狩り
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──狩り
リベルタ砦の付近には獲物はいない。
この洞窟の傍は人間が頻繁に出入りしているために、野生動物は避けて通るのだ。この近くではウサギすらも見当たらない。いるのは鳥と昆虫ぐらいである。
なので、狩場はリベルタ砦を離れ、リベルタ砦から出撃している南部国民戦線の兵士たちが使う獣道から離れ、人の臭いを感じさせない場所が選ばれる。つまりは道なき道を進み、未開拓の自然の中を歩いて獲物を探すわけだ。
「猟犬でもいればいいのだが」
猟犬がいれば臭いで目標を探ってくれただろう。
犬というのは人間の良き友だ。21世紀の戦場でも軍用犬は現役である。彼らは基地の警備任務を行い、救助任務に携わり、そしてある時は爆発物を探し出すことにも使われる。犬の嗅覚というものはとても優れており、一度臭いを覚えさせればそれを鋭く嗅ぎ付けてくれるし、そのことを主人──ハンドラーに教えてくれる。
日本情報軍にも軍用犬はおり、俺のいた第101特別情報大隊には配備されていなかったものの、海外の基地を警備する軍用犬はよく見かけた。前述の話はその軍用犬のハンドラーに雑談の時に教えてもらった知識だ。
軍用犬として使われていたのはお馴染みのジャーマン・シェパードで、基地の人間には可愛がられていた。そのハンドラーはこれは細部が神経質なまでに調整された軍用犬であって、愛玩犬ではないのだぞ、とよく愚痴を漏らしていたが。
だが、残念なことに南部国民戦線は軍用犬も猟犬も飼っていない。文化的に犬を飼うというものが根付いていないわけではなく、そのような余裕がないのだ。
犬を飼って食べさせていく。犬を飼って訓練する。犬を飼って実際に使う。これまで組織としてはギリギリのところを彷徨っていた南部国民戦線にそのようなことをしている余裕などなく、まして猟犬を飼育するなど論外だった。
ある意味では我々の装備は犬を友にしていた太古の時代の狩人よりも劣っている。
「さて。この広い山林だ。どこから探したものだろうか」
「こちらです」
俺が鬱蒼と茂る森林を見渡して告げるのにエーデが東の方を指さし、その方向に向けて音もなく進み始めた。
「獲物を見つけたのか?」
「はい。ここから1500歩のところにいます」
エーデの歩幅からするとおよそ1キロメートルの地点にいるというわけか。
しかし、この深い森の中でどうやって1キロメートルも先の獲物を見つけ出したのだろうか。ナノマシンに補正されている俺の聴覚ですら、この雑音の多い昼間に1キロメートルも先の目標を識別することなど不可能だというのに。
やはり、エーデには何か特別な力があるのだろうか。
そんな疑問を抱えながら、我々は静かに森の中を進み、獲物を探す。
「いました」
エーデの閉じられた瞳が真っすぐ前を向く。
前方には野生の鹿が5頭。群れを作って森の中に佇んでいた。こちらに気づいた様子はない。鹿たちは近くを流れる川の水を飲んでいるようであり、ハンターにとっては都合のいいことに頭部を狙える位置にあった。
「あのサイズなら2頭もあれば砦の全員が食事にありつけるね」
鹿のサイズは大きい。恐らくはヘラジカの類であり、雄は立派な角を持っているし、体長は2メートル弱と巨大だ。正直な話をすれば、ここまで大きな鹿にであったのは初めてのことである。日本の九州で生まれ育った俺にはこんな大きな鹿に出くわす機会はなかったし、これまで転々とした戦場でも見たことがなかった。
「同時に仕掛けよう、エーデ。俺は奥の雄を、君は手前の雄を頼む」
「分かりました、ヤシロ様」
位置は風下、獲物との距離は400メートル。自動小銃を装備した特殊作戦部隊のオペレーターならば確実に狙える距離だ。
エーデはどうだろうか。彼女は外すかもしれない。彼女がその銃を手にしたのは、ほんの数日前の出来事なのだから。
しかし、彼女にはどこか特別なものがある。そのことはこれまでの出来事で証明されてきた。彼女ならばやれるかもしれない。そう思った。
「3秒後に同時に仕掛ける」
俺は光学照準器を覗き込みそう告げて立派な角を持った鹿の頭部に狙いを定める。
3、2、1。
銃声が響き渡った。
俺の銃から放たれた5.56x45ミリNATO弾が飛翔し、銃声に反応しようとした鹿の頭を貫いた。いくらフルメタルジャケットのライフル弾の殺傷能力が低くとも、頭部に命中すれば即死だ。鹿の頑丈な頭蓋骨をライフル弾はいとも簡単に貫き、その脳を撹拌し、そしてそのまま脳に留まった。
