ、戦場から計画性は消失し、無計画で無秩序な敗走が始まる。
それを阻止するには普段から激しいストレス環境下での秩序だった行動を反復訓練で体に身に着けさせるしかない。体の覚えている行動というのは、それが徹底したものである場合、集団心理の影響に勝る。
演習で突飛もない状況が想定されるのはそういうことだ。あれはどんな状況になろうとも指揮官と兵士たちに行動する前に考えることを学ばせ、常に組織的かつ論理的な行動を取れるように体に覚えさせているのだ。唐突に指揮官が戦死しようとも、唐突に敵に囲まれようと、どうあろうとも集団パニックを引き起こさないように。
衛兵たちにはその訓練が欠けていた。衛兵たちは指揮官と貴族を失ったときあっさりとその戦列を崩壊させてしまった。ひとりが逃げ、ふたりが逃げ、全てが逃げ出す。
逃げることが目的となり、ひたすらに逃げ続ける。完全なパニックだ。
「ヤシロ様。追撃しますか?」
「いや。その必要はない。既に目標は達成されたからね」
俺のナノマシンによって補正された視野には奴隷の宿舎のある方角から赤色のスモークが放たれているのを捉えていた。シンドーナ兄弟が作戦成功時に放つことになっているスモークだ。彼らの方は既に奴隷たちを逃がし終えた。
これ以上の追撃は必要ない。作戦は無事に完了した。
「深追いすると退却するときに困る。こちらはあくまで都市ゲリラだ。民衆というカバーを失ってしまえば、この街の貴族と衛兵たち全てを敵に回すことになるし、他の抵抗運動にも負の影響が生じる。ここの抵抗運動にはこれからじわじわと働いてもらわなければならないのだからね」
これから衛兵を殺す機会はいくらでもあるのだ。急ぐ必要はない。
「ヤシロ様のお言葉のままに」
エーデはそう告げて顔についた血を拭おうとするが、その手に付けたアラミド繊維の手袋は血に塗れていて、拭っても拭っても血は取れない。
「これを使いたまえ」
俺はそんなエーデを見かねて、ミネラルウォーターで満ちた水筒を差し出す。
「ありがとうございます、ヤシロ様」
エーデはその水筒の水で手の血を流し、顔の血を流す。
「また君を血塗れにしてしまったな。アティカに怒られるだろう」
「すみません。ですが、私は戦わなければならないのです」
「冗談だよ。さあ、帰るとしよう」
周囲に完全に敵がいないことを確認してから我々は地下下水道に潜り込んだ。
血の臭い、硝煙の臭い。それらがまだ染み付いている。いくら洗ってもこの臭いが落ちることなどないのではないかというほどに濃く。
だが、それでいいのだ。それこそが俺の望むものなのだから。
だが、エーデは本当にそれでいいのだろうか。俺はまだ確信を持てずにいた。
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