エーデの方の戦果を目にするとエーデの方も巨大な鹿が地面に倒れていた。こちらはライフル弾が鹿の頭蓋骨を完全に貫いていったらしく、衝撃で地面に倒れた方向から血が大量に流れていっている。
「お見事」
「ありがとうございます」
俺が告げるのにエーデが微笑んだ。
やはりエーデには特別な何かがある。盲目で痩せた少女が大口径弾を使用する自動小銃で、いきなり400メートル先の獲物を仕留められるはずがない。
女神ウラナは確かに力のある仲間を俺に与えてくれたようだ。
「では、肉を処理しよう。この気温だと急がなければ生臭くなる」
日本情報軍におけるサバイバル訓練で教わったのだが、肉が生臭くなる原因は狩猟後の処理の不味さにあるという。獲物を仕留めたら、その体内に入る細菌が血液内で繁殖する前に処理しなければならないと言っていた。
もっとも、味よりも栄養摂取に重点を置いたサバイバル訓練では、そのようなことをメインでやるわけでもなく、サバイバル中に獲物を仕留めた時、どうやってそれを効率的に摂取するかの方に重点が置かれていたのだが。
そのような理由で俺の頭の片隅にあった情報を引き出し、仕留めた獲物を処理する。
まずはナイフで腹を裂き、内臓を取り出す。内臓とは常に機能している熱源であり、生物の体温を維持している。その熱源が肉を生臭いものへと変える微生物を増殖させる環境を整えてしまうのである。
摂氏35度から37度。生物内、血液中で増殖する微生物を培養するに適した温度。大学などの施設で微生物培養に使用される保温機を使ったならばこの数字を目にするだろう。
生物内で目に見えない微小なものが蠢き、何かしらの作用を引き起こす。
今ではそれは微生物やウィルスだけの特権ではなくなった。
ナノマシンだ。
ナノマシン技術は2010年代の終わりから急速に発展した。
生物工学の分野における大きな進展とバイオミメティクスの進展は目に見えないほどの小さな機械を作る上での大きなアイディアを提供してくれた。
生物の体内。その小さな細胞内の生体膜において水素イオン濃度の高低を利用して動作するATPの合成を行うATP合成酵素には世界最小のタンパク質でできたモーターが使用されている。
科学者たちはそのような体の中の微細な機械的運動を模倣するバイオミメティクスと、演算力が特異点寸前にまで高まった高度なコンピューターの助けを借りて、人体の中で自律的に作動するナノマシンを開発した。
当初、それはガン治療や神経性の病気などの分野で活躍することが見込まれていた。人体の中でこの小さな働き者たちがこれまで難病として治療できなかった病気を、同じく発生学の進歩として発明されたiPS細胞とともに解決するのだと期待した。
そして、それは成された。
地球の医療は高度に発展し、治せない病気などもはや存在しないとまで豪語できるような高度な医療技術が発展した。ただし、その恩恵を受けられるのは先進国に暮らし、ある程度の収入がある市民に限られたが。
そして、今や多くの民生技術がそうであるように、それが軍事利用されることが目論まれた。目論まれたというと言い方が悪いかもしれない。ナノテクに投資していたのは軍も同様なのだ。いわゆる軍事と学問の連携。軍学複合体の形成だ。
一部の左派はこのような流れに抵抗しようとしたが、日本周辺の安全保障環境が極めてきな臭くなり、これまでのようなヒステリーのごとき軍事アレルギーが薄れたことから、ナノマシン技術に軍はがっしりと食い込むことができた。
こうしてナノマシン技術は難病を治療するだけではなく、兵士たちの感情を調整し、体内の毒物を無毒化し、傷口の早期治癒など様々な分野で活躍することになった。あのアジアの戦争においてナノマシンのおかげで助かった兵士は大勢いる。
それでも民間の学問を軍事に転用することを拒んだ者たちは何も思わなったのだろうか。彼らが拒否していれば、大勢が死んだだろうというのに。
所詮は自己満足の域を出ない政治活動だったのだろう。
さて、獲物の解体に話を戻そう。
獲物から取り出した内臓は破棄する。管理された畜産物ならともかく、野生の動物の内臓を食らうというのは危険が大きいし、処理にも手間がかかる。寄生虫、病原菌、そういうものが内臓には蠢いているのだ。
内臓を取り出して捨てると、残りの肉を近くを流れる川の中に放り込む。
渓谷の水で冷やすことによって、血の中の微生物が増殖しにくい環境を作るのだ。
今回は2頭の巨大な鹿。だが、渓谷から流れてくる川の川幅と深さは十分で、俺は重い獲物の肉を担ぐと、小川に放り込んだ。これもサバイバル教育の余談として語られた話を覚えておいたおかげだ。
エーデの方はこれだけ重い獲物を運ぶのは苦労するだろうと考えて、俺は彼女を手伝おうと、彼女の方を振り向いた。
だが、彼女に手助けなど必要なかった。
彼女は軽々と巨大な鹿の肉を抱えると、渓流の中に放り込んだ。
あの大聖堂で鎖で拘束されていたのはそういう理由だったのかと納得する。普通の縄などでは引きちぎられていただろう。
「どうかされましたか?」
「いや。昔からそうなのかね?」
エーデが俺の視線に気づいてそう尋ねるのに、俺はそう尋ね返した。
「いいえ。神託を受けてからです。きっと女神ウラナ様が力を授けてくださったのでしょう。精霊帝国を打ち倒すように、と」
エーデはそう告げて小さく笑う。
「元々農家だったので、力仕事はしていたのですけれどね」
「農家か」
俺はそこで思い出した。
「エーデ。君は家族がどうなったのか知っているのかい?」
「ええ。知っています。殺されてしまったのでしょう」
俺の問いへの答えはシンプルで、迷いのないものであった。
「では、君は復讐のために精霊帝国を滅ぼそうとしているのか?」
「いいえ。復讐は何も生みだしません。虚しいだけです」
彼女はそう告げた。
「私は神託に従って精霊帝国を打ち倒します。女神ウラナ様のために。そのために家族が犠牲になっていたとしても私は構いません」
彼女は女神ウラナを心の底から信じている。神託があったのだから当然なのかもしれないが、女神ウラナは彼女に何の見返りを与えたというのだろうか。
何の見返りもなく、信仰のために戦っている?
彼女たちは死後の生を信じているのかもしれない。だから、どうあろうと女神ウラナを絶対視し、そのために戦っているのかもしれない。そうであるがために、見返りなど求めずに、ただただ信仰のために戦っているのだろうか。
だが、そういう人間はこの南部国民戦線の中でも希少だろう。彼らは自分たちの精神を安定させるために聖職者の言葉を必要とする。
自分が犯す殺人で地獄に落ちないように、と。その罪が許されますように、と。
それはあくまで自分のためだ。自分の利益のために神を信じているだけだ。
バルトロにしたところで神の言葉が精霊帝国を否定するものだから掲げているだけであって、そうでなければ気にもしなかっただろう。彼にとっても宗教とは抵抗運動という組織を維持するためのツールなのだ。
純粋に神を信じ、その神のために戦う。
そんなことは滅多にないだろう。十字軍ですら教皇という宗教的権威から世俗の権力が力を得るためのものであり、様々な利権の絡んだ薄汚い戦争であったのだから。そして、21世紀では十字軍についてバチカンが謝罪したように、その功績は否定されている。
そういう点ではエーデは異端だ。
彼女は純粋に神を信じている。見返りもなく神のために戦おうとしている。
ある意味では酷く扱いにくい人間だ。利益のためならばどうとでも調整できるだろうが、神のためとなると目的が固定化されていてどうしようもない。
しかし、問題にはならないはずだ。
俺とエーデの目的は一致しているのだから。
そう、俺もまた神のためというお題目で精霊帝国を滅ぼそうとしている。精霊帝国が滅んだ後のことについては関心がない。バルトロのように戦後のことについてあれこれと画策しなければならないわけではない。
「砦で新鮮な肉が食べられるのは久しぶりだ。きっと皆が喜ぶよ」
「それはよかったです。あの砦には小さな子たちもいますし、その子たちがいっぱい食べて、喜んでくれるといいですね」
エーデは俺の言葉に無垢な笑顔を向ける。
君の目の前にいる男はその小さな子供たちを戦場に送り込んでたくさん殺させ、そして敵となった子供たちを山ほど殺してきたのだよ。君のその光を失った瞳はそのことを見通してはしまわないのだろうか。
「では、砦から手伝いを呼んでこよう。これだけの肉を運ぶのは一苦労だ」
俺は何の感情も表に出さず、そう告げて砦に向かった。
微生物が血を腐食させ、肉を腐らせるならば、ナノマシンは脳を腐食させ、精神を腐らせる。脳の中に蠢く微小な機械は人間性を喪失させる。日本情報軍の軍人に元より足りていない人間性を失わせるのだ。
今までそのことを悔いたこともなければ、悲しいと思ったこともない。日本情報軍の軍人がそんなことに感傷的になるはずがない。
そして今もそうだ。俺は何の感情も覚えていない。
ただ、そのことをエーデに知られたときにどう思われるのかには少なくない興味があった。彼女はいったいどんな顔をして俺のことを見るのだろうか。
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